黙示録3:15
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
わたしたちの「心の望みに応じて」(英文)1996年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
行うのはわたしたちです。神は助けてはくださいますが,強制はなさいません。
義にかなう望みは,厳しいものでなければなりません。ブリガム・ヤング大管長はこう言いました。「日の栄えの王国に席を得たいと望む男女は,毎日がそれを得るための闘いであることを党るであろう ( Journalof Discourses『説教集』11: 14) したがって真のクリスチャンの兵士は,週末だけの戦士であってはならないのです。
熱烈な望みがないと,わたしたちはなまぬるく気が抜けた状態になります(黙示3:15参照)。ウィリアム・R・メイは,そのような怠惰な症状をこう説明しています。「この国の人々は,単なる悲しみや憂うつを通り越し,感情の起伏を自ら捨ててしまった。感情の根源である望みが死んでいるのである。……人間であるためには望みが要る。善人は神と神に関することを望む。罪人は神の代わりに物を望むが,望みを持っているかぎり,まだ人間である。しかし,怠惰な人は死んでいる。不毛の砂漠で……望み自体が干上がっている。」("A Catalogue of Sins" Christian -Century「罪のカタログ」『クリスチャン・センチュリー』への引用, 1996年 4月24日付け,p.457)
この悲しむべき状態もまた,「罰の定めを受ける者の悲しみ」(モルモン2: 13) の一つなのです。
しかし,たとえわずかな望みでも,変化を起こすのに十分なこともあります。放蕩息子は,絶望に沈みながらも望みを持ち,「本心に立ちかえって」言いました。「立って,父のところへ帰〔ろう。〕」(ルカ15:17-18)
今話しているのは,単に自分には責任がないと感じる誘惑を避けることだけではありません。それ以上の問題です。兄弟姉妹,忘れないでください。様々な誘惑の力や大きさを決めるのは,わたしたち自身の望みなのです。
誘惑へのサーモスタット(自動温度調節器)は,自分がセットしているのです。
望みを育み養うには、福音の真理を理解することが必要であることは明らかですが, それだけではありません。ブリガム・ヤング大管長はこう認めています。「真理を理解している人の中で,その真理によって自分を制していない人が多いのは明らかである。したがって,真理がいかに正しく,美しくとも,あなたがたは自分の感情を神の律法に合うものに形造っていかなければならない。」(『説教集』7:55)