「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -300ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録3:19
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。


「不確かで困難な時代に支えとなる信仰の力」2003年4月、リチャード・G・スコット、十二使徒定員会
非常に強い信仰を働かせたとしても,神が望みに応じてすぐに報いてくださるとは限りません。むしろ神は,永遠の計画の中で皆さんにとって最もふさわしい方法でおこたえになるのです。神が皆さんをどれだけ愛しておられるかは,死すべき状態にある問は完全に理解することはできません。ほんとうのところ,もし神の計画をすべて知っていたとしたら,皆さんはその計画に反することを決して願い求めはしないでしょう。たとえ感情に動かされても,そうしないことでしょう。真実の信仰を持っていれば,人は理解力と強さを得て,たとえ天の御父の御心が自分の考えと違っていても受け入れることができるのです。神の御心を平安と確信をもって受け入れることができるのは神の無限の知恵が人の能力を起越していると堅く信じているからです。人の能力でできるのは,神が少しずつ明らかにされる計画をその都度完全に把握することだけです。

信仰はただボタンを押せば答えが返ってくる,というものではありません。主はこう宣言されました。「すべてわたしの愛している者を,わたしはしかったり,懲らしめたりする。だから,熱心になって悔い改めなさい」黙示3:19 ブリガム・ヤングはこう述べています。「神は神の民あるいわ個人のふさわしさが厳しい試練によって証明されないうちは、並外れて祝福を決してお授けにはならない(Discourses of Brigham Young,ジョン・A・ウイッツォー選(1954年),338)。個人的なことですが,これまで幾つかの重要な決定を下すときに,力を使い果たし,激しい苦痛を味わい,もがき苦しんだことがあります。そのような苦しみの後に確信できる答えを得ました。しかし,こうしたつらい経験は人を向上させるものです。神の助けを得ても切り抜けられないような試練を神が人にお与えになることは決してないと知っていれば,心が慰められます。

 

 

 

キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録3:15
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。


わたしたちの「心の望みに応じて」(英文)1996年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
行うのはわたしたちです。神は助けてはくださいますが,強制はなさいません。

義にかなう望みは,厳しいものでなければなりません。ブリガム・ヤング大管長はこう言いました。「日の栄えの王国に席を得たいと望む男女は,毎日がそれを得るための闘いであることを党るであろう ( Journalof Discourses『説教集』11: 14) したがって真のクリスチャンの兵士は,週末だけの戦士であってはならないのです。

熱烈な望みがないと,わたしたちはなまぬるく気が抜けた状態になります黙示3:15参照)。ウィリアム・R・メイは,そのような怠惰な症状をこう説明しています。「この国の人々は,単なる悲しみや憂うつを通り越し,感情の起伏を自ら捨ててしまった。感情の根源である望みが死んでいるのである。……人間であるためには望みが要る。善人は神と神に関することを望む。罪人は神の代わりに物を望むが,望みを持っているかぎり,まだ人間である。しかし,怠惰な人は死んでいる。不毛の砂漠で……望み自体が干上がっている。」("A Catalogue of Sins" Christian -Century「罪のカタログ」『クリスチャン・センチュリー』への引用, 1996年 4月24日付け,p.457)

この悲しむべき状態もまた,「罰の定めを受ける者の悲しみ」モルモン2: 13) の一つなのです。

しかし,たとえわずかな望みでも,変化を起こすのに十分なこともあります。放蕩息子は,絶望に沈みながらも望みを持ち,「本心に立ちかえって」言いました。「立って,父のところへ帰〔ろう。〕」ルカ15:17-18)

今話しているのは,単に自分には責任がないと感じる誘惑を避けることだけではありません。それ以上の問題です。兄弟姉妹,忘れないでください。様々な誘惑の力や大きさを決めるのは,わたしたち自身の望みなのです。

誘惑へのサーモスタット(自動温度調節器)は,自分がセットしているのです。

望みを育み養うには、福音の真理を理解することが必要であることは明らかですが, それだけではありません。ブリガム・ヤング大管長はこう認めています。「真理を理解している人の中で,その真理によって自分を制していない人が多いのは明らかである。したがって,真理がいかに正しく,美しくとも,あなたがたは自分の感情を神の律法に合うものに形造っていかなければならない。」(『説教集』7:55)

 

 

 

キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録3:11
わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。 


「いばらの冠、栄えの冠」(英文)1991年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
イギリスの作家トーマス・カーライルはこう書いています。「貴い冠,地上の永遠の冠,それは,いばらの冠。」(「過去と現在」 3:1 73)

古代ラテン語のシク・トランシト・グロリア・マンディという言葉には,「かくして世の栄光は去りぬ」というがあります。この現世では大きな誘惑に直面することもあります。しかし,忠実で,献身的に奉仕をする人には,「名誉と栄光と,不死不滅と,永遠の生命との冠」が約束されています。教義と聖約75:5) したがって,この世の誉れにも試しにも負けることはありません。

パウロは朽ちることのない冠について話し1コリント9:25,ヤコブは忠実な人に授けられる「いのちの冠」について話しました。ヤコブ1:12) 黙示者ヨハネは,「あなたの冠がだれにも奪われないように,自分の持っているものを堅く守っていなさい」と勧告しました。黙示3:11)

権力,金銭欲,物質欲,人の誉れなどは,いばらの冠ではないでしょうか。それらの根底にあるのは,与えることではなく,人から得ること,受けることなのです。利己心は,私たちが貴い冠と考えている物を,耐え難いいばらの冠に変えてしまうこともあります。

私が社会に出て最初に働いたときのことです。長く働いているある社員が,法律のことで別の古参社員に助けを求めました。頼まれた人は非常に優秀でしたが,利己的な人でした。彼は「それで,私にはどういう利益があるの」と答えました。「自分にはどういう利益があるの」というその考え方は誤ったものであり,いばらの冠の中でも最もとがった部分のひとつということができます。

イエス・キリストは私たち一人一人に,「わたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい」と呼び掛けておられます。マタイ16:24) 今こそ自分を捨て,救い主が勧告されたように,「自分のことしかしない」という利己的で狭い世界を抜け出て,自分自身を治めることを始める時ではないでしょうか。問題は私たちに何ができるかではなく,神が私たちを通して何がおできになるかです。パウロはこう言いました。「もし人が……自分をきよめるなら……尊いきよめられた器となって,主人に役立つものとなり,すべての良いわざに間に合うようになる。」 (2テモテ 2:21 )