船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

7 バングラデシュからインドへ

 

 今日は国境を越えてカルカッタまで行く。第一の行程は、ジェソールまでの列車である。

 

 

 朝6時、リキシャに乗って駅まで行く。赤レンガ、平屋建ての倉庫みたいな駅舎だ。

 

 

 クルナ発車は7時30分。トーマス・クックの時刻表では8時となっていたから、早めに駅に来て正解だった。

 

 

 ホームに停車していたのは意外とまともな客車で、車体にはインターシティーと書かれてある。窓に格子はついていないしトイレも車室の端にある。トイレを覗いてみたら、ステンレス製のトルコ式便器で、手洗いの水もちゃんと出る。但し、窓ガラスは薄汚れていて、外の景色が薄暗く見えている。

 バングラデシュの西部を縦断する幹線なのに乗客は少なく、座席の三分の一ほどしか埋まっていない。

 列車は街を抜けると、バナナや椰子の木の下を走った。椰子の葉の付け根には小さな壺が引っかけてある。樹液を集めるのだろうか。

 

 

 ジェソールまでは1時間足らずだから、旅情を感じる間もなく着いてしまった。この駅もレンガ積みの駅舎である。

 

 駅前から国境行きのバスに乗る。隣に座ったオッサンは絵筆を手に持っている。何故にと尋ねると、座席の後方を指さして「アーチスト」と答える。

 見れば、リアガラス一面に青、黄、緑三色のベンガル文字が踊っている。フロントガラスには、ハイ・スピードだとかハイ・デラックスだとかラテン文字で書かれているのだが、こちらはSの字が裏返しになったりしている。

 駅前を発車したときには空席があったが、500メートル程の距離をゆっくりと走りながら、車掌が「ベナポール!ベナポール!」と叫ぶうちに通路までいっぱいになった。

 

 約1時間かかって、ベナポールの中心に到着。さらにリキシャに乗り換えて15分で国境に着いた。トラックが道に並んでいるだけの殺風景な国境であるが、金髪の旅行者グループもいる。パスポートを見たらスウェーデン人であった。

 

 国境のパスポート・コントロールではロード・パーミットを持っているかと聞かれた。すっかり忘れていたのだが、ダッカのホテルでも、船上でも、陸路でインドへ抜けるなら必要だと言う人も不要だと言う人もいてよく分からなかった。結論は、べつになくても全く問題なしであった。

 

 インドの入国審査を抜け、時計を30分戻す。両替所は何軒もあり、客引きが強引に連れ込む。バングラデシュのタカはここで両替せざるを得ないだろうが、レートは非常に悪い。

 インド側の道路には、タータのトラックがずらりと並んでいた。荷台の側面にはインドの国旗と「我がインドは偉大なり」とかいうデーヴナーガリー文字が書かれている。運転手もターバンを巻いたスィク教徒に替わった。しかし、通貨の呼称は変わらない。インド・ルピーも西ベンガル州では「タカ」と称するのだ。

 

 国境からまたリキシャに乗ってバンガオン駅へ。国境のこの区間にはかつて鉄道も通っていたはずだが、今は使われていない。

 リキシャから見る沿道の樹々には、おこのみやきみたいに整形して手形を捺した牛糞が貼りつけられている。写真を撮りたいと思えども、ひどく揺れるのでとてもムリだ。

 途中で、さっき国境にいたスウェーデン人たちを乗せたアンバサダーが2台、追い抜いて行った。

 駅までは40分以上もかかったのに、運賃は20「タカ」であった。換算すると66円にしかならない。何だか申し訳ないような安さだ。

 

 

 バンガオン駅舎はトタン波板の屋根で、何だか簡素な感じがした。護符みたいなものを売る子どもがしつこくつきまとってくる。出札口では乞食の老婆がひとの手をつかんで離さない。

 

 

 客車の中もまたものすごい。壁や座席に塗られたペンキは剥げているし、床材もなくなって下地の木組みがむき出しになっている。それだけならまだしも、あちこちに白いヘドがこびりついてさえいる。トイレにドアはなく、床はゴミが散らかり放題。これほど汚い列車には過去、お目にかかったことがない。

 

 

 

 

 それでも、列車が走り出せば水田や菜の花畑が広がり、目が和む。それにしても、カルカッタが近づいている割には、風景がますます田舎じみてくるのはどういう訳だろう。

 

 

 

 1時間あまり乗車したところで、終点に着いた。だが、カルカッタではない田舎町の駅である。窓口に行って接続を尋ねると、ここはラナガートなる駅で、どうやらカルカッタとは反対方向に来てしまったということがわかった。バンガオンに戻らずとも、カルカッタに直行する路線もあるとのことだ。

 

 

 

 改めて乗り込んだカルカッタ行きは電車であった。車内は超満員である。しかも、シートも壁もつり革も、何もかもが鉄板でできていて、何だか暑苦しい。

 

 

 途中駅では、線路のあいだに積まれた牛糞や、同じく線路の間に開かれた野菜市場などが見られた。やがて複線の線路がいくつも合流したり交差したりし、17時5分、電車はカルカッタ・シアルダー駅に到着した。

 

 

 シアルダー駅はカルカッタ都市圏を縦貫して流れるフーグリー川の東岸一帯へ向かう路線のターミナル駅である。しかし、東側にはバングラデシュとの国境が迫っているから、発着するのは近郊への電車ばかりで、雑踏はしていても旅情は感じられない。

 

 

 そしてこの駅は、北方からの線路と南方からの線路が直角に突き当たったような構造をしている。ホームには昔の工場みたいな鋸歯状の屋根がかけられていて、全体に薄暗い。

 出口へ向かうと、ホームの途中で皮をむいてスライスしたイモのようなものを売っている。確か、広東ではサーコウとか言う名前だったような気がする。

 

 シアルダー駅前からアンバサダーのタクシーに乗って、街の中心サダル・ストリートへ向かう。意外と距離があったので、40タカ(130円)では安すぎたかもしれない。

 

 サダル・ストリートでタクシーを降りてホテルを探す。最初に看板が目についたディプロマット・ホテルで部屋を見せてもらう。しかし、このホテル、名前は立派でも部屋は地下にあって、当然ながら窓もない。ドアの上には廊下に面した換気口があるのだが、同じフロアには印刷所などが同居していて、機械油の匂いが部屋の中に容赦なく入り込んでくる。一泊70タカ(230円)と格安であっても、これでは病気になってしまいそうだ。

 というより、今日は昼間でもセーターが必要なほど寒く、リキシャで風に吹かれる時間が長かったせいか、何だか風邪っぽいのである。

 そういうわけでこのホテルはやめにして、近くにあるアストリアなるホテルに入る。こちらは、一泊485タカで、ディプロマットの7倍もするが、休養するにはこれくらいのところでないとさすがにムリだろう。

 

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

6 バゲルハット支線

 

 今日はクルナの南東にあるバゲルハットへ行ってみようと思う。この街の郊外には、ソトゴンバット・モスクほかのモスク群があって、世界遺産にも指定されている。

 クルナからバゲルハットへ行くにはバスで行くのが一般的だが、鉄道も通っている。但しターミナルはルプシャ川の対岸で、他の路線とはつながっていない。

 

 

 7時30分、サイクルリキシャに乗ってフェリー乗り場まで行く。「ガート・ルプシャ」と言えばわかった。運賃は「ビシュ(20)・タカ」。

 50ポイサの運賃を払って、台船のようなフェリーで対岸に渡る。牛も同乗している。前方の朝日がまぶしい。

 

 

 船を降りたところはバスターミナルで、四角い広場に無数のバスがひしめいている。その広場から300メートルくらい離れたところに駅はあった。

 広い構内で牛が草を食んでいる。ホームには腰巻姿の男たちがウロウロしてはいる。だが、彼らが乗客ではないことは明らかだ。

 

 ハッジ帽をかぶり、白いひげを生やした老人が来て、列車は11時45分発だと教えてくれる。

 

 

 ホームに接して、意外と大きな駅舎が建っていた。切符売場の窓口上には、時刻表らしき黒板が吊り下げられている。残念なことに全てベンガル文字なので数字すら読めない。

 数字の列は全部で4行あるということは、列車は1日2往復しかないのかもしれない。

 

 その窓口の写真を撮ろうとすると、いつのまにやらワラワラと集まってきた人たちがフレームの中に入ってしまう。子どもがそうするならまだしも、いい年をした大人までが一緒になって写りたがる。

 

 

 ホームのはずれまで来ると。線路と直角に駅名標が立っていた。これもベンガル文字である。ウンウン唸りながら解読するに「ルプシャ・イースト」と書いてあるようだ。ルプシャ川の東岸ということからの命名なのだろう。「イースト」は英語の読みをそのまま綴っている。

 

 

 構内の反対側にはモスクがあった。平屋建てながら、星やアーチの装飾もいかにもインド風の建物である。

 

 

 

 駅構内を出て、隣接する村の中に足を踏み入れる。駅舎の脇にあった手押しポンプで遊んでいた子どもたちが、後をついて来る。例によって子どもだけでなく青年も混じっている。何だか大臣の視察みたいになってきた。

 

 

 

 民家の屋根は、すべてが椰子の葉葺きであった。風景を撮りたくてカメラを向ける。だが、ピントを合わせているうちに、レンズの前にはずらりと人垣ができてしまう。

 

 

 村のメインストリートは、市場になっていた。活気のある商店街だ。八百屋の店先に立って見ていると、聞いてもいないのに口々にベンガル語の名前を教えてくれる。

じゃがいもはアロ、トマトはスアンショフ、タマリンドはツュムと聞こえた。どの程度正確に聞き取れたかはわからない。

 魚屋もあって、体長20センチメートルくらいのナマズはタヒー、もう少し小さいのはテンゲマス、ヒゲがないのはショルと言うのだそうだ。

 

 

 若者たちはヒマなのか、あちらこちらで、ゲームをして遊んでいる。

 

 

 地面で遊んでいるのは、4×4マスの正方形の上下に二等辺三角形のマスがついたゲーム盤で駒はキンマの茎であった。このあたりでは、キンマを噛んでいる男が多い。

 

 

 川べりに抜けると、河川敷は造船所であった。大きな木造旅客船が引き上げられて修理を受けている。

 

 

 駅に戻ってきた。のどが渇いたので、構内に面した茶店でチャを飲む。茶はベンガル語でもチャという。

 小さなガラスのコップに、コンデンスミルクをたっぷり、砂糖はちょっぴり。おやじさんが淹れてくれたチャは甘くてとてもおいしい。

 2杯目を所望したら、中学生くらいの息子が作ってくれた。しかし、こちらは味も香りもだいぶ劣る。

 


 ふと見ると、いつのまにかホームに人が集まっている。意外と利用客があるようで、うれしくなる。切符売場の窓口も開いたようだ。

 

 

 そして11時15分、やっと列車が到着した。入替用のような小型ディーゼル機関車が数両の客車を引っ張っている。機関車も客車も青っぽい。

 

 

 降り立つ乗客は思いのほか多く、狭いホームが人でいっぱいになる。だが、それも束の間、折り返しバゲルハット行きの車内はガラガラである。

 

 

 車内には木のベンチが並んでいる。片側は4人掛けで、通路を挟んで1人掛けのイスが向かい合っている。窓には横桟があるから、これらのベンチが燃え出したら逃げられまい。

 トイレは車両の中央にある。

 

 

 私のあとについて村をひと回りした子どもたちは、客車の通路を走り回っている。列車が発車したのに降りては行かない。

 

 

 車内に「バダム・バダム」と呼ばわる物売りが回ってきた。首から下げた丸かごにピーナツが入っている。1タカを出すと、小さな天秤ばかりで量って、手のひらに盛ってくれた。

 彼は次の駅で外を伝って、隣の車両に移って行った。インドとその周辺の列車には貫通路もないのだった。

 

 

 客車は重たげなのに機関車は小さく、力不足なのだろうか。窓の外を平行する道をサイクルリキシャが列車と競争している。それくらいノロいのだ。

 

 13時5分、ソトゴンバット駅に着く。ココヤシやバナナの木に囲まれた村の駅で、モスク群とは離れているらしい。それでも「マザル(廟)」という声が聞こえる。

 

 

 もうひとつ停留所があって、その次が終点バゲルハットであった。

 

 

 駅に隣接してモスクが建っている。壁に柱時計、傘、自転車の絵が描かれているのは何の意味だろう。

 

 

 駅前からリキシャでモスク群へ。ダッカのリキシャは装飾が様々だったが、この街のリキシャはボディが銀、幌はブルーに統一されている。

 

 

 

 

 わざわざ来たけれども、モスクはどれもレンガの建物で、外観はあまりぱっとしない。内部も灰色のアーチが連なるだけで、全般的に暗い。

 世界遺産になるだけの由来はもちろんあるのだが、ちょっとがっかりする。

 

 

 

 

 それよりも駅の近くにある市場の方が面白い。汚いムシロを張って日よけにしている。それなりに外国人も訪れる街だと思われるのに、写真を撮ったりするから注目の的になる。

 

 

 声をかけて来た男の友人がやっている店でファンタを飲む。ところが、何としても代金を受け取らない。日本のコインがほしいと言うので、代金代わりに何種類か渡した。

 

 クルナへの帰りはバスにした。運賃は列車が8タカ(21円)、バスは10タカ(26円)。

 その差わずかに5円。バスの方は頻発している上に、所要時間は55分と3分の2だから、鉄道は勝負にならない。

 

 

 

 ちょうど日没の時刻。再びフェリーでルプシャ川を横断する。平台に人がぎっしり詰め込まれて、縁に立つ人は押されて落ちないのかと心配になるほどだ。

 

 桟橋近くの店でティラピアのカレーを食べる。2匹食べて19タカ(470円)。出てきたスプーンには赤黒く汚れがこびりついていたので、地元民に倣って手で食べた。

 あまり清潔とは言い難い店であったが、カレーはうまかった。

 

 

 夜のクルナでは、シャッターを降ろした商店の前に夜店が並んでいた。どこからか電線を引っ張って来ていて裸電球が灯っている。

 

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

5 ロケット・スチーマー

 

 

 ロケット・スチーマーの外観は、船というよりバラックの寄せ集めといった趣であった。外輪のカバーにつくられたステップを上がって船室に向かう。

 

 

 スチュワード?がいて、部屋まで案内してくれる。その男が二つつながった鍵を渡して、部屋の鍵とバスルームの鍵だと言う。しかし、どちらも同じ鍵である。

 

 

 1等船室といえども個室ではなく、相部屋である。緑色のベストにハッジ帽をかぶった人のよさそうなオッサンで、1シーズン全線1等パスを持っている。BIWTCのエライ人らしい。

 室内には幅70センチメートルほどのベッドが二つ並び、それぞれに扇風機と読書灯がついている。

 窓のカーテンには、ベンガル文字が縫い取られている。よく見るとBIWTCの読みをベンガル文字で表しているのだった。

 

 他の等級はどんなかと思って、階段を降りてみる。階下の中央にはエンジンの一部が露出していて、その周囲の床が3等船室ということらしい。自分で敷物を持ってこないと、一晩を過ごすのは苦しいだろう。

 その3等船室を囲むようにして、カギ型に区切られた区画が2等室だ。室内には一応ベンチはあるのだが、窓も小さくてまるで監獄のようだ。

 他の船はどれも定員などないかのように満員で往来しているが、この船の2等や3等の利用客は少ない。かえって1等の方が、4室しかないとはいえ満室である。

 

 

 18時、定刻に出航。ちょうど日暮れ時で、ショドルガートに停泊しているどの船にも、屋上に上がって礼拝するムスリムの姿が見られる。

 日が沈むと川の上だから明りがない。強力なライトで前方を照らして、小舟をかき分けかき分け進んで行く。

 やがて、そのライトも消し、真っ暗な中を船は進行する。デッキに出ると、空の星がきれいに見える。

 

 さっき鍵を渡した男とは別に、あずき色の制服を着たボーイがいて、夕食と翌朝の朝食の注文をとる。

 

 22時50分、チャンドプール着。大きな船体をトタン板で囲った桟橋に明りが煌々とつき、人々がひしめいている。

 

*   *   *

 

 朝6時ちょうど、ボリシャールに着いた。ここも廃船にトタン波板を貼った桟橋に接岸する。

 さすがにこの時間は上着を羽織らないと寒い。

 

 

 

 

 ボリシャールを出てからは、手漕ぎの小舟を次々と追い抜いてゆく。川面は朝もやに包まれている。香港に住んでいるという奥さんが部屋から出て来て「ファンタスティック」と声を上げた。

 

 

 小舟にはたいてい半円形の屋根がかけられている。こうした舟に住んでいる人もいるのだろうか。

 

 朝食は7時30分から、デッキ先端の食堂で朝食。お客は自分一人だけである。冷めたトースト、モロモロで酸っぱく白い「バター」、びん入りのチャツネ、オムレツ、ポテトフライ、ティアドロップ型のエビハンバーグ、紅茶。一人だけの為にボーイ氏がサーブしてくれる。

 

 

 


 朝もやが晴れ、暑くなってきた。川べりの村々の暮らしが手に取るように見える。

 

 

 

 8時ちょうど、ジャラカティに寄港。3等船室にはパン売り達が乗り込んできた。

桟橋や土手には男たちがずらりと並んでいる。取り立てて用事があってそこにいるのではなさそうだ。ほとんどが腰巻姿である。

 

 

 

 ジャラカティを出て20分ほど行ったところで、船はブイを回り込み、幅100メートル程の水路に入った。水際には高さ3メートルくらいの堤防が続き、その先は低平な耕地である。しかし、小川が水路に注ぎ込むところでは堤防が切れている。こんな堤防で役に立つのだろうか。

 道路が交差するところでも水路にかかる橋はなく、フェリーが両岸を結んでいる。途切れた道路にフェリーを待つバスが3台も並んでいた。

 

 9時15分、再び太い川に出る。前方に港が見え、汽笛を鳴らす。カウハリという町のようだ。ちょうどフェリーが上流下流それぞれに出航していくところである。ロケット・スチーマーには接続しないのかと思う。

 

 

 

 

 

 次の停泊地はフラハットで10時ちょうどに着いた。何隻ものフェリーボートが停泊する水上交通の結節点らしい。下船する人が多く、同室のオッサンもボーイ氏にチップを渡して、ここで降りて行った。ココヤシを満載した小舟が、フェリーや本船の周囲にまとわりついて来る。

 

 

 

 フラハットからはローカル航路の船2隻と縦隊を組むかのように航行する。このあたりの川幅は2キロメートル近くありそうだ。

 しばらく行くと大小の河川と水路で十字路になったところがあって、それぞれ別な方向に向かう。この船は右折して、幅数百メートルくらいの支流に入った。船内に掲げられた地図を見ると、ここからは川をさかのぼることになるようだ。だが、なにしろ平坦な土地なので、上流に向かおうが下流に流されようが、感覚的には変化がない。

 

 

 続いてマチュワに寄港。ここは、BIWTCのオフィスに掲出されていた時刻表にも載っていなかった。

 川と直角に伸びてきた道がちょん切られたようなところで、椰子の木の向こうに見えている家の屋根も数えるほどしかない。4台の人力車が客待ちをしているけれども、皆あぶれてしまったようだ。

 

 ボーイ氏が来て「ランスは要るか?」と尋ねる。何のことかと思ったら、ランチと言っているのだった。ランチタイムは午後1時からだ。

 今度は他の客も注文しているが、サーブするのは1組ずつだ。メニューは3種のカレーにサフランライスがつく。ライスにはダール豆の他にベイリーフやアニスなども入っていてとてもおいしい。カレーの中身はは玉子、鶏肉、ポテトだった。スプライトも飲む。

 

 

 

 

 

 次に停まったモレルガンジは少し大きな村であった。それでも、道の両側に並んだ家はほとんどが屋根を椰子の葉葺きである。商館のような平屋の洋風建築が唯一の例外だ。

 ここでは浮桟橋に積み上げてあった薪を船内に運び込んだ。薪を頭の上に載せて歩み板を渡るのは、年端も行かない少年である。

 

 

 

 

 モレルガンジから先では、川に面した広い耕地が目立つようになった。バングラデシュは日本の3倍近い人口密度があるはずだが、農村を見る限りではそれほど人だらけのようには感じられない。

 

 陽が落ちて、夕暮れのモングラに着いた。高層ビルや団地も見え、これまでにない大都市のようだ。大型の貨物船も停泊している。

 港に着くと、バスの呼び込みなのか「バゲルハット」という声も聞こえる。世界遺産のモスク群のあるバゲルハットへは、明日、鉄道で訪れる予定だ。

 この港では荷物の積み下ろしも多く、40分も停泊した。18時35分、出航。

 

 船内の食堂で夕飯。メニューは昼とほとんど同じで、玉子カレーがトウガラシ入りのオムレツに替わっただけだった。テーブルクロスがだいぶシミだらけになってきた。

 食後にボーイ氏が「ベル」と言う。これは「ビル」つまり、会計のことだった。今日3食の合計は〆て270タカ(1500円)。バングラデシュの諸物価からすれば随分とお高い。

 

 終点、クルナ到着は23時。29時間もかかったのに全く退屈しなかった。

 

 リキシャマン氏の勧めに従って、パークホテルに行く。1泊180タカ(1000円)で比較的高い。時間も遅いし他を探す気にもならないので、ここに泊まることにした。

 

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

4 ダッカ(3)

 

 

 

 

 

 

 スター・モスクの先にもダッカの市場はまだまだ続く。通りに面して尖頭アーチの門があり、中に入ると布地や衣料品の市場であった。どの店も色鮮やかな生地を四角く折りたたんで積み上げている。

 

 

 この通りは、国会議事堂ふうの建物に突き当たって終わっていた。アスハン・マンジルという、19世紀に建てられた太守の屋敷だそうだ。

 建物の壁はラルバーグと同じくピンク色に塗られている。ベンガル人はよほどこの色が好きなのか。ラルバーグのピンク色はくすんでいたが、こちらは塗り直して間がないのかきれいな壁面を見せている。

 

 

 建物の内部は往時の生活を再現した博物館になっていた。入場するにはカバンを預けさせられる。返却のときに、無くなっているものがないか、中を改めよと言われる。

 

 

 

 

 アスハン・マンジルの反対側に出るとブリガンガ川の船着き場、サダル・ガートであった。河原との境の塀が服のマーケットになっていて、露天の床屋も店を出している。

 

 

 

 

 

 川に沿ってさらに東へ歩いて行く。このあたりは特に人力車が多く、雑踏もひときわ激しい。人力車の車輪に2回も足を踏まれた。

 

 

 

 ガートに建つ倉庫の屋根上で凧揚げをする人がいた。なるほど、街なかは電線だらけ、人だらけ、人力車だらけだから、こんな場所でなければ凧は上げられまい。だけど、上げているのは大の大人であった。

 

 

 

 船着場はいくつもあって、旅客船が頻繁に出入りしている。どの船も2階建てで、川の船だから、側面が広く開いている。中・長距離を行くこうした大型船の間には、手漕ぎのボートがぎっしり停泊している。これらは対岸に渡るための船のようだ。

 

 

 これほど船が多くては、自分が乗る船が分らないのではないかと思われたが、案ずるには及ばなかった。小舟をかき分けて接岸した我がロケット・スチーマーは、外輪船かつオレンジ色の塗装という唯一無二の形態なのであった。

 

 ガートに降りるには入場料が必要だ。しかし、入場口の左右は開けっ広げで、ほとんどの人は好き勝手に出入りしている。身なりの立派な人が来たときだけ、係員が呼び止めてピンク色のチケットを切っている。

 自分の身なりは立派ではないが、明らかに外国人なので呼び止められる。入場料は2タカ(5円)。

 

 ブリッジを通って浮桟橋に出て、2列に縦列停泊している別のフェリーの中を通り抜け、いよいよロケット・スチーマーに乗船だ。

 

<5 ロケット・スチーマー に続く>

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

3 ダッカ(2)

 

 ダッカの2日目。今朝はまずロケット・スチーマーの乗船券を入手しなければならない。

 8時、BIWTCのオフィスに行く。玄関近くにいた人に尋ねると、奥の部屋へ案内された。「ボスが来ないと発券できないからここで待て」と言われて、事務机のひとつに座らされる。

 船の切符は駅の出札口か旅行社のカウンターのようなところで売るのだとばかり思っていた。だが、ここはただの事務室である。早朝のこととて、次々と職員が出勤してくる。統計表を手にして議論を始める人もいれば、労働組合のニュースを配る人もいる。中には朝からあくびばかりしている奴もいる。私が座っている席だって、誰かの執務場所のはずだ。

 それにしても、時代物の什器ばかりが備え付けられている。机もキャビネットも、重厚な木製のものばかりだ。

 4月1日の新入社員みたいな気分でイスに座りながら、私は幼い頃に一度だけ連れて行ってもらった父の勤め先を思い出していた。

 飯田橋駅に近いどこかにあった印刷所。通りに面して輪転機が置かれてあり、玄関脇からギシギシと音を立てる階段を上がった2階には和文タイプライターが並んでいた。タイピストのお姉さんたちは私を歓迎してくれたけれども、床板の隙間からは階下に灯る裸電球が見えていた。

 そして記憶の中では、全てが真っ暗な部屋で、電球に照らされた人の顔だけが白く浮き上がっているのである。

 

 そんな回想を断ち切るように、部屋の片隅でうつらうつらしていた掃除夫の老人が立ち上がった。職員たちは皆、ズボンをはいているが、この人だけは腰巻姿で、小使いさんと呼ぶのがしっくりくるような風貌である。

 立ち上がったのは、「ボス」が出勤してきたからであった。彼は奥まった個室の鍵を開け、私を招じ入れた。何ともご大層なことに、この部屋で切符を発券してもらい、料金もここで払うのであった。お釣りのお札はデスクの引き出しに裸で入っている。

 

 何はともあれ、クルナまでの乗船券を買うことができた。出航は今夜18時なので、それまでの間、ダッカ市内を見て回ろう。

 

 

 

 

 

 まず訪れたのは、ダッカ唯一の観光名所?のラルバーグである。喧騒と混乱のダッカ市街にあって、広大な敷地にはビビ・パリ王女の廟を中心に宮殿やモスクが配されている。

 建設が始まったのは1678年で、ムガール帝国の遺産ということになる。

 

 宮殿の内部は博物館になっていた。ラルバーグ自体の入場料は無料でも博物館は有料である。と言ってもたったの2タカ(5円)なので、チケットの印刷代にもならなそうだ。細密画やアラビア文字が刻まれたコインなどが展示されている。だが、あまりおもしろいものではない。

 

 

 

 

 

 

 敷地の外周には土手があり、隅楼が残っているところもある。そうしたところからは、周囲の街並みを見下ろすことができて、こちらの方が遺跡よりもおもしろい。さして広い道ではないのに、とにかく、人力車の数が半端ではないのである。

 

 ラルバーグを出て、ロケット・スチーマーが出る船着場の方向へと歩き出す。一応、ロンリープラネットの地図をコピーして持ってはいるのだが、まっすぐな道などないのであまり役にはたたない。

 

 

 歩き出してすぐに、道端のパパイヤ店に目が留まった。小腹も空いていたし、喉も乾いていたのでちょうどよい。

 

 

 

 

 パパイヤ店の近くに市場があった。女性用のアクセサリーや化粧品が専門で、薄暗く狭い通路の両側に並んだ小さな店の商品が、電球の明かりにきらめいている。ここはさすがに女性の買い物客が多い。

 

 

 

 

 通りを歩いて行くと、やはりモスクが目に付く。古びたビルの間にあっても、さすがに装飾性があるのですぐにわかる。1階が商店で、階上がモスクになっているところも多い。建築スタイルもミナレットの高さも色々である。

 

 

 

 少し歩くと、また別の市場が現れた。こちらは食料品のバザールである。生きた鷄は網に入れて吊るされている。魚はサーフボードを裏返したような包丁に当ててさばく。

 

 

 

 野菜類も実に豊富である。米ナス、長ナス、カリフラワー、ニガウリ等々。さやいんげんは化物みたいに大きいが、取り立てて珍しいものはない。

 

 

 

 ダール豆やショウガ、ニンニクの類など、大きなずだ袋いっぱいに詰め込まれている。

 

 

 そんな市場の風景を写真に撮っていると、子どもたちが盛んに手招きする。いったい何事かと後をついてゆくと、路地の奥にモスクがあった。丸屋根に星を散りばめた瀟洒なモスクである。お札のひとつに描かれている、通称スター・モスクに違いない。案内してくれた少年たちの表情も得意げであった。

 

<4 ダッカ(3) に続く>

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