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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ1:15

そして、人々は彼を捕らえた。彼の名はニーホルといった。そして人々は、彼をマンタイの丘の頂上に運んで行った。そこにおいて彼は、自分が民に教えてきたことが神の言葉に反するものであったことを、天地の間で白状させられた、いや、自分から認めた。そして、彼は不名誉な最期を遂げた。

 

「毒蛇と戯れてはならない」2001年4月、デビッド・E・ソレンセン、七十人会長会

霊的な毒蛇と承知のうえで戯れるのは、さらに危険なことです。モーサヤ27:10–11; アルマ1:15 そのような人を見ると、ある男の子の祈りを思い出します。「天のお父様、もしぼくをよい子にできなければ、心配しないでください。今のままで、楽しいですから。」

 

先の見えていないこの男の子のようであってはなりません。神殿の神聖な聖約や儀式を受ける前に悔い改めることができると考えて、罪を犯そうとする入は、霊的に成長する力を失う危機にいます。そして、正しい道に戻るには、苦しい過程を踏まなければなりません。

 

ガラガラ蛇にかまれたら、苦痛を伴う処置が必要です。かまれた箇所を鋭いナイフで切り開きます。そして、だれかがその傷口から毒を吸い出さなければなりません。入院が必要になることもよくあります。兄弟たち、今晩皆さんに願うことは、ガラガラ蛇と遊ばないことです。罪を犯さない方が、はるかによいのです。ルカ15:21

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ 1:3

彼は人々の中を巡り歩いて、自分で神の言葉と称したことを彼らに宣べ伝え、教会に圧迫を加え、また、祭司と教師は皆、人望を得るはずであって、自分の手で働く必要はなく、人々によって生活を支えられて当然であると宣言した。

 

「福音を教える」(英文)1999年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会

第2は,福音の教師は,わたしたちが仕える主がされたと同様に,教えを受ける人に対して全身全霊を傾けることです。羊が必要としていること,つまり生徒のためになることに全神経を集中させるのです。福音の教師は自分のことを中心に考えたりしません。この原則を理解している人は「レッスンを提示すること」が自分の召しであるとは考えません。なぜならば,レッスンの提示に重点を置いた教え方は,教師の視点に基づいたもので,生徒の立場に立って教えるものではないからです。

 

生徒の必要に目を向けている福音の教師は,自分の立場を高めることに努めたりはしません。また,自分が関心を持っている事柄の知識を誇示してレッスンの焦点をぼかし,救い主に対する生徒の理解をあいまいにするようなこともしません。これは,福音の教師は決して祭司の偽善売教に身を任せてはならないという意味です。祭司の偽善売教とは「利益と世の誉れを得るために,説教をして自分自身を世の光とすること」です(2ニーファイ26:29)

 

福音の教師は「人望を得る」ためにアルマ 1:3) ,あるいは「富と誉れを得ようとして」教えを説くようなことをしませんアルマ1:16)。彼らはモルモン書のすばらしい模範に従います。すなわち,「教えを説く者は聞く者よりも偉いわけではなく,教える者は学ぶ者よりも偉いわけではない」のですアルマ1:26)。教師と生徒はともに主を仰ぎ見るのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ29:25-26

したがって、あなたがたは、わたしたちの先祖から与えられた法に従って裁かれるように、この民の声によってさばきつかさを選びなさい。先祖によって与えられた法は正しいものであって、主の御手によって先祖に授けられたものである。

さて、民の声が正しいことに反する事柄を望むのはまれであるが、民の少数が正しくないことを求めるのは度々あることである。したがって、あなたがたは民の声によって職務を果たすように留意し、それをあなたがたの法とすべきである。

 

「選択の自由を保ち,信教の自由を守る」2015年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

世の標準に屈し,信教の自由を放棄し,選択の自由を曲げるようにと迫る圧力が高まる中,モルモン書がわたしたちの責任についてどのように教えているかをよく考えてみてください。アルマ書には,アムリサイという「非常に狡猾」で「邪悪な男」が,民の王となって「教会の権利と特権を民から奪〔おうとした〕」と記されています。「これは教会の人々にとって……憂慮すべきこと」でした。アルマ2:1-4参照)人々はモーサヤ王から,正しいと感じていることについて声を上げるよう教わっていました。モーサヤ29:25-26参照)そこで,彼らは「国の至る所で各々思いのままに,アムリサイに味方する者と反対する者が分かれて集まり,そこには,ひどい論争……が見られ」ました。アルマ2:5;強調付加)

 

このような話し合いの中で,教会員とそうでない人々はともに集まり,思いを一つにし,聖霊の影響を受けました。「そして,民の声はアムリサイに反対であったので,彼は民を治める王になれ」ませんでした。アルマ2:7

 

イエス・キリストの弟子として,わたしたちには志を同じくする信仰心のある人々と手を取り合って,正しいことのために声を上げる責任があります。教会員は,教会を代表して話していると主張したり,ほのめかしたりするべきではありませんが,一市民の立場から,「各々思いのままに」アルマ2:5確信と愛をもって自分の証を述べるよう勧められています。