琉球王国のグスクを巡る 2026年
10 首里(2)
守礼門からゆるやかな坂道を下り、玉陵へお参りする。玉陵も琉球切手の題材に取り上げられていて、カタログには「たまうどん」とふりがなが振られていたことを覚えている。もっとも、小学生の身では玉陵が何かもわかっていなかったのだが。
その玉陵が、歩道から照葉樹や松の向こうに見えている。石の障壁に石の門、石の屋根、背後の壁も石垣であるから、まるでジャングルの中の古代都市遺跡のようだ。
首里城と敷地は連続しているのに、こちらまで足を延ばす人は極端に少ない。
チケット売場のある建物は小さな展示室になっていて、戦前に撮影された墓室内や骨蔵器の写真が展示されている。なるほど、見学できるのは外観のみだから、ここでの学習は必須というわけだ。
障壁に開けられた長方形の門をくぐり抜けると三連の墓室の前に出る。これは完全に石造りの宮殿だ。全体の印象はマヤ遺跡のようでもあり、軒の垂木を石で模しているところなどインドの寺院を思わせるところもある。
墓室の間には石造円塔が建っている。何の用途なのか、何の意味があるのか、どこにも解説がないからわからないが、日本には他に類例がないのではないだろうか。ただ、この円塔があることによって、三頭いる石獅子の基壇が全て違う形になり、外観にリズムが生まれているのは確かだ。
玉陵の脇から切り通しを抜けて、寒水川樋川(スンガーヒージャー)へ行く。ここは急斜面を利用した公園の中にあり、きれいに整備されていた。今は水が流れていなくても、どこかで水音がしている。
このあたりには石垣を廻らした民家もあり、古都の面影がわずかに感じられる。
路上のマンホールも紅型の文様のようで奥床しい。
首里城の方へ少し戻って、金城町の石畳を歩く。どのガイドブックにも載っている有名な坂道だからさぞかし観光客でごった返しているかと思いきや、ほとんど人通りがない。道の両側もただの民家で、カフェだの土産物店などはない。それどころか、収集を待つ家庭のゴミ袋が門の脇に出されていて、まったく普通の生活道路である。
唯一の観光施設として、金城村屋(カナグシクムラヤー)がある。これとて外見は昔ながらの民家であって、機能は休憩所にすぎない。金城村屋の前は石畳道の十字路になっていて、幽霊のようなガジュマルの木が真ん中に立っている。横手に回れば金城大樋川(カナグシクウフヒージャー)だ。
首里のいにしえを偲ぶには、この坂道が一番であろう。
坂下から車道を歩いて、金城ダムに出る。堰堤や周囲の擁壁も、緻密に積まれた石垣である。ダム湖の奥まで進むと、草木に埋もれた石橋を見つけた。ダム施設の一部かと思ったら、これはヒジ川橋と言って、200年以上前に架けられた橋だった。
この橋からは、丘上の御茶屋御殿へとヒジガービラなる坂道が伸びているのだが、土砂崩れでもあったのか、生憎と通行止めである。近くに迂回路はなく、沖縄自動車道のインターチェンジの方まで大回りをさせられる。
ビルの狭間の細い階段を上がり、ヒジガービラに続く路地を抜けると、公園の中に儀間真常の墓があった。玉陵の小型版といったところだが、移設されたものだそうだ。
ここからは、首里城に向かって尾根筋に公園が続いていて、雨乞嶽展望台からは那覇空港方向の眺めがよい。海の向こうに立ちはだかっているのは渡嘉敷島に違いない。こちらから見ると随分と大きい島に見える。
首里城突端の東のアザナも望めて、石垣の上に立つ人たちが見分けられる。
園地の片隅に御茶屋御殿にあった石獅子が置かれている。これも移設されたもので、御殿の跡地は、今、教会が建っているところだという。
金城町の石畳道をもう一度下って、今度はそのまま向かい側の坂道を上がってゆく。首里と那覇とを結ぶ真珠道である。古い道筋故、ハンタガーほか泉が次々と現れる。しかし、周囲は平凡な住宅地でしかない。水場の周囲にブロック塀が建ち上がったりして、殺風景なのが残念だ。
識名園の手前、真珠道からすこし逸れたところに、琉球八社のひとつである識名宮が鎮座している。由緒正しい神社には違いないが、さして広い境内ではない。狛犬が抱えている珠が大きく、手まりみたいな文様が刻まれている。
識名園は識名宮のそばにあると思っていたのだが、まだ600メートル以上も先だった。地図には歴史散歩道などと出ているけれども、ただの暑いクルマ道を歩いて、ようやく識名園に着いた。
見学用の入口とは別に本来の出入口が脇の方にある。通用門も正門もごく質素な門である。正門の方が丸瓦3個分だけ大きい。
園内に入り、番所や門の内側を見て、石垣に囲まれた通路を進む。左右にはいかにも亜熱帯らしい植物が枝葉を伸ばしている。
その先で、池のほとりに出る。二連の石橋が、ちょっとばかり中国風のしつらえだ。
ここからは池の周りを時計回りに歩いて行く。赤瓦をのせた御殿があり、復元されたものなので、内部も見学できる。間取りは本土の御殿と同様だが、随分と質素な印象を受ける。座敷から庭を望めば、通り抜ける風が心地よい。敷かれている畳は、琉球畳というわけではない。
石橋を渡り対岸へ。池に突き出した六角堂は、以前は四角い四阿だったそうだ。
世界遺産にしては不思議と見学者が少なく、快晴の空の下、のんびりと散歩させてもらう。さっきチケット売場にいたネコも、園路を横切ってどこかへ消えて行った。
順路のさいごは、木が1本しかないバナナ園を見て、勧耕台へ。ここから見ると海が目に入らないので、明からの冊封使に琉球が大きな島だと思わせたのだという。確かに海は見えないが、いくら何でも中国大陸とはスケールが違い過ぎる。仮にも一国の使節が、こんな小細工で胡麻化されたとは到底思えない。
識名園を出て、墓地の中を那覇中心部目指して歩く。斜面に亀甲墓が見えているので、近くで見てみたいと思う。しかし、墓域に足を踏み入れると、通路(というより家形墓どうしの間)が迷路のようで、どうしても行き着くことができなかった。
識名園から安里駅までは、直線で2キロメートル強しか離れていないので、さしたる距離ではない。やって来たのは、安里駅そばの食堂「魚まる」である。時刻は14時ちょうど。
名物のバター焼き定食を注文する。魚は「オジサン」。本日最後の一匹だという。ランチは15時半までのはずだが、危ないところだった。
オジサンの身は赤魚のような感じ、ランチなので刺身もついて大満足の昼食であった。
飛行機の時間までまだ間がある。先日迷い込んだ壺屋地区の路地が良かったので、もう一度行ってみる。前回は夕方で、その上、自身のいる場所も定かでなくなっていたから、強い印象が残っている。だが、今は白昼、しかも観光地として整備された壺屋やちむん通りから入ったから、地図上に現在地点がインプットされてしまっている。そんなわけで、あのときのような感動がない。
ただ、谷筋の壺屋やちむん通りから坂を上がって路地をたどると、どうしても出てしまう四差路がある。そこに建つ天ぷらと沖縄そばの店だけを記憶に留めておくことにする。
国際通りに戻って、おみやげを買いがてら那覇バスターミナルまで来た。待合室の油絵に描かれていた仲島の大石を見る。ビルの狭間になってしまったとはいえ、しめ縄も張られて健在なのは救いだ。
旭橋駅につながる歩道橋に上がると、地上にレンガを円く組んで柵で囲われたところがある。花壇にしては花がないし、よく見ると解説板らしきものも作られている。階段を降りて行ってみると、これは那覇駅の転車台遺構であった。沖縄戦で破壊された県営鉄道の痕跡が残っているとは知らなかった。軽便鉄道にしても、随分と小さな転車台だなと思う。
ゆいレールに乗って那覇空港へ。空港に着いたらちょうど日没の時刻であった。夕飯はファミリーマートのポー玉シリーズとゼブラパンで決まりだ。
[ 琉球王国のグスクを巡る おわり ]




























































































































































































