「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -286ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ1:20
ユダヤ人は、これらのことを聞いて父に腹を立てた。まことに、彼らが昔の預言者に腹を立てたのと同様である。彼らは預言者を追い出し、石を投げつけ、殺してしまった。そして、今また彼らは父の命をねらい、殺してしまおうとしたのである。しかし見よ、主の深い憐れみは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえに及び、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。



「主の深い憐れみ」2005年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
主の深い憐れみを受けるように選ばれた者とはだれでしょうか

ニーファイ第一書第1章20節の「選ばれた」という言葉が,主の深い憐れみという概念を理解する鍵になります。辞書によれば,「選ばれた」という言葉には,選抜された者,選び取られた者,えり抜かれた者という意味があります。また,神に選ばれた者を指して使われる場合もあります(Oxford English Dictionary On-line,第2版〔1989年〕“Chosen”)

この話を聞いたり読んだりする人の中には,生活を振り返り,主の深い憐れみを受ける可能性を誤って過小評価したり,退けたりする人もいるかもしれません。「自分は選ばれていないし,選ばれることなどあり得ない」と思っているのです。わたしたちは,そのような祝福や賜物がもっと義にかなった生活をしているように見える人や,教会の中で目立った奉仕をしている人のために取っておかれるのだと誤解してしまいます。主の深い憐れみはすべての人に及ぶものであり,イスラエルの贖い主はそのような賜物を授けたいと熱望しておられることを証します。

選ばれた者であること,選ばれた者となることは,限られた人にだけ与えられるものではありません。むしろ,自分が選ばれるかどうかは,皆さんもわたしも最終的には自分で決めることなのです。教義と聖約の次の聖句で,「選ばれた」という言葉がどのように使われているかに注目してください。

「まことに,召される者は多いが,選ばれる者は少ない。では,なぜ彼らは選ばれないのであろうか。

それは,彼らがあまりにもこの世のものに執着し,人の誉れを得ることを望んでいる… … からである。」教義と聖約121:34-35

この聖句の意味するところは実に明快です。神は「お気に入りの名簿」など持っておられず,そこに自分の名前が加えられるよう望む必要はないのです。神は「選ばれた者」を限定しておられるわけではありません。むしろ,最終的に神に選ばれた者となるかどうかを決めるのは,わたしたちの心であり,わたしたちの望みであり,わたしたちの従順さなのです。

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ1:19
さて、ユダヤ人は、父が彼らについて証をしたことのために父をあざ笑った。父が、ユダヤ人の悪事と彼らの忌まわしい行いについて、ありのままに証したからであり、自分が見聞きしたことや、あの書物で読んだことが、メシヤの来臨と世の贖いをはっきり表していると、証したからである。



「預言者を支持する」2014年10月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会
愛する兄弟姉妹の皆さん,神はその子供たちに話しかけるのをおやめになったという,言い古された神話は,回復により崩壊しました。これはまさに真実なのです。アダムの時代からこのかた,どの神権時代においても預言者は神の教会の頭として立ってきました。(『聖句ガイド』「神権時代」の項参照)預言者たちはイエス・キリストについて証し,また,イエスの神性について,そして,イエスの地上での使命と教導の業について証しています。※ わたしたちは,預言者ジョセフ・スミスをこの最後の神権時代の預言者として敬っています。そして,大管長として彼の後を継いだ人々を皆敬っています。

※多くの預言者が主の降臨について預言している。例えば,次のような預言者がいる。リーハイ(1ニーファイ1:19参照),ニーファイ(1ニーファイ11:31-3319:7-8参照),ヤコブ(モルモン書ヤコブ4:4-6参照),ベニヤミン(モーサヤ3:5-11,15参照),アビナダイ(モーサヤ15:1-9参照),アルマ(アルマ40:2参照),そしてレーマン人サムエル(ヒラマン14:12参照)。救い主がベツレヘムに降誕される前から,彼らは主の贖いの犠牲や続いて起きる復活について予見していたのである。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ1:14
さて、父は多くの大いなる驚くべきことを読んだり見たりした後、主に向かい、「おお、全能の主なる神よ、あなたの御業は何と偉大で驚くべきものでしょう。あなたの御座は高く天にあって、あなたの力と慈しみと憐れみは地に住むすべての者に及んでいます。あなたは憐れみ深い御方ですから、あなたのみもとに来る者が滅びるのを許されません」などと、大声で多くのことを叫んで言った。


「どこにいる人でもすべての人に」(英文)2006年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
今回モルモン書を読んでわたしが学んだことの一つは、神があらゆる国々に住む御自身の子供たちをどれほど愛しておられるかということです。モルモン書の最初の章で父リーハイは、主の「力と慈しみと憐れみは地に住むすべての者に及んでいる」と主をほめたたえました1ニーファイ1:14。モルモン書は、イエス・キリストの福音がその約束と効力において普遍であり、地上に住む万民に及ぶことを繰り返し教えています。幾つかの例をそのまま引用しましょう。

● 贖罪は「アダムの堕落以来この世に住んだ……あるいは世の終わりまでに住む全人類のために、世の初めから備えられ」ていたモーサヤ4:7
●「そして、イエス・キリストにより人にもたらされた贖いのおかげで、すべての人〔が〕贖われる。」モルモン9:13
●「神はすべての人……まことに男、女、子供の区別なく……すべての苦痛を受けられる。神がこれを受けられるのは、復活がすべての人に及〔ぶ〕ためである。」2ニーファイ9:21-22
●「主がだれかに、主の救いにあずかってはならないと命じられたことがあるだろうか。そのようなことはない。むしろ主は、すべての人に救いを無料で授けてこられた。そして、すべての人に、ほかの人と同様の者となる特権が与えられており、それを禁じられる者はだれ一人いない。」2ニーファイ26:27-28

モルモン書にはまた、「この御方の血は、……自分たちに関する神の御心を知らずに死んだ者たち、あるいは気づかないで罪を犯した者たちの罪も贖う」と記されていますモーサヤ3:11。同様に、「キリストの血は〔幼い子供たち〕の罪を贖う」のですモーサヤ3:16。贖罪を通して得られる復活と清めの力が全人類に及ぶというこの教えは、神の恵みが選ばれた少数の人々だけを救うという主張をきっぱり否定します。神の恵みはすべての人に与えられるものです。モルモン書のこれらの教えは視野を広げ、すべてを包み込む神の愛と、どこにいる人でもすべての人のために行われた、贖罪の普遍的効力に対する理解を深めてくれます。

 

 

 

Cristo by Jorge Cocco Santangelo