裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム- -9ページ目

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

あらゆる生命は環境と繋がっている。
誰も単独では生きていない。
それはカルマの現象化にも特徴をもたらしている。

現象化は社会全体の大きな性質や時代性にも関係がある。

私は過去に何度か大病し、死線を彷徨った。
先端医療のお陰で助かった。
もしその時、命を落としていたら、今の私の充実した生活や霊的進化はなかったわけだ。

では、私は医療の発達していない大昔に生まれていたら、進化のチャンスが得られなかったのだろうか?
当時の医療技術では助からなかったはずだから、その後の修行のチャンスも得られなかったはずだ。

だがカルマは、環境と無関係に現象化するわけではない。
昔は昔、今は今である。
もし不幸現象で苦しむカルマがあったとしても、「○○歳で死ぬ」というカルマが無かった場合、助かる可能性が高い。
どんな大病になっても…。

医療技術が発達していない大昔に生まれたとしても同じである。
その場合は、「当時の医療技術でも助かるレベルの大病」になったかもしれない。
または、病気以外の形で苦しみが現象化されるのかもしれない。


環境を構成する様々な要素がある。
カルマにも様々な条件がある。
カルマと環境。両者の条件が一致した時、初めて現象化する。

「因」はそのまま単独で「果」をもたらすのではない。
縁に触れて現象化するのだ。
だから個人のカルマの現象化も、環境に合った形になる。


先日、某チャネラーが発表している神示・メッセージを読んで、違和感を覚えた。
その人は現代医療を批判していた。特に「大昔には助からなかった病気」の場合、それで死ぬのが自然であるかのようなメッセージを発表していたのだ。

昔は生きるのも死ぬのも自然だった…と。
今は現代医療のせいで寿命が延びすぎてしまい、それは不自然だと。

しかも、「本来ならば存在することが無かった命が存在する事により、社会の未来を変えてしまい、軋みが生じる」とまで述べていた。

現代医療には色々な問題がある。
だが、昔の人々の死の在り方だけが自然だったという見解はおかしい。
短絡的すぎる。

医療はその時代その時代にあった。
縄文時代にも医療はあった。
技術を用いて、外側から働きかけて自然治癒力を刺激し、病気を癒すことが行なわれていた。

例のチャネラーさんは、いつの時代の医療技術と死に方が一番自然だったと考えているのか?
いつの時代にも「外から働きかける技術」が存在し、人々はそれで救われてきたのだ。
つまり未来を変えたことになる。

このチャネラーさんは、認知症にも特異な見解を出していた。神のお告げという形で…。

認知症になったご老人は、本来もう生きるべき命ではない…と。
魂はすでにあの世に行ってるのだから、不自然に生かし続けるべきではない…と。
人類の寿命が短かった時代は、認知症はなかった…と。

事実は全く異なる。
大昔も認知症に相当するような病気はあった。
少し調べれば分かることだ。

神様からのメッセージ?
貴方がチャネリングしている神様は、そんな簡単なことも知らなかったのか?

ただ当時は、医療が発達していなかったので、原因がよく分からなかっただけ…。
認知症という用語も新しいものだ。
犬や猫などの動物さえ認知症を発症するケースが報告されている。

霊能者やチャネラーが「神示」という権威付けをしても、現実の証拠を覆すことは出来ない。
それでも妄想に執着し、現実を否定したがる人は、陰謀論的な発想に走ってしまうケースが多い。


私も無理な延命治療には賛成しない。
現代医療の延命治療には問題が多いと思っている。
だが現代人の平均寿命の向上は、延命治療だけが原因ではない。

若い人も医療で助かっているのだ。
衛生環境や衛生技術の発達による乳児の死亡率の低下も、平均寿命の向上に大きな貢献を果たしている。

例のチャネラーさんは、以前、病気や寿命についていろいろ考えた事があったのかもしれない。
でも、自分の知能レベルを超えた洞察はできなかった…。
カルマと環境の関係について無智だった。

その中途半端なマインドから生まれた推論や想像のイメージ記憶が潜在意識にインプットされた。
当然、リンクするアストラル界に同質の世界観が作られる。

すると、その世界観に共鳴したアストラルの霊的存在がコンタクトしてきて、神示のようなメッセージを降ろすわけだ。
邪霊が多いけどね。
多くの霊能力者やチャネラーが、この原理でメッセージを受信している。


全てのチャネラーがダメダメと言いたいわけではない。
優秀なチャネラーや巫女もいるだろう。
だが、私の知る限り、99%のチャネラーは「どうしようもないレベル」である。
無意識的に承認欲求を満たそうとしている。

要するに「私は〇〇神様からメッセージを頂けるほど凄い人間なんだわ」と自己陶酔しているのである。
エゴを肥やしているのだ。特別意識というエゴを…。

お前みたいな穢れた奴に、畏れ多くも〇〇大神が本当に降臨するのか、胸に手を当ててよく考えろ。
恥ずかしい奴だ。
畏れを知らない奴は正真正銘のバカタレである。





 

 

「〇〇神社に呼ばれたので、行ってみた」
と語るチャネラーや霊能者も多いが、私が見る限り、やはり99%は罠である。
呼んでいたのは神ではなく、邪霊なんだよ!!

エゴを浄化していない能力者は、簡単に罠に堕ちる。実に呆気ないものだ。
こんな輩を騙すのは、赤子の手をひねるより簡単。
邪霊にとっては格好の餌である。

真のスピリチュアルは、エゴの罠を見破り、真の自分自身に鎮まることだ。
よく覚えておけ。
それが貴方の迷妄を祓うことにつながるのだから…。

臨済宗の開祖・臨済義玄
「仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺せ」


冒頭の話に戻るが、貴方が貴方自身の魂を生きたいと願うなら、環境の整備は必須である。
出来ることから始めればよい。
どうせカルマは必ず現象化する。けじめをつけろと迫られる。

そのとき、最悪の形で清算を迫られないようにするには、環境の浄化と整理が欠かせない。
縁の力である。
大難を中難に。中難を小難に…。

環境が乱れていると、本来は小難で済むはずだったカルマ解消が、大難の規模で襲い掛かってくる可能性がある。
これも「縁」の繋がりによるものだ。
世の中には運の良い人と悪い人がいる。それが「縁」なのだ。

私が助かったのも、環境を浄化していたからだろう。

祖母の信仰心にも助けられた。
私の自宅の庭では不動明王を祭っている。
私が生死の境を彷徨っていた頃、祖母は大好物のソーセージと鶏肉を一年間も断って、お不動さんに願掛けしてくれたのである。

「意識したところにエネルギーが流れる」という有名な法則がある。
換言すれば、「意識しなければエネルギーが流れない」ということだ。

ただし、エネルギーの種類にも拠る。
普段、内臓の働きを意識していなくても、生命エネルギーはいつも流れているし、無意識的なカルマの力も動いている。
だがカルマ解消のエネルギーは流れにくい。観照により、意識化する事が大切なのだ。

カルマそのものを否定する人もいる。
特に引き寄せの法則の界隈に多い。
宇宙存在バシャールもカルマの法則を否定していた。

それは彼らがカルマというものを、固定化された運命シナリオ的に捉えているからだ。

リグ・ヴェーダを原型としたカースト制度は、カルマを論拠としており、死ぬまで変えることが出来ない。
カーストが低い者でもその身分を通じて社会に奉仕する生き方をすれば、カルマが解消され、来世はカーストの上位階級になれるという。

これをカルマ・ヨーガと言う。
果報を求めず、己の本務を尽くす道である。
その意味ではカルマを変えることは可能だが、一生のうちに身分を変えることは出来ない。
これでは運命論に等しい。

仏陀釈尊はその様な固定化されたカルマ思想を厳しく批判した。
一生のうちにカルマは解消できる…と。
だが、この道も厳しい。生半可な覚悟ではカルマの全てを解消して輪廻を超えることは出来ない。

引き寄せの法則の連中は、それをもっと簡単なものにしたがる。
意識の力だけで全ての問題を解決でき、願いを叶えることが出来る…と。

だが、私が観察したところ、引き寄せの法則の指導者も、見事にカルマ通りに動いている。
変えることのできた現実は5%ぐらいで、残りの95%はカルマのシナリオ通りであった。

いかに強力な引き寄せメソッドを使っても、物事に失敗する時はある。
叶わない願望もある。
思わぬ軌道修正を強いられる時もある。

私がその人のカルマを透視すると、見事なまでにカルマに操られていた。
「願望が叶った」という現象さえも、カルマのシナリオ通りだったのだ。

ある意味、当然ではある。
彼らは意識の力を過信し、現実世界の物理法則を軽く見ている。
そんな腑抜けた根性では、解消できる筈のカルマさえ解消できなくなる。

本気で人生を変えたければ、意識だけではなく、身・口・意で全力を尽くせ。命懸けで。


「カルマは無いと思えば、カルマは無くなる」
というエセ指導者たちの甘い言葉に惑わされないでほしい。
それは目覚めとは真逆な「眠りに誘う言葉」である。

無意識の世界は広大無辺だ。
一度に全てを意識化することは不可能である。
だから、いくら「カルマは無い」という信念をインプットしても、無自覚なカルマには届かない。
厚い壁に遮られている。

私達はひとつひとつの行動において、生命エネルギーを注いでいる。
だからその行動記録・カルマは決して軽くはない。
生命の記録・叫びそのものなのだ。

そんな重いものを、「無い」とインプットするだけで、消せると思うのかね?
そんな安直でインスタントなものを期待するのは、生命の重さが分かってない証拠だ。誠意が無さすぎる。

カルマ解消とは、自分の生命の痕跡・歴史に向き合う道なのだ。
真剣な姿勢が求められる。
覚悟なき者に解放は訪れない。


瞑想が深まり、「今・ここ」に鎮まると、過去や未来が消え去ったような感覚を覚える。
それは当たり前なのだ。
私達が現実に体験できるのは今ここという時空間だけだが、それがより鮮明に浮かび上がり、クリアになる。

だが、その体験を支えているのは、現在のエネルギーだけではない。
仕事に関する知識や技術を学ばなければ、その仕事は出来ない。
日本語を学ばなかったら、日本語が理解できない。

必要な知識・経験を蓄積しなければ、体験できることが限られてしまう。

つまり、実際に生きるのは「今・ここ」だが、その生命体験を支えるベースは「過去の記憶」なのだ。
肉体レベルでは遺伝子・DNAに膨大な記憶が詰まっている。

「生きること」そのものと「生きることを支えているベース」を混同しないでほしい。
ノーマインド系やライトワーカー系の人は、このベースを見落としている人が多い。


現世では、現世で解消するべきカルマがある。
魂が今回の生を選んで生まれてくるとき、「本来の願望」「今生でクリアする課題」を決めている。

こうして人々は今世を生きているわけだ。
そして現在まだ魂の願望が十分に達成されていなくても、カルマ解消が順調に進んでいる場合は、新たな次元のカルマが現われる。

来世で解消する予定だったカルマである。

そういうものが現われるということは、修行が順調に進んでいる証拠である。
現世のカルマ解消がどんどん進んでいるので、来世に予定されていた課題も今生に現われるのだ。

その流れに入れば、カルマ解消のスピードが速まり、現世で全てのカルマを解消できる可能性も出てくる。
その人のカルマの総量にも依るが、現在の次元転移の流れでは、カルマ解消が楽にできる応援エネルギーが大きいので、決して不可能ではない。

そうなれば、後は本来の魂の願望を満了させるだけだ。
魂が体験したいことをどんどん体験する。
願望をどんどん叶えて、幸せをいっぱい重ねる。
そうすれば魂の成就、満了である。

そこまで至った人は、生死を超えた究極次元の悟り、覚醒に至れるかもしれない。

ただ…決して安易なものではない。
カルマ解消も願望達成も、そこに命懸けのエネルギーを注ぐことに意味がある。
全身でまっすぐに生きない限り、真のカルマ解消は出来ないし、願望も単なる「エゴの満足」というレベルで終わってしまう。

特に注意すべきは、「来世で解消する予定だったカルマが現われた時」である。
思わぬ落とし穴にはまってしまう可能性が高い。
私は何度もこの罠に嵌まった。
今後も油断できない。

では、どんな落とし穴なのか?
現世で解決すべきカルマは、現在の思考や感情の癖に現われている。
それがヒントである。

自己観察をしっかり行なうしかない。
真剣に続ければ必ずヒントが見つかる。

カルマの力はとても強いため、基本的な思考パターンはなかなか変わらない。
引き寄せの法則や成功哲学を学んで、意識がプラスになっても、思考展開の基本構造はなかなか変わらない。

「性格を変えることは出来ない」と言われるのも、そのためなのだ。
昔と比べて性格が明るくなり、前向きに考えることが出来るようになっても、思考の論理展開の基本パターンは変わらない。

だからカルマは怖いのだ。馬鹿することは出来ない。


自分の環境、両親との関係…、
そこにも大きなヒントがある。
親子関係のカルマは大きい。だから今回の生の最重要の課題なのだ。

ところが、来世に現われる予定だったカルマの場合は、それが必ずしも当てはまらない場合がある。
現在の親子関係をどんなに見つめても、そのカルマが見つからない事がある。
カルマそのものの種類が違う。
つまり、まったく別の時間軸のエネルギーに影響されるのだ。

ただし、今の話はあくまで可能性の話である。だから当てはまる可能性もある。

特に日本人の場合、国土のカルマ、民族のカルマ、家系のカルマ、個人の過去世のカルマが強く引き合う。
だから一度日本人として生まれてきた人は次の生でも日本人というケースが多いし、しかも同じ家系に生まれてくる確率が高い。

故に今世で親子関係の人たちが過去世でも親子だったというケースが多い。
その場合、親と子の立場がということもある。
または夫婦、兄弟、姉妹という事もある。これはかなり多いね。

前世で熱烈な恋愛関係・夫婦だった人が、その愛着のエネルギーが強すぎるが故に、カルマ的に引き合ってしまう。
その結果、現世では「同じ血」…親子になるケースがある。

こうして見ると、身内だけでもカルマが膨大である。
今世だけで解消するのは難しい。
故に来世の課題も同じ家系の血縁関係者とのカルマ解消になるかもしれない。

発達障害者とインディゴチルドレンを応援する某ブログで、トンデモ疑似科学を発見した。
そのブログではなんと

今ここ=真我=右脳
思考=自我=左脳


と主張していたのである。
おいおい…
右脳は真我だの、左脳はエゴだの、トンデモ科学の信者さえ真っ青になるほどインチキな意味付けである。

ノーマインド系スピでは、左脳に対する執拗なネガキャンを繰り返している。
対照的に右脳のことは褒め称え、過大評価するわけだ。

だが、最新の大脳生理学の研究によれば、「直感は左脳が源」ということが判明しつつある。
科学がどこまで直感のメカニズムを解明できたのか、いささか疑問は残るが、左脳が重要というのは事実らしい。

左脳には言語中枢もある。
日本人は昔から昆虫の鳴き声さえ細かく言語(擬音)に置き換え、詩情を感じていたのだ。
まさに感覚・感性の世界である。文学でもあり、芸術の原点といえる。

だがスピ界では相変わらず、左脳を馬鹿にし、右脳を過剰に称賛している。
そのような態度こそ二元的な分別知性を表わしているが、「私は非二元・ノンデュアリティの意識に在る」と本人は思い込んでいる。

「美しき緑の星」という映画では「切断プログラム」が話題になった。
理想にそぐわないものを安易に切り捨ててしまう思想である。
どこにも愛がない。
だがスピリチュアル界の住民はこれを絶賛したのだ。世も末である。


この地球で生きるためには、エゴも必要である。
本来の自分とエゴが調和すればよい。もちろん距離は保ちつつ…。
その為には「常に気付いていること」が重要。

今のスピリチュアルは、愛と調和を唱えているが、その素顔は冷徹で非情である。
理想とかけ離れたものを平気で切断しようとする。
断頭台のギロチンによる断首の如く…。


例のブログでは「今ここ」についても頓珍漢な解釈を連発していた。
「『いまここ』を生きていると、『未来』への視点も『未来』への思考もできなくなる。『いまここ』しかないからです」


現代人の生活には、水道・電気・ガスが欠かせない。
これらのインフラは全て、先のことを考え、綿密な計画を立てることで初めて可能になる。
未来への思考・計画性を失ってしまったら、インフラ整備さえ成り立たないのだ。

直感だけで何もかも上手くいくほど現実は甘くない。

日本は地震大国であるから、建物の耐震基準は世界トップレベルである。
そのお陰で命が助かった人が多いだろう。
つまり我々の生活や命は「未来を考える人たち」に支えられているのである。

今ここ教の信者たちも、彼らのお蔭で今まで生きてこれたのだ。
なのに感謝のカケラもなく、あまつさえ誹謗中傷している。


本来の「今ここ」は時間の事ではない。
だが、逆から言えば、過去や未来も含まれている。
全てがそこにある。

生命そのものが過去のデータによって構成されている。遺伝子・DNAなどだ。
それは未来に繋がっている。
未来のことを考えずに生きてる人はいない。(脳障害で時間感覚を失った人は除く)

未来に向けて頑張っている時、人はその目標に対して今ここの命を真剣に燃やしているのだ。
悟りごっこのレベルで遊んでいる者は、今ここの概念を単純な時間軸だけで解釈してしまい、「過去や未来は関係ない」などと誤解してしまう。


「今の私は、毎瞬毎瞬、起こることを楽しんでいます。先のことを考えていないからこそ、『今ここ』だけを楽しめるんです」

この人は前橋市の宝石店で働いていたらしいが、物品販売の業種では特に「先を読む」ことが必須である。
商品の仕入れの際に、どのぐらい売れるかを予測しなければ、在庫過剰・または在庫不足が頻発してしまう。

「現象界で生きるスキル」「悟りの境地」は別物なのだ。
スピ界にはそれをごちゃ混ぜにする人が多過ぎる。

今夜の夕食は何にしようかな…と考え、必要な食材を買いに行き、料理を作る。
こうした当たり前の行動ひとつとっても、「先のことを考える」というマインドが働いているのだ。

そんなことにも気付かないのは、初歩的な自己観察さえ欠落しているからだ。
そんな人が「私は覚醒しました」とカミングアウトするのは悪い冗談である。


先ほどの引用の繰り返しになるが、「いまここに在れば、未来への思考が出来なくなる」という主張は只の誇大妄想である。
原理的に不可能なのだ。この世で正常に生きる限り…。


「『今ここ』とか『ジャッジしない』とかも左脳で考えれば、ジャッジしないように努力?しなくちゃいけないかもしれませんが、『今ここ』は、『ジャッジしないんじゃなく、ジャッジがない…』って言った方がいいと思います。
要するに、
左脳=頭=思考=自我で考えているようなことは、『今ここ=右脳』には存在しないんです」

ジャッジする・しないは左脳だけの機能ではない。
右脳もジャッジしている。
身体もジャッジしている。
体内にウイルスが侵入すれば、体の免疫機能が「こいつは敵だ」とジャッジし、ウイルスを駆逐しようとする。

それは自然な本能であり、思考以前の働きである。
その機能が停止すれば人は死んでしまう。

例のブロガーは、左脳系のスピリチュアルを執拗に批判し、誹謗していた。
なんのことはない。
この人自身がジャッジしていたのである。

本気でノージャッジを説くつもりなら、今すぐ外科手術で左脳を切除するべきだね。
本当にそれで生きることが出来るかどうか、証明していただきたい。

このブロガーは、盛んに非二元意識を説いているが、その素顔は二元思考の塊である。
右脳と左脳を分け、片方を過大評価し、もう片方を排除しようとする。
分離思考が強いわけだ。


「私はインディゴをサポートするインディゴチルドレンなので、まさに宇宙チルドレンです。
自分的には、今はレインボーチルドレンに進化したと思っています」


この人のエネルギーを透視すると、屈折した劣等感のエネルギーがかなり大きい。
私のことを認めてほしい…という承認欲求である。
それが原因なのか、自己を過大評価する言動を繰り返している。

本人は「ありのままの自分を認めよう」と説いているが、実態は正反対であった。
最近の悟り系スピでは、この手の勘違いさんが急増している。

人間に与えられた能力に、無駄なものは一つもない。左脳も右脳も必要である。
自我マインドの能力も、「必要」だから授かったのだ。天地からの贈り物である。
左脳を批判する人は、天地に向けて唾を吐いている。


「先日、テレビを観ていて、『自分で選択しているように思っていることも、自分で選択しているわけじゃなく、最初から、そう選択するように決まっていた…」

「私も普段から『すべてがシナリオ通り』ということを伝えているので、脳科学的にも証明されている…っていうのを聴いて鳥肌が立っちゃいました」

それって単純にタイムラグのことです。


人が意識的に選択したと思っていることでも、無意識の領域では既に決定しており、その決定の0.5秒後には行動に移っているという…。
当然「起こることは全て決まっている」「全てはシナリオ通り」という幼稚な運命論を支持するものではない。

どちらかと言えば、グルジェフの人間機械論を支持する方向に脳科学が近付いただけの話。
だが脳内お花畑なスピラーは、またしても誇大妄想に陥るわけですな。

夢を見るのは良い。
吾輩も夢は大好きだ。
だが、片足は常に大地に着けておくことだ。それを忘れたら、戻ってこれなくなるぞ。


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