ニジェール川はピナンスに乗って 1990年

5 モプティ(1)

 

 モプティの警察署で滞在登録を済ませ、ホテルへ向かった。目指すは川岸に廃船を繋いでホテルとしている、その名もオテル・フロタンである。この街はマリ中央部の交通の要とはいえ、ホテルに泊まるような旅行者の絶対数は少ないのだろう。街全体でもホテルは数軒しかないのに、がら空きであった。

 

 

 宿泊料金は1泊1500CFA(750円)と西アフリカにしては安いほうであろう。しかし、洗面所の水もシャワーの水も生ぬるく、緑味を帯びている。川の水を汲み上げているのであった。新市街の中央部には給水塔がそびえたっているから、街に水道がないわけではない。警察署の近くにあるカンプマンにした方が良かったかなと少しばかり後悔する。

 それにしてもこのホテル、陸側のデッキには蓆が廻らされたりして、相当の老朽船のように見える。だが、船体のどこかに1951年ベルギー製と書かれた銘版があったから、そう古いわけでもない。

 

 

 

 ホテル周辺の岸辺は、地元の人たちの洗濯場になっている。中学生くらいの少女も岸辺でゴシゴシと衣服をしごいて洗っている。洗った後の衣類は、泥まみれの石畳に広げて干している。陽射しが強烈だから乾くのは早いだろうが、すぐ上流側ではオートバイを洗ったりもしているし、あまりきれいになるとも思えない。

 そんな風景を眺めていると、岸辺にひとりの若い女がやって来た。藍染の生地に細かい水玉模様を散らした上着をまとっている。その女があたりを見渡したかとおもうと、上着を脱いだ。その下には、白地に大きな青い水玉模様の衣装をまとっている。そして、その衣装も脱ぎ捨てるが、下にまだ着ているものがある。今度は黄色、黄緑、橙色の三色が縦縞になった服で、なかなかお洒落な人だなと思う。ところが彼女たるや、水に少し入ったところでチョイとしゃがんだかと思うと、おしっこをしているではないか。

 何事もなかったような顔で彼女が立ち去った後、すぐにやって来た少年が同じ場所で顔を洗う。流れがあるから同じ水ではないだろうが・・・

 

 

 

 昼間はとにかく暑いので、陽が傾いた頃を見計らって、街歩きに出かける。

 ホテルの上流側は舟着場になっていた。お客を満載した手漕ぎのピナンスが対岸とのあいだを行ったり来たりしている。対岸といってもそれは大きな州にすぎないけれども、目の前を流れるバニ川とニジェール川本流とを分けている土地である。望み見れば集落は3つにわかれており、かなりの人家が並んでいるようだ。トゥアレグ族の村だと言う人もいたが、彼らは円い草屋根の家に住むだろうか。

 

 

 川を上り下りする船にはもちろん発動機船もあって、大型のそれはピナンスと呼ばれている。下流側の方に行くと、そうした船のためにフロートに載った給油所もあった。

 その先に、定期船の事務所があるので立ち寄る。しかし、上流方向への船は5日後までない。もっとも、週1便しかないことは予めわかっていたので、出航日を確かめたというに過ぎない。

 

 

 ところで、この街にはホテルと同様、レストランも少ない。街を一周してみたのだが、オテル・フロタンの向かいにある「福寿禄」なる中国料理店くらしいしか目ぼしい店がない。

 唯一有難かったのは、新鮮な牛乳が買えることであった。厚手のプラスチック袋に入っていて、よく冷やしてある。青い印刷の牛乳と、赤い印刷の酸乳とがあり、酸乳の方が気に入ったので牛乳屋に立ち寄っては買っていた。何度目かに寄ったとき、主人が名前を紙に書かせて、それを壁に貼ってある営業許可証に書き付けた。この牛乳、流通に難があるのか、ついぞ他の街ではお目にかからなかったから、モプティ名物のひとつと言ってよいかもしれない。

 市場で3個100CFA(50円)の温州ミカンと、イチジクに似た果物を買って帰る。ミカンは皮が薄く、なかなか美味しかった。イチジクに似た方は固い果皮を剝いて内皮や種の周りの甘いところをしゃぶる。

 

 

 

 

 日暮れ時、ホテルの屋上デッキに上がる。この時刻になるとさすがに川風が涼しい。夕日に背を向けてお祈りをしている人もいる。ここではメッカの方向が東になるのだ。

 

 

 

 やがてC氏、D氏も上がってきて、スケッチなぞを始めた。絵を描き終えてしまうと退屈になったのか、それぞれが「仏教の教義はなにか?」だの「ムスリムをどう理解しているか?」などと議論をふっかけてきたのには困った。このような難問に、私のフランス語力では答えが覚束ない。もっとも例によってドイツ人のD氏は輪廻の思想こそ仏教の根本教義だととらえているようなので、適当に話を合わせておいた。

 

 C氏、D氏と連れだって福寿禄へ夕食を食べに出かける。北京風ライスという、酢豚のせ飯のようなものを食べる。

 部屋へ帰ると室内にはまだ熱気がこもったままだった。船というものは総体が鉄板でできているのだから、昼間の直射日光で屋根が熱せられる。その屋根がこの時間になって室内に熱を放射しているのである。

 

 

 デッキに面したドアを開け放して、手すりにもたれて涼んでいると、土産物売りのおっさんがやって来た。バンバラ族の仮面やらフラニ族の腕輪などを見せてからおもむろに商談に入る。性行為の人形なども持っていて、わざわざアフリカでこんなものを買うやつがいるのかなとも思う。特に買いたい品物もないので、ネコのペンダントがあったら買ってもいいと言っておく。

 

 デッキには灯りに誘われて飛んでくるバッタがたくさんいる。あまりに多いので、そこかしこで踏みつぶされてしまっている。動作はノロく、手で捕まえると片足を捨てて逃げる。このホテルに住み着いている三毛猫がバッタたちを狙って、デッキを飛び跳ねていた。

 

 ホテルの隣にもやってある船はバーになっていた。、夜になると緑色の明かりが灯り、スピーカーからは音楽が流れてくる。スピーカー自体がひび割れているから、音もひび割れている。ところが、曲の中には日本の演歌も混ざっている。バーテンが口ずさんでいるから、カセットテープか何かでいつも同じ曲をかけているのだろう。私の顔を見ても何も言わないから、日本の歌だとは知らないらしい。

 

*   *   *

 

 

 

 翌朝、まずは港とその周辺に広がっている市場へと行ってみる。店舗となっている小屋はひねた材木に蓆を掛けたような貧弱なつくりで、それすらなく地面に商品を直接並べている人も多い。

 

 

 

 半島状になった港の先端部へ向かう。干魚が並んだ一角があり、猛烈な臭いが立ち込めている。このあたり、船着き場に面した側にはまだまともな小屋が並んでいるのだが、裏手の方は乞食小屋同然のみすぼらしさである。広い水面を隔ててグラン・モスクや旧市街の土の家並みが見えているので、後であちらへも行ってみようと思う。

 

 

 

 

 さて、港の側に戻ろう。こちらに停泊している船はキャンバス地の屋根も備えた大型のピナンスである。これらはモプティで買い入れた品物を地方の村々へと運ぶのが主な役割と思われる。地面に大きなひょうたんやゴザが縛られて置いてあるのは、これから船に積み込まれる商品なのだろう。大きなズダ袋を背負って船に運び込む人足も多い。

 

 港というより「湊」と書いた方が似合うような時代がかった光景を眺めている間にも、少年たちが「ドゴン、ドゴン」と叫びながらまとわりついてくる。仮面で有名なドゴン族の村に宿泊するツアーを紹介するというのである。それなりに面白そうではあるのだが、観光化された少数民族の風俗を見物するのは気が進まない。

 そう思っていると、中学生くらいの男の子が声をかけてきた。3つのモーターがついたピナンスが24時間でセグーまで行くのだと言う。

 彼の後について行き、船の傍らで値段交渉する。翌朝7時出港で、料金は5000CFA(2500円)。ノートに双方がサインして、それをちぎった切れ端が切符になる。ニジェール川の船旅が実現するのだ。少年にはチップを奮発した。

 

 

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ニジェール川はピナンスに乗って 1990年

4 タクシー・ブルース モプティ行

 

 

 今日はボボジウラソを出てマリ共和国に入る。目指すのはニジェール川沿いの街、モプティである。今回の旅行では、このモプティが行程の焦点となっている。多くの人が目指すのは古都トンブクトゥであると思われるが、今日では河流からも離れたうら寂しい小都市に過ぎず、あまり面白いところではないのだという。その点、モプティは現代においても舟運の要になっていて活気のあるところらしい。

 

 まずはボボジウラソのバスターミナルへ行かねばならない。以前はこの宿に隣接した広場がターミナルだったらしいのだが、郊外に新しいターミナルができたのだという。

 バスターミナルのことはトルコと同じく、フランス語から来たオトガルという。

 この街では路線バスなど見かけもしないので、ルノーのタクシーに乗って行く。運賃200CFA(100円)のわりには遠かった。

 

 

 新オトガルは、新しいというだけではロクな設備もないところであった。アビジャン、ヤムスクロなどへは大型のきれいなバスが何台も出ているのだが、モプティ行きはこちらでタクシー・ブルースと呼ばれる乗り合いタクシーである。運賃表が掲出されていてモプティまでは475キロメートル、7500CFA(3750円)と書いてある。ボードにはタクシーのナンバーも書かれているから、意外としっかり管理されているようである。

 運賃表にはタクシー・ブルース他にバシェというのも掲載されている。これは病院車みたいな16人乗りのミニバスで、窓にはガラスがなく幌がかかっている。運賃も少し安い。

 その運賃表の下で待っているとやがてプジョーのバンがやってきた。これがモプティ行きなのだという。出発は12時。まだ4時間もある。ムスタングという名のカフェへ行って紅茶を飲む。リプトンのティーバッグが50CFA(25円)で、お湯は何杯でもおかわりできる。

 暇なので、その辺にいる青年とサッカーゲームをやってみる。人形が回転するだけという単純な仕組みである。しかし、操作にはかなりの力が必要だし、何よりこちらの人たちの反射神経が鋭すぎて、全く歯が立たない。

 

 12時になってもモプティ行きのお客は自分の他には誰もいない。お客が集まってから出発すると言われる。しばらくすると、オートバイにまたがって白人と黒人の旅行者がやって来た。ドイツ人のC氏とガーナ人のD氏である。これで、乗客が3人になった。人類を代表する三大人種と三大宗教の一行である。

 

 

 待合室に座っているといろいろな物売りがやって来る。サンドイッチや枕、蚊取り線香はともかく、なぜバスターミナルで女もののパンティーを売るのか。わざわざここで買う人がいるとは思えないのだが。

 腕時計を指さして何か言う少年がいる。何かと思えば、時計の文字盤を磨く商売なのだった。

 床屋もやってきて、床に座り込んで髭や子どもの頭に剃刀をあてる。

 コラの実ももちろん売りに来るので、ひと袋買ってかじってみる。刺激が凄くてとてもじゃないがひと口で吐き出さざるを得ない。残りの実はD氏に進呈する。

 

 

 子どもの売り子も多く、茹でピーナツ売りの女の子たちは所在無げに片隅に固まっている。待合室の長椅子は、乗客なのか単に暇なのかわからない大人の男たちが占拠してしまっているのだ。

 15時45分、ムスリムのお祈りの時間である。長椅子に座っていた男たちが出かけてしまうと、その後に少女たちが座って憩う。やがてお祈りが終わって男たちが戻って来ると、彼女らもいなくなる。

 

 

 

 16時20分、ついに乗客3人で出発した。ところが、街角をひとつふたつと曲がったところで我ら3人、荷物ともども道端に敷かれたゴザの上に降ろされてしまったのである。車は別の男たちを乗せて、どこかへ走り去って行ってしまった。

 あたりは貧弱な街路樹の下に食べ物の店が出ているような、街外れの通りであって、所在がない。それでも小一時間もすると別の車、別の運転手がやってきた。既に4人の男が乗っているところに、我々3人も押し込められて出発だ。8人も乗っているのだから、車内はぎゅう詰めである。C氏が「これがアフリカだ」と言う。

 

 

 

 通過していく村々の名には末尾にドゥーグーとつくのが多い。そんな村のひとつ、バナオロドゥーグーで休憩する。村の広場に面して小さなモスクがあり、女たちがタテ杵で穀物を搗いている。ポリスがいるので、カメラを見せて「モスクを撮る」と言ったら笑ってOKしてくれた。

 実は、ブルキナファソでは屋外での写真撮影禁止だと書かれた本もあったので、これまであまり写真を撮っていなかった。しかし、D氏に聞いてもそんなことはないというし、カメラへの拒否反応もアビジャンなどと違って見られない。こんなことなら、ボボジウラソでもっと撮っておくのであった。

 

 

 バナオロドゥーグーを出発すると、検問所が次から次へと現れた。検問所といっても、木陰に係官が座っているだけだったりもする。そんなところでも運転手ともども車を降りて出頭しなければならない。運転手は乗客名簿を差し出し、我々はパスポートや身分証明書を提示する。あまりに検問所の数が多いので、終いにはC氏と笑い出してしまったほどだ。

 

 21時ごろ、車が停車した。いくつ目の検問所だろうかと思う。だが、そこはマリとの国境であった。

 車を降りると、星が降るような夜空が広がっていた。「あれがへびつかい座、こちらがレグルス・・・」とC氏が解説してくれる。屋外に置かれたテーブルに懐中電灯の光でブルキナファソの出国審査を受け、マリ側では建物内に一人ずつ呼ばれてパスポートにスタンプをもらう。

 そこから5分ほど走ると、村の広場に出た。蛍光灯に照らされた一角にはモービル石油のガソリンスタンドがある。

 ここで、バシェ(幌つきトラック)乗り換えさせられる。悪い車両に移るのだからと、D氏の交渉がものを言い、300CFAが返ってきた。ところが、まもなく大型のバスもやってきて、今度はこちらに移れと言われる。まともな座席のバスではあるが、シートの間隔が狭く窮屈である。結局このバスは4時半ごろまでこの場に停車し、さらにお客が増えたところでようやくモプティに向かって発車した。

 

 

 

 

 やがて夜が明け、通過する村々の様子もわかるようになった。円筒型の土の壁に傘状の草屋根を載せた建物も見られる。直径は小さく、倉庫として使われているようだ。地面の色は相変わらず紅いのに、建物は薄茶色をしている。それらの屋根の向こうに、スーダン式のモスクがぬっと姿を現したりもする。

 8時頃に停車した村で、ニョク(ふかしたヤム芋)とゆでたまご2個の朝食。値段はそれぞれが50CFA(25円)だった。

 この村で、写真を撮ろうとしたら、ポリスが因縁をつけてきた。事前に調べた範囲では、マリで写真撮影に制限があるという情報はなかったのだが。

 

 

 10時30分、ウアン着。インディア-マリと書かれた黄色い井戸があり、女たちがここで水を飲んで行けと盛んに言う。水は生ぬるくうまくはない。

 

 

 女たちの言葉には理由があった。バスはウアンを出てから3時間、走りに走ったのだ。日が高くなっているから車内も暑い。我慢しきれなくなって水筒の水をひと口飲んだとたん、バスが停車し、窓の外に物売りが群がってきた。びんジュース1本が150CFA(75円)もする。

 

 

 ここまで来ればモプティまではあとひと息であった。アーチのある町の入口でC氏、D氏とともにバスを降りる。この街に宿泊する外国人は、警察署に出向いて滞在登録をしなければならないのであった。

 

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ニジェール川はピナンスに乗って 1990年

3 ボボジウラソ 

 

 

 ボボジウラソに到着したのは、ようやく空が白みはじめた時刻だった。尖頭アーチを連ねたスーダン式モスク風の白い駅舎がライトアップされている。失礼ながら、ブルキナファソにこれほど美しい駅があるとは意外の感がある。

 駅舎を眺めるのもそこそこにトイレに駆け込む。どうにもお腹の調子が悪い。駅構内にいたポリスに病院の場所を尋ねる。彼は停車していたタクシーの運転手に何事か命じて、私を乗せてくれた。

 タクシーが着いたのは国立病院の前であった。こんな早朝から診療しているのかと思ったが、救急サービスの窓口が開いていた。医師は処方箋を書いてくれ、料金は取らなかった。しかし、よく考えると薬局の場所がわからない。守衛に聞くと、すぐそばにあると言う。

 実際、指さされた方へ歩いてゆくと薬局はすぐに見つかった。もちろん開店前である。店の前を掃いている女性に処方箋を見せると奥へ入り、格子がはまった窓口からパンでも入っていそうな大きな包みを差し出した。3700CFA(1850円)となかなかの値段ではある。しかし、これでお腹に効いてくれるなら安いものだ。

 

 

 市街の中心部を縦断して、ロンリープラネットであたりをつけておいた、タクシーガレージ近くのホテルに投宿する。朝からチェックインしても特に追加料金などは取られない。

 

 

 午前中は少し体を休めて、お昼ごろから街歩きに出かけた。だが、内陸に来たせいかとにかく暑い。どこかで摂氏41度を指している温度計を見た。

 ボボジウラソは碁盤の目になった街路に並木が木陰を作る緑豊かな街だ。しかし、土の色は真っ赤である。いや、赤いというより濃いピンクと言った方がよい。これがラテライトというやつかと思う。

 

 

 

 街の中心は市場である。これもスーダン式モスクに似せた門があり、地面と同じく赤っぽい。全体に統制というものが無い感じの市場で、門の内側も外側も同様にバラックの店が詰まっている。さらに周辺の通りにも露店は連なり、靴や服、野菜といった生活必需品は豊富である。ウイスキーの瓶に小分けしてガソリンを売る店とか、化粧水の入っていた瓶を並べた店などもある。蚊取り線香や万金丹をバラ売りするのは少年の仕事で、トウモロコシを焼いて売るのは女の子の仕事らしい。なかには、木の皮やマタタビのような枝など用途が不明のものも商品として売られている。

 

 一方で、トイレットペーパーやミネラルウォーターは見当たらない。地元の人はこれらの商品を必要としないのであろう。小さな手押し車で瓶のジュースを売る人はあちこちにいるので、ミネラルウォーターのかわりに数本買っておく。部屋に置いておこうと、ホテルへ向かって歩き出すと、売り子の少年が後をついてきて「ブテ、ブテ」と言う。何かと思ったら、瓶を回収するのだそうだ。後で飲むのだと言うと、飲み終わったら瓶をドアの外に置いておいてくれと言い残して戻って行った。(このホテルの部屋は、広場のようなところに直接に面しているのである。)

 

 

 路上や市場の片隅ではボードゲームに興じる男たちの姿をよく見かけた。駒を斜めに動かして、相手の駒を飛んで取るのが基本ルールである。しかし、対角線を一気に動かしたり、駒を重ねたりする場合もあり、見かけよりも複雑なルールがあるらしい。一手、御手合わせをしてもらったのだが、ルールが飲み込めていないのだから、勝てるはずがない。

 

 

 

 街はずれのロータリを越えると旧市街である。旧市街といっても、小川に沿って小さな家が乱雑に建っているというだけで、あまり趣はない。ただ、白い塔を2基備えたグランドモスクがこの街のシンボルとなっている。スーダン式モスクの一種と言ってよいのだろうが、白く塗られているのは珍しい。とはいえ、思ったよりもずっと小さな建築で、門も閉まっていて中の様子は伺えなかった。 

 

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ニジェール川はピナンスに乗って 1990年

2 アビジャン=ニジェール鉄道 

 

 

 

 

 

 朝6時30分、トレッシュビル駅へ行くと、ちょうど改札が始まったところだった。乗車券は昨日のうちに買っておいたし、列車の発車時刻は8時30分なので、あわてる必要はない。

 ボボジウラソまでの料金は9700CFA(4900円)で、トーマスクックに乗っていた料金の半額以下であった。もっとも購入したのは2等座席車だから、クックの表示は1等料金だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 駅舎内には人があまりいなかったが、ホームに出てみると既に大勢の人が立ち、あるいは座り込んでいた。両手いっぱいにサンダルを抱え、前頭部にも器用に3足ほどを積み重ねた売り子が何人もいるから、全員が乗客という訳ではない。しかし、いかにも長距離列車のお客らしくボストンバッグやスーツケースを持った一家などもいる。意外と若い男の一人客も多く、彼らは何も手にしていない。

 やがて太陽が照り始めると、遮るもののないホームでは首筋が熱くなる。しかし、発車時刻を過ぎても列車は現れない。現地の人々もうんざりした様子でホームに座り込んでいる。

 

 

 発車時刻を10分も過ぎて、ようやく北方から列車が姿を現した。すると、ホームにいた若い男たちが一斉にそちらに向かって走り出した。そして、動いている客車のデッキに取りついては車内に入り込んでいく。もちろん、列車がホームに入ってから乗り込むのが当然のルールである。だから警官が一人、列車と一緒に走っていて、自転車の車輪のリムを束ねた鞭で彼らをひっぱたいている。だが、列車と一緒に動いている奴を走りながら叩くのである。しかも、叩く方の足元は不安定だし、警官一人に対して叩かれる方は何人もいるのだから何の効果もなさそうだ。警官もこれが仕事とはいえ、こんなことを毎日繰り返しているだとしたら、ご苦労なことではある。

 

 

 列車が停止し、車内に入る。すると先に乗り込んでいた男たちが座席の背ずりに両手をかけ、ボックスをひとつずつ占拠しているではないか。小競り合いがあちらこちらで起こっていて、「アタン!アタン!(待て)」という叫び声が聞こえてくる。

 この若者たちは乗客ではなく、席取り屋なのであった。彼らは既にお客と契約しているらしく、車内での交渉には応じない。仕方がないので、出入り台そばの補助席に座ることにした。

 おいおい分かって来るのだが、実はこの席を確保して正解であった。本来の座席は木のベンチで、しかもロクに補修もされていなくて座面が無くなったりしているのに対し、この補助席はビニールレザー張りのクッションがついているのだ。しかも扉は開けっ放しで走るから、全面から風が入ってきて涼しいし、駅で車外に出たければすぐに降りられるという利点もある。

 濃い緑色をした客席の窓ガラスは上段下降式だから、たとえ窓側に座っても外の風景などよく見えないだろう。その点でも、この場所は有利である。ただ、居眠りなどして振り落とされないように注意しさえすればよいのだ。

 

 

 超満員の急行第11列車は、始発駅から大幅に遅れて発車した。駅を出るとすぐにラグーンにかかる橋を渡り、アビジャン=プラトー駅に停車した。アビジャンの代表駅といってよいだろうが乗客は少なく、パイナップル売りが何人かホームにいるばかりである。

 プラトー駅を出ると列車はラグーン沿いを走る。水面にはヨットなども浮かんでいて、この列車とは別世界があるのだなと思う。

 しばらくはアビジャンの郊外を走るので、10分から15分おきくらいに何度も停車する。そして、それらの駅からも乗客が続々と乗り込んでくる。

 混雑がひどいのは、ひとつには荷物がやたらと多いということもある。席からあふれた乗客たちは、通路に山と積まれた荷物の上に座り込んでいるのだ。

 だから、現実問題としてこれ以上、人間の入り込む場所はない。駅に着いたときには、向かいに座っている娘と一緒に扉を手で閉めて「ヤ・パ・プラス!(場所がない)」となだれ込みを遮ることにした。

 

 

 やがて市街地が尽きると駅間距離も長くなり、車内も少しは落ち着いた雰囲気になった。このあたりの気候区分は熱帯雨林気候だからジャングルの中を行くのかと想像していたのだが、開墾地が多く思ったより乾いた風景が続いている。もっともアビジャンは8月が最も気温が低く、降水量も1月に次いで少ないそうだから、そのせいで乾燥しているのかもしれない。

 

 

 

 駅に停車すると物売り達が列車に群がって来る。彼らの商品で圧倒的に多いのはコラの実である。嗜好品として長旅に欠かせない人もいるのかもしれないが、あまり売れているようには見えない。

 

 

 そんなところを2時間ほど走るうちに、便意を催してきた。この列車にトイレがないということはないだろうが、この混雑ぶりでは車内を移動することなど不可能である。それに、外から見たところでは、トイレらしき区画の壁に開いた穴からも人間の手が突き出していた。きっとトイレにまで乗客がすし詰めなのであろう。

 そんなことを思っていると、ちょうど大きな駅に停まった。どうやらここで列車の行き違いがあり長時間停車するらしい。それならばと、列車から飛び降りて、線路際の茂みに飛び込んだ。

 

 

 このあたりからは、段々と土地に起伏が出てきた。11時ごろ、にわか雨が降った。涼しくなるかと思いきや、雨がやんだ後は、かえって暑くなる。

 乗客をかき分けて、二人組の車掌が検札にやって来た。青ねず色の制服を着たゴリラみたいな方が切符を改めては裏にサインをしていく。もう一人の薄茶色の服を着た男は車内補充券の発行専門だ。

 この列車は一応、急行ということになってはいるが、ンドコウアッシクロなどという小さな村の駅にも停まる。「ン」で始まる地名が、いかにもアフリカらしい。

 

 

 16時20分、白いビルが立ち並び、赤いタクシーが走っている街に着いた。沿線のコートジボワール領内では随一の街、ブアケである。ここで少しは空くのかと思ったところが、おばさんの集団が大量の荷物とともに乗り込んできて、さらにひどい混み具合になってしまった。赤ん坊は泣き叫ぶは、母親同士は喧嘩を始めるは、まさに阿鼻叫喚の車内である。

 だが、まもなく陽が沈み、気温が下がると人間の熱気も治まってきたようだ。寝不足が続いていたので、いつしか寝込んでしまっていた。

 

 

 目を覚ましたときには、もうブルキナファソとの国境駅に着いたときだった。時刻は0時30分。スーダン式モスクを模した駅舎にSNCBのネオンサインが光っている。

 略称の最後にあるBはブルキナファソのBだから、もう国境線を越えてしまっているのだろう。出国と入国を一か所で済ませてしまうらしい。

 乗客の中には荷物をホームに降ろして、そばに佇んでいる人もいる。税関検査に備えているのだろうか。一方で、車内に荷物とともに留まったままの人も大勢いて、行動の違いが何によるのかわからない。

 駅舎の隣には何の表示もないけれども小さな建物があって、そこにパスポートや身分証明書を出しに行く人もいる。この人たちは、コートジボワール、ブルキナファソ以外の国民だろう。後をついて中に入り、備え付けの入国カードを書いて提出すると、パスポートにスタンプが押され、手書きで入国日が記されて戻ってきた。

 この駅には結局、3時間も停車していた。その間、ホームに降ろした荷物を税関吏が調べに来た様子はない。持ち主たちは、結局、大量の荷物をまた車内に詰め込んで、列車は国境駅を後にした。

 

<3 ボボジウラソ に続く>

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ニジェール川はピナンスに乗って 1990年

1 トレッシュビルまで 

 

 

 カサブランカ発ダカール行きのロイヤル・エア・モロッコ919便は、いつの間にか着陸態勢に入っていた。成田空港からモスクワへ、すぐにビサウ行きに乗り継いでブダペスト経由カサブランカへ。ここまでがアエロフロートで、カサブランカから先は各社のチケットを購入してある。

 アエロフロートではカサブランカまでが、いわばヨーロッパ均一料金区間である。他にアジスアベバ、ドアラ経由のエチオピア航空などという航空券もあるにはあるが、乗り継ぎ待ちの日数がかかりすぎる。結局のところ、このルートが日程と料金を勘案すると西アフリカへのベスト・ルートだったのだ。

 今回の旅行はアビジャンから入ってブルキナファソ、マリを通ってダカールへ抜け、できればガンビアにも立ち寄る予定である。何より、黒人王国を目指したマンゴ・パークやルネ・カイエのようにニジェール川のほとりに立ってみたい。

 

 ダカールが近づき、時刻は既に22時をまわっている。カサブランカに着いたのは深夜2時すぎだったし時差もあってとにかく眠たい。隣席の男性がカセットテープの音楽を聞かせてくれて、「ブラック・ミュージックは好きか?」と話しかけてくるも、睡魔に襲われてまともな受け答えができない。その彼が腕を叩くので目を覚まし、窓の外を見る。黄色と白の街明りが、海岸線を縁取っている。

 

 ロイヤル・エア・モロッコのボーイング727型機は、無事、ダカールのヨッフ空港に着陸した。ターミナルビルからかなり離れた場所に停止したのにバスなどはなく、ビルまで歩いてゆく。この先どうなる事かと思ったけれども、入国審査はあっけないほど簡単だった。

 普通ならば、見知らぬ国の夜の空港にひとりで降り立ったときほど不安なものはない。まして、ここはアフリカである。しかし、この空港にはターミナル内にホテルが併設されている。案内所で尋ねて、レストラン・バーの奥にあるフロントへ。オテル・ド・ラエロガールという、そのものずばりの名称である。1泊9000円ほどもするのだが、明朝のアビジャン行きは9時30分発だから背に腹は代えられない。

 

 

 クーラーの効いた室内でぐっすり眠って、翌朝。客室から階段を降りて、チェックインカウンターに立つ。出発ロビーにはエアコンがなく、大きな扇風機が天井で回っている。

 カウンターで若い男が、寄港地を読み上げる。コナクリ、アビジャン、コトノー、ドアラ経由ブラザビル行きエールアフリク108便の受付開始だ。

 誰も彼もが大量の荷物とともに移動しているので、チェックインにも時間がかかる。

 

 

 しかし、実際に搭乗してみれば大きなA300型機に十数人しか乗っていない。庶民にとって航空運賃は高根の花だろうし、この地域には観光客も少ないから割引運賃もない。世界で最も貧しい国々が、国際共同の航空会社をつくって何とか体面を保っているという感じがする。

 赤茶けた地面の海岸線を見ながら離陸する。天気が悪く、すぐに雲の上になってしまう。

 

 

 1時間半の飛行で到着したコナクリ空港のターミナルビルはトタン屋根の2階建てであった。市街地は海に突き出た半島に位置しているから、いくらかは快適だと思われるものの、周辺は一面の湿地帯やマングローブ林で、いかにも健康に悪そうな土地である。

 ビーフストロガノフの機内食を食べ終わって、いよいよアビジャンに到着した。ここもターミナルビルまではタラップから歩いてゆく。ただし、建物は一応、鉄筋コンクリートである。

 

 空港から6番の路線バスで、市街へ向かう。その前に道端の露店で椰子の実を買った。もちろん、中の水を飲むためなのだが、CFA(セーファー)フランの小銭を作る思惑もある。ところが1000フラン札を出したら、売り子が持っている小銭を全部出してもお釣りには足りないことが判明した。そこで売り子は椰子の実をもう一つよこした。ターミナルビルを出て以来、熱帯雨林気候のわりに道路がホコリっぽいと感じていたので、2個分の椰子水を飲んでおく。

 

 SOTRA(アビジャン交通公社)のバスは後乗りであった。車体の最後部が広いデッキになっていて、車掌はデッキと客室の間に立っている。乗客はまず後部デッキに溜り、順次、車掌に運賃を払って客室に入ってゆく。なかなか合理的な仕組みだと思う。

 バスは、みすぼらしい露店の並ぶ市場、ヤギや牛の家畜市場、それに何の変哲もない団地となぜかたくさんある植木屋を見ながら走って、トレッシュビル地区に入った。トレッシュビルは海岸沿いのラグーンに浮かんだ島にあって、アビジャンの下町と言われている。直交する街路は、東西方向がアヴェニュー、南北方向がリューで、それぞれ数字が振られているので、味気ないけどわかりやすい。但し、大きな通りには固有名詞が付けられている。

 

 

 

 2月6日通りを適当な停留所で降りて、目星を付けておいたジャニックという名のホテルに投宿する。2500CFA(1250円)で、アビジャンではかなり安い部類のホテルである。部屋にシャワーやトイレがついているのは良いとしても、コンクリートの壁で仕切ってあるだけでドアもないので、なんだか刑務所に入っているみたいだ。

 ベランダに出ると、アビジャンの中心であるプラトー地区のビルが遠くに見えていた。コートジボワールは、アフリカの日本とも言われているそうで、この統一感のない街並みは確かに日本の風景と似ている。

 

 

 足元を見れば、若者がサッカーゲームに興じている。パイプに取り付けた人形が開店するだけの単純な仕掛けであるが、上手にプレイするにはかなりの熟練を要するゲームである。

 

 

 部屋に荷物を覆いて、街歩きに出かける。2月6日通りは、街路樹の下に雑貨の露店が並ぶ繁華街であった。ハンガーにかけた服を手にして歩道に立つ男の売り子たちも多い。

 

 

 

 北へ歩いてゆくと、モスクが二つ、向かい合って建っている。周辺の歩道には白衣姿のムスリムたちが座り込んでいて、カメラに向ける視線に敵意を感じる。

モスクの図柄を織り出した蓆を路上に並べて売ってもいる。それを、マリの王様みたいに豪華な衣装を着た男が値踏みしていた。

 

 

 

 モスクの先は市場であった。中央部こそコンクリート製の建物があるのだが、その周囲はバラック寄せ集めの衣料品街で、通路も滅茶苦茶に通っている。足元はぬかるみ、異様な匂いもする。

 建物中央は吹き抜けで、野菜市場になっていた。しかしながら、商品はトマト、ピーマンとヤム芋の3種類しかない。

 

 

 この市場、魅力的な被写体は無数にあるのだが、ここでも写真は歓迎されないようだ。

 

 

 ホテルのそばまで戻ると、道いっぱいにテントが張られ、太鼓の音がしている。イスに座っているのは、きちんとした身なりの女たちで、ひとりずつ飛び出しては太鼓に合わせて踊り出す。手や腰の動きがとても激しい。ちょうど部屋のテラスから見下ろせる位置なので、ホテルに戻って鑑賞させてもらう。

 

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