1ニーファイ1:20
ユダヤ人は、これらのことを聞いて父に腹を立てた。まことに、彼らが昔の預言者に腹を立てたのと同様である。彼らは預言者を追い出し、石を投げつけ、殺してしまった。そして、今また彼らは父の命をねらい、殺してしまおうとしたのである。しかし見よ、主の深い憐れみは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえに及び、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。
「主の深い憐れみ」2005年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
主の深い憐れみを受けるように選ばれた者とはだれでしょうか
ニーファイ第一書第1章20節の「選ばれた」という言葉が,主の深い憐れみという概念を理解する鍵になります。辞書によれば,「選ばれた」という言葉には,選抜された者,選び取られた者,えり抜かれた者という意味があります。また,神に選ばれた者を指して使われる場合もあります(Oxford English Dictionary On-line,第2版〔1989年〕“Chosen”)。
この話を聞いたり読んだりする人の中には,生活を振り返り,主の深い憐れみを受ける可能性を誤って過小評価したり,退けたりする人もいるかもしれません。「自分は選ばれていないし,選ばれることなどあり得ない」と思っているのです。わたしたちは,そのような祝福や賜物がもっと義にかなった生活をしているように見える人や,教会の中で目立った奉仕をしている人のために取っておかれるのだと誤解してしまいます。主の深い憐れみはすべての人に及ぶものであり,イスラエルの贖い主はそのような賜物を授けたいと熱望しておられることを証します。
選ばれた者であること,選ばれた者となることは,限られた人にだけ与えられるものではありません。むしろ,自分が選ばれるかどうかは,皆さんもわたしも最終的には自分で決めることなのです。教義と聖約の次の聖句で,「選ばれた」という言葉がどのように使われているかに注目してください。
「まことに,召される者は多いが,選ばれる者は少ない。では,なぜ彼らは選ばれないのであろうか。
それは,彼らがあまりにもこの世のものに執着し,人の誉れを得ることを望んでいる… … からである。」( 教義と聖約121:34-35)
この聖句の意味するところは実に明快です。神は「お気に入りの名簿」など持っておられず,そこに自分の名前が加えられるよう望む必要はないのです。神は「選ばれた者」を限定しておられるわけではありません。むしろ,最終的に神に選ばれた者となるかどうかを決めるのは,わたしたちの心であり,わたしたちの望みであり,わたしたちの従順さなのです。


