「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -126ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約2:1

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤの手によってあなたがたに神権を現そう。

 

「結び固めの力」2023年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会

同じときにカートランド神殿で,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れた第三の天の使者がいました。それは預言者エリヤでした。エリヤが回復した権能と鍵について,今日わたしはお話ししたいと思います。教義と聖約110:13—16参照)すべての神権の儀式を有効にし,地上でも天でもそれらをつなぐ力,すなわち結び固めの力は,幕の両側で聖約の民を集め,備えるために不可欠です。

 

その何年も前に,モロナイはジョセフ・スミスに,エリヤが不可欠な神権の権能をもたらすことを明らかにし,「わたしは預言者エリヤの手によってあなたがたに神権を現そう」教義と聖約2:1と語っています。ジョセフ・スミスは後に次のように説明しています。「なぜエリヤが遣わされるのでしょうか。エリヤが神権のすべての儀式を執行する権能の鍵を持っているからです。その権能が与えられ〔なければ〕,儀式を義にかなって執行することはできません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』310)つまり,その儀式はこの世においても永遠にわたっても,有効にはならないということです。

 

※「エリヤの霊と力と召しとは,すなわち皆さんには啓示,儀式,神託,力,エンダウメントの鍵を持つ力があるということです。それは,メルキゼデク神権と地上における神の王国のすべてにかかわるものです。それは,神の王国に属するすべての儀式を受け,得,執行するためのものであり,先祖の心を子孫に,先祖すなわち天にいる人々に子孫の心を向けるためのものです。」(歴代大管長の教え―ジョセフ・スミス311)

 

 

 

日本札幌神殿

今週の「わたしに従ってきなさい

 

 

ジョセフ・スミス—歴史1:25

わたしについても同じであった。わたしは実際に光を見た。その光の中に二人の御方を見た。そして、その方々が実際にわたしに語りかけられたのである。たとえ示現を見たと言ったことで憎まれ、迫害されたとしても、それは真実であった。そして、そのように言ったことで、人々がわたしを迫害し、わたしをののしり、わたしに対して不当にあらゆる悪口を浴びせているとき、わたしはこのように心の中で言うようになった。「真実を告げたことで、なぜわたしを迫害するのか。わたしは実際に示現を見た。どうしてわたしは神に逆らえようか。なぜ世の人々はわたしが実際に見たものを否定させようとするのか。」わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを、わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず、またそうする勇気もなかった。少なくともわたしは、そのようにすれば自分が神に対して罪を犯し、罪の宣告を受けるということを知っていた。

 

「人生にとって霊的に重要な記憶」2020年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

預言者ジョセフ・スミスの経験にはわたしたちのための教訓が含まれています。聖霊から受ける平安な導きに加え,神は,わたしたちを御存じで愛しておられ,わたしたちを具体的かつ公に祝福してくださるということを,時折,わたしたちに力強く,非常に個人的に確信させてくださいます。そして,わたしたちが困難の中にあるとき,救い主はこれらの経験を思い出させてくださるのです。

 

自分の人生について考えてみてください。長年の間,わたしは世界中の末日聖徒から何千もの非常に霊的な経験を聞いてきました。それらによって,神がわたしたち一人一人を御存じで愛しておられ,わたしたちに御自身を現されることを切に望んでおられるのを,疑いようもなく確信しました。これらの経験は人生の重要な時期,あるいは一見平凡な出来事の中に訪れるかもしれませんが,それらは神の愛に関するきわめて強い霊的な確認を必ず伴います。

 

人生にとって霊的に重要な経験を思い出すことによって,わたしたちはひざまずき,預言者ジョセフのようにこう宣言することでしょう。「わたしが受けたものは天からのものだった。わたしはそれを知っている。そして,わたしがそれを知っていることを神が御存じであるのを,わたしは知っている。」

 

※「ジョセフ・スミス—歴史」の次の言葉にわたしはいつも感銘を受けてきました。「わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを,わたしは知っていた。」(ジョセフ・スミス—歴史1:25)ジョセフは神の前に立ち,聖なる森での出来事が現実に起きたものであり,それによって人生が完全に変わるのだということを受け入れなければなりませんでした。約25年前,わたしはニール・A・マックスウェル長老からこれに似た言葉を初めて聞きました。マックスウェル長老は次のような例を挙げました。「昔,1945年5月に18歳だったわたしは沖縄にいました。わたしは決して勇敢ではありませんでしたが,日本の砲兵隊がわたしたちの拠点を砲撃した際,わたしやほかの人は祝福されました。相次ぐ砲撃はわたしたちの拠点を外れましたが,敵の砲兵隊はついにわたしたちにねらいを定めました。彼らが砲撃を仕掛けてきてもおかしくない状況でしたが,少なくとも一人のおびえた利己的な祈りに神がこたえてくださいました。砲撃がやんだのです。……わたしは祝福されました。そして,わたしがそれを知っていることを神が御存じであるのを,わたしは知っていました。」(“Becoming a Disciple,” Ensign, June 1996, 19)

マックスウェル長老は,ジョセフ・スミスが祝福されていることを自分だけでなく神も御存じであること,また,自分がそれを知っていることを神が御存じであるということもつけ加えました。これにより,象徴的な意味で,わたしにとって責任が一段と高まります。時折,天の御父は祝福とともに,天がわたしたちに手を差し伸べてくれたのだという非常に強い霊的な確認を与えてくださいます。それを否定することはできません。それはわたしたちの中にとどまり,正直で忠実であるならば,その先の人生を形成するものとなります。「わたしは祝福されました。そして,わたしが祝福されたと知っていることを神が御存じであるのを,わたしは知っていました。」

 

 

 

聖句とそれを引用した預言たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい

 

 

ジョセフ・スミスー歴史1:21

わたしはこの示現を受けてから数日後、前に述べた宗教上の騒ぎの中で盛んに活動をしていたメソジスト派の説教者の一人とたまたま一緒になった。そして、宗教のことについて彼と語るうちに、わたしは、その機会をとらえて、自分の受けた示現の話をした。ところが、わたしは彼の振る舞いにひどく驚いた。彼はわたしの話を軽くあしらっただけでなく、ひどく軽蔑した調子で、それはすべて悪魔から出たものであって、この時代に示現や啓示のようなものはなく、そのようなものはすべて使徒たちで終わっており、今後決してそのようなものはない、と言った。

 

「確信-宗教の真髄」(英文)1981年10月、ゴードン・B・ヒンクレー長老

最近、この町で東部からやってきた著名なジャーナリストが講演を行いました。私は彼の話を直接聞いたのではなく、新聞で読んだのですが、その中に次のような言葉が引用されていました。「確信は宗教の敵である。」 私はこの言葉を心の中で反すうしていました。しかし、私の定義では、確信とは完全に信じることであり、これは決して宗教の敵ではありません。むしろ、宗教の真髄と言えるものです。

 

......

 

ローマで処刑されたパウロは、イエス・キリストが神の御子であるという最後の証を、自らの死をもって結び固めたのです。

 

同じことが初期のクリスチャンにも言えます。復活され生きておられる神の御子を信じる何千、何万というクリスチャンが、信仰を否定するよりはと、投獄、拷問、そして死刑をも甘んじて受けました。

 

もし確信がなかったら、ルター、フス、ツウィングリをはじめとする偉大な人物が勇気をもって推し進めた宗教改革などあり得たでしょうか。

 

そしてそれは現代にも言えることです。信者に確信がなければ、宗教の大義は弱まり、その教えを広めて人々の心を捕らえる原動力も推進力もなくなってしまいます。神学について口論することはできても、行動によって得た個人の証は否定することはできません。私たちが恩恵を受けているこの福音の神権時代は、天父と御子が少年ジョセフ・スミスのもとを訪れるという輝かしい示現によって幕が開かれました。この少年は、自分が経験したことを近所の牧師に話しました。すると牧師は非常に軽蔑してこう言いました。「それはすべて悪魔から出たものであって、この時代に示現や啓示のようなものはなく、そのようなものはすべて使徒たちで終わっており、今後決してそのようなものはない。」ジョセフ・スミスー歴史1:21)

 

他の人々も口をそろえてジョセフを攻撃しました。彼は激しい迫害を一身に受けました。しかし、次のように記しています。

 

「わたしは実際に光を見た。その光の中に二人の御方を見た。そして、その方々が実際にわたしに語りかけられたのである。たとえ示現を見たと言ったことで憎まれ、迫害されたとしても、それは真実であった。そして、そのように言ったことで、人々がわたしを迫害し、わたしをののしり、わたしに対して不当にあらゆる悪口を浴びせているとき、わたしはこのように心の中で言うようになった。「真実を告げたことで、なぜわたしを迫害するのか。わたしは実際に示現を見た。どうしてわたしは神に逆らえようか。なぜ世の人々はわたしが実際に見たものを否定させようとするのか。」わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを、わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず、またそうする勇気もなかった。」ジョセフ・スミス―歴史 1:25

 

この言葉には、みじんの疑いもありません。ジョセフ・スミスにとってこの経験は、真昼の太陽が暖かいのと同様に現実のものでした。彼の確信は決して薄れたり、揺らいだりはしませんでした。

 

 

 

聖句とそれを引用した預言たちの言葉2025年版(BOX)