ヤコブ1:12
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
「いばらの冠, 栄えの冠」(英文)1991年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
ブラジルのサンパウロから少し離れた所に、ホザランディアと呼ばれる広大なバラ園があります。そのバラ園を見渡す小高い丘に登ると、すばらしい香りと美しい眺めを満喫できます。バラにはとげがありますが、そのすばらしい光景と香りを損なわせるものではありません。私はすべての人々に、人生で直面するとげやいばらに対して正しい理解を持つよう、チャレンジしたいと思います。私たちはそれらの問題に取り組むべきです。しかしとげではなく、人生の花に心を向けてください。バラとサボテンの花の香りと美しさを楽しむべきです。花の甘い香りを楽しむには、自制心を働かせ、正しい生活をする必要があります。また、そのような生活をするには、聖典の学習、適切な優先順位、正しい態度が求められます。私たちは神殿参入を通して、人生のすばらしさにさらに強く心を向けることができます。とげに直面することもありますが、花の芳しさと美しさに比較すれば大したものではありません。救い主は「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろうばらう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。」(マタイ7:16)
イギリスの作家トーマス・カーライルはこう書いています。「貴い冠、地上の永遠の冠、それは、いばらの冠。」(「過去と現在」3:173)
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この現世では大きな誘惑に直面することもあります。しかし、忠実で、献身的に奉仕をする人には、「名誉と栄光と、不死不滅と、永遠の生命との冠」が約束されています。(教義と聖約75:5)したがって、この世の誉れにも試しにも負けることはありません。パウロは朽ちることのない冠(1コリント9:25)について話し、ヤコブは忠実な人に授けられる「いのちの冠」について話しました。(ヤコブ1:12)黙示者ヨハネは、「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい」と勧告しました。(黙示3:11)
権力、金銭欲、物質欲、人の誉れなどは、いばらの冠ではないでしょうか。それらの根底にあるのは、与えることではなく、人から得ること、受けることなのです。利己心は、私たちが貴い冠と考えている物を、耐え難いいばらの冠に変えてしまうこともあります。私が社会に出て最初に働いたときのことです。長く働いているある社員が、法律のことで別の古参社員に助けを求めました。頼まれた人は非常に優秀でしたが、利己的な人でした。彼は「それで、私にはどういう利益があるの」と答えました。「自分にはどういう利益があるの」というその考え方は誤ったものであり、いばらの冠の中でも最もとがった部分のひとつということができます。
イエス・キリストは私たち一人一人に、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と呼び掛けておられます。(マタイ16:24)今こそ自分を捨て、救い主が勧告されたように、「自分のことしかしない」という利己的で狭い世界を抜け出て、自分自身を治めることを始める時ではないでしょうか。問題は私たちに何ができるかではなく、神が私たちを通して何がおできになるかです。パウロはこう言いました。「もし人が……自分をきよめるなら……尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」(2テモテ2:21)
