1ニーファイ11:22
それでわたしは答えて言った。「はい、その木は人の子らの心にあまねく注がれる神の愛です。だから、どんなものよりも好ましいものです。」
「神の愛」2021年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
中央初等協会会長だったジョイ・D・ジョーンズ姉妹は若いころ夫婦で,長い間教会に来ていないある家族を訪問してミニスタリングをするよう召されました。自分たちが来ることをその家族が望んでいないことは,最初の訪問ですぐに分かりました。その後何度訪問してもうまく行かずに悩み,心から祈って深く考えた後,ジョーンズ兄弟姉妹の祈りは答えられ,この奉仕をする理由が,次の教義と聖約の聖句から分かったのです。「あなたは心を尽くし,勢力と思いと力を尽くして,主なるあなたの神を愛さなければならない。また,イエス・キリストの名によって,神に仕えなければならない。」(教義と聖約59:5)ジョーンズ姉妹は言いました。
「わたしたちは,この家族とビショップに仕えようと誠実に努力していたものの,ほんとうに主への愛ゆえに仕えているかどうかを自問する必要があることに気づきました。……
主への愛ゆえに,このすばらしい家族への訪問を心待ちにするようになりました(1ニーファイ11:22参照)。主のために行っていたのです。主のおかげで,苦労は苦労でなくなりました。玄関先に立ち続けて数か月後,家族はわたしたちを中へ招き入れてくれるようになりました。やがて,ともに定期的に祈りをささげ,福音について親しく話し合うようになり,永続する友情が育まれました。わたしたちは神の子供たちを愛することで,神を礼拝し,愛していたのです。」(ジョイ・D・ジョーンズ「主のために」2018年10月)
神が完全に愛してくださっていることが分かると,わたしたちはこう尋ねるでしょう。「自分はどれほど神を愛しているだろうか。わたしが神の愛に頼っているように,神はわたしの愛に頼ってくださるでしょうか。」わたしたちに過ちがあっても神が愛してくださるということだけでなく,わたしたちが目指していることのために神がわたしたちを愛してくださるように生きるのは,価値あることではないでしょうか。例えば,主がハイラム・スミスについて,「彼の心が高潔であるので……主なるわたしは彼を愛する」(教義と聖約124:15)と言われたように,皆さんやわたしについても言っていただけるかもしれません。ヨハネの親切な勧告を思い出しましょう。「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。そして,その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3。ヨハネ14:15;2ヨハネ1:6も参照)
実は,神の戒めは痛ましいものではありません。その反対です。戒めは,癒しと幸福,そして平安と喜びに至る道を示しています。御父と贖い主は,戒めによってわたしたちを祝福してくださいます。そして,その戒めに従うなら,御二方の完全な愛をさらに深く感じるようになります。(ヨハネ15:10参照)