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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ49:5

このとき、レーマン人の連隊長たちは、ニーファイ人が防御の場所を備えるに当たって知恵を働かせたことに非常に驚いた。

 

「信仰をもって将来を待ち望む」2020年10月、ラッセル・M・ネルソン大管長

モロナイは,ニーファイ人のすべての町を土手ととりでと石垣で守りました。アルマ48:8 参照)攻めてきたレーマン人は,「ニーファイ人​が​防御​の​場所​を​備える​に​当たって​知恵​を​働かせた​こと​に​非常​に​驚〔きました。〕」アルマ49:5

 

同様に,不安が周りで激しく渦巻くとき,わたしたちは自分たちが身体的にも霊的にも安全を確保できる場所を作る必要があります。家庭が御霊のとどまる場所,つまり自分にとって信仰の聖所になるとき,家庭は防御の最前線になります。

 

同様にシオンのステークは「嵐​……〔から〕の​避け​所」です。教義と聖約115:6神権の鍵を持って神権の権能を行使する人が導いているからです。自分たちを導く権能を主から与えられている人たちの勧告に従うならば,皆さんはさらに安全を確保できるようになります。

 

主の宮である神殿は,ほかのどんな場所とも異なる防御の場所です。そこで姉妹の皆さんは神権の力によってエンダウメントを受け,聖なる神権の聖約を交わします。(ラッセル・M・ネルソン「霊の宝」 2019年10月)そこで皆さんの家族は永遠に結び固められます。今年は神殿参入の機会が非常に限られてしまいましたが,それでも,皆さんはエンダウメントを受けているのですから,主と交わした聖約を尊ぶならば常に神の力を受けることができます。

 

端的に言えば,防御の場所とは,どこであろうと,皆さんが聖霊を感じ,聖霊の導きを受けられる場所のことなのです。 聖霊がともにおられるならば,たとえ世間に広まっている主張に逆行するものであろうと,真理を教えることができます。そして,啓示の受けられる環境で,福音に関する心の底からの疑問について深く考えることができるのです。

 

愛する姉妹の皆さん,防御の場所となる家庭を作ってください。皆さんに改めてお勧めします。神権の力と神殿の聖約と祝福について,さらによく理解してください。避難できる防御の場所があれば,信仰をもって将来を待ち望むうえで助けとなります。

 

※エライザ・R・スノー姉妹は,聖霊は「人の心が抱くすべての望みをかなえ……てくれます」と教えています。「そのような御霊に満たされているとき,わたしの霊は満足します。そして,心の底から次のように言えます。日々のささいな事柄は,何の妨げとも感じられなくなる。……この〔天にある〕泉からわたしたちの魂に,絶え間なく御霊を注いでもらえるような生活を送るのは,わたしたちの特権ではないでしょうか。」( 『わたしの王国の娘—扶助協会の歴史と業』 46)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ45:17

アルマはこれらの言葉を語り終えると、教会員を、すなわちそのときから後信仰にしっかりと立つすべての人を祝福した。

 

「主を待ち望む-みこころが行われますように」2011年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

では,主を待ち望むとはどういう意味でしょうか。聖文では「待つ」とは望む,期待する,信頼するという意味です。主を望み信頼するには,信仰と忍耐,謙遜,柔和,寛容,戒めを守り最後まで堪え忍ぶことが必要です。

 

主を待ち望むとは,信仰の種を植え,「非常な熱意と,忍耐」アルマ32:41をもって養うことです。

 

また,救い主が神である天の御父に祈られたように,「御み国くにがきますように。みこころが……行われますように」マタイ6:10ルカ11:2と祈ることです。この祈りは,わたしたちの救い主イエス・キリストの御み名なによって全身全霊でささげるものです。

 

主を待ち望むとは,心の中でよく考え,「〔わたしたちが〕なすべきことをすべて」分かるように「聖霊を受ける」ことです。2ニーファイ32:5

 

聖霊の導きに従うとき,「患難かんなんは忍耐を生み出〔す〕」ローマ5:3ことが分かり,「完全になるまで忍耐し続け〔る〕」教義と聖約67:13ことを学びます。

 

主を待ち望むとは,「完全な希望の輝きを持ち」2ニーファイ31:20,信仰に「しっかりと立〔って〕」アルマ45:17「「力強く進〔む〕」ことです。

 

それは「キリストの功徳にだけ頼〔り〕」モロナイ6:4,「〔主の〕恵みをもって……〔わたしたちを〕助け,〔わたしたちが〕,『おお,主よ,わたしたちの思いではなく,御心が行われますように』と言えるように」教義と聖約109:44なることです。

 

わたしたちは主を待ち望むとき,「いつの日かあらゆる苦難を離れて休める」アルマ34:41と理解しながら,「確固として動かずに神の戒めを守り」アルマ1:25ます。

 

そして,「〔わたしたち〕を苦しめたすべてのことは,〔わたしたち〕の益のために……ともに働く」ことを信じ教義と聖約98:3,「〔わたしたちの〕確信を放棄し」ヘブル10:35ないのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ45:16

そして、アルマは言った。「主なる神は言われる。『地は、まことにこの地は悪を行うあらゆる国民、部族、国語の民、民族に対してのろわれる。悪が完全に熟すとき、彼らは滅びるであろう。』必ずわたしが言ったようになる。これは神が地に下されたのろいであり、祝福だからである。主はほんのわずかでも、罪を見過ごしにされることはないからである。」

 

「神の愛」2021年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会

神の愛はすべてを包み込むため,「無条件」の愛と表現する人もいます。それが,神の祝福も救いも「無条件で」与えられるという意味であると考える人もいますが,そうではありません。このように言う人もいます。「救い主はありのままのわたしを愛しておられる。」確かにそのとおりですが,救い主はありのままのわたしたちを神の王国に迎え入れることはおできになりません。「清くない​者​は​そこ​に​住む​こと​が​できない,すなわち,神​の​前​に​住む​こと​が​できない​から」モーセ6:57です。まず,自分の罪を解決しなければなりません。

 

ヒュー・ニブレー教授はかつて,最も小さな罪であってもそれに身を任せるなら神の国は堪えることができないと言いました。「どんなに小さくとも腐敗のしみがあれば,来世は不朽でも永遠でもないということです。建物や施設,行動規範,人格は,ほんの小さな傷があるだけで,永遠という長い観点で見れば,間違いなく致命的なのです。」※ 神の戒めが「厳しい」アルマ37:13のは,神の国とそこに住む人たちは,常に悪を退けて善を選ばなければ立ち行かないからです。これに例外はありません。(そこで,救い主はこう言っておられます。「命にいたる門は狭く,その道は細い。」 マタイ7:14「主なるわたしは,ほんのわずかでも罪を見過ごしにすることはないからである。」教義と聖約1:31アルマ45:16も参照)

 

ジェフリー・R・ホランド長老はこう述べています。「イエスは,現代の文化の中でわたしたちの多くが忘れてしまいがちな事柄が何かを理解しておられました。 それは,(主は無限に赦す力をお持ちでしたが)罪を赦しなさいという戒めと,(主は一度もなさらなかった)罪を大目に見てはならないという警告は明らかに異なるということです。」(ジェフリー・R・ホランド「弟子として歩むことに伴う犠牲と祝福」2014年4月; see also Jeffrey R. Holland, “The Second Half of the Second Century of Brigham Young University” (university conference address, Aug. 23, 2021), 4, speeches.byu.edu: 「わたしの知る限り,キリストは一度も人からの愛を拒んだことはありませんでしたが,同時に『わたしがあなたを愛しているから,あなたはわたしの戒めを守ることを免除される』と言ったこともありませんでした。」)

 

Temple and Cosmos: Beyond This Ignorant Present, vol. 12 of The Collected Works of Hugh Nibley (1992), 61; see also Approaching Zion, vol. 9 of The Collected Works of Hugh Nibley (1989), 274: 「欠陥や不完全な部分があるままではそれ〔永遠に続くシオン〕が永遠に立ち行かないのは,構造にほんの小さな欠陥があると橋や塔の耐久性がなくなるのと同じです。」

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)