ニジェール川はピナンスに乗って 1990年
5 モプティ(1)
モプティの警察署で滞在登録を済ませ、ホテルへ向かった。目指すは川岸に廃船を繋いでホテルとしている、その名もオテル・フロタンである。この街はマリ中央部の交通の要とはいえ、ホテルに泊まるような旅行者の絶対数は少ないのだろう。街全体でもホテルは数軒しかないのに、がら空きであった。
宿泊料金は1泊1500CFA(750円)と西アフリカにしては安いほうであろう。しかし、洗面所の水もシャワーの水も生ぬるく、緑味を帯びている。川の水を汲み上げているのであった。新市街の中央部には給水塔がそびえたっているから、街に水道がないわけではない。警察署の近くにあるカンプマンにした方が良かったかなと少しばかり後悔する。
それにしてもこのホテル、陸側のデッキには蓆が廻らされたりして、相当の老朽船のように見える。だが、船体のどこかに1951年ベルギー製と書かれた銘版があったから、そう古いわけでもない。
ホテル周辺の岸辺は、地元の人たちの洗濯場になっている。中学生くらいの少女も岸辺でゴシゴシと衣服をしごいて洗っている。洗った後の衣類は、泥まみれの石畳に広げて干している。陽射しが強烈だから乾くのは早いだろうが、すぐ上流側ではオートバイを洗ったりもしているし、あまりきれいになるとも思えない。
そんな風景を眺めていると、岸辺にひとりの若い女がやって来た。藍染の生地に細かい水玉模様を散らした上着をまとっている。その女があたりを見渡したかとおもうと、上着を脱いだ。その下には、白地に大きな青い水玉模様の衣装をまとっている。そして、その衣装も脱ぎ捨てるが、下にまだ着ているものがある。今度は黄色、黄緑、橙色の三色が縦縞になった服で、なかなかお洒落な人だなと思う。ところが彼女たるや、水に少し入ったところでチョイとしゃがんだかと思うと、おしっこをしているではないか。
何事もなかったような顔で彼女が立ち去った後、すぐにやって来た少年が同じ場所で顔を洗う。流れがあるから同じ水ではないだろうが・・・
昼間はとにかく暑いので、陽が傾いた頃を見計らって、街歩きに出かける。
ホテルの上流側は舟着場になっていた。お客を満載した手漕ぎのピナンスが対岸とのあいだを行ったり来たりしている。対岸といってもそれは大きな州にすぎないけれども、目の前を流れるバニ川とニジェール川本流とを分けている土地である。望み見れば集落は3つにわかれており、かなりの人家が並んでいるようだ。トゥアレグ族の村だと言う人もいたが、彼らは円い草屋根の家に住むだろうか。
川を上り下りする船にはもちろん発動機船もあって、大型のそれはピナンスと呼ばれている。下流側の方に行くと、そうした船のためにフロートに載った給油所もあった。
その先に、定期船の事務所があるので立ち寄る。しかし、上流方向への船は5日後までない。もっとも、週1便しかないことは予めわかっていたので、出航日を確かめたというに過ぎない。
ところで、この街にはホテルと同様、レストランも少ない。街を一周してみたのだが、オテル・フロタンの向かいにある「福寿禄」なる中国料理店くらしいしか目ぼしい店がない。
唯一有難かったのは、新鮮な牛乳が買えることであった。厚手のプラスチック袋に入っていて、よく冷やしてある。青い印刷の牛乳と、赤い印刷の酸乳とがあり、酸乳の方が気に入ったので牛乳屋に立ち寄っては買っていた。何度目かに寄ったとき、主人が名前を紙に書かせて、それを壁に貼ってある営業許可証に書き付けた。この牛乳、流通に難があるのか、ついぞ他の街ではお目にかからなかったから、モプティ名物のひとつと言ってよいかもしれない。
市場で3個100CFA(50円)の温州ミカンと、イチジクに似た果物を買って帰る。ミカンは皮が薄く、なかなか美味しかった。イチジクに似た方は固い果皮を剝いて内皮や種の周りの甘いところをしゃぶる。
日暮れ時、ホテルの屋上デッキに上がる。この時刻になるとさすがに川風が涼しい。夕日に背を向けてお祈りをしている人もいる。ここではメッカの方向が東になるのだ。
やがてC氏、D氏も上がってきて、スケッチなぞを始めた。絵を描き終えてしまうと退屈になったのか、それぞれが「仏教の教義はなにか?」だの「ムスリムをどう理解しているか?」などと議論をふっかけてきたのには困った。このような難問に、私のフランス語力では答えが覚束ない。もっとも例によってドイツ人のD氏は輪廻の思想こそ仏教の根本教義だととらえているようなので、適当に話を合わせておいた。
C氏、D氏と連れだって福寿禄へ夕食を食べに出かける。北京風ライスという、酢豚のせ飯のようなものを食べる。
部屋へ帰ると室内にはまだ熱気がこもったままだった。船というものは総体が鉄板でできているのだから、昼間の直射日光で屋根が熱せられる。その屋根がこの時間になって室内に熱を放射しているのである。
デッキに面したドアを開け放して、手すりにもたれて涼んでいると、土産物売りのおっさんがやって来た。バンバラ族の仮面やらフラニ族の腕輪などを見せてからおもむろに商談に入る。性行為の人形なども持っていて、わざわざアフリカでこんなものを買うやつがいるのかなとも思う。特に買いたい品物もないので、ネコのペンダントがあったら買ってもいいと言っておく。
デッキには灯りに誘われて飛んでくるバッタがたくさんいる。あまりに多いので、そこかしこで踏みつぶされてしまっている。動作はノロく、手で捕まえると片足を捨てて逃げる。このホテルに住み着いている三毛猫がバッタたちを狙って、デッキを飛び跳ねていた。
ホテルの隣にもやってある船はバーになっていた。、夜になると緑色の明かりが灯り、スピーカーからは音楽が流れてくる。スピーカー自体がひび割れているから、音もひび割れている。ところが、曲の中には日本の演歌も混ざっている。バーテンが口ずさんでいるから、カセットテープか何かでいつも同じ曲をかけているのだろう。私の顔を見ても何も言わないから、日本の歌だとは知らないらしい。
* * *
翌朝、まずは港とその周辺に広がっている市場へと行ってみる。店舗となっている小屋はひねた材木に蓆を掛けたような貧弱なつくりで、それすらなく地面に商品を直接並べている人も多い。
半島状になった港の先端部へ向かう。干魚が並んだ一角があり、猛烈な臭いが立ち込めている。このあたり、船着き場に面した側にはまだまともな小屋が並んでいるのだが、裏手の方は乞食小屋同然のみすぼらしさである。広い水面を隔ててグラン・モスクや旧市街の土の家並みが見えているので、後であちらへも行ってみようと思う。
さて、港の側に戻ろう。こちらに停泊している船はキャンバス地の屋根も備えた大型のピナンスである。これらはモプティで買い入れた品物を地方の村々へと運ぶのが主な役割と思われる。地面に大きなひょうたんやゴザが縛られて置いてあるのは、これから船に積み込まれる商品なのだろう。大きなズダ袋を背負って船に運び込む人足も多い。
港というより「湊」と書いた方が似合うような時代がかった光景を眺めている間にも、少年たちが「ドゴン、ドゴン」と叫びながらまとわりついてくる。仮面で有名なドゴン族の村に宿泊するツアーを紹介するというのである。それなりに面白そうではあるのだが、観光化された少数民族の風俗を見物するのは気が進まない。
そう思っていると、中学生くらいの男の子が声をかけてきた。3つのモーターがついたピナンスが24時間でセグーまで行くのだと言う。
彼の後について行き、船の傍らで値段交渉する。翌朝7時出港で、料金は5000CFA(2500円)。ノートに双方がサインして、それをちぎった切れ端が切符になる。ニジェール川の船旅が実現するのだ。少年にはチップを奮発した。