「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -214ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ29:25-26

したがって、あなたがたは、わたしたちの先祖から与えられた法に従って裁かれるように、この民の声によってさばきつかさを選びなさい。先祖によって与えられた法は正しいものであって、主の御手によって先祖に授けられたものである。

さて、民の声が正しいことに反する事柄を望むのはまれであるが、民の少数が正しくないことを求めるのは度々あることである。したがって、あなたがたは民の声によって職務を果たすように留意し、それをあなたがたの法とすべきである。

 

「選択の自由を保ち,信教の自由を守る」2015年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

世の標準に屈し,信教の自由を放棄し,選択の自由を曲げるようにと迫る圧力が高まる中,モルモン書がわたしたちの責任についてどのように教えているかをよく考えてみてください。アルマ書には,アムリサイという「非常に狡猾」で「邪悪な男」が,民の王となって「教会の権利と特権を民から奪〔おうとした〕」と記されています。「これは教会の人々にとって……憂慮すべきこと」でした。アルマ2:1-4参照)人々はモーサヤ王から,正しいと感じていることについて声を上げるよう教わっていました。モーサヤ29:25-26参照)そこで,彼らは「国の至る所で各々思いのままに,アムリサイに味方する者と反対する者が分かれて集まり,そこには,ひどい論争……が見られ」ました。アルマ2:5;強調付加)

 

このような話し合いの中で,教会員とそうでない人々はともに集まり,思いを一つにし,聖霊の影響を受けました。「そして,民の声はアムリサイに反対であったので,彼は民を治める王になれ」ませんでした。アルマ2:7

 

イエス・キリストの弟子として,わたしたちには志を同じくする信仰心のある人々と手を取り合って,正しいことのために声を上げる責任があります。教会員は,教会を代表して話していると主張したり,ほのめかしたりするべきではありませんが,一市民の立場から,「各々思いのままに」アルマ2:5確信と愛をもって自分の証を述べるよう勧められています。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ29:12

さて、人は、神に裁かれる方が人に裁かれるよりもよい。神の裁きはいつも公正であるが、人の裁きは必ずしも公正でないからである。

 

「神権者に成長する」(英文)1999年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会

神の愛は完全で,皆さんにも全人類にも無限のものです。ヨハネ3:16神は完全に公正2ニーファイ9:17; モーサヤ29:12で,完全に憐れみ深い箴言4:31; アルマ42:15御方です。神は完全に慈しみ深くIsa. 54:8; 3 Ne. 22:8あられて,皆さんの環境と状況を知っておられます。皆さんが自分を知っている以上にもっとよく皆さんのことを御存じなのです。

 

天父は完全な御方ですから,皆さんは神について完全な信仰を持つことができます。神を信頼することができます。神の戒めを絶えず守ろうと努力すれば,それを守ることができます。

 

皆さんは「それは神の戒めすべてという意味ですか」と尋ねるかもしれません。そうです。すべての戒めについてです。

 

ジョセフ・スミスはこのように言っています。「〔神は〕今まで,御自分が意図された幸福と結びつかないような儀式や戒めを定められたことはなかった。また神の律法と儀式を受け入れる人々に最も大いなる祝福と栄光をもたらさないような儀式や戒めを定められたこともなかった。」History of the Church, 5:135)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ27:14

天使はまた言った。「見よ、主は、御自分の民の祈りと、御自分の僕であり、またあなたの父であるアルマの祈りを聞かれた。あなたの父が、あなたが真理の知識に導かれるように、深い信仰をもってあなたのことを祈ってきたからである。したがって、わたしは神の力と権能が存在することをあなたに認めさせるために来た。神の僕たちの祈りが、彼らの信仰に応じてかなえられるためである。

 

「輝く信仰の光」(英文)1986年10月、ヘンリー・B・アイリング、管理監督会

今から50年前の10月の総大会で、J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のような答えを与えてくれました。私はそれをカードに書き写して持ち歩いています。

 

「たとえかすかな光であろうと、信仰の光を人々の心から完全に消してしまうことを主は決してなさらない。私はそう信じ、望んでいる。いかに心が暗くなるようなことがあったとしても、正義の御霊と愛とやさしさにより、また教えと模範と福音に添った生活を通して、再び明るい輝きを増す信仰の光を主は与えてくださっている。したがって、群れの中で信仰の弱っている人々に手を差し伸べることを怠るならば、私たちは主から託された最も重要な務めのひとつを怠っていることになる。」(「大会報告」1936年10月,p.114)

 

このうるわしい表現――きらりと輝く信仰の光――それは私に自信を与えてくれる言葉です。クラーク副管長の言葉から、私たちは罪という灰にほとんどもみ消されそうなまでに覆われてしまっていながらも、きらりと輝く光があることを心に描くことができます。光がまだ小さいので人はその温かさを感じることができないかもしれません。また心がかたくなで、御霊さえ退かざるを得ないかもしれません。しかし、それでもその小さな光は消えることなく輝き続け、空気を送ってやれば、一層輝きを増すこともできるのです。

 

さらにクラーク副管長は、私たちがどのようなことをしたらよいかを提案しています。あらゆる人に当てはまる唯一の方法は提示していませんが、その小さな光を強く輝かせるためにできるだけの努力をするにはどうしたらよいかについて説明しています。

 

第1は、教えることです。しかし何を教えればいいのでしょうか。教えを受ける必要がないと思っている人々は、概して時間や機会がほとんどないと考えていますが、実際にそうであると仮定してみましょう。もし皆さんに才能と機会が与えられ、しかもひとつだけしか教えられないとしたら、何を教えますか。

 

私にとっては、その答えはあるひとりの偉大な人物が成し遂げたことの中に見いだすことができます。彼もまた愛する人のために心を痛めました。彼の名はアルマと言います。その息子アルマはあちこちを歩き回ってまことの教会を滅ぼそうとしていました。皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、神は、父親と教会の忠実な会員たちの祈りに答えて天使を送り、息子を戒めてくださいました。モーサヤ27:14参照)

 

そのような叱責を受けて息子のアルマは非常に大きな悲しみに陥りました。父親の教えを覚えていなければ、滅びていたでしょう。彼はそのときの様子を次のように説明しています。

 

「そしてこのように三日三晩私は永遠の責苦を受ける者の苦痛を感じた。しかし私がこのように責め苦しめられ、すでに犯した多くの罪を思い起して非常に良心に責められていたとき、神の子であるイエス・キリストというお方が、世の人の罪を贖うためにこの世へ来りたもうと言うことを、私の父が前に人民に予言をしたことを思い出した。そしてこれを思い出したとき、私は心の中で『神の御子イエスよ、永遠の死の鎖にしばられて今苦しんでいる私を憐みたまえ』と歎願をした。」(アルマ36:16-18)

 

救い主こそ唯一の希望の源であるという父親の教えがあったおかげで、息子アルマは完全な悔い改めへと至る道を歩み始めたのです。もし私にひとつのことだけを教える機会があるとすれば、悔い改めへと導くイエス・キリストへの信仰を行使することがどういうことか、また、それがどんなにすばらしいものであるかを教えることでしょう。

 

そしてこれを教えるために、天父のみもとにいたときから再び天父のみ前に戻るときまでにたどる道を示す旅に、愛するその人を連れ出すでしょう。まずはアダムとイヴの堕落を見、それが私たちにどのような影響を与えたかを感じとります。次いでベツレヘムへ行き、神の御子の誕生に喜び、さらにゲツセマネの園やゴルゴタでは、たぐいまれなる贖いのみ業を成し遂げてくださった主に対して胸の張り裂ける思いです。それから私たちは空になった墓のところへ行き、次にガリラヤへ行き、さらにこの西半球にもやって来て、よみがえられた主の戒めを守ることに希望を見いだすのです。

 

次いで私たちはニューヨークの森へ行き、少年ジョセフ・スミスが父なる神と復活された御子と話すのを見ます。彼は福音の儀式を回復する使命を果たす働きを始め、こうして私たちは天父のみもとへ戻ることができるのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)