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裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

覚醒者 ダンテス・ダイジ
遺稿詩集と講義録(音声のみのデータも文字化しています)


大丈夫だよ 君は必ず死ぬ
死んだら あたたかい夜のぬくもりの中で
君と僕は
君と僕のいのちを あたため合う

闇夜のフクロウも僕たちの命だ
その鳴き声が
静かに僕たちの瞳を湿らすことだろう


大丈夫だよ 君は必ず死ぬ
死ぬべき君には もうどのような恐れも無用だ
そして僕たちは
時間を忘れた夜明けの すがすがしい大気を吸い込む

まるで初めて大気を吸いこんだように
僕たちは
夜明けの息吹きを感じることだろう


大丈夫だよ やがて死ぬ時が来る
僕たちの宇宙ゲームを終らせて
夢もない眠りに
やすらかに帰る時がくる

初めがないここには
生も死も
初めから夢にすぎなかった




人間になれなかった道元

かわいそうな道元よ
あなたは その全生涯を奥深き冷厳な山林にありて
人間になろうと全身全霊で努め励んだ

あなたは人間になろうとして
只管打座の日々を送り
正法眼蔵を著述した

あなたの言う正法眼蔵が 人間そのものに他ならぬことを
私は知っている

しかもあなたは 決して人間になれなかった
道元よ
あなたはあまりにも弱すぎて
人間ドラマを愛することはできても
人間ドラマを演ずることはできなかった

あなたは
煩悩を生きるには 余りにも弱すぎた
「修証一如」という悪知恵によって 煩悩の汚濁を見渡したが
ついに煩悩そのものへは帰れなかった

二十世紀末の今日
フーテン娘は
赤ん坊をコインロッカーの中に捨てる

デリケートな現代人たちは
山林の自然を恐れて
都会のネオンサインの中へ逃げる

平凡なサラリーマンの一家団らんの中には
肥大した自意識同士の言葉にならない戦いがある

工場労働を本当に楽しんでいる工員は一人としていない

そして私は これら本当に豊かな人間の苦悩という営みが
二十世紀末の今日だけのものでないことを知っている

そして道元よ
あなたはこれらあらゆる人間達の豊かな営みそのものになろうとして
ついになり得なかった

あなたの古仏としての営みは 山河大地のみではなく
あらゆる人間達の営みそのものであった

あなたの只管打座は
人間の限りなく豊かな営みそのものであった

私は 今・ここで あなたとともに叫ぶ
私は人間だ
果てしない喜びと悲しみとを持った
たった一人のかけがえなく豊かな人間そのものだ




ダイジ講義録

「悟っても、覚醒しても、それは全く個人的なことだ。
釈迦が大悟し、禅定を解いた時、人に教えを説くつもりはなかった。すぐ死のうと思っていた。
つまり、それぐらい人々に関係ないこと。おそらく人類の99%には関係ない話だよ。

だって人間の99%が求めているのは触れ合いじゃないか。
それだって美しい物語だよ。
でも釈迦が行き着いたニルヴァーナは触れ合いが全くない世界。

涅槃・ニルヴァーナの入り口に人々が立っても、ほとんどの人は引き返すだろう。
何故なら突然そのとき、込み上げてくるからだ。愛が…。

この世には色々なものがある。色々な出会いがある。別れもある。
もしこの世に物語が無かったら、神はそんな舞台なき世界を作る必要はない。
神は戯れるのが好きなんだ」


「大切なことは君がどうかだよ。君がどうかい?
いい?
君がどうなのかということさ。

君が生き生きしているか、君がOKか。
君がOKなら今度は共通の約束事の中で本当に役立つことができるよ。
そういう約束事の世界を越えたものだから、宗教は。

どのような生き方をしようと全然関係ない。
それはその人自身が持って生まれた本性なんだ」


「世間のヨーガ教室では、健康や心の安定をPRしてるけど、実はヨーガは健康法ではない。
普通のハタ・ヨーガでも本格的に取り組んだら、エネルギーが上昇して頭寒足熱とは真逆の状態になり、心身がダメージを受ける」


「おしっこした時にね、十分の一とか三分の一とか残す様な仕方は絶対しない。
おしっこする時、全部出すだろ。

ところが君達ときたら、何をやっても、いつも何かが残っている。何か一部。
本当に全面的にそれに直面しない。
何をやるにも命懸けでやりなさいって。これくらいシンプルで当たり前な話は無いぜ!」



「君たちはよくこんなことを思う。
神に愛を捧げたら他のものが台無しになるんじゃないかと。
…その結果、他のもの全部を台無しにしている。

君たちがすべてに愛を捧げたら、君たちの当たり前の人生が台無しになるんじゃないかといつも怯えている。
が、そうじゃないだ。

君たちを産んだものが、まず第一にある。
君たちの心臓を動かし、君たちに様々な妄想を感じさせ、君たちの感覚を働かせているそのものが先ず第一にある。

そのことに対して、良いとか悪いとか言っても始まらない。
あるんだ!
そして、その愛が全てになれば、他の事は全て整っていく。

ところが君たちは先ず最初に外側のごちゃごちゃしたものを一生懸命つかもうとする。
そんなことしてたら、永遠の時間があったって、そこに行き着くことなんか決してないよ」



本性に帰るには、命懸けの行為が必要であり、そこには人間の苦はもうない。
生きることが耐えることだと諦めのつく人はそれでいい。

だが、完全を…、絶対至福を求めざるを得ないほど苦悩している人には、自己と世界を捨ててそこに到る道がある。

だが、その完全なる叡智と安らぎは、現代人にとっては危険きわまりないものになったようだ。
自殺もまた完全なるやすらぎへの憧れなのだろう。



ダンテスダイジ(雨宮第慈)
物心ついた時から誰に教わることもなく坐禅瞑想に打ち込む。
1968年、只管打坐によって心身脱落・大悟徹底。
臨済宗の万松院でも見性を許される。

その後、インドのヨガ導師・パイロットババジ直伝のクンダリニー・ヨーガで究極の解脱を果たした。

1987年12月11日 自宅にて遷化。
奇しくもOSHOラジニーシの誕生日と同じ日だった。
享年37歳

苦に満ちた世界。
永遠の幸せなど存在せず、全ては移り変わる。
そんな世界で揺るぎない安心を得るには、どうしたらいいのだろう?

信仰を通じて安らぎを得ようとする人がいる。
最初から無理だと諦めている人もいる。
未来に希望が持てるプラスイメージを心に思い描く人もいる。


釈迦が入滅する前、弟子から相談を受けた。
「師匠亡き後はどうしたらいいのでしょうか? いったい何を心の拠り所にし、指針にすれば良いのですか…」

釈迦は答えた。
「あなた自身を拠り所にしなさい。法を拠り所にしなさい」

師匠である釈迦を徒らに神格化しないこと。
信仰の対象にしないこと。
あくまで自分自身を拠りどころとし、「法」を拠りどころにしなさい、と。

仏教にとっては法が全てである。
誰も破ることのできない絶対真理として…。
故に釈迦の入滅後に何を指針とすべきかは、法しかないことになる。


時代とともに仏教も大きく変わっていった。
膨大な数の仏像が造られ、信仰の対象となった。
釈迦の神格化も著しく進んだ。

しかし釈迦はあくまで「法」を拠りどころにせよ…と。
その教えに反するわけにはいかない。
そこで大乗仏教の僧達は考えた。
「法の人格化」というアイデアである。

法身という。
部派仏教の説一切有部にも法身という概念はあったが、あくまで仏陀釈尊の説いた法の「功徳」を意味していた。
ところが大乗仏教では絶対真理の人格化・神格化という形で信仰対象を生み出したのである。

仏教はその後も信仰的な要素を強めていった。
ヒンズー教の神々を仏教に取り込み、更にインド土着の精霊から悪霊、鬼神まで取り込んだ。
かつては凶悪な悪霊だったが、仏法に触れて改心し、護法神になった…というストーリーである。


さて、冒頭の「安心」のことだが、「この世的な安心」「絶対的な安寧」では質が違う。次元が違う。
後者は悟りや解脱の道に通じる。

この世的な安心を得るなら、まずその人を悩ませている問題をひとつひとつ解決すればよい。
処世術、問題解決法と呼ばれるものだ。
また、神々への信仰など、宗教的な方法で安心を得ようとする人もいる。

旧約聖書に基づく宗教を信じる人は、全知全能の創造主に頼るわけだ。

だが、仏教のやり方はだいぶ違う。
仏教ではそもそも全知全能の存在など認めていない。
釈迦が授けた根本的な解決法は、苦の正体を見極めることである。

神に頼るのではない。
問題が解決し、願望が叶った状態をイメージするわけでもない。
まず「苦」に向き合うのが仏教のやり方である。

悩み、苦しみ、恐れを観察し、その根本原因に気付き、理解する。
すなわち無明に気付くこと。
非神秘・闇により迷妄に陥った状態、煩悩…。

仏教ではそれを持戒、自己観察、瞑想等を通じて破壊するのである。
つまりそのまま悟りと解脱の道なのだ。

しかし、誰もがそんな深いステージに至れるわけではない。
解脱するには徹底的に瞑想に打ち込む必要があるが、多忙な現代人には無理が多すぎる。
出家するならともかく…。

故にもっと現実的な問題解決法や心を安定させるトレーニングが求められる。
究極の境地には至れなくても、不安を減少させたり、安心感を増すための方法を見つけた時は、積極的・自主的に取り組んでほしい。

末期の難病で、時間的にもう間に合わないケースもある。
しかし、そこまで問題が深刻化していないときや少しでも可能性が残されている場合、やるしかないだろう。

何をするにも中途半端が一番良くない。
物事はやり切ること。
エネルギーを後に残さないこと。カルマになるからだ。
中途半端なままで終わらせた場合、あとで大きな後悔が生まれることになる。


無明という非神秘・闇に気付き、打破するにはサマーディという深い深い瞑想が必要だ。
しかし一般人がそこまで深い状態に入れるのは稀である。
本格的な瞑想はリスクも高い。
優れた師匠による指導が必要と言える。

しかし、そこまで深いレベルじゃなくとも、問題の原因に気付くことは欠かせない。
無明という根本原因を悟るのは無理でも、もっと浅い次元の原因なら突き止められるかもしれない。
それさえ分かれば最適な解決法も発見しやすくなる。

ただし、ここで注意点。
私は「原因探し」を勧めているのではない。
原因を追いかけることに夢中になると、思考が袋小路に嵌まり易い。

私が言う原因発見のプロセスは、あくまで「観照的に」ということだ。
ただ観ていること。
自分の状態に気付いていること。
それを続ければ内部の無意識層が勝手に理解してゆく。


現実レベルでの分析も必要となる。
私は某自己啓発スクールが指導していたカード法をよく使っていた。

問題を構成する諸要素を分解し、ひとつひとつ明らかにし、一枚一枚のカードに記入する方法だ。
自分の考えは入れない。
推測も入れず、事実だけを書いてゆく。
そして、それら諸要素の相互の関係性を探るのである。

その団体のオリジナル・メソッドなのでこれ以上詳しく明かすことは出来ないが、ヒントにはなったと思う。


ナポレオンヒルの成功哲学では、問題を細分化する方法を教えていた。
やはりここでも細分化か…。
どんなに大きな問題でも、それを構成する諸要素は小さいものが多い。
ただ、それらが全て合わさることで問題が大きくなってしまう。

だから問題を細かく分解し、一つ一つの小さな問題として並べて、ひとつひとつに取り組むのである。

人は大きな問題に直面すると、そのスケールに圧倒されてしまう。
平常心を失ってしまう。
「解決するのはとても無理だ」と諦めの気持ちが湧くかもしれない。

しかし、ひとつひとつの小さい問題になるまで分解し、課題を見出し、今の自分が出来ること一つ一つに手を付けてゆけば、問題解決がスムーズになるかもしれない。
ぜひ参考にして戴きたい。

万物は独立自存していない。
生命、物質、エネルギーは相互に繋がっている。
もし私が、他の存在から完全に切り離され、繋がりも無く自存できるなら、「この宇宙で私が全てであり、無限なる存在」ということになる。

それは根源的次元のワンネス、絶対的虚無の次元であり、もはや私という個はない。

だが現象界は違う。
多くの人、動物、植物がいる。あらゆる物質やエネルギーが存在し、それぞれに個性がある。
それらは連鎖的に繋がっている。

自分という存在は「自分以外のもの」との関係性によって存在することが出来る。
そこから因果律も生まれる。
水が無ければ生きられないし、空気が無くても生きられない。
生きるスペースがなければ、存在すら出来ない。

不食の仙人がいるらしいが、彼らもまた「気」のエネルギーが無ければ生きられない。
生命は全て「エネルギーを吸収する・排出する」という対の関係になっている。

すなわち相対宇宙における全ての存在は、真の自立が出来ないことになる。
(物質界のみならず、霊的世界も含まれる)

それが縁起と呼ばれるものだ。
確固たる個など有り得ない。
本質的に非我である。

因果律とは個人レベルの原因・結果の法則のみを差しているのではない。万物を支える根本法則である。
因果律は単純ではない。
因に縁が触れて果が生じるため、正確には因縁果ということだ。

A、B、C…それぞれ異なる要素が組み合わさり、繋がることで、個性を持った「存在」が生まれる。
繋がりを断ってしまったら何者も存在できない。
この相互連鎖システムが完全に否定された場合、万物の存在基盤が失われることになる。

相関性がないものは存在しない(存在できない)が、全ての因果を超えた次元もある。
根源次元の虚無・絶対無のことだ。

相対界には数多くの生命や物質があるが、全て有限の存在である。
絶対的なものは一つ以上は成立しない。
無限のものは文字通り「無限」なのだから、ふたつ以上存在するはずがない。

2つ以上あるなら、その一個一個は有限ということだ。
それは独立自存できないが故に、繋がるためのシステムが必要になる。

もし縁起や因果律が否定されるなら、この宇宙には独立自存しているものが大量に存在することになる。
有り得ない話なのだ。
もし因果が無ければ、個々のつながりも生じない。

故に因果の否定論は、バラバラ思想とでも言うべきだろう。
個々がバラバラに存在する…と主張したも同然だ。


私のブログでは今まで因果の否定論を厳しく検証してきた。
運命論者は因果律を否定するケースが多いが、私に言わせれば只の妄想論である。

運命論者は、引き寄せの法則も批判対象にしている。
ある人物はこんな発言をしている。
『引き寄せの法則は、その方法で上手くいかなかった者を「ダメ人間扱い」「怠け者扱い」してしまう問題がある』

これは単純な認識トリックを使った難癖に等しい。
そんな言い草が通用するなら、引き寄せの法則の話に収まり切らなくなってしまう。
努力や行動を伴う全ての事象に該当することになるからだ。

瞑想やヒーリングでも、上手くいかない問題が起こり得る。
故に「怠け者扱い」してしまう可能性がある。
でも、だからと言って瞑想やヒーリング自体の問題になるだろうか?

会社での仕事に喩えてみよう。

仕事で成功すれば、褒められる。
失敗を何度も繰り返せば上司に叱られる。取引先企業や顧客からの信用も失うだろう。
当たり前である。世の中は甘くない。

だが、失敗を失敗のままで終わらせない…という選択肢もある。
失敗の原因を突き止め、解決できるものは解決する。前向きに努力する。
そうすれば失敗の回数が減り、成功率が高くなるかもしれない。

それこそが前向きな生き方だと思う。
失敗のままで終わらせるなら確かに怠け者と言えるかもしれないが、学んで努力するならば、そこに人としての成長がある。

実際、人間はそういう仕組みの中で生きてきた歴史がある。
子供から大人になるまでの間に一度も失敗したことの無い人はいるだろうか?
そんなはずはない。

引き寄せの法則も同じことである。
成功を願っていても、潜在意識では失敗を求めていた…という心理的カラクリはよくあることだ。
または身の程知らずの願望を抱いて、物質界の制限に引っ掛かるケースもある。

いずれにしても、そういう失敗例から学び、自己理解を深めることで、成功の確率は高くなる。

もちろん、うまくいかなかったことで「俺って駄目なやつだ。怠け者だ」という自虐モードに入ってしまう可能性はある。
だがそれは、単に心の在り方の問題であって、引き寄せの法則自体の問題ではない。

単なる自虐で終わってしまうのか、それとも改善の工夫と努力をするのか。
失敗から学んで成功へつなげるという前向きな姿勢を持つのか。
その違いである。

ところが一部の運命論者は、引き寄せの法則自体の問題であるかのように「話のすり替え」を行なっている。

だが心根の在り方の問題は、運命論でも起こり得ることなのだ。
いや…どんな思想でも問題が起こり得る。
思想はしょせん思想に過ぎないからだ。人それぞれ受け止め方が異なるからだ。

仕事で酷い手抜きをして、大損害を出した場合、普通の人は反省するし、改善の努力をする。
だが運命論では「酷い手抜きをした」という事実さえ、運命シナリオで決定済みだった事になるため、無責任な態度になる可能性がある。

もちろんシナリオの中に「反省し、改善する」というストーリーが記載されている人は、前向きに努力することも出来るのだろう。
だが反省しないシナリオだった人は、何も学ばず、事態を改善することもなく終わってしまう。

酷い手抜きをしても、悪質な犯罪に手を染めても、人間側には責任がなく、原因が無い…と。
それが運命論なのだ。
そんな甘ったれた考えがこの世で通用すると思ったら大間違いである。

どんな教えも「教えのため」に存在するのではない。
現実に役立てることが出来なければ意味がない。
運命論は何の役にも立たないのだ。

一部の運命論者は
「因果律の信奉者は自助努力に固執するため、己の力を過信しやすい。
だが運命論を受け入れた人は、その運命にサレンダー(全面降伏)することが出来る。謙虚になれるのだ」

などと言う。

ものは言いようだねえ。笑
しかし、仮に運命論を信じても、「サレンダーしない」というシナリオだった場合、サレンダーは起こらないことになる。
結局、どこまでいっても無意味な思想なのである。