「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -285ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ2:1-2
さて見よ、主はまことに夢の中で父に告げてこう言われた。「リーハイよ、あなたはこれまで行ってきたことのために、幸いである。あなたは忠実であり、わたしが命じたことをこの民に告げ知らせたため、見よ、彼らはあなたの命を奪おうとしている。」そして、主は夢の中で父に、家族を連れて荒れ野へ出て行くように命じられた。



「今日の世界のチャレンジに立ち向かう」2015年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
聖文の一つの目的は,義人がどのように誘惑と悪に対処したかを示すことです。一言で言えば,彼らは避けたのです。ヨセフはポテパルの妻から逃げました。創世39章 参照) リーハイは家族を連れてエルサレムを去りました。1ニーファイ2章 参照) マリヤとヨセフはヘロデの邪悪な計画を逃れるためにエジプトに行きました。マタイ2章 参照) どの場合も,天の御父は信仰深い彼らに警告を発せられました。同様に,御父は,戦うべきか,逃げるべきか,これから明らかになる状況を受け入れるべきか分かるように助けてくださいます。御父は祈りを通して話し掛けてくださいます。そして,わたしたちが祈るとき,聖霊の導きを受けます。わたしたちには,聖文,生ける預言者の教え,祝福師の祝福,霊感を受けた親や神権指導者や補助組織指導者,中でも,御霊の静か​な​細い​声が与えられているのです。

「わたし​が​あなたがた​を​​導いて​行く​から​で​ある」教義と聖約78:18 という約束を主は常に守ってくださいます。ただ一つの問題は,わたしたちは導かれることを選ぶだろうか,神の御声と神の僕たちの声を聞くことを選ぶだろうか,ということです。

皆さんが主に近づけば,主は皆さんに近づいてくださることを証します。教義と聖約88:63 参照) 主を愛し,主の戒めを守るなら,​御子​の​​御霊​が皆さんのそばで導いてくださるでしょう。​「善​を​行う​よう​に​導く……​御霊​を​​信頼​しなさい。……これ​に​よって​あなた​は,……​義​に​かかわる​こと​は​何​で​あろう​と​すべて​知る​で​あろう。」教義と聖約11:12,14

 

 

 

The two ways by Jorge Cocco Santangelo

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ2:1-2
さて見よ、主はまことに夢の中で父に告げてこう言われた。「リーハイよ、あなたはこれまで行ってきたことのために、幸いである。あなたは忠実であり、わたしが命じたことをこの民に告げ知らせたため、見よ、彼らはあなたの命を奪おうとしている。」そして、主は夢の中で父に、家族を連れて荒れ野へ出て行くように命じられた。



「目をさましてうむことがなく」(英文)2010年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
初期の警告は、生活の多くの面で明白です。例えば、発熱は病気の最初の徴候となり得ます。金融市場や労働市場の様々な指標は、地方や国の経済動向を予測するために用いられます。また、世界のどの地域に住んでいるかによって異なりますが、洪水、雪崩、ハリケーン、津波、竜巻、吹雪などの警告を受けることがあるでしょう。

また、霊的な初期警告もあり、わたしたちの生活の中で守りや導きとなっています。思い出してください。ノアは、まだ見ていない事柄について神から警告を受け「その家族を救うために箱舟を造」りましたヘブル11:7

リーハイは人々に悔い改めるよう宣言し、そのために命をねらわれていたので、エルサレムを離れて家族を荒れ野へ連れて行くよう警告されました1ニーファイ2:1-2 参照)

主御自身も天使の警告により救われました。「見よ、主の使つかいが夢でヨセフに現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている。』」マタイ2:13

……

霊的な警告を受けたら警戒を強めるべきです。わたしたちは「警告の時」に生きており教義と聖約63:58,これまでも、そして今後も警告されるので、使徒パウロの勧告のように「目をさましてうむことがな〔い〕」ようにする必要がありますエペソ6:18

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ1:20
ユダヤ人は、これらのことを聞いて父に腹を立てた。まことに、彼らが昔の預言者に腹を立てたのと同様である。彼らは預言者を追い出し、石を投げつけ、殺してしまった。そして、今また彼らは父の命をねらい、殺してしまおうとしたのである。しかし見よ、主の深い憐れみは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえに及び、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。



「主の深い憐れみ」2005年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
主の深い憐れみを受けるように選ばれた者とはだれでしょうか

ニーファイ第一書第1章20節の「選ばれた」という言葉が,主の深い憐れみという概念を理解する鍵になります。辞書によれば,「選ばれた」という言葉には,選抜された者,選び取られた者,えり抜かれた者という意味があります。また,神に選ばれた者を指して使われる場合もあります(Oxford English Dictionary On-line,第2版〔1989年〕“Chosen”)

この話を聞いたり読んだりする人の中には,生活を振り返り,主の深い憐れみを受ける可能性を誤って過小評価したり,退けたりする人もいるかもしれません。「自分は選ばれていないし,選ばれることなどあり得ない」と思っているのです。わたしたちは,そのような祝福や賜物がもっと義にかなった生活をしているように見える人や,教会の中で目立った奉仕をしている人のために取っておかれるのだと誤解してしまいます。主の深い憐れみはすべての人に及ぶものであり,イスラエルの贖い主はそのような賜物を授けたいと熱望しておられることを証します。

選ばれた者であること,選ばれた者となることは,限られた人にだけ与えられるものではありません。むしろ,自分が選ばれるかどうかは,皆さんもわたしも最終的には自分で決めることなのです。教義と聖約の次の聖句で,「選ばれた」という言葉がどのように使われているかに注目してください。

「まことに,召される者は多いが,選ばれる者は少ない。では,なぜ彼らは選ばれないのであろうか。

それは,彼らがあまりにもこの世のものに執着し,人の誉れを得ることを望んでいる… … からである。」教義と聖約121:34-35

この聖句の意味するところは実に明快です。神は「お気に入りの名簿」など持っておられず,そこに自分の名前が加えられるよう望む必要はないのです。神は「選ばれた者」を限定しておられるわけではありません。むしろ,最終的に神に選ばれた者となるかどうかを決めるのは,わたしたちの心であり,わたしたちの望みであり,わたしたちの従順さなのです。