私達は人間として生まれ、人間としての体験を積み重ねている。
その中には嬉しいことも悲しいこともあるだろう。
どうせなら満足度の高い幸せな人生を送りたいものだ。
だがこの世は二元の世界である。
幸福の裏には不幸がある。
光の裏には闇がある。
全てが相対的なのである。
人を幸せにする条件が、そのまま不幸の条件にもなっている。
欲しいものが得られれば満足する。だがそれを失ってしまったとき、今までの満足はすぐ「苦」へと反転する。
嬉しいだけの人生など有り得ない。
楽しいだけの人生など有り得ない。
幸せなだけの人生など有り得ない。
諸行無常。
我々はこの現実を受け入れなければならないのだ。
幸福も不幸も全てを。
だが人はそれを拒否する。
都合の良い現実だけを受け入れ、都合の悪い現実は拒否する。
それは全く無意識のうちに発生する心理反応だ。
幸せを求めることが悪いわけではない。
普通の人間なら、嬉しい事や楽しいことが起こる人生を求めるだろう。
それは当然のことだし、何一つ悪くない。
では私は、何を言わんとしているのか?
悪いことが起こっても、それを受け入れることが大切…と言いたいだけである。
現実は現実だ。
どんなに嫌な出来事であっても、起こってしまったものは仕方ない。
その現実は否定できないし、受け入れるしかないのだ。
だが、人はそれでも都合悪いことから目を背けたがる。
この様な心理反応こそが問題を長引かせ、同じような問題を繰り返し引き寄せる元凶になっているのだ。
脳内お花畑スピリチュアルが、それを助長させる。
困ったものだ。
人を目覚めさせ、繰り返しのパターンを終わらせるはずのスピリチュアルが、逆にカルマを積ませてしまっている。
最悪なのは「好きな事だけをやってみよう」「嫌なことはする必要がない」と説く連中である。
好きなことをやること自体は問題ない。私も日々、好きなことをやっている。やりたいことをやっている。
問題は「好きな事だけ」という制限思考だ。
好きなことをやってみる。
好きなことだけをやってみる。
↑
前者は人を前向きにし、魂が望む体験を加速させてくれる。
後者は人を縛り付け、現実を受け入れられない原因を作ってしまう。
魂は決して好きな事だけを体験したいわけではない。
魂は成功だけを体験したいわけではない。
魂は幸福だけを体験したいわけではない。
魂はワクワクする事だけを体験したいわけではない。
幸福や成功を求めること自体は構わない。
だが、それが全てではない…という事だ。
失敗しなければ分からないことがある。人はその失敗を通じて成長することが出来る。
嫌なことや苦手なことを通じて色々な学びを得て、成長することもできる。
好きなことや得意なことだけを求めるならば、人はいつか堕落する。
魂はそんな人生を求めていない。
貴方が生きている世界に、なぜ他人が存在するのか?
貴方が貴方自身を理解するために、他人が存在するのである。
たとえ無人島で一人で生きている人も同じことだ。
結局、動物、植物、昆虫など、他の生き物を食べなければ生き続けることが出来ない。
つまりその人は「他との関わり」によって自己理解を深めることが出来るのだ。
貴方の人生には成功体験もあるが、失敗体験も多かったはずだ。
では、なぜ失敗したのか?
貴方が貴方自身を理解するために、失敗があったのである。
貴方は普段、健康かもしれないが、病気だった時もあるだろう。
では何故に健康だけではないのか?
なぜ病気もあるのか?
それは貴方が貴方自身を理解する為である。
たとえ生まれつきの難病だったり、身体障害者だったとしても同じことだ。
自分の意思で考えることが出来ない程の重症の場合はともかく、自分で考え、選択できる余地があるならば、やはり自己理解を深めるチャンスがある。
ホーキング博士は重度の身体障害者でありながら、理論物理学の分野で偉大なる業績を残したのである。
世の中には選択の余地もないほど酷い環境に生まれた人もいる。
重度の脳障害で思考力が働かない人もいるし、両親が酷い人でまともな選択ができない環境で生まれ育った人もいる。
その場合、過去世のことも含めて、長いタイムスパンで考えなければならないことになる。
しかし、私が読者に伝えたいのは、「貴方にとってはどうなのか?」という事である。
一部の例外の事例を挙げて「エンライトの言うことは間違ってる」と突っ込みたがる人もいるが、そんなことはどうでもいい。
私は純粋な真理のみを伝えているのではない。
むしろ、生きる上での心構え、在り方を重視してきた。
少なくとも貴方がエンライトブログを読んでいるという事は、自分の意思で選択できる余地があったことになる。
その事を十分に自覚し、自問自答していただきたい。
貴方の周りに他人がいるという事は、貴方自身を理解する為なのだ。
その様に心掛け、相手との関わりを通じて自分自身を観ることだ。
成功も失敗も、健康も病気も、幸福も不幸も、自己理解を深める為に存在していたのである。
そこに気付き、真に理解を深めることが魂の成就に必須なのである。
エンライト@太古の道先案内人
エンライト妹・上原美雨
河合さくら(奥山さくら)エンライトの愛弟子
スピリチュアルを5年10年と実践したのに、本質的な部分で何も変わらなかった…という人がいる。
そういう人が意外に多いのだ。
小さな変化なら体験している。
だが何かが足りない。今一つ満たされないものがある。
期待していたような大きな変化が何も起こらない。
はっきり言って、そういう人は、スピリチュアルなど諦めて、現実的な努力のみに絞った方が良いと思う。
何か奇跡のような展開が起こらない限り、これから10年20年も同じ状態を繰り返し、せっかくの人生を台無しにしてしまう可能性が高い。
だが強い未練を持ち、スピリチュアルを捨てられないまま、ずるずると引き摺ってしまう人もいる。
まさにその様な性格だからこそ、人生を変えることが出来なかったのである。
自分を変えるには覚悟が必要だ。
要らないものを思い切って手放すことが必要なのである。
変わることが出来ない人は、何をやっても変われない。
新しい自己変革メソッドが登場すると、期待してすぐ飛び付く。
でも結局、変われない。
そんなことを何回も繰り返している。
もろにカルマだね。
スピリチュアルの実践を通じてカルマを積み続けている。
本末転倒だ。
私はその様な人達を観察し続けてきて、ある共通点に気付いた。
というか、最初から分かっていた事であるが、念のために確認作業を慎重に行なっていたのである。
彼らの共通点。それは…
自分のケツを自分で拭く気がない
ということ。
彼らも知識としては知っていたに違いない。
自分を変えることが出来るのは自分だけだ、ということを…。
だがマインドだけだ。
本当の意味で理解していない。
「分かったつもり」の罠である。
本当は自分の中に落とし込んでいない。無意識に逃げている。
いつか素晴らしいチャンスに出会える。
いつか素晴らしい人と出会える。
そして彼らが奇跡のように私の問題を解決してくれる…という期待があるのだ。
否定しても意味はない。
反発しても意味はない。
何年スピリチュアルを実践しても、思うように変われなかった人は、100人中100人とも同じパターンであった。
断言しても良い。
だが、往生際の悪い人はそれでも認めない。反発してくる。
「だって世の中には実際に奇跡が起こっているじゃないですか。ヒーリング受けて難病が完治した人もいるんですよ!!」
救いようのない馬鹿と言うのは、まさにこういう人達のことを差す。
奇跡だって?
私もそれは体験している。
修験道に伝わる秘伝の加持祈禱を施した結果、末期がんの人が奇跡のように快癒したこともある。
だが、全ての人に同じような奇跡が起こるわけではない。
条件が揃わなければ、軽い病気すらなかなか治らない。
逆にその病気が悪化し、長く苦しむケースもある。
大切なことは「貴方はどうなのか?」ということだ。
貴方に奇跡は起こったのかと。
起こらなかったのであれば、必ずその原因はある。
せめてそういう事にも目を向けるべきだろう。
世の中には確かに奇跡のような現象も報告されている。
そういった情報を手に入れ、頭にインプットし、「エンライトの言うことは間違っている」などと反発するとは、呆れ果ててしまう。
大切なのは他人の事ではない。
外部の知識や情報ではない。
お前はどうなのか?ということなんだよ。
私の加持祈祷やヒーリングを受けて、難病が短期間で治癒したケースがあった。
その場合、99%の条件が既に揃っていたのだ。
そして私の祈禱修法がきっかけで、最後の1ピースが埋まった。
だから応験があったのである。
信心深い人に奇跡が起こる場合がある。
だがその信者はそれ以上に現実的な努力をしていた。神に誠を捧げることも忘れない。
だから神に愛され、奇跡が起こったのだろう。
「努力をしているのに、ぜんぜん報われない」という人もいる。
そういうケースにおける原因と解決法も、エンライトブログで何度も述べてきた。
あとは貴方次第である。
私はかつて、師匠の平山裕子に叱られたことがある。
「私は『前に進みなさい』と言いました。でも貴方は後ろ向きに進んでいます。どうしてだと思いますか?」
師匠に言われた通り、前に進んでいるつもりだった。
真面目に努力していた。
だが「前に進んでいるつもり」だったのだ。その罠に気付いていなかった。
マインドは前に進んでいるように錯覚している。思い込んでいる。
だが無意識層では、成長するのを嫌がっていた。
つまりメンタル体の次元では、後ろ向きに歩いていたのだ。師匠の指摘通りであった。
結局、私も嘘吐きだった…。
自分で自分に嘘をついている。
そして多くの人も同じような状態である。
スピリチュアルを実践して、何も変われなかった人も、そこに問題がある。
はっきり言っておきたい。
何もせずに変われるような「奇跡のパワー」など存在しない。
だから心底、あきらめることだ。
幻想を徹底的に打ち砕かなければならない。
仮に奇跡のパワーが存在するとしても、絶対に求めてはならない。
魂を殺すことになるからだ。
インドのヨーガ聖者のパラマンサ・ヨーガナンダはその禁を破った。
クリヤー・ヨーガを悪用したのだ。
その酬いで、彼は死後「最悪の世界」に堕ちてしまった。
パラマンサ・ヨーガナンダ
魔界に堕ちた聖者(悪魔)
ヒーリングやセラピーを学ぶ人も、奇跡を求め期待するという幻想を断ち切らなければならない。
そのための自己観察である。
覚悟を決め、自立しない限り、真の安心は訪れない。
一時的に「良い事」が起こっても、麻薬のようなものだ。
掛け違えたボタンは自動的には直らない。
掛け違えたまま、良い事ばかり求めれば、あとで後悔することになるだろう。
貴方が見ていないところで、神々はずっと貴方を助けてきたのかもしれない。
だが苦しみに囚われているうちは、そのことが分からない。
苦しみしか目に入らず、神の恩恵に気付くことがない。
だから現状に恨みを持ち、他人や環境に責任転嫁する。
そんな人には何を言い聞かせても、理解が訪れない。
その人に何とか気付いてほしいと一所懸命アドバイスしても、何も分かってもらえないどころか、反発されてしまう。
手助けする者を非難する。
それがカルマに堕ちた者の常である。
この世では、愛ある者ほど深く傷ついてしまう。
真に愛ある者が悪人呼ばわりされてしまう世の中なのだ。
恨まれ、傷付けられてしまう。
逆に、愛なき者はキレイな言葉を吐き、「良い事」をしようとする。
だから世間的にも高く評価され、感謝される。
なにもかも正反対…。
愛情ごっこの嘘に気付かない限り、真の変容は訪れない。
だから覚悟を決められない人は、無理する必要はない。スピリチュアルなんか捨ててしまえ。
その昔、美味しんぼという漫画に緑健農法(永田農法)のトマトが登場した。
雨を避けるためにビニール栽培である。
化学肥料を使うので有機栽培ではない。
与える肥料と水分は必要最小限。
故に枯れやすく、大量生産できない。
しかし上手く育てれば、その植物の持つ生命力が最大限に発揮されるという。
水分や栄養素が少ないため、植物が必死に吸収しようと頑張る。
毛根を深く張るようになるわけだ。
こうして育ったトマトは別物のような味だという。
私も何度か食べたことがある。
すごく甘みがあるし、旨味も濃厚だった。
美味しんぼのヒロイン・栗田ゆう子が「嘘でしょ。これトマトじゃないわよ!!」と驚き、
唐山陶人も「何だこのトマトは!!」と驚き、
海原雄山も「こ、これは…」と驚いた。
緑健農法はスパルタ農法とか断食農法とも呼ばれている。
あえて飢餓状態に追い込むことにより、生命体が元々備えている「生きたい」という本能が呼び覚まされるのだろう。
人間にも当てはまることだ。
ヨーガ指導者の故・沖正弘氏がインドのヨーガ道場で断食行に挑んだ時のこと。
復食期が始まり、最初はスプーン1杯の重湯だけだった。
だが、たったそれだけで体中に力がみなぎるのを体験した。
説明記事・サプリメントは本当に役立つのか?
農法・栽培方法は多種多様である。
緑健農法とは方向性が真逆な水耕栽培もある。
植物の根にストレスを与えないことを目的とする。
他にも合鴨農法、炭素循環農法、焼畑農法、EM農法、バイオダイナミック農法 etc…。
自然農法と呼ばれる栽培法もある。
多くの流派があり、一言で説明することは出来ない。
肥料を使わないため、有機栽培ではない。
どの農法にも長所があるが、短所もある。万能の方法はあり得ない。
品種改良が進んだ野菜や穀物からは、不自然なものを感じたことがあった。
やはり心身が拒絶しているのだろう。
品種改良には種類がある。
大雑把に分ければ、自然に近い交配をさせるものと、ケミカルな品種改良がある。
私は正直、ケミカルな品種改良された食品は選びたくない。
だが現代の食糧事情では、それらを完全に防ぐのは難しくなっている。
問題は品種改良のレベルに留まらない。
遺伝子組み換え食品の導入も着々と進んでいる。
この流れも、もはや止められないだろう。
ある飲料メーカーのビールを飲んだら、激しい頭痛がした。
私の友人も同じことを言う。
他のメーカーのビールはぜんぜん平気だったのだが…。
私は「ついに遺伝子組み換え食品が上陸した」と思った。知らず知らずのうちに…。
まあ、証拠はないけどね。
農薬や食品添加物もなるべく避けたいが、安全性が確認された物しか許可されない。
厚生労働省は自信たっぷりに安全性をアピールする。
だが、認可の基準値は、世界各国それぞれ異なる。バラバラなのだ。
何故ここまで違いが出るのか?
やはり安全とは言い切れないだろう。
一度は認可された食品添加物や農薬が、後年その認可を取り消したケースもある。
危険な毒性が後から判明したためだ。
経済的な事情もある。
富裕層じゃない限り、無農薬や無添加の食品を買い続けるのは難しい。
無農薬・有機栽培の作物は生産効率が悪いため、どうしても値段が高くなる。
無添加の食品も同じである。
保存料や酸化防止剤が使われていない食品は、(缶詰を除いては)長持ちしない物が多い。
市販のハムやソーセージには結着剤や発色剤が使われているものが殆どだ。
高品質の豚肉ならば結着剤が無くても肉の粒同士がくっ付く。食塩だけで…。
だが、低価格の品には低品質の豚肉が使われている。
商品として売るには見た目も大事になるが、発色剤を使わないソーセージは色が白っぽくなりやすい。
だが発色剤の亜硝酸ナトリウムは、保存料のソルビン酸と反応し、ニトロン化合物という発がん性物質を作り出してしまう。
厚生労働省の発表では「発がんリスクがあるという知見は無い」という。
野菜には健康維持の効果があるが、実は硝酸塩の摂取量が最も多いのも野菜だという。
だから厚生労働省は「心配はない」と説明するわけだが、そもそも添加物の研究自体が十分とは言えない。
農薬にはいろいろな種類がある。
重曹もその一つで、お菓子の膨らまし粉としても使われている。
重曹で野菜を洗う方法もある。残留農薬や細菌が減少するという。
お酢と重曹を混ぜ合わせ、ぬるま湯で薄めた溶液で洗うと相乗効果がある。
葉物野菜ならば塩・ターメリック・お酢を同じ分量で合わせ、ぬるま湯で希釈すると効果的。
洗浄液を使う方法もあるが、市販のカット野菜は栄養価が低いとされている。
栄養はともかく、味の薄いカット野菜が多いね。
普通の水に浸すだけでも野菜エキスが流れ出てしまう。
たとえば細かく刻んだキャベツや長ネギなどは、水にさらすだけでビタミンが流れ出る。
しかし、歯触りがパリッとするため、調理法の一つとして無視できない。
無農薬の野菜にも問題はあるという。
合成農薬を使わない場合、植物自身の免疫力で天然の農薬性物質を作り出す。
その毒性の強さを警告する人もいる。
だが、無農薬栽培の技術はどんどん向上しており、虫食いの少ない無農薬野菜を栽培できる農家も増えてきた。
ハーブ、牛乳、トウガラシ液、木酢液、竹酢液などの天然素材で作った農薬もある。
食生活ジャーナリストだった岸朝子さんは、今の日本人の食事情について問われたとき、
「悲しくなります」
と答えていた。心からの言葉・叫びだと思う。
確かに酷い状況だ。
経済優先で、安全性や美味しさが蔑ろにされている。
個人的な感想だが、スーパーで売ってるトマトは味が薄くて、正直食べたくない。
まあ、トマトも品種改良が進み、甘味の強い品種が出回るようになったが…、
畑で完熟させたわけじゃないんで、味はやはり薄いね。
消費者にも問題があると思う。
いくら多忙とはいえ、加工食品や外食に頼り過ぎる人が多い…。
真の豊かさが失われている。
その一方で、真に安全で美味しいものを求める人も増えている。
一部の生産者はその為に頑張っている。
消費者だって本当に美味しい料理を作りたいと、いろいろ学び、研鑽する人が増えてきたように思う。
だから希望はまだ残っていると思う。
未来を感じさせる素晴らしい技術も現れている。
生きてる限り、希望を捨てることなく、探究し続けたいと思う。