天使はまた言った。「見よ、主は、御自分の民の祈りと、御自分の僕であり、またあなたの父であるアルマの祈りを聞かれた。あなたの父が、あなたが真理の知識に導かれるように、深い信仰をもってあなたのことを祈ってきたからである。したがって、わたしは神の力と権能が存在することをあなたに認めさせるために来た。神の僕たちの祈りが、彼らの信仰に応じてかなえられるためである。
「輝く信仰の光」(英文)1986年10月、ヘンリー・B・アイリング、管理監督会
今から50年前の10月の総大会で、J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のような答えを与えてくれました。私はそれをカードに書き写して持ち歩いています。
「たとえかすかな光であろうと、信仰の光を人々の心から完全に消してしまうことを主は決してなさらない。私はそう信じ、望んでいる。いかに心が暗くなるようなことがあったとしても、正義の御霊と愛とやさしさにより、また教えと模範と福音に添った生活を通して、再び明るい輝きを増す信仰の光を主は与えてくださっている。したがって、群れの中で信仰の弱っている人々に手を差し伸べることを怠るならば、私たちは主から託された最も重要な務めのひとつを怠っていることになる。」(「大会報告」1936年10月,p.114)
このうるわしい表現――きらりと輝く信仰の光――それは私に自信を与えてくれる言葉です。クラーク副管長の言葉から、私たちは罪という灰にほとんどもみ消されそうなまでに覆われてしまっていながらも、きらりと輝く光があることを心に描くことができます。光がまだ小さいので人はその温かさを感じることができないかもしれません。また心がかたくなで、御霊さえ退かざるを得ないかもしれません。しかし、それでもその小さな光は消えることなく輝き続け、空気を送ってやれば、一層輝きを増すこともできるのです。
さらにクラーク副管長は、私たちがどのようなことをしたらよいかを提案しています。あらゆる人に当てはまる唯一の方法は提示していませんが、その小さな光を強く輝かせるためにできるだけの努力をするにはどうしたらよいかについて説明しています。
第1は、教えることです。しかし何を教えればいいのでしょうか。教えを受ける必要がないと思っている人々は、概して時間や機会がほとんどないと考えていますが、実際にそうであると仮定してみましょう。もし皆さんに才能と機会が与えられ、しかもひとつだけしか教えられないとしたら、何を教えますか。
私にとっては、その答えはあるひとりの偉大な人物が成し遂げたことの中に見いだすことができます。彼もまた愛する人のために心を痛めました。彼の名はアルマと言います。その息子アルマはあちこちを歩き回ってまことの教会を滅ぼそうとしていました。皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、神は、父親と教会の忠実な会員たちの祈りに答えて天使を送り、息子を戒めてくださいました。(モーサヤ27:14参照)
そのような叱責を受けて息子のアルマは非常に大きな悲しみに陥りました。父親の教えを覚えていなければ、滅びていたでしょう。彼はそのときの様子を次のように説明しています。
「そしてこのように三日三晩私は永遠の責苦を受ける者の苦痛を感じた。しかし私がこのように責め苦しめられ、すでに犯した多くの罪を思い起して非常に良心に責められていたとき、神の子であるイエス・キリストというお方が、世の人の罪を贖うためにこの世へ来りたもうと言うことを、私の父が前に人民に予言をしたことを思い出した。そしてこれを思い出したとき、私は心の中で『神の御子イエスよ、永遠の死の鎖にしばられて今苦しんでいる私を憐みたまえ』と歎願をした。」(アルマ36:16-18)
救い主こそ唯一の希望の源であるという父親の教えがあったおかげで、息子アルマは完全な悔い改めへと至る道を歩み始めたのです。もし私にひとつのことだけを教える機会があるとすれば、悔い改めへと導くイエス・キリストへの信仰を行使することがどういうことか、また、それがどんなにすばらしいものであるかを教えることでしょう。
そしてこれを教えるために、天父のみもとにいたときから再び天父のみ前に戻るときまでにたどる道を示す旅に、愛するその人を連れ出すでしょう。まずはアダムとイヴの堕落を見、それが私たちにどのような影響を与えたかを感じとります。次いでベツレヘムへ行き、神の御子の誕生に喜び、さらにゲツセマネの園やゴルゴタでは、たぐいまれなる贖いのみ業を成し遂げてくださった主に対して胸の張り裂ける思いです。それから私たちは空になった墓のところへ行き、次にガリラヤへ行き、さらにこの西半球にもやって来て、よみがえられた主の戒めを守ることに希望を見いだすのです。
次いで私たちはニューヨークの森へ行き、少年ジョセフ・スミスが父なる神と復活された御子と話すのを見ます。彼は福音の儀式を回復する使命を果たす働きを始め、こうして私たちは天父のみもとへ戻ることができるのです。
