黙示録3:11
わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
「いばらの冠、栄えの冠」(英文)1991年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
イギリスの作家トーマス・カーライルはこう書いています。「貴い冠,地上の永遠の冠,それは,いばらの冠。」(「過去と現在」 3:1 73)
古代ラテン語のシク・トランシト・グロリア・マンディという言葉には,「かくして世の栄光は去りぬ」というがあります。この現世では大きな誘惑に直面することもあります。しかし,忠実で,献身的に奉仕をする人には,「名誉と栄光と,不死不滅と,永遠の生命との冠」が約束されています。(教義と聖約75:5) したがって,この世の誉れにも試しにも負けることはありません。
パウロは朽ちることのない冠について話し(1コリント9:25),ヤコブは忠実な人に授けられる「いのちの冠」について話しました。(ヤコブ1:12) 黙示者ヨハネは,「あなたの冠がだれにも奪われないように,自分の持っているものを堅く守っていなさい」と勧告しました。(黙示3:11)
権力,金銭欲,物質欲,人の誉れなどは,いばらの冠ではないでしょうか。それらの根底にあるのは,与えることではなく,人から得ること,受けることなのです。利己心は,私たちが貴い冠と考えている物を,耐え難いいばらの冠に変えてしまうこともあります。
私が社会に出て最初に働いたときのことです。長く働いているある社員が,法律のことで別の古参社員に助けを求めました。頼まれた人は非常に優秀でしたが,利己的な人でした。彼は「それで,私にはどういう利益があるの」と答えました。「自分にはどういう利益があるの」というその考え方は誤ったものであり,いばらの冠の中でも最もとがった部分のひとつということができます。
イエス・キリストは私たち一人一人に,「わたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい」と呼び掛けておられます。(マタイ16:24) 今こそ自分を捨て,救い主が勧告されたように,「自分のことしかしない」という利己的で狭い世界を抜け出て,自分自身を治めることを始める時ではないでしょうか。問題は私たちに何ができるかではなく,神が私たちを通して何がおできになるかです。パウロはこう言いました。「もし人が……自分をきよめるなら……尊いきよめられた器となって,主人に役立つものとなり,すべての良いわざに間に合うようになる。」 (2テモテ 2:21 )