そして、アルマは言った。「主なる神は言われる。『地は、まことにこの地は悪を行うあらゆる国民、部族、国語の民、民族に対してのろわれる。悪が完全に熟すとき、彼らは滅びるであろう。』必ずわたしが言ったようになる。これは神が地に下されたのろいであり、祝福だからである。主はほんのわずかでも、罪を見過ごしにされることはないからである。」
「神の愛」2021年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
神の愛はすべてを包み込むため,「無条件」の愛と表現する人もいます。それが,神の祝福も救いも「無条件で」与えられるという意味であると考える人もいますが,そうではありません。このように言う人もいます。「救い主はありのままのわたしを愛しておられる。」確かにそのとおりですが,救い主はありのままのわたしたちを神の王国に迎え入れることはおできになりません。「清くない者はそこに住むことができない,すなわち,神の前に住むことができないから」(モーセ6:57)です。まず,自分の罪を解決しなければなりません。
ヒュー・ニブレー教授はかつて,最も小さな罪であってもそれに身を任せるなら神の国は堪えることができないと言いました。「どんなに小さくとも腐敗のしみがあれば,来世は不朽でも永遠でもないということです。建物や施設,行動規範,人格は,ほんの小さな傷があるだけで,永遠という長い観点で見れば,間違いなく致命的なのです。」※ 神の戒めが「厳しい」(アルマ37:13)のは,神の国とそこに住む人たちは,常に悪を退けて善を選ばなければ立ち行かないからです。これに例外はありません。(そこで,救い主はこう言っておられます。「命にいたる門は狭く,その道は細い。」 (マタイ7:14)「主なるわたしは,ほんのわずかでも罪を見過ごしにすることはないからである。」(教義と聖約1:31。アルマ45:16も参照)
ジェフリー・R・ホランド長老はこう述べています。「イエスは,現代の文化の中でわたしたちの多くが忘れてしまいがちな事柄が何かを理解しておられました。 それは,(主は無限に赦す力をお持ちでしたが)罪を赦しなさいという戒めと,(主は一度もなさらなかった)罪を大目に見てはならないという警告は明らかに異なるということです。」(ジェフリー・R・ホランド「弟子として歩むことに伴う犠牲と祝福」2014年4月; see also Jeffrey R. Holland, “The Second Half of the Second Century of Brigham Young University” (university conference address, Aug. 23, 2021), 4, speeches.byu.edu: 「わたしの知る限り,キリストは一度も人からの愛を拒んだことはありませんでしたが,同時に『わたしがあなたを愛しているから,あなたはわたしの戒めを守ることを免除される』と言ったこともありませんでした。」)
※Temple and Cosmos: Beyond This Ignorant Present, vol. 12 of The Collected Works of Hugh Nibley (1992), 61; see also Approaching Zion, vol. 9 of The Collected Works of Hugh Nibley (1989), 274: 「欠陥や不完全な部分があるままではそれ〔永遠に続くシオン〕が永遠に立ち行かないのは,構造にほんの小さな欠陥があると橋や塔の耐久性がなくなるのと同じです。」
