マタイ2:11
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
「イエスを探し求める」1965年10月、トーマス・S・モンソン、十二使徒定員会
祈りの原則に助けられ、導かれながらイエスを個人的に探し求めるとき、私たちが求めるイエスについて明確な概念を持つことが必要です。昔の羊飼いたちは、子供であるイエスを探し求めました。しかし、私たちが求めるのは、兄であり、父との仲介者であり、贖い主であり、救いの神であるキリストです。この方こそ、私たちが求めるイエスなのです。
彼へのささげもの
イエスを見つけたとき、私たちは昔の賢者たちのように、多くの宝の中から贈り物を用意することができるでしょうか。(マタイ2:11参照) 彼らは黄金、乳香、没薬を捧げました。しかし、これらはイエスが私たちに求めておられる贈り物ではありません。イエスは、私たちの心の宝から、私たち自身を捧げることを求めておられるのです。
「見よ、主は心と進んで行う精神とを求める」(教義と聖約64:34)
この驚くべき「時の満ちる時」において,わたしたちが自分自身をささげる機会は確かに無限にありますが,それはまた見失われやすいものでもあります。喜ばせることのできる心があります。語ることのできる優しい言葉があります。与えることのできる贈りものがあります。成し遂げられる行いがあります。救うことのできる魂があります。「行って、孤独な人、さびしい人を喜ばせなさい。行って、泣いている人、疲れた人を慰めなさい。行って、親切な行いをあなたの道に散りばめてください。(フランク・A・ブレック夫人、『デゼレット日曜学校の歌』197号)



