「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -278ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ11:35-36
このように、世の大勢の人々が集まっていたが、彼らが、父の見た建物のような大きく広々とした建物の中にいるのが見えた。このとき、主の天使がまたわたしに言った。「世の人々と彼らの知恵を見なさい。まことに、イスラエルの家が小羊の十二使徒と戦うために集まっているのを見なさい。」 そこでわたしは、あの大きく広々とした建物が世の人々の高慢であることを見て、その証をする。その建物は崩れて、その崩れ方は非常に甚だしかった。主の天使が再び、わたしに向かって言った。「小羊の十二使徒と戦うすべての国民、部族、国語の民、民族の滅亡は、まさにこのようになるであろう。」


「無私の奉仕」2009年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
わたしたちは,犠牲がまさしく時代遅れとなっている時代に住んでいます。今の時代,無私の心で助け合う奉仕の必要性を先祖に説いた,かつての社会の影響力が弱まっています。現代を「わたし」時代と呼んだ人がいます。だれもが「自分の得になるだろうか」と考えているような利己的な時代です。分別があるはずの人ですら,示現の中で世の高慢と言われた「大きく広々とした建物」からあざけり笑う人々の誉れを勝ち得ようと必死に努力しているようです1ニーファイ8:26-2811:35-36参照)

今の時代,世の中が求めているのは,何もしないで見返りを得ることです。貪どん欲よくという昔からの悪は,権利を主張するときに顔をのぞかせます。わたしは息子なので,娘なので,市民なので,犠牲者なので,あるグループの会員なのでこの権利がある,あの権利があると言うのです。当然の権利という考え方は概して利己的です。多くを求めながら,与えることはほとんど,あるいはまったくありません。この考え方にとらわれると,自分をほかの人よりも上に置くことを願うようになります。そして,人が神から何らかの祝福を受けるときは,それが基づく律法に従うことによるという,神聖で公平な報いの標準から自らを引き離してしまいます教義と聖約130:21参照)

……

救い主は,自分を捨てて人に仕えるのに必要な犠牲を払うことで,御自身に従うようにと教えておられます。これを実践するならば,主はわたしたちに「神のあらゆる賜物の中で最も大いなるもの」教義と聖約14:7である永遠の命,すなわち父なる神と御子イエス・キリストのみもとで生活する栄光と喜びを約束しておられます。御二方について,また御自身の子供たちを救う偉大な計画について証します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ11:25
そしてわたしは、父の見た鉄の棒が生ける水の源、すなわち、命の木に導く神の言葉であること、またその水が神の愛の表れであり、命の木もまた神の愛の表れであることを知った。


「いと高き神に,ホサナ」2023年4月、ロナルド・A・ラズバンド、十二使徒定員会
死ぬまでにやっておきたいことのリストを書く人がいたとしたら,こう書くとよいでしょう。「イエス・キリストの命の水という油をためる。」(『聖句ガイド』「生ける水」の項参照。イザヤ12:3エレミヤ2:13ヨハネ4:6-157:371ニーファイ11:25教義と聖約10:6636:23も参照)命の水とは,主の生涯と教えです。反対に,どこか遠くへ旅行に行ったり,華やかなイベントに参加したりしたとしても,心が元気になったり,満足したりはしません。それは,イエス・キリストが教えられた教義に従って生活することによって実現するのです。先ほど例を挙げたように,預言と預言者の教えを受け入れ,聖霊の促しに従って行動し,真の弟子となり,主の贖罪の癒しの力を求めましょう。そうするならば,皆さんが行きたいところ—つまり天の御父のみもとに帰ることができるでしょう。

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ11:22
それでわたしは答えて言った。「はい、その木は人の子らの心にあまねく注がれる神の愛です。だから、どんなものよりも好ましいものです。」


「神の愛」2021年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
中央初等協会会長だったジョイ・D・ジョーンズ姉妹は若いころ夫婦で,長い間教会に来ていないある家族を訪問してミニスタリングをするよう召されました。自分たちが来ることをその家族が望んでいないことは,最初の訪問ですぐに分かりました。その後何度訪問してもうまく行かずに悩み,心から祈って深く考えた後,ジョーンズ兄弟姉妹の祈りは答えられ,この奉仕をする理由が,次の教義と聖約の聖句から分かったのです。「あなた​は​心​を​尽くし,勢力​と​思い​と​力​を​尽くして,主​なる​あなた​の​神​を​愛さなければ​ならない。また,イエス・​キリスト​の​名​に​よって,神​に​仕え​なければ​ならない。」教義と聖約59:5ジョーンズ姉妹は言いました。

「わたしたちは,この家族とビショップに仕えようと誠実に努力していたものの,ほんとうに主への愛ゆえに仕えているかどうかを自問する必要があることに気づきました。……

主への愛ゆえに,このすばらしい家族への訪問を心待ちにするようになりました1ニーファイ11:22参照)。主のために行っていたのです。主のおかげで,苦労は苦労でなくなりました。玄関先に立ち続けて数か月後,家族はわたしたちを中へ招き入れてくれるようになりました。やがて,ともに定期的に祈りをささげ,福音について親しく話し合うようになり,永続する友情が育まれました。わたしたちは神の子供たちを愛することで,神を礼拝し,愛していたのです。」(ジョイ・D・ジョーンズ「主のために」2018年10月)

神が完全に愛してくださっていることが分かると,わたしたちはこう尋ねるでしょう。「自分はどれほど神を愛しているだろうか。わたしが神の愛に頼っているように,神はわたしの愛に頼ってくださるでしょうか。」わたしたちに過ちがあっても神が愛してくださるということだけでなく,わたしたちが目指していることのために神がわたしたちを愛してくださるように生きるのは,価値あることではないでしょうか。例えば,主がハイラム・スミスについて​,「彼​の​心​が​高潔​である​ので……主​なる​わたし​は​彼​を​愛する」教義と聖約124:15と​​言われたように,皆さんやわたしについても言っていただけるかもしれません。ヨハネの親切な勧告を思い出しましょう。「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。そして,その戒めはむずかしいものではない。」1ヨハネ5:3ヨハネ14:152ヨハネ1:6も参照)

実は,神の戒めは痛ましいものではありません。その反対です。戒めは,癒しと幸福,そして平安と喜びに至る道を示しています。御父と贖い主は,戒めによってわたしたちを祝福してくださいます。そして,その戒めに従うなら,御二方の完全な愛をさらに深く感じるようになります。ヨハネ15:10参照)