一ヶ月ほど前に汐留をぶらぶらしていたら、ライブがやってた。

私は普段、わざわざ特定のバンドなんかのライブに足を運ぶほどではないけど、

たまに街を歩いていて出会うストリートライブは結構好きだ。

ふと聞こえてくる音楽と歌声に思わず足を止めてしまう。

いつになく感傷的になって、いろんな人たちや交わした会話を思い出す。


汐留にいたのは待ち合わせまでに時間があったからで、日も完全に沈んで、

ビルの明かりがそこここで綺麗に映えていた。

そんなに人も多くなくて、歩くにはちょうどいい気温で、

その後に好きだったレストランに行くことになっていたから気持ちも心地よかった。

そんなときに、偶然ORCAってバンドのライブがやってた。

声に魅せられてつい長々と立ち止まっちゃった。しかもCDまでご丁寧に買ったし。

そのCDがしばらく放置されてたんだけど、思い出して聞いてみた。


音楽の好き嫌いは、私の場合はどれだけ身体に浸透してくるかで決まる。

まあ、たまには歌詞で好きになることもあるんだけど、大抵は、音自体が染みてきたかこないか。

音っていうのは否が応でも耳から入ってくるものだから、きっと、

それを全部素直に受け入れてたら、もたないんだと思う。

あるものはすっと思考の中に溶けてきて、あるものはガーンと弾き飛ばされる。

そうやってまた、自分と外との境界があやふやになる一方、いっそう強固になってもいる。

食べるってことは厄介なことだ。私にとって。

基本的にはね、美味しいものを食べると単純に満たされる。

日々の仕事柄、興味もあるし。

だけど最近、その基本が自己暗示じゃないかと思うんだよね。

まずおなか空かない。

空いてるなって思っても、食べ物を目の前にすると途端におなかいっぱいになっちゃう。

バイト帰りにコンビニ寄るじゃん。

そーすると、つい、てかほとんど義務感でなんか買っちゃうわけよ。

その時は、なんか買わなきゃ家に帰ってから何もなくて食べたいのに食べられないとやだなあ

って思ってるし、一応食べたいと思うものを買うんだよ。

だけど家帰って袋から出したと思うと既に食欲が失せてる。

さっきも、ヨーグルト買ってみたけど全く食べる気がしなくてそのまま冷蔵庫行き。

今、食べかけのパンと、これも封を開けちゃったクレープも冷蔵庫に保存中。

食べる予定はなし・・・


こういうときの自分の心境は、細かく言うと結構難しい。

食べても食べなくても、テンションは下がっちゃうんだけど。

おなか空いてる気がして食べようとすると、すぐに満腹になって下がる。

しかも満腹になっても、私は目の前に自分の分としてあるものは残せない性質なので

無理矢理食べてまた下がる。

おなかいっぱいになるってしばらくすると胃に錘がついたみたいに不快感がでてくるし。

今も、オニオンスープとカルピス飲んだだけなのに、調子悪くなってきた。

なんで、素直に受け入れてくれないんだろう私の身体は。


一方で、食べないこと、調子の悪さが必ずしも嫌なわけでもないんだ。

ちなみに、本気で調子悪くて食べる気が全く起きないってことは

そうしょっちゅうあるわけではなくてたまにふと訪れる程度。

だけど、普段、そんなに食欲旺盛でもないのについ食べることに精を傾けてしまって

食べながら後悔することが多い反動か、

食べられなくなるとその状態を維持しようと思っちゃう。

別にダイエット願望はないんだけど、意識的に食べるのを避けてしまう。

不思議なことに、それで生きていけちゃうしね。

しかも結構元気に。

食べられる状態に戻りたくなくて、それに食べられないことを必要以上に意識したくなくて

なんとなく食べられそうな気がしてもあえて手を出さない。


ほんとはもっと書きたいのだけど、眠いのでまた次回。

明日早いのに・・・もう3時かよ。


いままでいろんな思いを抱いて、理不尽さとか孤独とか理解されえない感覚なんかをもって

自分なりに消化してきた。つもり。

でも、ほんとは、つもりになっていただけで何も解決していない気がする。

どんどん思いだけは溜まっていって、そろそろ身体いっぱいになりそうだ。

だから、身体がいつも重く不快なのかもしれない。身体がってか、胃や腸が。

溜まりすぎて毒が回りそうだから、今は卒論を書くにはちょうど良いのかもね。

言葉にしてとにかく外に出してしまいたい思いが、もう喉の奥まできている。

卒論書き終わるまで、体調は悪いままかもしれない。そしてそれは当然のことかもしれない。


   本当は悲しみを乗り越えていることにしているだけで、実際のところ苦虫を噛み潰すかの如く、 

   無理矢理咀嚼し、便秘よろしく消化不良のまま腸にため込んでいるだけかもしれないが。

ああ・・・絶不調。

別にストレスは感じてないと思っているんだけど。

変なものも食べてないし。

でも食欲が全くなく。

風邪っぽくもないのに胃と腸がきりきりする。

食欲の秋なのにね。

食べないから余計に胃が荒れて、悪循環だ。

どうしたんでしょね???


自分が、こんなに幸せを素直に感じることができるとは思っていなかった。

一瞬一瞬がただ大事で、一挙一動がただ愛しいと、何の曇りもなく思えることに本当に驚いた。

そしてその幸せをはっきりと口に出せるってことにも。


全く予想してなかったことが起こってしまって、きっとその時にちょっと考えればあまりに明らかな結果を予想できたのに、先に考えを及ばす余裕もなく思うに任せてしまった。起きてしまったことを後悔してるわけではないけど、見えてしまう結果に落胆し、割り切れるわけでもなく曇った思いを抱えてしまう自分にまた嫌気が差す。そんな悲劇ぶったってレベルの低い話であることには変わりなく、その事実にふと気づいてまたバカバカしくなり、バカバカしさを自分へのため息だけでなく周りへの不快感でも示してしまう。その悪循環しかできないことが不甲斐なく悲しい。

私は人を大事にできない。

そう頭で理解していても、やっぱり誰かに求められることは素直に単純に嬉しくて幸せで、でもその幸せを自力で保っていけないことをすぐに思い出して、結局リタイアすることを選んでしまう。

いつまでこんなことを繰り返しているんだろう。

どうやったら、ここから這い上がっていけるだろう。

這い上がれないならせめて、笑顔でいられる器だけは持っていたい。

そうでないと、また人を傷つけてしまう。

まったく、自分の書いてきたものを読むと、矛盾だらけだ。

でも、それも当然のことで、要するに私は常に自分の存在の無意味さを感じながらも

その無意味な中で満たされた気持ちになりたい、そういうこと。

今の課題は、いまだに無意味さに対して嫌な気持ちになってしまうのを

どうやってなくしていくかってことだな。

私って存在が皆等しく無意味だってことはもう十分考えた結論だし、

きっと誰が考えても行き着くところは同じだと思う。

それでも周りの人たちと関わる中で、優しさに触れたり笑いがあったりぶつかったりすると

私の意識にこびりついた、世界への嫌悪感が薄らいでいくし、

周りの存在感が羨ましくなったりする。

たぶん、今の私にとって大事なのはそういうふうに好意や羨望を持つことなんだろう。


そんなふうにだんだん分かってきたこともある。

けど、実際の人間関係となると全く成長してなくて、

気づかぬうちに人の輪が広がっていたり、自分に近づきすぎる存在が現れると、

どうしても、ありがたいとは思えず、嫌悪感が勝る。

結果的に、自ら関係を投げ出す。

今だって、結構たくさんの人との関係を放棄してる真っ最中だし。


私の基本には世界に対する嫌悪感がどうしてもある。

街を歩いていても、全て嘘の塊に見えて、その嘘の中で平気で暮らしてる人たち

全員が嫌悪の対象になる。街並みすら、とても相容れるものではない。

私は確かにここに暮らしているけど完全に周りとは異質の存在であるように感じる。

それは別に自分だけが崇高であるとか、そういうんじゃなく、

ただ単に異質であるって強く思うだけ。

そう思うから故に、嫌悪感が募るってこと。

それは異質な存在であることの孤独感ともいえるかな。

そんな憂鬱な思いによって、私って存在と他の存在の境界がはっきり引かれてしまって

否が応にも私っていうバリアができてしまう。

そんなふうに生まれてしまったバリアをどうにもコントロールできないから

むしゃくしゃするし、バリアがなかったところでそこに溶け込んでいけるとは思えないから

さらに嫌気が増す。


そんな日常のなかで私が今まで傍目普通に生きてこれたのは、

そんなこと考える暇のないくらい忙しく働くって生活が片方にあったから。

そうやって身体を動かして自分の手で食材に触ってものを作って声を出して

一緒に働いてる人たちと時間を共有していると、

生きていくことに疑問を挟む余地がなくなってくる。

それは、考えることを諦めるからそんな余地もなくなるとかいう消極的な意味でなく、

積極的に、生きていることの楽しさを感じる。

それが何でなのか、もっと、考えないといけない。言葉にしないといけない。


それともう一つ、度々旅行に行ってきたことも大きい。

私はこの四年間でいろんなところに行った。

国内も海外も、長期短期で、けっこう周った。

何で日常から離れたところに身をおきたくなるのか、その理由は良く分からなくて

単純に好きだからってことで納得してたけど、

この前金沢に行ってみて、一人でぶらぶら歩いていて、

そういう時の私は、私ってことをほとんど意識してないってことに気づいた。

歩くときは、道に迷わない程度に意思を働かせてはいるけど、それ以上には

自身の意思を意識しないし、誰も知ってる人がいないから自分をむやみに

アピールする必要もない。

私って存在の境界線が薄くなって、ちょっとアメーバみたく柔軟で溶けてもいける、

そんなふうになってる気がした。知らない場所だからこそ盾持つことなく、

私も場所も人も等しく緩やかに繋がっている、そんな感覚になった。

旅行に行くと、特に一人で行くと、そうやって私を解放できるみたい。

繋がってる感覚のまま、私の一部がいつの間にかその場所に溶け出してそのまま帰ってくる。

私は今までに、けっこういろんなところに私を置いてきてるみたいだ。

たまに解放して置いてくることで、いつもの場所で過ごしてるうちにきつきつになった

私のバランスをとってるんだろう。

だからなんとか今もやっていけてる。


だんだん、自分のことを説明できるようになってきた。

それでもまだまだ、うまく論理的に説明できないことはたくさん残ってる。

やっぱり私は人を大事にできない。

自分から、守ろうと思わない。

私の周りには、一匹狼みたいな人もたくさんいるけど、

それでもみんな、大切にすべき存在はちゃんと自分の力で守っている。

私にはそれができない。大切にすべき存在も見極められない。

見極める前に、嫌悪が先にたってしまう。

どうしてだろう。

そして、そんななのに、私の中には唯一の現実と思える思いがある。

全てが嘘くさく思えても、私の中にあるその思いだけは本当にあるって思える。

その思いが自分にとってどんな意味を持つのか、その思いは抱えているだけでいいのか、

なにか思いに沿って行動すべきなのか、よく分からない。

行動して状況が実際に変わった途端に、思いの対象も嘘と嫌悪の対象になってしまう気がする。

そうなってしまったら、私には現実と呼べるものがなくなっちゃう。

それってどういうことなんだろう。

その辺はまだ考え中。


考えるべきことはまだまだたくさんある。

でも座ってじっとしていても、わりと考えは進まないものだから、

とりあえず明日はまた、起きてからえんに行くまでに、

眠い頭で世界への嫌悪感を募らせながら考えよう。



指が、ぼろぼろ。

万年、切る刺す焼くで傷だらけなんですけどね。

何故か最近輪をかけてひどさが増してる気がします。

とても二十代前半の手じゃない。

あーあ。

でも、そんなのもあと3ヶ月くらいでなくなっちゃうんだと思うとそんなに嫌じゃないかな。


今現在慣れ親しんでる環境は、当たり前すぎて日常すぎて

大切にする思いをいちいち持ってない。

でも最近は、そろそろ、今まで親しんだ場所が離れていくことを意識する。

離れていったときの自分の感情をイメージする。

そうすると、今毎日のように会ってる人を大事にしたくなる。

きっとその後死ぬまで会うことのない人がいるだろうと思うと、

日々の一瞬一瞬が強烈に目に映ってくる。

話したこととか表情とか、全部を記憶に残しておきたいと思う。

それは叶わないから、精一杯に関わっていくしかないんだけど。


みんなの中では、私はどんな存在なんだろう。

離れてった後、どんな風にみんなの中に残っていけるんだろう。

何も残していけない気がする。

みんなの存在感の大きさに対して、私の器の小ささ。

それでも、今この場所にいられることは、私にとっては幸せなことだ。


気がついたら、そろそろ誕生日じゃんね。

ハッピーバースデー。

に、こんなに感慨を覚えなくなったのは一体いつからだっけ?

去年はもうちょっと穏やかじゃなかった。

期待諦め恥幸せ空しさ清清しさ寒さ楽しさ、いろいろあった気がする。


今年は、ないね。

諦めることもない代わりに、特に期待することもない。

自分が迎える年齢に対しても、感慨はない。

今の自分の年齢ですら、何の実感も親しみも湧かないまま今に至るし。

それで1歳年が上がろうが、関係ないかな。


改めて、どんどんいろんなものがそぎ落とされていく自分の身を感じる。

ものをもらいたい願望とかいろんな人に祝ってもらいたい願望とか

誕生日を迎えるまでにこれはやろうって思う熱意とか

なんかそういうの全てがどうでも良くて、何にもなかったように誕生日なんか過ぎて欲しい。

区切りを設けることで、またさらに私って存在がくっきりしてきてしまうのは不愉快だ。



半年振りに六本木の森美術館へ行ってきた。

六本木ヒルズ、前に行った時は割りと好きだったんだけど、

今回はなんか存在感ありすぎて重々しく感じた。

上に向かうに従って太くなってるからかな。

圧迫感があるんだよね。


まあそんな不満はさておき、今回はダヴィンチのレスター手稿が目的。

特に詳しく知っていたわけではなかったけど、いやダヴィンチ天才だよ、と

間抜けな感想を心から言ってしまうほど衝撃的だった。

まず一番は、やっぱり手書きの原稿を間近で見られたこと。

絵や彫刻と違って、一つの作品として隙なく完成させることを意識してない手稿は

ダヴィンチがその紙に向かって書いていた姿とか思考の進み方だとか、

どうやってその紙が書かれていったかっていう情景が浮かびやすくて、

手稿を目の前に、その書き手であるダヴィンチの存在を濃く感じた。

字や、ラフ(だけど正確)なスケッチは、完成された芸術品とは違う存在感を出していた。


そしてもう一つには、観察の入念さ。

ダヴィンチが自然や人間をよく観察したことは知っていたけど、

実際にその内容とスケッチを見て圧倒された。

流れている水の動きなんてそう簡単に捕らえられるものじゃないのに

どのように渦ができるか、場所によって水の流れ方がどう違うのか、かかる力はどの程度なのか

そんなことまで事細かに描いて書いてる。


あとは、水に対する執着心とそこから派生していく思考の広さ。

ものすごい執着。なにかっていうと水水水。

だけど、そこから、水が山から海に、そして海底に、再び山の頂に、

その途中には水は蒸発し循環する、さらに大気の色は水と密接に関わっている、

そういうことを、地球が球体だってことが徐々に広まりつつあったこの時代に考えていた。

科学は、世界のあらゆるつながりよりも一つ一つの性質に焦点を当てることが重要で

そのために全体的な視野を失って今いろんな弊害が生まれてきてるわけだけど、

当時ダヴィンチは、科学的思考を経て、地球が、さらには宇宙が一つに繋がっていることを

考えていたわけで、その考え方は、雲は雲水は水って捕らえる中世以前の考え方よりも

よっぽど世界の繋がりを意識した視野を持っていたんじゃないかと思った。

いつの間に、科学は命の繋がりを考えることを捨てちゃったんだろう。


ダヴィンチの後、53階に上がって杉本博司展へ。

昨日たまたま、四国直島の護王神社の記事を雑誌で読み返してたんだけど、

偶然にもその神社の設計をした人が、この杉本さんなのでした。

全く気づかなかった。

もとは写真やってる人だったのね。

いろいろまた考えて、頭がぐるぐる回ってた。

刺激受けました。

その辺のことはここに書くとなんかイメージとズレてく気がするから、別に書こう。


そして今日も本に散財してしまったのでした。

お金もないし、本しまう場所もないっつーの。