1ニーファイ11:35-36 無私の奉仕 | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1ニーファイ11:35-36
このように、世の大勢の人々が集まっていたが、彼らが、父の見た建物のような大きく広々とした建物の中にいるのが見えた。このとき、主の天使がまたわたしに言った。「世の人々と彼らの知恵を見なさい。まことに、イスラエルの家が小羊の十二使徒と戦うために集まっているのを見なさい。」 そこでわたしは、あの大きく広々とした建物が世の人々の高慢であることを見て、その証をする。その建物は崩れて、その崩れ方は非常に甚だしかった。主の天使が再び、わたしに向かって言った。「小羊の十二使徒と戦うすべての国民、部族、国語の民、民族の滅亡は、まさにこのようになるであろう。」


「無私の奉仕」2009年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
わたしたちは,犠牲がまさしく時代遅れとなっている時代に住んでいます。今の時代,無私の心で助け合う奉仕の必要性を先祖に説いた,かつての社会の影響力が弱まっています。現代を「わたし」時代と呼んだ人がいます。だれもが「自分の得になるだろうか」と考えているような利己的な時代です。分別があるはずの人ですら,示現の中で世の高慢と言われた「大きく広々とした建物」からあざけり笑う人々の誉れを勝ち得ようと必死に努力しているようです1ニーファイ8:26-2811:35-36参照)

今の時代,世の中が求めているのは,何もしないで見返りを得ることです。貪どん欲よくという昔からの悪は,権利を主張するときに顔をのぞかせます。わたしは息子なので,娘なので,市民なので,犠牲者なので,あるグループの会員なのでこの権利がある,あの権利があると言うのです。当然の権利という考え方は概して利己的です。多くを求めながら,与えることはほとんど,あるいはまったくありません。この考え方にとらわれると,自分をほかの人よりも上に置くことを願うようになります。そして,人が神から何らかの祝福を受けるときは,それが基づく律法に従うことによるという,神聖で公平な報いの標準から自らを引き離してしまいます教義と聖約130:21参照)

……

救い主は,自分を捨てて人に仕えるのに必要な犠牲を払うことで,御自身に従うようにと教えておられます。これを実践するならば,主はわたしたちに「神のあらゆる賜物の中で最も大いなるもの」教義と聖約14:7である永遠の命,すなわち父なる神と御子イエス・キリストのみもとで生活する栄光と喜びを約束しておられます。御二方について,また御自身の子供たちを救う偉大な計画について証します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン