思考を止めるのは無駄な努力です | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

スピリチュアル界において「思考」「論理性」は常に過小評価されている。
逆に直感・感覚・感性は高く評価されている。

思考の力・マインドの論理性を重んじるスピもあるが、しょせん少数派である。
私・エンライトのブログも論理性を重視しているため、少数派に位置付けられる。メインストリームの舞台に立つことはない。


だが、思考のことをバカにしたがる直感主義者は、大事なことを見落としている。
私達が生きている間は必ず思考の力が働いている事を…。

誰もが思考の力を使って行動している。
マインドの知性と理性に大きく依存している。
直感を優先する人も同じである。

というか、直感を大切にすればするほど、連動して思考も動くことになる。
何故なら、降りてきた直感メッセージの意味を解釈する際に、必ず思考の力を使うことになるからだ。
直感の数が増えれば増えるほど、頭の思考も忙しく働くことになる。

それは人間の基本的なシステムによる。
我々が生きているという事は、肉体的には心臓が鼓動し、常に呼吸をしている状態である。
それがポイントなのだ。

心臓や呼吸の機能が働いているときは必ず思考の力も働いている。
故に本気で思考を止めたい人は、心臓と呼吸を止めるしかない。
つまり「死」を意味するのである。

思考を止めましょう…と説くスピ指導者は、「貴方は死んでください」と言ったに等しい。
もし相手が死んだら、自殺ほう助である。


ただし「死なずに思考を止める方法」もある。その事にも触れておこう。
ヨーガや仏教における深い瞑想状態・サマーディである。

特に無想三昧と呼ばれている瞑想ステージだ。このステージは完全に無思考である。
当然、心臓も呼吸も止まっている。
だが肉体は死なない。生きているのだ。

瞑想状態から覚め、日常意識に戻るプロセスでは、心臓の鼓動や呼吸が再び活発になる。

もし日常生活を送っている時に心臓や呼吸が止まってしまったら、極めて短時間のうちに重大な危機が訪れる。
脳に血液が循環しなくなるから、最悪の場合は死ぬことになる。
良くても植物状態になってしまう。


繰り返すが、心臓と呼吸が止まらない限り、思考は必ず働いている。
無思考になれるのは、サマーディという瞑想状態の時だけである。

なのに思考というものを敵視するスピ実践者たちは、普通に日常生活を送っている時でさえ
「思考が止まった。直感だけになった」
と宣っている。

つまり彼らは自己観察が全く出来ていないことになる。
思考が有ることに気付かないのだ。論外である。


最近、非二元とかノンデュアリティと呼ばれる分野が流行している。
彼らは思考に関して、どんな見解を持っているのだろう?

阿部敏郎さんと大和田菜穂さんの発言。
「思考と感情は真の自分ではない。そもそも“本当の自己”という思い込みも幻想に過ぎない。
思考どころか個の自分さえ存在しない。全体のみがある」



ノンデュアリティに限らず、多くのスピ指導者は
「思考というものは我々の本質に何の影響も与えない。無力である。本質のみが絶対不変である」
と説いている。

ならば思考のことを邪険に扱う必要はなかろう。
放置すれば良いではないか。本質に何の影響も与えないのであれば…。
でも彼らは思考に対するネガティブなレッテル貼りに終始している。
自己矛盾も甚だしい。


我々に必要なのは思考を止めることではなく、ただ気付いていることなのだ。
思考や感情の動きにただ気付いている。
自己観照である。

観照の目が届いていれば、思考に振り回されなくなる。
それどころか、思考の持つ素晴らしい創造性を存分に使いこなせるようになる。

思考を止めた人はこの世で何一つ創造することが出来なくなってしまう。
それは可能性の放棄であり、大いなる損失である。
普通に生きる事さえ出来なくなってしまう。


ヒーリングやセラピーの分野では、より積極的に思考や感情に向き合おうとする。
マイナス思考の中には不安や恐怖心がある。
その原因は過去の記憶やカルマである。

故に、心の傷・トラウマを癒すヒーリング・メソッドはとても貴重である。

だが反対意見もある。
心の中のマイナスに意識を向けると、そのマイナスが増幅され、固定化されてしまう…と。
癒さなければならない問題をわざわざ自分の手で創り上げている…と。

確かにそういうケースもある。
過去の嫌な記憶に向き合った結果、トラウマがより酷くなってしまうパターンだ。

だがその多くは、意識の向け方がズレていたに過ぎない。
「嫌な記憶は早く忘れ去りたい」
という動機の場合、ヒーリングやセラピーが逆効果になる可能性がある。

嫌なものは嫌でよい。それは正直な気持ちだ。
しかし、それでも自分自身への慈愛を捨てず、「観照の目」に基づいて心の傷を包み込むならば、それは癒される。解放される。


思考を止めて、直感のみに頼る方法は極端すぎる。害毒としか言いようがない。
だがその真逆の「思考など放置すればよい」という方針もまた極端である。
スピリチュアルの落とし穴でもある。極端に走るのは何かズレているのだ。


思考を放置する方法を説いている非二元メッセンジャーもいる。
少数ながらそういう人もいるのだ。
最近、スピリチュアルTVにゲスト出演した溝口あゆか(じゅんころ)さんもその一人である。

彼女の様々なメッセージに目を通すと、この人は思考の放置主義者のようだ。
しかし、やはり極端に走っているから、現実的には役立たない。

読者からの報告もそのことを裏付けている。
彼女のトークライブに参加したら、信じがたい話を聞いたという。
「ヒーリングなんか無意味です」などと罵っていたらしい。

つまり溝口あゆか(じゅんころ)さんは、巷のヒーラーやセラピストを完全否定したわけだ。
恐るべき排他性、分断思考である。

溝口さんだけではない。多くのスピ指導者も似たようなものだ。
彼らは口先では「調和と統合が大切です」と言う。
だが本当は、分離・分断マインドの塊なのだ。

一般社会では何の問題にもならない事にも目を付け、重箱の隅を突くような批判を繰り返している。
一体何が「愛と調和」だよ?
普通の人なら全く問題視しないような事にも、いちいちケチを付ける。それこそが分離マインドの証拠なのだ。


エンライト代理人より。
JUNCORO/じゅんころ様の2021年11月13日のブログもそれを裏付けています。
下に彼女の発言を引用します。

「自分が気づいてから手放そうとか癒そうとか浄化しようとか、どうこうしようとしても無駄なんです。わざわざそんなことをする必要がないようになっています」
「たとえどんなにあなたが不快だと感じるような感情も、
癒す必要などありません。
自分自身の本当のこと(真相)がハッキリすれば、そもそも救われきっているところで生きているということが、ただ判ります」


(以下、再びエンライトの原稿です)

多くの非二元メッセンジャーは判で押したように「私たちは完全に救われています」と述べている。
阿部敏郎さん、大和田菜穂さん、溝口あゆかさん、雲黒斎さん…etc

だからノンデュアリティは役に立たないのだ。
悟りごっこに過ぎない。
「救われきっている」という根源論は意味がないし、残酷すぎる。

心の問題を肉体レベルの病気に置き換えればよく分かる。病気になれば治療を受ける必要がある。

細菌やウイルスに感染して重症になった時は、きちんと治療を受ける必要がある。
がん患者も治療を受ける必要がある。命を救うための戦いなのだ。

もちろん治療を拒否する自由もある。
だが、苦しいものは苦しい…。
「救われきっている」という根源論は全く無意味だし、治療を放棄する理由にもならない。

心の問題にも同じことが言えるのだ。
マイナス思考やトラウマに苦しんでいるなら、そこに向き合い、理解し、癒すことが第一。

完全に救われてる?
今ここで激痛を感じてる人達にとっては、そんな根源論なんか関係ねーんだよ。
現実レベルの問題は、現実的対処を優先するのが当たり前。

いま苦しいのであれば、それがその人の事実であり、現実…。
その現実に向き合うことが大切である。
根源論は二の次なのだ。

じゅんころさんはヒーラーの存在価値を完全否定したが、ひとりひとりのクライアントに真剣に向き合うヒーラーさんのことを私は心から尊敬する。
逆に、口だけ達者で何の役にも立っていない連中のことは心から軽蔑する。