裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム- -10ページ目

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

代理人より
エンライトの愛弟子・河合さくらさんが2013年6月1日にご自身のブログで公開していた記事を復元します。
実に10年振りです。



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自分が積んだカルマは、自分の外側にはないと思います。
自分の行為で人を傷つけたときは、その傷は相手にも残りますが、「自分の業の責任」は自分のものですよね。

なので、誰のせいにもできない。
心の奥で受け入れていない人は、自分のカルマさえ責任転嫁のネタにします。
「わたしが不幸なのはカルマのせいだわ。過去のせいだわ」と思い始めます。
時間の枠を外したら、前世にも広げることが出来ます。

「○○のせいよ!!」という思考になっちゃう…。


カルマ論は自己責任論に結び付いているので、不幸の原因も自分自身に求めますよね。
そこまでは良いと思うんですけど、その求める心の姿勢が歪んでる人もいるわけですね。

真剣に自分に向き合っていたら、過去のカルマをまっすぐに観て、前向きに解消しようと決意するでしょう。
心の傷を包み込むでしょう。

自分を愛し、受け入れるから、まっすぐな癒しが出来るようになるわけです。
受け入れるのが無理だったとしても、癒しが深まっていけば慈愛の心が少しずつ湧いてきます。

「○○のせいだ」 という責任転嫁や恨みの感情じゃないのです。
問題の原因を見つける、という点は同じですが、心の姿勢(在り方)の次元は違います。別物です。

でも、スピリチュアルの指導者レベルの人さえ、カルマを自分の「外」に置きたがる人がいますよね。
なぜでしょう? 指導者が勘違いしてるのでしょうか?
それとも、「勘違いしている生徒や読者」に合わせたリードをしてるんでしょうか? 対機説法みたいに…。

でも、勘違いは勘違いなので、根本的な解決方法は「修正すること」ですよね。
どんなテクニックを使っても、心の姿勢を直していなかったら、また新しい問題に陥るかもしれないのです。

たとえばですが、今度は、「未来に逃げる」という問題です。
同じなんですよね。
未来か過去かの違いだけです。

逃げてる事実はぜんぜん変わってません。責任転嫁の体質も改善されていません。

じゃあ、「今・ここ」という指針を選んだら、どうなるでしょう?
その人は過去と未来を拒絶するようになるかもしれません。


「今・ここ」を生きるには、過去や未来を受け入れることも大事なはず。本来の意味なら…。
でも、自己逃避タイプの人は本質を誤解してしまいます。

責任転嫁タイプの人が、もしカルマの法則を認めていなかったら、どんな風になるでしょう?
他人に責任転嫁するかもしれません。


結局、自己逃避や責任転嫁タイプの人は、
過去のせいにし、
未来のせいにし、
今ここのせいにし、
他人のせいにし、
自分のせいにする。


同じです。
同じ場所をぐるぐる回ってるだけですよね。


では、指導者が同じレベルだった時は、どうなるでしょうか?
未来を重視し、過去の影響を気にしないように…とリードする指導者の下では、今まで過去のせいにしていた生徒が
「カルマの妄想から解放されました」という感想を抱くかもです。

過去ばかり重視し、未来の願望を批判する指導者の下では、今まで未来を夢想していた生徒が、
「未来に期待せず、自分の歴史に責任を取る生き方だけをします」と思うかもです。


大事なことって、自分がやりたいこと・体験したいことの中にあるんだと思います。
でも、生きていたら、色んな問題に出会います。直面します。
それを解決すればいいんですよね。

現実的な行動に問題があったら、現実的に修正したらいい。
問題行動の原因がカルマだった時は、それも解消します。


カルマ論を、前向きに生きるために役立てる人もいますが、変な風に捕らわれて自虐的になる人もいます。
ですが、過去をヒーリングする本来の目的は、自分を慈しむことです。

「過去へのヒーリングは、今までの経験や境遇を受け容れられない人にとって大きな苦しみとなります」
「未来と現在を結び付ければよいのです」


と語った人がいますが…、その教えを読者さんが真に受けると、
ヒーリングの道 = とても残酷
という観念(解釈)が刷り込まれてしまうかも…。

でも、ヒーリングの本質に目を向けてほしいです。
苦痛をあまり感じず、大きな気付きや慈愛を感じながら、過去を解放してゆく道があります。
苦痛に耐えられる強さを養うことが出来る道もあります。

わたしは、未来と今を結び付ける方法は素晴らしいと思っています。
でも、その方法だけが全てじゃないです。
色んな方法と併用したらいいんじゃないかな、と思います。

「自分に合った方法」を知るために、内側の感覚・直観を磨くことも大切ですよね。
自己実現の道は、トータルに観てゆく必要があると思うのです。


光速@かんながら(河合さくら)
なりすましにご注意ください。その大阪の犯罪ストーカーは写真まで何度も無断転載し、肖像権を侵害しています。

スピリチュアル界において「思考」「論理性」は常に過小評価されている。
逆に直感・感覚・感性は高く評価されている。

思考の力・マインドの論理性を重んじるスピもあるが、しょせん少数派である。
私・エンライトのブログも論理性を重視しているため、少数派に位置付けられる。メインストリームの舞台に立つことはない。


だが、思考のことをバカにしたがる直感主義者は、大事なことを見落としている。
私達が生きている間は必ず思考の力が働いている事を…。

誰もが思考の力を使って行動している。
マインドの知性と理性に大きく依存している。
直感を優先する人も同じである。

というか、直感を大切にすればするほど、連動して思考も動くことになる。
何故なら、降りてきた直感メッセージの意味を解釈する際に、必ず思考の力を使うことになるからだ。
直感の数が増えれば増えるほど、頭の思考も忙しく働くことになる。

それは人間の基本的なシステムによる。
我々が生きているという事は、肉体的には心臓が鼓動し、常に呼吸をしている状態である。
それがポイントなのだ。

心臓や呼吸の機能が働いているときは必ず思考の力も働いている。
故に本気で思考を止めたい人は、心臓と呼吸を止めるしかない。
つまり「死」を意味するのである。

思考を止めましょう…と説くスピ指導者は、「貴方は死んでください」と言ったに等しい。
もし相手が死んだら、自殺ほう助である。


ただし「死なずに思考を止める方法」もある。その事にも触れておこう。
ヨーガや仏教における深い瞑想状態・サマーディである。

特に無想三昧と呼ばれている瞑想ステージだ。このステージは完全に無思考である。
当然、心臓も呼吸も止まっている。
だが肉体は死なない。生きているのだ。

瞑想状態から覚め、日常意識に戻るプロセスでは、心臓の鼓動や呼吸が再び活発になる。

もし日常生活を送っている時に心臓や呼吸が止まってしまったら、極めて短時間のうちに重大な危機が訪れる。
脳に血液が循環しなくなるから、最悪の場合は死ぬことになる。
良くても植物状態になってしまう。


繰り返すが、心臓と呼吸が止まらない限り、思考は必ず働いている。
無思考になれるのは、サマーディという瞑想状態の時だけである。

なのに思考というものを敵視するスピ実践者たちは、普通に日常生活を送っている時でさえ
「思考が止まった。直感だけになった」
と宣っている。

つまり彼らは自己観察が全く出来ていないことになる。
思考が有ることに気付かないのだ。論外である。


最近、非二元とかノンデュアリティと呼ばれる分野が流行している。
彼らは思考に関して、どんな見解を持っているのだろう?

阿部敏郎さんと大和田菜穂さんの発言。
「思考と感情は真の自分ではない。そもそも“本当の自己”という思い込みも幻想に過ぎない。
思考どころか個の自分さえ存在しない。全体のみがある」



ノンデュアリティに限らず、多くのスピ指導者は
「思考というものは我々の本質に何の影響も与えない。無力である。本質のみが絶対不変である」
と説いている。

ならば思考のことを邪険に扱う必要はなかろう。
放置すれば良いではないか。本質に何の影響も与えないのであれば…。
でも彼らは思考に対するネガティブなレッテル貼りに終始している。
自己矛盾も甚だしい。


我々に必要なのは思考を止めることではなく、ただ気付いていることなのだ。
思考や感情の動きにただ気付いている。
自己観照である。

観照の目が届いていれば、思考に振り回されなくなる。
それどころか、思考の持つ素晴らしい創造性を存分に使いこなせるようになる。

思考を止めた人はこの世で何一つ創造することが出来なくなってしまう。
それは可能性の放棄であり、大いなる損失である。
普通に生きる事さえ出来なくなってしまう。


ヒーリングやセラピーの分野では、より積極的に思考や感情に向き合おうとする。
マイナス思考の中には不安や恐怖心がある。
その原因は過去の記憶やカルマである。

故に、心の傷・トラウマを癒すヒーリング・メソッドはとても貴重である。

だが反対意見もある。
心の中のマイナスに意識を向けると、そのマイナスが増幅され、固定化されてしまう…と。
癒さなければならない問題をわざわざ自分の手で創り上げている…と。

確かにそういうケースもある。
過去の嫌な記憶に向き合った結果、トラウマがより酷くなってしまうパターンだ。

だがその多くは、意識の向け方がズレていたに過ぎない。
「嫌な記憶は早く忘れ去りたい」
という動機の場合、ヒーリングやセラピーが逆効果になる可能性がある。

嫌なものは嫌でよい。それは正直な気持ちだ。
しかし、それでも自分自身への慈愛を捨てず、「観照の目」に基づいて心の傷を包み込むならば、それは癒される。解放される。


思考を止めて、直感のみに頼る方法は極端すぎる。害毒としか言いようがない。
だがその真逆の「思考など放置すればよい」という方針もまた極端である。
スピリチュアルの落とし穴でもある。極端に走るのは何かズレているのだ。


思考を放置する方法を説いている非二元メッセンジャーもいる。
少数ながらそういう人もいるのだ。
最近、スピリチュアルTVにゲスト出演した溝口あゆか(じゅんころ)さんもその一人である。

彼女の様々なメッセージに目を通すと、この人は思考の放置主義者のようだ。
しかし、やはり極端に走っているから、現実的には役立たない。

読者からの報告もそのことを裏付けている。
彼女のトークライブに参加したら、信じがたい話を聞いたという。
「ヒーリングなんか無意味です」などと罵っていたらしい。

つまり溝口あゆか(じゅんころ)さんは、巷のヒーラーやセラピストを完全否定したわけだ。
恐るべき排他性、分断思考である。

溝口さんだけではない。多くのスピ指導者も似たようなものだ。
彼らは口先では「調和と統合が大切です」と言う。
だが本当は、分離・分断マインドの塊なのだ。

一般社会では何の問題にもならない事にも目を付け、重箱の隅を突くような批判を繰り返している。
一体何が「愛と調和」だよ?
普通の人なら全く問題視しないような事にも、いちいちケチを付ける。それこそが分離マインドの証拠なのだ。


エンライト代理人より。
JUNCORO/じゅんころ様の2021年11月13日のブログもそれを裏付けています。
下に彼女の発言を引用します。

「自分が気づいてから手放そうとか癒そうとか浄化しようとか、どうこうしようとしても無駄なんです。わざわざそんなことをする必要がないようになっています」
「たとえどんなにあなたが不快だと感じるような感情も、
癒す必要などありません。
自分自身の本当のこと(真相)がハッキリすれば、そもそも救われきっているところで生きているということが、ただ判ります」


(以下、再びエンライトの原稿です)

多くの非二元メッセンジャーは判で押したように「私たちは完全に救われています」と述べている。
阿部敏郎さん、大和田菜穂さん、溝口あゆかさん、雲黒斎さん…etc

だからノンデュアリティは役に立たないのだ。
悟りごっこに過ぎない。
「救われきっている」という根源論は意味がないし、残酷すぎる。

心の問題を肉体レベルの病気に置き換えればよく分かる。病気になれば治療を受ける必要がある。

細菌やウイルスに感染して重症になった時は、きちんと治療を受ける必要がある。
がん患者も治療を受ける必要がある。命を救うための戦いなのだ。

もちろん治療を拒否する自由もある。
だが、苦しいものは苦しい…。
「救われきっている」という根源論は全く無意味だし、治療を放棄する理由にもならない。

心の問題にも同じことが言えるのだ。
マイナス思考やトラウマに苦しんでいるなら、そこに向き合い、理解し、癒すことが第一。

完全に救われてる?
今ここで激痛を感じてる人達にとっては、そんな根源論なんか関係ねーんだよ。
現実レベルの問題は、現実的対処を優先するのが当たり前。

いま苦しいのであれば、それがその人の事実であり、現実…。
その現実に向き合うことが大切である。
根源論は二の次なのだ。

じゅんころさんはヒーラーの存在価値を完全否定したが、ひとりひとりのクライアントに真剣に向き合うヒーラーさんのことを私は心から尊敬する。
逆に、口だけ達者で何の役にも立っていない連中のことは心から軽蔑する。

「私達がこの世に生まれてきたことには、どの様な意味があるのですか?
私は何のために生まれてきたのですか?」


こういうブログをやっていると、時々よく似た質問(相談)を寄せられる。
私はそんな時、相手の覚悟を観ることにしている。
大抵の場合、覚悟が決まっていない。
心のどこかで逃げているのが分かる。

それは質問の内容にも現れている。
「この世に生まれてきたことに、どの様な意味があるのですか?」

意味がある事を前提とした質問である。
だがそれが分からないから具体的に教えてほしい…という要望なのだ。

しかし本当は、意味自体があるかどうかも判明していない。
少なくとも質問者は分かっていなかった。

ならば質問としては、「私達が生まれてきたのには意味があるのですか? それとも意味がないのですか?」となるはずである。
この違いが分かるだろうか?

「意味があるのですか?」
「どんな意味があるのですか?」

両者は似ているようで全く違う。出発点が完全に異なる。

後者は最初っから意味がある事を前提とした質問であろう。

正直こういう人の質問は受けたくない。
都合の悪い事実から逃げようとしているからだ。
「冷酷な真実さえ受け止めます」という覚悟がない。


質問者も内心では気付いていたのかもしれない。
だから無意識のうちに予防線を張った。
意味の有無ではなく、どんな意味なのかを質問したわけだ。

本気で真実を求める気があるなら、極限の真実からも逃げてはならない。
中途半端な求道心しかない人は、真実を求める心を捨てて、現世で楽しく生きた方が良い。


真実は真実として純粋に存在する。
人の幸せのために真実が存在するのではない。

甘い考えは持たない方が良い。

宇宙の法則は人間の都合に関係なく、冷徹に遂行される。
大規模な自然災害のように、悲惨な事件が起きる時もある。
人々は虫けらのように死んでゆく。


この世に意味などあろうはずがない。
当然、我々にも意味はない。

生まれてきたことに意味はなく、生きていることに意味はなく、死ぬことにも意味はない。

残酷だがそれが真実だ。

ただし、魂レベルに焦点を合わせるならば、「魂が体験したいことを体験するために生まれてきた」と言える。
これは魂による意味付けである。
エンライトブログで「魂の願望が大切」と訴え続けてきた所以だ。

しかし、魂すら超えた根源的真理に目を向けるならば話が変わってしまう。
「何の意味もない」と言わざるを得なくなる。


それでも敢えて意味付けするなら…、
全ての人間は「実験動物」「家畜」「奴隷」ということが出来る。
いや、神々も、動物も、植物も…、全ての生命体は家畜に過ぎないのだ。
そこにポジティブな意味など全くない。


宇宙は我々の幸せなど願っていない。
ただの餌である。
搾取され続けているのだ。

我々がこの世に存在する意味は、それしかない。
一体どこに救いがあるというのか?


冒頭の質問内容は、かつて私自身が抱いたものと同じだった。
真実を知りたくて煩悶していた頃…。
生きることが苦しくて苦しくて仕方なかった。

やがて覚醒体験らしきものが私に訪れた。
全てが分かった。

私は知っていたのだ。
目を背けていただけ…。
「真実を知りたい」と望んだくせに、本当は逃げていたのである。


その真実は、私を絶望をもたらした。
自我が暴れ、必死に抵抗したが、全ての努力が無駄に終わった。
…だが心の奥底は驚くほど静かだった。
抵抗していたのは自我だけだった。


いま思えば、青春時代に抱きがちな青臭い疑問だったのかもしれない。
だが、こうしたことに悩み、考え抜くのは、自分の生命に向き合う事にもつながる。


生命の永遠性について考えたこともあった。
死んで無になるのは嫌だと。
どんなに素晴らしい体験をして、思い出を作っても、全てが無に帰してしまう…。
恐怖そのものだった。

多くの人が一度はこの問題を考えたことがあると思う。

幾つかの宗教では「霊魂は永遠である」と説く。
だが言葉だけでは恐怖は消えない。
実感がないからだ。


死んで無になるのは嫌だったが、意識が永遠に続くのも嫌だった。
いつまで経っても命が終わらない…。
意識が永遠に続くのは途方もない恐怖。
想像するだけで気が狂いそうだった。

しかし、やはり死んで無になるのも怖かった。

無になるのも恐怖。
有であり続けるのも恐怖。
どちらも恐怖。
どうにもならなかった。


だが瞑想修行の旅の過程で、この無限ループは終わった。
本当に呆気なく終わった。

時間なんて無かった。
永遠とはそういう意味だったのだ。
「永遠の今」という事である。

私はずっと過去・現在・未来という時間軸で考えていた。
いや、考える以前に、そういう感覚だった。この世は「体験する世界」だから…。
故に、無と有の恐怖に憑依されてしまっていた。
本当は時間そのものが幻だったのだ。

いずれにせよ、私はこうして恐怖から解放されていった。

結局、あらゆる苦しみは自分自身が勝手に作り出していたわけだ。
気付いてしまえば、苦笑いするしかない。
壮大な自作自演ストーリーである。