琉球王国のグスクを巡る  2026年

10 首里(2) 

 

 守礼門からゆるやかな坂道を下り、玉陵へお参りする。玉陵も琉球切手の題材に取り上げられていて、カタログには「たまうどん」とふりがなが振られていたことを覚えている。もっとも、小学生の身では玉陵が何かもわかっていなかったのだが。

 

 

 その玉陵が、歩道から照葉樹や松の向こうに見えている。石の障壁に石の門、石の屋根、背後の壁も石垣であるから、まるでジャングルの中の古代都市遺跡のようだ。

 首里城と敷地は連続しているのに、こちらまで足を延ばす人は極端に少ない。

 

 

 

 

 チケット売場のある建物は小さな展示室になっていて、戦前に撮影された墓室内や骨蔵器の写真が展示されている。なるほど、見学できるのは外観のみだから、ここでの学習は必須というわけだ。

 

 

 

 

 

 

 障壁に開けられた長方形の門をくぐり抜けると三連の墓室の前に出る。これは完全に石造りの宮殿だ。全体の印象はマヤ遺跡のようでもあり、軒の垂木を石で模しているところなどインドの寺院を思わせるところもある。

 

 

 

 

 墓室の間には石造円塔が建っている。何の用途なのか、何の意味があるのか、どこにも解説がないからわからないが、日本には他に類例がないのではないだろうか。ただ、この円塔があることによって、三頭いる石獅子の基壇が全て違う形になり、外観にリズムが生まれているのは確かだ。

 

 

 

 玉陵の脇から切り通しを抜けて、寒水川樋川(スンガーヒージャー)へ行く。ここは急斜面を利用した公園の中にあり、きれいに整備されていた。今は水が流れていなくても、どこかで水音がしている。

 

 

 このあたりには石垣を廻らした民家もあり、古都の面影がわずかに感じられる。

  

 

 路上のマンホールも紅型の文様のようで奥床しい。

 

 

 

 首里城の方へ少し戻って、金城町の石畳を歩く。どのガイドブックにも載っている有名な坂道だからさぞかし観光客でごった返しているかと思いきや、ほとんど人通りがない。道の両側もただの民家で、カフェだの土産物店などはない。それどころか、収集を待つ家庭のゴミ袋が門の脇に出されていて、まったく普通の生活道路である。

 

 

 

 唯一の観光施設として、金城村屋(カナグシクムラヤー)がある。これとて外見は昔ながらの民家であって、機能は休憩所にすぎない。金城村屋の前は石畳道の十字路になっていて、幽霊のようなガジュマルの木が真ん中に立っている。横手に回れば金城大樋川(カナグシクウフヒージャー)だ。

 首里のいにしえを偲ぶには、この坂道が一番であろう。

 

 

 

 

 坂下から車道を歩いて、金城ダムに出る。堰堤や周囲の擁壁も、緻密に積まれた石垣である。ダム湖の奥まで進むと、草木に埋もれた石橋を見つけた。ダム施設の一部かと思ったら、これはヒジ川橋と言って、200年以上前に架けられた橋だった。

 

 

 この橋からは、丘上の御茶屋御殿へとヒジガービラなる坂道が伸びているのだが、土砂崩れでもあったのか、生憎と通行止めである。近くに迂回路はなく、沖縄自動車道のインターチェンジの方まで大回りをさせられる。

 

 

 ビルの狭間の細い階段を上がり、ヒジガービラに続く路地を抜けると、公園の中に儀間真常の墓があった。玉陵の小型版といったところだが、移設されたものだそうだ。

 

 

 ここからは、首里城に向かって尾根筋に公園が続いていて、雨乞嶽展望台からは那覇空港方向の眺めがよい。海の向こうに立ちはだかっているのは渡嘉敷島に違いない。こちらから見ると随分と大きい島に見える。

 

 

 首里城突端の東のアザナも望めて、石垣の上に立つ人たちが見分けられる。

 

 

 園地の片隅に御茶屋御殿にあった石獅子が置かれている。これも移設されたもので、御殿の跡地は、今、教会が建っているところだという。

 

 

 金城町の石畳道をもう一度下って、今度はそのまま向かい側の坂道を上がってゆく。首里と那覇とを結ぶ真珠道である。古い道筋故、ハンタガーほか泉が次々と現れる。しかし、周囲は平凡な住宅地でしかない。水場の周囲にブロック塀が建ち上がったりして、殺風景なのが残念だ。

 

 

 識名園の手前、真珠道からすこし逸れたところに、琉球八社のひとつである識名宮が鎮座している。由緒正しい神社には違いないが、さして広い境内ではない。狛犬が抱えている珠が大きく、手まりみたいな文様が刻まれている。

 

 

 識名園は識名宮のそばにあると思っていたのだが、まだ600メートル以上も先だった。地図には歴史散歩道などと出ているけれども、ただの暑いクルマ道を歩いて、ようやく識名園に着いた。

 見学用の入口とは別に本来の出入口が脇の方にある。通用門も正門もごく質素な門である。正門の方が丸瓦3個分だけ大きい。

 

 

 

 園内に入り、番所や門の内側を見て、石垣に囲まれた通路を進む。左右にはいかにも亜熱帯らしい植物が枝葉を伸ばしている。

 

 

 その先で、池のほとりに出る。二連の石橋が、ちょっとばかり中国風のしつらえだ。

 

 

 

 

 ここからは池の周りを時計回りに歩いて行く。赤瓦をのせた御殿があり、復元されたものなので、内部も見学できる。間取りは本土の御殿と同様だが、随分と質素な印象を受ける。座敷から庭を望めば、通り抜ける風が心地よい。敷かれている畳は、琉球畳というわけではない。

 

 

 

 

 石橋を渡り対岸へ。池に突き出した六角堂は、以前は四角い四阿だったそうだ。

 

 

 

 世界遺産にしては不思議と見学者が少なく、快晴の空の下、のんびりと散歩させてもらう。さっきチケット売場にいたネコも、園路を横切ってどこかへ消えて行った。

 

 順路のさいごは、木が1本しかないバナナ園を見て、勧耕台へ。ここから見ると海が目に入らないので、明からの冊封使に琉球が大きな島だと思わせたのだという。確かに海は見えないが、いくら何でも中国大陸とはスケールが違い過ぎる。仮にも一国の使節が、こんな小細工で胡麻化されたとは到底思えない。

 

 

 

 識名園を出て、墓地の中を那覇中心部目指して歩く。斜面に亀甲墓が見えているので、近くで見てみたいと思う。しかし、墓域に足を踏み入れると、通路(というより家形墓どうしの間)が迷路のようで、どうしても行き着くことができなかった。

 

 

 識名園から安里駅までは、直線で2キロメートル強しか離れていないので、さしたる距離ではない。やって来たのは、安里駅そばの食堂「魚まる」である。時刻は14時ちょうど。

 名物のバター焼き定食を注文する。魚は「オジサン」。本日最後の一匹だという。ランチは15時半までのはずだが、危ないところだった。

 オジサンの身は赤魚のような感じ、ランチなので刺身もついて大満足の昼食であった。

 

 

 飛行機の時間までまだ間がある。先日迷い込んだ壺屋地区の路地が良かったので、もう一度行ってみる。前回は夕方で、その上、自身のいる場所も定かでなくなっていたから、強い印象が残っている。だが、今は白昼、しかも観光地として整備された壺屋やちむん通りから入ったから、地図上に現在地点がインプットされてしまっている。そんなわけで、あのときのような感動がない。

 

 ただ、谷筋の壺屋やちむん通りから坂を上がって路地をたどると、どうしても出てしまう四差路がある。そこに建つ天ぷらと沖縄そばの店だけを記憶に留めておくことにする。

 

 

 国際通りに戻って、おみやげを買いがてら那覇バスターミナルまで来た。待合室の油絵に描かれていた仲島の大石を見る。ビルの狭間になってしまったとはいえ、しめ縄も張られて健在なのは救いだ。

 

 

 旭橋駅につながる歩道橋に上がると、地上にレンガを円く組んで柵で囲われたところがある。花壇にしては花がないし、よく見ると解説板らしきものも作られている。階段を降りて行ってみると、これは那覇駅の転車台遺構であった。沖縄戦で破壊された県営鉄道の痕跡が残っているとは知らなかった。軽便鉄道にしても、随分と小さな転車台だなと思う。

 

 

 

 ゆいレールに乗って那覇空港へ。空港に着いたらちょうど日没の時刻であった。夕飯はファミリーマートのポー玉シリーズとゼブラパンで決まりだ。

 

 

 

[ 琉球王国のグスクを巡る おわり ]

<琉球王国のグスクを巡る 目次に戻る>

<うさ鉄ブログ トップページ に戻る>

琉球王国のグスクを巡る  2026年

9 首里(1) 

 

 沖縄旅行の最終日。今日は琉球王国の都、首里を巡る予定にしている。

 

 

 早めにチェックアウトしてモノレールに乗る。乗車中に夜明け。儀保駅のホームに降り立つと、丘の上に首里城の石垣と再建中の正殿が見える。

 

 

 首里城へ行く前に、駅から近い宝口樋川(たからぐちふぃーじゃー)に立ち寄る。「フィージャー」というのは方言なのか、「ヒージャー」よりも古い発音の様に思える。

 

 

 樋川へ向かう道はここでも石畳の坂道だ。吐水口のまわりの石垣は「あいかた積み」で、要するに精巧な切込ハギだ。

 案内板には、近年の宅地開発で湧水量が減ってしまったと書いてある。

 

 

 

 

 続いて指司笠(さしかさ)樋川へ。こちらは「ヒージャー」と呼び、石垣に囲まれた大きな屋敷の裏手にある。

 

 

 

 地面に穴が三つ。細い石段を下りて、穴の底に下り立つ。穴のうち二つは、トンネルでつながっている。他の樋川とはちょっと雰囲気が違う。

 

 

 二つの樋川を結ぶ道をさらに南に行くと龍潭に出た。緑に囲まれた細長い池の向こうに正殿を望める。

 

 

 

 池に沿った遊歩道を進むと、弁財天堂を浮かべた円鑑池に至る。岸辺や柵には鴨が羽を休めている。軍鶏か七面鳥のような模様の鴨で、これも本土では見かけないなと思う。

 円鑑池の周囲は石垣で固められているし、橋は石橋、仰ぎ見れば首里城の石垣と石だらけの風景の中にいる。地元の人が朝の散歩やジョギングに励んでいるだけの静かな佇まいだ。

 

 

 池の上はちょうど久慶門のところである。よく見ると石垣の角(かど)に角(つの)が立っている。こんなことも、実際に来てみなければ気が付かない。

 

 

 円覚寺の境内に入ろうとしてみたが、内部は再建工事中であった。総門の写真だけ撮って退散する。

 

 

 首里城外郭の石垣下を時計回りに回ってゆく。一国の王宮とは言え、主要部分の長径は400メートル程度だから、こじんまりとしている。

 

 

 東側の先端部まで来たときがちょうど8時で、眼下の寺から鐘の音が響いてきた。

 

 

 

 見下ろす家々は四角い頑丈な造りで、屋上に給水タンクが備え付けてあるところなど台湾とそっくりだ。

 

 

 東のアザナの下を回り込むと、継世門の扉が開いていた。王朝風の装束を纏った案内人に尋ねると、この門内も無料区域で守礼門の方へ抜けられると言う。

 

 

 なるほど、継世門を入ると階段の先にもうひとつ門があり、その門の内側が有料区域なのであった。

 

 

 

 石垣に挟まれた帯郭状のところを通る。ソテツと石垣のとりあわせが珍しい。

 

 

 

 階段を上がり、瑞泉門ほかの門をいくつも抜けると、有料区域の入口である奉神門まえの広場である。ちょうど開門時間の8時30分であった。

 

 

 

 3人の男性が門の前に立ち、銅鑼を打ち鳴らしたあと一礼する。やや間があって、3人に替わり女性が進み出ると入場開始だった。

 

 

 まだ正殿は復元工事中なので入場はせず、広場にある首里森御嶽を一周してから、山里曲輪のように森になっている京の内を散策する。

 

 

 先端の西のアザナからは朝日に輝く那覇市街が望める。海べりに空港の管制塔が見える。

 

 

 

 京の内の内部にも精密に亀甲型の石を組んだ石垣があり、アーチ門が口を開けている。こちらまで入り込む人はほとんどいない。

 

 

 それらの石門をくぐって行くと、正殿を斜めに見ることができる場所があった。

警備員のひとりが「外観は100パーセントできている」と言っていたが、まだ足場も残っていて、完成度95パーセントといったところだろう。

 

 

 

 京の内に出入りする門は木曳門といい、アーチ門として有名である。しかし、補強のためなのか、金属のアンカーが石垣一面に打たれていて、興をそがれる。

 

 

 メインの登城口に戻ると、既に大勢の観光客が行き来していた。しかし、道の傍らに門だけがある園比屋武(そのひゃん)御嶽石門に目を留める人は少ない。

 

 

 一方で、守礼門の方は撮影スポットとして人気である。それはべつに良いのだが、この門を見るとどうしても半世紀以上前の「守礼門切手バブル」を思い出してしまう。

 

<10 首里(2) に続く>

<琉球王国のグスクを巡る 目次に戻る>

<うさ鉄ブログ トップページ に戻る>

琉球王国のグスクを巡る  2026年

8 南山(2)

 

 グスクロード公園からさらに北西へ歩くこと1キロメートルあまり。左に分かれる道に入る。この道の先に、根石グスクと糸数城址とがあるはずだ。

 舗装もない道を行くと、右手に「蔵屋敷跡」「佐南グムィ」などと書かれたポールが立っている。「グムィ」の英文には「Pond」とあるので何のことだかわかったが、今はただの原っぱでしかない。

 

 

 道の左側は畑になっていて、その中に低い石垣が見える。これは、いずれかのグスクの一部なのかどうか、判然としない。

 

 

 根石グスクは、気象観測レーダーのドームが頭を覗かせている右手の森の中ということになっている。

 そちらに進むと、確かに小径の脇に低い石垣に囲まれた拝所が作られていて、祭神は「嶋根富国根富御イベ」だと板切れに書いてある。このグスクは糸数グスク建設以前にあった城だという説もあるようだが、拝所であっても城ではないように思える。

 

 

 

 

 グスクロードからたどってきた道に戻る。突き当りには、糸数城の石垣が立ちはだかっている。この部分は道路が貫通していたところを修復したのだという。その前まで行くと、すぐ右手にひときわ高くなった石垣、北のアザナがそびえ立っていた。城壁の内側には展望台が作られているようだ。そして、左側にはいくつもの凸部を備えた石垣が続いている。

 

 

 

 

 

 

 地面には石灰岩の大岩が顔を出し、それらが石垣と混然一体となっているところもある。石垣自体、切石積みと野面積みとが混在している。

 

 

 石垣が一か所だけ垂直に切り立った口を開けている。ここが城の正門なのだという。正門にしては幅が狭く、特に念入りに切り出した大きな石を布積みにしていて、インドネシアのヒンズー寺院を思わせる。

 

 

 

 

 正門から城内に入り、北のアザナの展望台に向かう。こちらから見ると、石垣が斜面を蛇行して這い上がっているのがよく分かる。

 先ほど見た、四角く張り出している石垣も、本土の城なら内側の地面が高くなっているのが通例だが、ここでは「壁」になっているだけだ。

 

 

 展望台からに上がる。島の南端を回って空港に着陸せんとする飛行機が見える。それを目で追ってゆくと、那覇市街に向かって視界が開けていることに気がついた。改めて地図を見ると、那覇までは10キロメートル余りしか離れていず、意外と近い。

 

 

 この糸数城は南山の中心的施設ではなかったそうだが、当時から重要な港だった那覇を虎視眈々と窺うには最適の立地ではなかろうか。

 

 

 北のアザナから降りて、丘陵南側の広い郭に出る。丘の先端からは崖下の集落が見渡せる。人家が多く、一帯の人口密度は高そうだ。

 

 

 目を凝らすと、川のような海峡で隔てられた奥武島も見える。この島もほぼ全域に人家が建ち並んでいるようだ。この後は、その奥武島まで行くつもりである。

 

 

 

 

 糸数城を出て、森の中を下る。ここも石畳の坂道で風情がある。途中にはふたつの水場があって、上の方を「カマンカジ」、別名「女(イナグ)ガー」「お月(ウチナ)ガー」、下の方を「糸数樋川」、別名「男(イキガ)ガー」「太陽(ティダ)ガー」という。

 

 

 

 坂道の先には船越城があるはずだ。確かにこんもりとした丘の裾に石垣らしきものが見えている。(実は右手の駐車場の方から城内に入れたらしいが、気付かなかった)

 

 

 

 

 船越城からさらに下ってゆくと、船越大川(フナクシウッカー)に出た。垣花樋川と並ぶ大きな樋川で、亀甲型の石を精緻に積み上げた布目積の石垣が見事だ。

 

 

 船越大川の先で県道に出る。道端にヤギ料理の自動販売機があった。

 

 県道をそれ、冨里(ふさと)の集落に入ってゆく。この集落には石獅子や石畳の路地が残されているので、それらを探訪しようと思う。

 

 

 最初に見たのが、この石獅子。コンクリートの台座に乗り、石灰岩の上に鎮座している。

 

 

 

 石獅子前の道をそのまま行くと、石畳の路地につながっていた。途中に仲西井(ナカンシガー)なる水場がある。

 

 

 路地を抜けた先の空地の奥にあるのが、こちらの石獅子。特に風化が著しく、これでは獅子というよりオバケのようだ。

 

 

 集落内にあるもうひとつの石畳道を探す。これがなかなか見つからない。小さな流れに沿って行ったら、屋武多井(ヤンダガー)という水場があった。四角い水槽に溜まった水はあまりきれいには見えない。

 

 

 

 ようやく見つけた石畳道は、延長50メートルくらいだろうか、ごく短いものでしかなかった。しかも、道に面した屋敷が新築工事中である。

 

 

 集落のまん中にも石獅子が置かれていた。場所は車道の脇で、置かれ方からしてぞんざいな扱いに見える。

 

 

 この道をはさんで、大川グスク、安次富(アシトゥ)グスクという二つのグスクがある。どちらも城ではなく、第一尚氏の一族が住んでいた屋敷跡だという。ここも知念城のノロ屋敷と同様に樹林の中であって、いかにも健康に悪そうな土地だ。しかし、台風襲来とでもなれば、有難みを感じる立地なのかもしれない。

 

 

 時刻は既に2時をまわった。さっき垣花樋川で黒糖ホットケーキをつまんだだけだから、大変に空腹である。

 集落のはずれにCOOPのスーパーマーケットがあった。オキコパン社製の「ゼブラパン」と、ぐしけんパン社製の「なかよしピーナツハーフ」を購入。駐車場の片隅にあったベンチで「ゼブラパン」だけ食べる。いったい何がゼブラかと言うと、黒糖フィリングとピーナツバターで縞々だからということらしい。かなり大きいもので、おなかが苦しくなったので「なかよし」の方は明日の朝食用にとっておく。

 

 

 さとうきび畑の中を通って、奥武島へ。「オー島」とフリガナが振ってある看板を見かけた。これではゲド戦記の世界だ。

 島へ渡る橋の親柱には6代目だと書いてある。

 振り返ると、山上に先ほど訪れた糸数城の石垣が見えていた。

 

 橋を渡ったところに中本天ぷら店があった。店構えは素朴なのだが、お客は皆、レンタカーで訪れるようで、観光客相手の店らしい。ちょっと敬遠して、島にもう一軒ある天ぷら屋を目指して、反時計回りに歩き出す。

 ところが、その大城天ぷら店には韓国人の若い男女が群れていて、さらに俗っぽい雰囲気であった。なので、こちらも素通りだ。

 

 

 島の中央近くに天仁子乙女王御神の拝所があった。石獅子と石碑、そして「ヒータチー」(灯台)の石組みがある。全島が住宅地になってしまった今となっては、この位置に灯台があっても役に立たなそうだ。だが、かつては島の南半分に家がなかったから、この程度の高みでも海からよく見えたのだろう。

 

 

 島の北側に戻ってきた。古くからの集落の奥、東西に走る崖の下に奥武観音堂があるを見つけた。観音堂であっても鳥居が建っている。お堂の中を覗くと、円い鏡があってその奥に陶器の観音様が覗いていた。色白で唇に紅をさした婦人の像である。神仏分離以前の形態をそのまま残しているかのようだ。

 

 

 この観音像のいわれが看板に書いてあった。

 17-18世紀のこと、唐船がこの地に漂着したが、上陸したものか迷っていると、奥武島の山上に白衣の美女が現れて手招きした。それに従って上陸したところ、島民たちが介抱してくれて、無事に国へ帰ることができた。

 後日、彼らは琉球国王宛に黄金の仏像や仏典を贈った。琉球側ではどこの奥武島だかわからず、はじめは別の島に祀ったが、やがてこの島のことだとわかったという。

 黄金の仏像は戦前まで残っていたとか。

 

 中村天ぷら店に戻って天ぷらを買い、一つを残してその場で食べる。うむくじ(紅いも)、野菜、魚、アーサ。各120円。天ぷらは、やはり揚げたてが良い。

 

 もうひとふんばり歩いて、堀川橋バス停へ。ここまで来れば、川の対岸は、原人が発掘された港川だ。

 17時9分発のバス50系統に乗る。車内に入った途端、違和感を感じる。しばらくして理由がわかった。窓にブラインドが垂れ下がっているのであった。

 

 

 50分ほど乗車して、開南バス停で下車。すぐそばには大平通りのアーケードが口を開いている。まだ日が落ちたばかりだというのに、人通りも少なくわびしい商店街だ。

 しかし、何軒かの店が通路にテーブルを出し、弁当やお惣菜を売っている。値段も安い。さっき天ぷらを食べたばかりなので、今夜は少ない量でかまわない。沖縄産田芋に酢魚。酢魚とは、酢豚の豚肉を白身の魚に置き換えた料理であった。

 

 

 宿に帰って、残しておいたアーサ天も一緒に食べる。アーサ天は衣を楽しむものなのか、あおさはほとんど入っていなかった。

 

<9 首里(1) に続く>

<琉球王国のグスクを巡る 目次に戻る>

<うさ鉄ブログ トップページ に戻る>

琉球王国のグスクを巡る  2026年

7 南山(1)

 

 昨日、一昨日はそれぞれ中山と北山の城を訪れた。今日は残る南山の城を訪問しよう。

 現在でも沖縄本島の人口は中部や南部に偏っている。三山時代でも同様だったと思われ、中山や南山にはグスクが多いが、北山ではまばらにしか存在しない。

 とりわけ、丘陵地帯が続く南山には小規模なグスクがたくさん残っているようだ。その名も南城市では、それらを結んでグスクロードなるものを整備しているほどだ。そのグスクロードを中心に、一日かけて歩いてみたいと思う。

 

 

 今日の朝食は那覇バスターミナルのテーブルで食べる。例によってファミリーマートのポー玉シリーズである。黒糖ホットケーキは、小腹が空いたとき用に、カバンに入れておく。

 

 乗車したのは338系統、斎場御嶽行きである。約1時間乗車して、第二手登根で下車する。ここから尾根を越えれば第一の目的地である知念城に至る。

 半島を一周する38系統に乗れば城により近いところまで行けるのだが、この路線は夕方に1本しか運行していないので全く使えない。

 

 

 手登根の集落内の道には減速用のハンプがつけられていた。家並みが尽き、山道に差し掛かると思いのほか勾配が急だ。コンクリートの舗装には四半敷に溝が切られている。

 背後を振り返ると、海の彼方で尾根上にビル群が白く光っている。中城城あたりを望んでいるようだ。

 上空を那覇空港に着陸せんとする飛行機がひっきりなしに飛んで行く。民間機だから、それほど耳障りな音ではない。

 

 

 道が下り坂になって少し行くと、知念城址の案内板が立っていた。

 

 

 そこから林の中の小道を進んで行くと、ノロ屋敷跡が現れる。ジャングルの中に石垣が残っているけれども、「屋敷」というほど広い敷地ではない。

 

 

 

 

 

 

 城跡は、木枠で補強されたアーチ門が二つと、石垣が残っているだけの遺跡であった。小さな城で、有力者の居城というより、見張りの砦くらいに思える。見張るにしても、山襞が少しばかり引っ込んだ場所にあるので左右の見通しもあまり効かない。

 

 

 

 そもそも、この城は尾根を越えて少し下った山の中腹につくられているから、南東側しか見ることができないのだ。よくわからない立地のように思えるが、往時の人々が考え抜いた末の位置選定なのだろう。

 

 

 

 城跡から、石畳の道を下ると知念大川に出た。大川は「うっかー」と読む。ローマ字表記では「UKKAA」である。千歳空港近くの「WATTSU」と並ぶ異国風の地名だなと思う。

 「うっかー」は要するに湧水である。ここは沖縄の稲作発祥の地という伝説もあるくらいで、由緒ある場所なのに、今はコンクリートの枠に囲われて無様な姿をさらしている。

 

 

 「うっかー」の背後を見上げると、石灰岩質の崖が迫っている。知念城の立地では背後の高所から攻撃されそうに感じていたが、この切り立った崖なら懸念はないだろう。

 

 

 少し先の道の合流地点には「具志堅のシーサー」があった。グーグルマップにはそう出ているが、シーサーというよりもその原型である石獅子だろう。素朴な彫刻である。

 

 

 海岸線に並行した道を南西に向かって歩いて行く。ほぼ等高線に沿った道だから、上り下りが少なく歩きやすいし、眺めも良い。知念城では少ししか見えなかった久高島もはっきりと見えてきた。

 

 

 この道は2車線の、どちらかというとクルマのための道ではあるが、通行量はごく少ない。名もなき泉も道端に覗いている。

 

 

 道の海側に小高く盛り上がった小山がある。これが恐らくカンチャグスクであろう。物見には格好の地形ではあるが、グスクとついても必ずしも城跡ではない。入り込む道もないようなので、写真だけ撮って素通りする。

 

 

 

 

 

 わりかし近代的な垣花の集落を抜けたところに、垣花城址があった。石灰岩を積み上げた素朴な石垣が廻らされている。ごく低いその石垣は、植物に覆われ自然に帰ろうとしているかのようだ。

 

 

 城のそばに樋川さんぽ道の入口がある。樹林の中を下ってゆく、昼なお暗い石畳の道である。坂を下って景色が開けたところが垣花樋川(かきのはなひーじゃー)であった。

 

 

 一番上流に竜の吐水があるイナグンカー(女の川)、中段がイキガンカ―(男の川)、最下段の池がマミンガー(馬洗川)で、全体をシチャンカー(下の川)とも称するそうだ。

 たった今下ってきた坂道はカービラ(川の坂)と言い、かつては上の集落から日に何度もこの坂を通って水汲みに来ていたという。

 

 

 

 幾筋もの滝が流れ落ちる陽の当たる斜面。真冬の今はとても気持ちがいいところだ。しばし休憩して、黒糖ホットケーキをつまんでおく。既に時刻は11時を回っている。

 

 

 垣花樋川から少し西へ歩くと、垣花城の真下にあたる位置にミントングスクがある。ここも城ではないようなので、森の写真だけ撮っておく。

 

 ミントングスクのそばから西へ県道236号線が伸びている。ここから糸数城址までの約3.5キロメートルがグスクロードと名付けられている。

 

 

 

 

 太陽を遮るものがなく暑いグスクロードを歩くこと約10分、玉城城址に着く。小高い丘の上に石垣と、ハート形の開口が特徴的な門が見える。

 県道とのあいだは妙にガランとした土の広場になっている。これは、米軍が基地建設のために石垣を破壊して持ち去ったのだという。

 

 

 

 新しく作られた階段を上がって一の郭に入る。すぐ下の地面には本来の石段も残っているのだからそちらを通らせて欲しいなと思う。

 

 

 

 門からは久高島や知念城の方向、つまり北側と東側が見渡せた。しかし、海の側を見ることはできない。

 

 

 玉城城から5分ほど歩いたところに、グスクロード公園という新しい公園が作られている。ここまで来てようやく、摩文仁の丘や具志頭城址の方向を望むことができた。 

 

<8 南山(2) に続く>

<琉球王国グスク巡り 目次に戻る>

<うさ鉄ブログ トップページ に戻る>

琉球王国のグスクを巡る  2026年

6 北山(2)

 

 

 今帰仁城見学のあとは、国内唯一だという円錐カルスト地形を見に行く。4キロメートルほど離れているので、県道115号線を歩いて行く。

 

 

 道のりの半分ほど来て、大堂(うふどう)の集落に差し掛かると、円錐形の小山がポコポコといくつも見えてきた。

 石灰岩の山と言えば、桂林やハロン湾のような急峻な地形が代表的だ。それらに比べるとずいぶんと穏やかな表情を見せている。

 

 

 

 県道から逸れて、山里集落の谷に降りる。緋寒桜の咲く桃源郷のような村だ。

 

 

 

 右手に見える山頂には石垣のようなものが見えている。しかし、さっき登ったアマミクヌムイの山頂も岩場だったから、これは自然のものだろう。

 

 

 

 町道からふるさと歩道に入り数分歩いたところで、木の幹に結ばれたピンクのリボンを発見した。ここがテーサンダームイへの登り口に違いない。

 林の中に、かすかに踏み分け道らしき空隙が認められる。事前に知っていなかったら、ここが道であるとはとうていわかるまい。

 

 芋類のような大きな葉をかき分け、崖のような登山道を、ロープを頼りによじ登る。確かに麓から5分もあれば登れる。だが、ロープなどアマミクヌムイよりも頼りなく、難易度は同レベルだ。

 

 

 

 

 

 頂上からは、谷を隔てたミラムイ、隣接するウフグシクムイ(これは大城森なのだろうか)、その右には伊江島左には渡久地の町と瀬底島とこちらもすばらしい展望だ。

 

 

 山を下り、西側のふるさと歩道を階段で下る。森の中にお墓があって、何故かその横に金属製のサイロも置かれていた。何だか宇宙船の秘密基地みたいだ。

 

 

 渡久地の町に入り、本部町営市場に行く。沖縄に残された数少ない公営市場である

 

 

 

 しかし、ここは、既に死に体であった。市場本来の店は肉屋と鮮魚店が一軒ずつしか残っていない。裏手にある相対の売場もコンクリートの三和土が広がるだけで、久しく使われていないようだ。

 小さなカフェやアクセサリーの新しい店が入居しているのがせめてもの救いではあるものの、立ち寄る人がさしているようにも見えない。そもそも、街を人がほとんど歩いていないのだ。

 

 疲れたのでお茶でも飲みたいと思う。だが、カフェは先客3人で既に満席だ。歩いて本部港まで行くことにする。

 

 

 渡久地の町はずれに、豆腐屋が店を開いていた。豆腐ももちろんあるけれども、主力商品はスイーツのようで、店構えもケーキ屋のようだ。ここで、桜マフィン460円を購入。

 

 さらに歩いて行くとスーパーマーケットの「サンエー」、続いて「かねひで」が現れた。地元の人たちの買い物は、車でこれらのスーパーに行くのだろう。どちらもそれなりにお客が入っている。

 「かねひで」にウクライナから初入荷というグローナ社のマリア・ビスケットがあったので買っておく。こちらは127円と格安だ。

 

 

 本部港には16時頃に着いてしまった。待合室に「北吹きにご用心」のポスターが貼ってある。「北吹き」には「にしぶち」と振り仮名がついている。沖縄語では「キタ」が「ニシ」になってしまうようだ。

 

 

 帰りの船は本部港17時10分発、那覇着は19時。なかなか良い時間帯だと思うが、ここからの乗船は全部で2名のみ。

 今度の船はフェリーあけぼの8083トンで、往きのクイーンコーラル・プラスよりもふた回り大きい。そのせいか、船外のタラップに接続して、屋内のエスカレーターでロビーに上がる。

 

 

 

 

 朝と違って風も弱く穏やかな航海である。デッキに出て景色を眺めてもあまり寒くない。

 この船の食堂も無料開放中なので、さっき買った桜マフィンを食べる。豆乳やさくら餡が入っている由で、やさしい味だった。

 

 

 日が落ちて来て、陸上には街明りが灯り始めた。山なみの高い所に白く光っているのは嘉手納や普天間の基地なのか。

 

 

 

 すっかり暗くなって、那覇港に到着。夜景がきれいなバスターミナルを見ながら、泉崎の一角へ。

 

 

 今日の晩御飯は、「味噌めし屋まるたま」にて、具だくさん味噌汁定食。半熟玉子や豚肉、島豆腐も入って、意外とおなかがふくれる。店内はアメリカ人や台湾人の家族連れでいっぱいであった。 

 

<7 南山(1) に続く>

<琉球王国のグスクを巡る 目次に戻る>

<うさ鉄ブログ トップページ に戻る>