スピリチュアル実践者の多くが「愛と平和」を訴えている。
調和と統合を重視している。
だから分裂・分断・分離というものを嫌い、批判している。
だが敢えて指摘しておこう。
調和や統合を訴えるスピ実践者こそ人一倍「分断・分離マインド」が強いということだ。
彼らは「思考」を過小評価し、蔑んでいる。
逆に直感・感覚・感性を高く評価している。
彼らは思考と直感を切り離し、片方を罵っているのだ。典型的な分離・分断マインドである。
右脳・左脳論も同じこと。
彼らは右脳の働きを過大評価し、左脳の働きを過小評価している。
これもまた分離・分断マインドの為せる業。
彼らは何故にそこまで排他的なのだろう?
一般社会なら何の問題にもならないようなことまで神経質にバッシングしている。
スピに興味のない一般大衆の方がよっぽど寛容である。
要するに、スピの実践者の多くは、ジャッジ精神の塊なのだ。
それにも関わらず「ジャッジを手放しましょう」などと説いている。
一体どの口が言う?
スピリチュアル界で「ジャッジ」という言葉が使われる時は、大抵、ネガティブな意味合いである。
「思考」に対してもネガティブなレッテルを貼ることに御執心だ。
「左脳」に対しても汚名を着せている。
人間という生き物が有する能力や機能に無駄なものは一つもない。
左脳だって「必要だから」与えられたのである。
思考だって「必要だから」与えられたのである。
だが彼らは異様なまでの執念で思考を止めようとする。エゴを切り捨てようとする。
いったい何がここまで彼らを駆り立てているのだろうか?
不気味である。
まるで左脳憎し、思考憎し…という感じだ。
80年代の自己啓発やスピリチュアル界で空前の右脳ブームが起こった。
彼らは言う。
「右脳は直感や感性などの重要な機能を持っている。なのに左脳はそれを邪魔してしまう」
だから邪魔者も左脳の働きを鎮め、右脳を活性化させよう…と。
その後、脳に関する科学的研究はますます進んだ。
その結果、単純すぎる右脳論は、今では似非科学・トンデモ科学のジャンルに入っている。
90年代の前半に右脳ブームは終わりを告げたが、何故か最近スピリチュアル界で再び右脳が注目されている。
しかし、トンデモぶりもエスカレートしているというオマケ付きだ。笑
某女史は「右脳は神のメッセージを受信します」と説いていた。
日本語を母語とする人の霊的感性は、左脳がベースである。
芸術面の感性も、自然界の美しさを感じる感性も、すべて「左脳」によるものだ。
そう。スピリチュアル界でいつも見下されている左脳は、実は感性や直観の源なのだ。
逆に右脳は、自然界のシグナルを、ただの「雑音」として処理してしまう。
(特に日本語以外の文化圏で育った人に顕著)
無智なスピリチュアリストによる無智なネガキャンのせいで、左脳クンは嫌われ者になってしまった。
左脳を停止しろ、という暴論もよく見かける。
しかし最新の脳科学によれば、左脳こそ直感の源泉という事が判明しつつある。
説明記事「直感は左脳から生まれる」
左脳は論理性だけではなく、言語も司っているという。
日本人は昔から虫の鳴き声さえ細かく擬音化していた。
言語中枢の働きである。
日本人は虫の鳴き声からも「詩情」を感じるのだ。芸術的感性そのものである。
文学というジャンルは芸術的な感性に溢れている。
直感に満ちている。
「文学」である以上、全ては「言語」で表現されている。
つまり左脳の言語機能を粗末にする人は、直感や感性の世界も切り捨てることになる。
左脳を批判すればするほど、右脳の感性まで批判することになるわけだ。
こんな簡単な自己矛盾にも気付かないとは…。
右脳&直感主義者たちは小学生レベルの事さえ理解していない。
「思考は真実を見抜けない。右脳こそが真実を悟っている」と言うくせに、とっくの昔にネタバレしている右脳・左脳論に騙されるとは…。
つまり彼らが自慢する直感力は、真実を見抜けなかったことになる。
今に始まったことではない。スピリチュアル界はいつもそうだ。
宇宙元年・宇宙元旦という与太話にも騙された。直感主義者たちが揃いも揃って騙された。
話を先送りにする逃避型アセンション説に騙されたのも彼らである。
80年代・90年代には100匹目の猿の与太話に騙される人が続出した。
辛島の猿たちがサツマイモを海水で洗って食べるのは事実だが、
「100匹目の猿がイモ洗いに参加した途端、辛島の全ての猿が同じことを始めた」
というのは完全に作り話である。
最近は量子スピリチュアルも大盛況。
しかし、量子力学はスピリチュアルを一切認めていない。
なのに「量子力学はスピリチュアルの真実性を証明した」と信じ込むスピリチュアリストが続出。
※エンライト代理人より。
ここ数年では「風の時代」「ライオンズゲート」というスピ詐欺に騙される人が続出しました。
本当に学習能力がない人達です
たぶん騙されている事にも気付いてない。未だに真実だと思い込んでいる。
関連記事
宇宙元年とかいう妄想(笑)
ライオンズゲート詐欺の酷い手口
風の時代という病的な妄想
似非アセンションの罠
量子スピリチュアルに騙されるな
(エンライトの原稿に戻ります)
真実を見抜けるはずの直観主義者たちが揃いも揃って、偽情報に騙されている。
これなら一般大衆の方がずっとマトモだ。
思考の力・論理性を大切にする一般大衆の方がよっぽど真実を知っているし、理解している。
「思考は過去の記憶に基づいているから限界がある。真実を見抜くことが出来ます。直感こそ「今ここ」のエネルギーだから真実を知ることが出来る」
↑
こういう病的なメッセージを放つ輩も多い。
本当は直感だって過去の記憶に基づいているんだけどね。
潜在意識の膨大な記憶データの中からピックアップされたものを受信しているのだ。
だが私が以前、Mixiのコミュニティで、その事を説いたところ、数名のスピラーから猛攻撃を受けた。
「直感にも次元の差はあります。潜在意識レベルの直感なら確かに過去の記憶に基づいています。
でも宇宙や魂レベルの直感は、今ここの情報なのです」
↑
どんなに高次元の世界でも、「存在」である以上、データに基づいている。
情報空間なのだ。
故に全てが過去のデータに基づいているのである。
だがそれはあくまで現象界の「過去・現在・未来」という時間軸に基づいた見解である。
本質的には時間はない。幻である。
「思考は過去のものに過ぎない」と説いている人だって「時間はない」と主張している。
ならば何の問題もなかろう。
思考が過去のものだろうが関係ない。「全てが今」なのだ。
エンライト氏の実妹、美雨さんがgooブログで2019年08月21日にアップした記事を復元します。代理人。久保田綾香
2019年08月21日 20時23分36秒 | グルメ
美雨は肉野菜炒めをよく作るんですけど、なんでだか突然
「今までにないゴージャスな肉野菜炒めを作ろう!!」
という意味不明な野心が芽生えまして…。
でも料理の才能がない美雨は、何をしたらいいかケントーつかなかったのです。
まあ、何の策が無くてもとりあえず腰を上げてしまうのが美雨の長所であり短所でもあるのですが…、
颯爽とキッチンに立って、冷蔵庫からいろんなものを引っ張り出しました。
肉野菜炒めの定番具材の豚肉、玉ネギ、もやし、ピーマン、人参、ニンニク。etc
他に何を入れたらいいかな?
美雨は先日まで猫だったので、どう料理したらいいのか、わかんないです・・・猫は腎臓が弱いのでお塩を入れられないのですが、お塩なかったら美味しくないし・・
うーん。何がいいかニャ?
その瞬間致命的なアイデアが閃いてしまいました。
ブロッコリーです。
よーく考えたら、野菜炒めにぜんぜん合わないのに…。
しかもおバカな私はブロッコリーに湯通しもせず、そのまんまフライパンへ……どっさり。
頭のネジがその時点で外れていたのに気付いてなかった私は、
「あっ、うどんも入れたら美味しいかもー」
と余計すぎることを考えてしまったのでした。
それって焼きうどんでは?
料理の世界の常識として……焼うどんは、うどん様が主役で、お野菜さんは脇役。
なのに、この野菜の量はどう見ても多すぎ。
結果フライパンの上が「世にも奇妙な物語」になっておりました。。。
現実にハタと気付いた私。
もうフライパンからお皿に移し替える気力を失っていたのでした。
味の感想。
「お化け屋敷みたいな味・・・」
おしまい
「幸せになるためにはどうしたら良いのだろう?」
長い人生、貴方も一度や二度はこういう事を考えたことがあると思う。
まして今現在、苦しい状況に置かれている人にとっては、リアルタイムな自問自答かもしれない。
そういう人に対して、あまりキツイことは言いたくないのだが…、
思い切って言おう。
そういう事を考えること自体、幸せを感じていない証拠なのだ。
いくら考えても分かるはずのない事でもある。
具体的な問題に対しては、具体的な解決策を思い付くかもしれないが、「幸せ」という抽象度が高いものについては頭だけで分かることではない。
魂・エネルギー体・マインド・肉体の全てが納得しない限り、真の正解とは言えない。
存在の「全て」を通じて結論を出す。
当然、思考とは異なる洞察能力・感性も必要とされるわけだ。
悟り系スピリチュアルでは、
「幸せとは『なるもの』ではなく、ただ幸せで在る事だ」
「我々は最初から幸せであった」
と主張している。
決して間違ってはいないが、それを人様に説いてもあまり意味はない。
聞く側は混乱し、ますます考え込むようになる。
実際、「私達は誰もが幸せなのだ」と説教されたところで、いま現実的に苦痛の多い人生を送っている人にとっては、到底納得できるものではない。
頭で無理やり納得させようと努力しても、実感が伴わない。
だから多くの悟り系スピリチュアルは、無用の長物に等しくなってしまう。
それが現実だ。
我々はそういう世界で生きているのだ。
根源的には「幸せ」という概念自体、人間の作った観念に過ぎない。
その本質は幻影である。
釈迦が「一切は苦」と述べたように、どんな幸せにも必ず苦が潜んでいる。
どんな幸せも永遠には続かない。
幸せの条件はそのまま苦の条件である。
仮に幸せな状態が長く続いたとしても、その幸せの中から新しい苦しみや空しさが生じるかもしれない。
時の流れとともに、幸せに関する貴方の定義・価値観が変わることも考えられる。
となれば、貴方の現実が何も変わっていなくても、それは不幸な現実を意味するようになる。
たとえ幸せの定義を変えても結局は同じことになる。
新たに設定した幸福に向けて努力し、達成したとしても、またもや幸せの定義が変わってしまうかもしれない。
もはやその人は幸せを追い続けるだけの人生になってしまう。
これは釈迦の出家のエピソードにも通底している。
釈迦はあらゆる面で満たされていた。
釈迦族の王子として何一つ不自由のない生活を満喫していた。
ところがある日、周りの人たちの生老病死の実態を目撃し、急にすべてに空しさを覚えるようになった。
その瞬間、釈迦の満たされた生活環境は、巨大な廃墟のように思えるようになった。
もはや何の満足感もない。
しかし出家しない人達は、釈迦のような修行三昧の生き方をすることが出来ない。
悟りと覚醒という絶対不動の境地はあきらめ、現実レベルの幸せを探究することになる。
それが本質的に苦だとしても、殆どの人はそれを求めることしかできない。
しかし、何かを得ることが幸せにつながるとは限らない。
多くの願望を実現し、成功しても、幸せを感じることが出来ない人がいる。
いつも何かが足りない。満たされない。
その逆に、生活が豊かじゃなくても、いつも心が穏やかで、感謝している人もいる。
結局、引き寄せの法則で言うところの「願望実現」とは、幸せになれることを保証するものではない。
誤解して戴きたくないのだが…、願望を実現することは決して悪い事ではない。
願いがあるなら、叶える方向で努力するのが当たり前である。
だが、欲しいものが手に入らなければ幸せになれない…という勘違いからは脱却する必要がある。
結局のところ、現象界ではすべてが同じなのだ。
願望が叶っても幸せになれるとは限らないし、逆に願望が叶わなくてもその現実を受け入れ、心が落ち着いている人もいる。
現象界ではそれを繰り返すしかない。
幸せを求め、願望が叶ったら、今度は今度でもっと高いステージで新たな幸福を感じたり、悩んだり、空しくなったり…。
それを繰り返すだけ。
となれば、引き寄せの法則メソッドは決して特別なものではなく、一般大衆が日常的に経験していることと何も変わらなくなる。
故に幸せになることが本当に重要なことではなく、単に「現象界で言う幸せとは所詮その程度のものに過ぎない」という事実に気付き、受け入れるだけである。
だが人は得てして、それを嫌がるものだ。
心のどこかで否定している。
心に矛盾を抱えているのだ。
ある農家はもっと作物が豊作になることを願っていた。
だが、本当に豊作になれば、価格が下落してしまう。それもまた嫌だ。
こんな迷いを抱えている人は、人にもその気持ちを分かってほしいと願ったりする。
だから同じようなことで悩んでいる人と傷を舐め合う。
延々とスタートを切れない。
人生目標が定まっていないからだ。
同情を求め、傷を舐め合う関係を作る人は、永遠に問題を解決することが出来ない。
気の合う仲間がいる。
話が合う。
だがその関係性の中から新たなものを得て、前進する人は少ない。
結局、話が合う人というのは、自分と同じようなところで行き詰っている人なのだ。
そんな人といくら仲良くしても、一向に問題は解決しない。
また、そのような関係性では、少しでも意見の食い違いが出てきた時に、簡単に争い事に発展してしまう。
関係が決裂することもある。
貴方の周りにもそんな人がいないだろうか?
注意深く観察すれば、必ず見つかるはずである。
程度の差はあれ、大半の人がそんな状態に陥っているからだ。
たとえ関係は決裂しなくとも、傷のなめ合いはやってるし、それ故の言い争いも経験している。
貴方もおそらくその一人である。
現象界で幸せになろうと思ったら、その幸せが真に大切ではないことに心底気付くしかない。
自分自身に対しても同じである。
自分の素晴らしさに気付くのは良いことだが、同時に「自分なんて所詮こんなものだ。何者でもない」ことにも気付く必要がある。
それは自己嫌悪や自信喪失とは異なる。
事実だけを見つめ、認めることである。
諦観と言い換えても良い。
それが本当に出来るようになれば、人はようやく悟りの道を歩くことが出来るようになる。
それ故の自己観察である。
虚像に依存するのではなく、真実を見つめることだ。
セラピストのFさんは、セッション中に泣き出してしまった。
クライアントと同じような部分に問題を抱えていたからだ。
セラピストと言えども完全無欠ではない。普通の人と同じように心の傷・カルマをいっぱい抱えている。
故にセラピストとして何よりも求められることは、日々の自己観察を通じて、心の傷を発見し、癒すことである。
自分の傷をスキルに変換する事なのだ。
人はそうすることで初めて苦しみを真に分かち合うことが出来る。
傷を舐め合う事ではない。全く違う。
自分の問題を解決し、乗り越えてこそ、真に苦しみを分かち合うことが出来るのだ。
傷を癒せば、視点が変わる。
従来とは全く異なる次元の目を持つことが出来るようになる。
観照の目である。
最後にもう一度繰り返しておこう。
話が合う人・気の合う仲間こそが貴方の足を引っ張っている。
カルマの方向に誘惑してくることが多い。
故に「心地よい選択の連続が大切」という引き寄せの法則メソッドの教えは最悪最低と言える。
宇宙存在バシャールの「ワクワクする選択をしよう」という教えも大同小異である。
彼らは、ほぼ例外なくエナジー バンパイアである。
くれぐれも騙されないでいただきたい。