アルマはこれらの言葉を語り終えると、教会員を、すなわちそのときから後信仰にしっかりと立つすべての人を祝福した。
「主を待ち望む-みこころが行われますように」2011年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
では,主を待ち望むとはどういう意味でしょうか。聖文では「待つ」とは望む,期待する,信頼するという意味です。主を望み信頼するには,信仰と忍耐,謙遜,柔和,寛容,戒めを守り最後まで堪え忍ぶことが必要です。
主を待ち望むとは,信仰の種を植え,「非常な熱意と,忍耐」(アルマ32:41)をもって養うことです。
また,救い主が神である天の御父に祈られたように,「御み国くにがきますように。みこころが……行われますように」(マタイ6:10;ルカ11:2)と祈ることです。この祈りは,わたしたちの救い主イエス・キリストの御み名なによって全身全霊でささげるものです。
主を待ち望むとは,心の中でよく考え,「〔わたしたちが〕なすべきことをすべて」分かるように「聖霊を受ける」ことです。(2ニーファイ32:5)
聖霊の導きに従うとき,「患難かんなんは忍耐を生み出〔す〕」(ローマ5:3)ことが分かり,「完全になるまで忍耐し続け〔る〕」(教義と聖約67:13)ことを学びます。
主を待ち望むとは,「完全な希望の輝きを持ち」(2ニーファイ31:20),信仰に「しっかりと立〔って〕」(アルマ45:17)「「力強く進〔む〕」ことです。
それは「キリストの功徳にだけ頼〔り〕」(モロナイ6:4),「〔主の〕恵みをもって……〔わたしたちを〕助け,〔わたしたちが〕,『おお,主よ,わたしたちの思いではなく,御心が行われますように』と言えるように」(教義と聖約109:44)なることです。
わたしたちは主を待ち望むとき,「いつの日かあらゆる苦難を離れて休める」(アルマ34:41)と理解しながら,「確固として動かずに神の戒めを守り」(アルマ1:25)ます。
そして,「〔わたしたち〕を苦しめたすべてのことは,〔わたしたち〕の益のために……ともに働く」ことを信じ(教義と聖約98:3),「〔わたしたちの〕確信を放棄し」(ヘブル10:35)ないのです。
