アラゴン連合王国 旅行記  2025年

20 ローカル線に乗ってピレネー山麓へ(2) 

 

 

 

 ソシスから隣村のクラベロールに移動する。両村の間は水平距離では900メートル程しか離れていないが、標高差は150メートルもある。ソシスの村はずれから見上げると、クラベロールは遥かな高みに位置していて、まるで天空の城のようだ。

 

 

 

 

 

 

 地図を見ながら車道を少し歩き、途中から踏み分け道に入る。地図上で距離と等高線とを勘案して決めた経路である。しかし、思っていた以上に勾配がきつい。赤茶けた土に瓦礫が混じり、しかも石の稜が尖っていて大変に歩きにくい。

 

 

 

 

 

 背後を振り返ればソシスの家並みが徐々に沈んでゆく。一方でクラベロールの家並みは、すぐ手の届きそうなところにあるのになかなか近づかない。

 

 

 

 

 

 気分は巡礼者なのは良いとしても、陽ざしを遮るものなど何も無いので大変に暑い。ペットボトルの水がどんどん減ってゆく。

 結局、この区間を歩き通すのに45分もかかってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 クラベロールの村を下から見ると、壊れた石積みの円塔と教会の角塔が目立っている。村への入口に取りつくと、その円塔の側にある建物の下にアーチが設けられていた。今でこそ集落の裏手に車道が通っているのだが、かつてはこの門が唯一の入口だったのだろう。ここを閉ざしてしまえば、張り出した尾根上の小さな独立峰に位置するこの村は、難攻不落の要塞として機能したに違いない。詳しい地図を見ると、集落内の東西2か所に貯水池もあるようだ。

 

 そんなことまでわかるのは、カタルーニャ州の地図サイトのおかげだ。言わば州地理院地図といったところだが、画面上で拡大していくと地籍図レベルにまで達することができるのである。

 余談だが、日本の地理院地図サイトはやたら複雑な機能があるばかりで操作性が悪い。地表の(時には地下や上空の)あらゆる事象を記録しようとする意欲にも乏しく、ヨーロッパ各国の精妙な地図とは比較にならないほど情報量が少ない。紙から電子データへと媒体が変わっても、このあたりの事情には変化が見られないようだ。

 

 

 

 

 

 

 それはさておき、アーチを通り石壁の間の路地を抜けて行くと、小さな広場に出た。広場というより城砦の郭といった趣である。階段の上からは崩れかけた瓦屋根越しに、サン・アントニー湖が望める。湖面から吹き上げて来る風が心地よいので、暫時休憩する。

 

 

 クラベロールからの帰り道は下る一方だから、かなり楽である。ソシスの家並みや先ほど歩いた急坂を望みながら車道を少し歩き、途中で踏み分け道に分け入る。車道を行くと3倍以上の遠回りなのだ。入り口の目印は頭上の高圧電線である。

 

 

 

 草木の繁茂するこの季節であっても、踏み跡が途切れることはない。それなりに通行する人がいると思われる。

 往路に通ったクラベロール橋の近くまで降りたところに「クラベロールの旧道」と書かれた案内標識が立てられていた。

 

 

 ポブラ・デ・セグー駅近くのバルにて、ボカディーリョ・ケソ、アップルパイとファンタレモンの昼食。こちらのファンタレモンには、レモン果汁6パーセントの表示がある。歩き疲れた体に、少しは疲労回復効果があるだろう。

 

<  に続く>

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アラゴン連合王国 旅行記  2025年

19 ローカル線に乗ってピレネー山麓へ(1) 

 

 リェイダから北へ、ピレネー山地の奥深くに向かって1本のローカル鉄道が伸びている。終点ポブラ・デ・セグーまでは89.35キロメートルもあり、なかなか長大な盲腸線である。

 地図を見ると、線路はセグレ川の支流につくられた4つのダム湖に沿って走っている。トンネルが40本,橋が75本もあるそうで、トレン・デル・リャク(湖列車)と名付けられた観光列車まで走っているらしい。

 運行会社はバルセロナの都市交通の一翼を担うFGC(カタルーニャ鉄道)で、同社の他の路線とは接続していない。

 途中のバラゲーまでは1924年の開通、終点まで伸びたのは1951年と比較的新しい路線でもある。

 

 今日は、この線の終点ポブラ・デ・セグーから、近くにある二つの山上集落、ソシスとクラベロールを訪れてみようと思う。

 

 

 朝7時32分発の列車に乗るために、リェイダ駅へ行く。ホールの券売機を操作してみるが、行先にポブラ・デ・セグーが出て来ない。窓口へ行って尋ねると、FGCは車内で支払うのだと言う。

 カフェテリアを横目に駅舎内の通路を抜けて、地下道から一番遠くのホームに出る。中・長距離列車用ホームに出るには手荷物検査を受けねばならないが、こちらはフリーパスだ。

 

 

 車両は新しく、窓が大きくて快適だ。チャコールグレイのシートモケット、オレンジ色のヘッドレスト。2両編成の中間にエンジンを収めた短い車両がはさまっている。スイス製だそうだ。

 リェイダ駅に停車中に、真っ赤なポロシャツを着た車掌が回って来る。ハンディタイプの端末を持っているが、運賃を受け取っただけで発券しない。

車内は座席が7割がた埋まっている。程よい混雑ぶりだ。

 

 乗客は移民らしき風貌の人が多い。そう言えば、街なかでは移民を多く見かけても、AVEに乗っているのは白人ばかりであった。移民は旅行する余裕などないということなのだろうか。

 その移民風の男女は、最初の停車駅で降りて行った。駅の近くにある大きな工場に通勤しているらしい。

 

 この列車はもちろん普通列車であるが、小さな停留所には止まらない。通過しているというより、これらの停留所は乗降客があるときだけ停まるということらしい。自動音声の放送で「降りるなら知らせろ」と言っているようなのだが、カタルーニャ語とスペイン語だけなのでよく分からない。カタルーニャ語優先はまあ良しとしても、カタルーニャ語が分かる人はスペイン語も分かるはずで、この二言語で放送する意味はあまりないと思う。

 

 

 途中の大きな町、バラゲーから学生たちが乗ってきて車内が騒々しくなった。男女が分かれて座っているところを見ると中学生のようだ。彼らは山地に入ったところのダム湖に沿って設けられたサン・ロレンツ・モントガイ駅で降りていった。眼下の街道には旅籠ふうの建物が見える。

 

 

 

 

 長いトンネルを抜けると、次のアジェまで土の断崖峡谷が続く。アジェという駅の手前では、対岸の崖上に城砦と教会が見えた。

 

 

 

 

 大断崖はアジェの先にも続く。小さな石橋、素掘りのトンネル。湖はどれも人造湖で、樹木がトドワラのように水面から立ち上がっているところも多い。樹の生命力とはすごいものだなと思う。

 

 やがて少し眺めが開け、グアルディア・デ・トレンプという停留所を通過する。背後の山上に城砦がチラと見えた。

 

 

 

 この沿線ではバラゲーに次ぐ規模の街であるトレンプを出ると、張り出した尾根の絶壁上に要塞のような集落が見えてきた。尾根をトンネルで抜けると、今度は同じ集落を反対側からも見ることができる。

 

 再び視界が開けて、4つめの湖であるサン・アントニー湖に沿って走りだすと、まもなく終点ポブラ・デ・セグーだ。所要時間は1時間37分。ローカル線とは言え、せめてこのくらいの速度で走らないと、クルマやバスに太刀打ちはできないのではなかろうか。

 

 

 ポブラ・デ・セグーの駅は無人駅であった。一応は観光案内所になっているのだが、詰めている人はいない。駅は街はずれにあり、しばらく国道沿いを歩く。車の通行量は比較的多く、大型の観光バスもよく通る。この道はフランスやアンドラへも抜けることができるからだろうか。

 

 

 街なかには入らずにわき道に逸れて、水量豊かな川を渡る。橋の名はクラベロール橋という。古くからここには橋が架かっていたのだろう。

 

 

 渡った先から樹林の中の小道を登ると、すぐに小さな礼拝堂がある。白い壁に鉄さびた色合いの石材。スペインらしい教会だなと思う。

 

 

 

 さらに上って舗装道路に出ると、あとはソシスの村まで一本道である。谷を隔ててポブラ・デ・セグーの街並みが見えているのだが、新しい建物が多くあまり美しくはない。

 

 

 ソシスの綴りはSossisであり、6文字中4文字をSの字が占めている。

村の標高は600メートルだから、ポブラ・デ・セグーとの標高差約100メートルを2キロメートルの道のりで登ることになる。

 目に入る山なみには樹々が多い。手前の丘陵地帯も耕地や果樹園となっている。この国にしては緑の割合が高い景色なのだろう。もっとも山の中腹には硬そうな岩石の地層が見えているから、地味は痩せているのかもしれない。

 

 

 

 やがて前方の山腹に石造りの家が固まったソシスの家並みが見えてきた。ソシスの人口はわずかに26人。その割には大きな館が多い。家並み直下の谷間には四角く塀で囲われた墓地があって、この道から垣間見ることができる。

 

 

 村の入口まで来ると、道の傍らに使われなくなった発電タービンが置かれていた。説明板も立てられていて、記念物として扱われている。しかし、タービン自体は野ざらしだから赤さびだらけだ。先ほど通ったクラベロール橋の近くにある水力発電所で使われていたものだそうだ。

 

 

 

 

 坂を上り切って村に入る。村の中心は、谷に向かって開けた場所に建つ聖母降誕教会。道路から見上げたとおり、石造りの家が密集している。

 

 

 

 

 

 

 大きな家々に生活感はあり寂れた感じはしないのだが、どの路地もひっそりしている。こんな小さな集落でもメインストリートはMajor通りと名付けられているのが何だか可笑しい。

 

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18 モデルニスモ建築を巡る - リェイダ(5) 

 

 

 スーダ城を出て旧大聖堂を取り囲む胸壁上のテラスに出る。一段下がったところにカフェもあって、夜中の1時まで営業しているそうだ。見晴らしがよさそうではあるが、わざわざ入るまでもないと思い、裏手の門を出る。城なら搦手とでも言えそうな門であるが、こちらにもエレベーターが設けられていた。

 

 

 ところが、エレベーターで地上階に降りると、扉のすぐ前でホームレスの黒人青年が布団にくるまっている。白昼のこととて身の危険は感じないが、城砦の下に続く遊歩道を歩いていても何だか落ち着かない。

 

 

 

 

 城山を半周して新大聖堂の脇に出てきた。ふと上を見上げると、聖堂ファサードの塔の屋根にコウノトリの巣が見える。しかも写真を撮っていたらこちらに気が付いたのか、威嚇するような姿勢をとるではないか。白い羽毛のヒナもみえるから、気が立っているのかもしれない。

 

 

 

 喉が渇いたので、サン・ジョアン教会脇のヤグールトなる店で休憩。べつにヨーグルトの店というわけではなく、冷菓や冷たい飲料全般の気軽な店である。スイカのシャーベットを頼んだら、シャーベットというよりかき氷に近い飲み物だった。

 

 

 ところで、このリェイダという街は、カタルーニャの中では少々異質なところと捉えられているふしがある。確かにアラゴンとの境界にも近いし、山越えや海沿いの隘路を行かねばならないバルセロナよりも、エブロ川沿いの平地をたどれるサラゴサとの往来の方が便利そうだ。

 そんなリェイダであっても、二十世紀初頭にはモデルニスモ建築の波が押し寄せてきたのは確かなようだ。それらの多くは繁華街のマジョー通り、そして業務地区の中心とも言えるブロンデル通りに立地しているので順番に見て行こう。

 

 

 まずは、ブロンデル通りの西端に建つ、カサ・バロー。角地に建つ上品な色合いのビルで、地上階の盾形をした開口部が特徴である。

 

 

 続いて、同じ通りに数軒隔てて建つ、カサ・モレラ。胞子植物を思わせる装飾が楽しい。それにしても、かなりのペンシル・ビルではある。

 

 

 上述の2軒あたりのブロンデル通りは寂しげな界隈であるが、わずか100メートル余りしか離れていない旧サンタマリア病院の裏手まで来ると急に人通りも多くなる。そこに、元は映画館だった建物が今はカルチャーセンターになって残っている。

  この建物と色合いもよく似た装飾をラトビアのリガでも見た気がする。

 

 

 ブロンデル通りが、川沿いの広場になったところに建つビル。これはモデルニスモというより新古典というべきか。

 

 

 セグレ川に面した段差のある広場の角に建つ、カサ・メルシオー。

 

 

 同じくセグレ川に面し、市門の近くにあるエディフィチ・パラス。こちらはファサードだけが保存され、背後に青いガラス張りのビルが立ち上がっている。

 

 

 駅に近い商店街に建つ、カサ・モントゥル。

 

 

 

 

 

 

 そして、マジョー通りの中心部、道幅もひときわ狭くなったところに建つカサ・マギ・ロレンツ。リェイダにおけるモデルニスモの白眉とも言うべき建築である。ところが、道が狭い上に角のバルコニーを網で覆っているので、外観はあまりよく見えない。地上階はもちろん店舗であり上階はアパートなので、内装も玄関ホールまでしか見ることができない。

 

 

 

 モデルニスモ建築巡りはこれで終了。

 マジョー通りを戻る途中、いつもは閉まっているサン・ペレ教会の玄関が開いているので入ってみる。何かの催しがあるらしく、その準備をしている最中だった。

 

 

 

 今日の夕食はカラゴルス・ア・ラ・ジャウナ。要するにエスカルゴである。種村直樹の「ユーラシア大陸飲み継ぎ紀行」を読むと、スペイン各地のバルでビールのつまみにカタツムリが出されたようだ。季節も同じはずなのに、30年を経た今となっては気軽な食材ではないようだ。いずれにしろリェイダ名物とあっては、食べずにはいられない。

 鉄板に載せられたカタツムリは54個もあり、串でほじくって食べるのに1時間以上かかった。(1個1分で食べても54分かかる計算だ!)

 さすがにカタツムリだけでは後でおなかが空くので、キノコのリゾットも頼む。見かけは色が悪いが、何種類かのキノコの香りがとても良い。今回の旅行で唯一の贅沢な?食事であった。

 

 

 宿に帰る途中の道から、昼間歩いた旧大聖堂下のテラスが西日に照らされているのが見えた。

 

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17 歴史都市に中世を思う‐後編 -  リェイダ(4) 

 

  

 サン・ロレンツ教会を見学し終えたところで、そろそろ昼食の時間である。商店街のマジョル通りへ下るが、今日は日曜日なので人通りがほとんどない。飲食店も半分ほどしか開いていず、選択肢が少ない。結局、朝と同じ「365」の店でサンドイッチをつまむ。サンドイッチといってもかなり大ぶりで、十分におなかがふくれた。

 

 

 

 

 

 サン・ジョアン広場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで丘に登る。胸壁に穿たれた門をいくつかくぐると旧大聖堂の前に出た。

 

 

 

 

 今日はとりわけ陽射しが強いので、建物内に入るとホッとする。最初に入ったホールで、スーダ城と共通の入場券を購入すると、詳細な説明のパンフレットをくれた。なんと日本語版まで用意されている。

 

 

 

 ホールを先へ出るとそこは中庭を囲む回廊と聖堂本体とのあいだに位置する通路になっていた。聖堂の正面に回廊が位置しているのは珍しい。地形の制約がある上に宮殿も建っているからこうなったのだろう。通路の突き当りは、市街地を見下ろすテラス窓になっている。宮殿や大聖堂を訪れた賓客は、このテラスでもてなされたのだという。

 

 

 

 中庭は残念ながら一部が工事中であった。しかし、足場の間を抜けてゆくと、鐘楼への登り口があった。表示板の類がないから、塔に登れることに気付かない人が多いようだ。

 螺旋階段を登る。午前中に訪れたガルデニー城では時計回りで登ったが、ここでは逆回りである。登り時計回りの方が右利きの人間にとっては防衛上有利だから、古い城砦では皆そうなっている。反対回りなのは、大聖堂は表向き戦闘用の施設ではないからか、それとも建てられた時代が新しいからなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともあれ、頂上に達すれば眺めは素晴らしい。市街地がコンパクトにまとまっていて住みやすそうな街である。

 

 

 

 

 鐘楼から降りて、堂内に入る。現役の大聖堂ではないから内部は空っぽである。それだけに石造建築の空間構成が力強く迫って来る感じがする。

 

 

 

 ところどころに上面が鏡になった巨大なテーブルのようなものが置いてある。覗き込むとクーポラの天井が逆さまに写っている。ただそれだけのことなのだが、吸い込まれそうな感覚にとらわれる。

 

 

 

 

 柱頭彫刻は想像上の動物が絡み合ったりしてロマネスク風である。しかし、屋内であっても石材は全般に風化が激しく、何を表現しているのか判別しがたくなっている箇所が多い。もっとも修復は精力的に進められているようで、輪郭が妙にくっきりとした彫刻や柱が混在している。

 

 

 

 

 

 壁面には彩色された壁画も多く残っていて、イスラムの影響を受けたと思しき文様もある。だが、端っこの方では手を抜いたのか、きちんと線がつながっていなかったりする。だから、彫刻の繊細さに比べると、壁画の方は稚拙な印象を受けてしまう。

 

 

 

 大聖堂を出て斜路を登り、隣合うスーダ城に入る。しかし、内部は室内楽ができる程度の部屋がひとつあるだけでしかない。それも壁の三方は現代建築である。言い方を変えれば、城の遺構は壁1枚しか残っていないということだ。往時の絵を見ると、トンガリ屋根ののった円塔などもあったらしいが、そんな華やかさは一片たりとも残っていない。

 階段を上り、屋上に出ると旧大聖堂全体が見渡せた。スーダ城に行く価値があるとすれば、この眺めだけだろう。(ついでに言えば、ここにはきれいなトイレもある。きれいなだけに、特に女性用は混み合っていた。)

 

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16 歴史都市に中世を思う‐前編 - リェイダ(3)   

 

 リェイダ新市街の地下室アパートで、快適に目覚めた。今日は一日かけて、この街の主要な見どころを回るつもりである。

 

 

 7時30分、行動開始。線路を越えて旧市街の商店街を歩いて行く。外気温は24度、日曜日だから人通りも少なく、気持ちよく歩ける。

 

 

 市庁舎の近くにある「365」というカフェテリアでバゲットサンドを食す。店名の由来は365日年中無休ということらしい。

 そう言えばサラゴサのどこかで「364/365と」書かれた店の看板を見たことを思い出した。こちらは年に1日だけは休むらしい。

 

 

 

 

 

 朝食のあとは、そのまま商店街を南下する。市庁舎や教会の壁面に取り付けられた顔や紋章もゆっくりと観察できる。こうした彫刻は、人間にしろ想像上の生き物にしろ、教会の装飾なのに鼻クソをほじくっていたり、はたまたベロを出したりとユーモラスな表情をしているのはどうしてだろう。

 

 

 

 

 商店街の真ん中あたりに、角塔が建っている。14世紀のサン・ジャウメ礼拝堂である。通りから窓を覗くと、内部はキリスト教の宣伝ジオラマのようだ。しかし、いつ通っても、道に面した入口の扉は閉まっている。

 

 

 

 店のショーウインドウを覗いたりしているうちに、急に便意を催してきた。現在地の近くにバスターミナルがあるのを思い出す。そこならきっとトイレがあるはずだ。

 ところが、そのバスターミナルは何とも恐ろし気なところであった。中層の住宅団地の下に位置しているのだが、照明が暗く単なる地下駐車場のようなところでしかない。待合室も無ければ切符売場もない。以前は有人窓口があったようだが、今は閉鎖されている。もちろん、売店やカフェの類もない。この街の黒人は低地には降りてこないのに、このターミナルの周囲だけには彼らがたむろしているのも変だ。そして、トイレもない。

 あきらめて、外に出ようと通路を抜けると、半開きのドアがあった。何気なくその中を見ると、工事現場にあるような簡易トイレが室内に置いてあるではないか。もちろん、部屋のドアやその周囲には何の表示もない。

 ありがたく使わせていただいたが、トイレットペーパーはあっても洗面台がないから手を洗えない。

 

 

 ターミナルを出てセグレ川の土手に出る。河川敷の芝生にスプリンクラーが設置されて水を撒いているので、その水で手を洗わせてもらった。ついでに対岸に渡り、旧市街の丘を昨日とは別の角度から眺めておく。

 

 ところで、トイレを借りたバスターミナルであるが、現在、鉄道駅の隣接地に新しいターミナルを建設中である。今のターミナルは味わいがあると言うより身の危険を感じるレベルなので、新ターミナルの開業が待ち望まれる。交通の結節点としての機能も向上することだろう。

 

 

 

 さて、商店街の通りに戻り、さらに南下していく。目指すは街はずれの丘に建つガルデニー城である。

 丘の斜面に取りついた小径を登ってゆくと、鉄筋コンクリートの武骨な建物が現れた。玄関の上には愛国者の何とかと書いた文字がかすかに残っている。フランコ独裁時代に建てられた施設なのだろうか。

 

 

 

 ガルデニー城はテンプル騎士団の拠点だった城である。騎士団とは修道会にして軍団という鵺的な組織であって、その城だから大きな礼拝堂を中心にした城砦だ。外観のわりに内部には複雑な地下通路が廻っていて、探検気分が味わえる。騎士団の種類は違っても、イスラエルのアッコで見た地下病院と何だか似ている。

 

 

 各部屋には当時の生活を再現した人形が展示されているのだが、穴倉のような室内での食事は何とも侘しそうだ。

 

 

 

 

 

 屋上に出ると、旧大聖堂やその下に広がる街並みの眺めが良い。見とれていると、背後で轟音が響いた。振り返ると真っ赤なIRYOが、高速新線を駆け抜けていくところであった。

 日本の新幹線だったらあのあたりに「新リェイダ」駅を設けてすますところだろう。だがスペイン国鉄は市街地に接した在来駅までの迂回線を、無理してでもつくっている。(無理していることは、リェイダ駅の前後で複線だった在来線の1線を新幹線用に転用していることでもわかる。)利用者にとってどちらが望ましいかは言うまでもないだろう。

 

 

 

 

 ガルデニー城を後に、次なる目的地、ディポジト・デル・アイグァに向かう。道行きはリェイダ西部の新市街であって、建物は現代のものなのであまり面白くない。しかし、その中にモデルニスモ風の学校らしき建築を見つけた。1910年代の建設で「テアトロ」などとも書いてある。市民劇場も併設した演劇学校らしい。

 

 

 その先で旧市街の外環通りとも言えるランブラ・ダラゴ通りに出る。アラゴンのランブラという名前ではあるが、ただの並木道で道路中央の遊歩道はない。大きな建物の外壁に市壁を埋め込んだような帯が作られている。この沿道にもモデルニスモ建築が並んではいるのだが、ファサードが街路樹に隠されてしまっている。

 

 

 

 さて、ディポジト・デル・アイグァとは何かというと、これは1184年に造られた地下貯水池である。1000立方メートルの貯水能力があり、20世紀になるまで使われていたそうだ。

 入場は無料。但し、土曜と日曜の11時から14時までしか開いていないので、なかなか見学しにくい。

 

 

 

 

 地上には歴史資料を展示した小さな部屋がある。そこから階段を降りて、濡れた貯水槽の床に降り立つ。1000立方メートルはすなわち10メートル立方だからそれほど大きな施設ではない。

 しかし、水を抜いても今なお湿っぽい空気や、照らし出されたがっしりとした四角柱が、えもいわれぬ雰囲気を醸し出している。

 

 

 

 実はこのディポジト・デル・アイグァからはプラ市場やサン・ロレンツ教会は至近の距離にある。昨夕には入れなかったサン・ロレンツ教会に行って見ると、今日は玄関扉が開いていた。

 

 

 サン・ロレンツ教会は、この街では新旧大聖堂に次ぐ規模の教会である。しかし、内部にはほとんど照明もなく、地元の人々の信仰の場といった色が濃い。

 

 

 この教会、外壁にルーローの三角形型をした小窓が開いている。この形の窓は珍しい。よく観察すると、縁の石組が不自然な感じもする。いつの時代につくられたものだろうか。

 

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