わたしはこの示現を受けてから数日後、前に述べた宗教上の騒ぎの中で盛んに活動をしていたメソジスト派の説教者の一人とたまたま一緒になった。そして、宗教のことについて彼と語るうちに、わたしは、その機会をとらえて、自分の受けた示現の話をした。ところが、わたしは彼の振る舞いにひどく驚いた。彼はわたしの話を軽くあしらっただけでなく、ひどく軽蔑した調子で、それはすべて悪魔から出たものであって、この時代に示現や啓示のようなものはなく、そのようなものはすべて使徒たちで終わっており、今後決してそのようなものはない、と言った。
「確信-宗教の真髄」(英文)1981年10月、ゴードン・B・ヒンクレー長老
最近、この町で東部からやってきた著名なジャーナリストが講演を行いました。私は彼の話を直接聞いたのではなく、新聞で読んだのですが、その中に次のような言葉が引用されていました。「確信は宗教の敵である。」 私はこの言葉を心の中で反すうしていました。しかし、私の定義では、確信とは完全に信じることであり、これは決して宗教の敵ではありません。むしろ、宗教の真髄と言えるものです。
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ローマで処刑されたパウロは、イエス・キリストが神の御子であるという最後の証を、自らの死をもって結び固めたのです。
同じことが初期のクリスチャンにも言えます。復活され生きておられる神の御子を信じる何千、何万というクリスチャンが、信仰を否定するよりはと、投獄、拷問、そして死刑をも甘んじて受けました。
もし確信がなかったら、ルター、フス、ツウィングリをはじめとする偉大な人物が勇気をもって推し進めた宗教改革などあり得たでしょうか。
そしてそれは現代にも言えることです。信者に確信がなければ、宗教の大義は弱まり、その教えを広めて人々の心を捕らえる原動力も推進力もなくなってしまいます。神学について口論することはできても、行動によって得た個人の証は否定することはできません。私たちが恩恵を受けているこの福音の神権時代は、天父と御子が少年ジョセフ・スミスのもとを訪れるという輝かしい示現によって幕が開かれました。この少年は、自分が経験したことを近所の牧師に話しました。すると牧師は非常に軽蔑してこう言いました。「それはすべて悪魔から出たものであって、この時代に示現や啓示のようなものはなく、そのようなものはすべて使徒たちで終わっており、今後決してそのようなものはない。」(ジョセフ・スミスー歴史1:21)
他の人々も口をそろえてジョセフを攻撃しました。彼は激しい迫害を一身に受けました。しかし、次のように記しています。
「わたしは実際に光を見た。その光の中に二人の御方を見た。そして、その方々が実際にわたしに語りかけられたのである。たとえ示現を見たと言ったことで憎まれ、迫害されたとしても、それは真実であった。そして、そのように言ったことで、人々がわたしを迫害し、わたしをののしり、わたしに対して不当にあらゆる悪口を浴びせているとき、わたしはこのように心の中で言うようになった。「真実を告げたことで、なぜわたしを迫害するのか。わたしは実際に示現を見た。どうしてわたしは神に逆らえようか。なぜ世の人々はわたしが実際に見たものを否定させようとするのか。」わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを、わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず、またそうする勇気もなかった。」(ジョセフ・スミス―歴史 1:25)
この言葉には、みじんの疑いもありません。ジョセフ・スミスにとってこの経験は、真昼の太陽が暖かいのと同様に現実のものでした。彼の確信は決して薄れたり、揺らいだりはしませんでした。
