船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

13 カトマンズ(1)

 

 寒風をついて、バスは夜通し走った。

 どの町でも入口にはポリスのチェックステーションがあり、その度に車掌が走って行ってはロード・タックスを払い、ピンク色の領収書をもらって戻って来る。時にはポリスが乗り込んで来て、座席の下などを懐中電灯で照らすこともあった。

 

 

 

 夜が明けると、バスは既にカトマンズへの山道に差し掛かっていた。沿道の家は明らかに平地のものとは違い、信州あたりの民家と似ている。

 女の子がおでこに当てたバンドで薪などを背負っている。どの子もみな美人に見える。

 

 

 カトマンズが近づくと、山の斜面が見事な段々畑になった。

 

 カトマンズでは、市街地を取り囲む環状道路のところでバスから降ろされた。このバスは郊外の新しいターミナルへ行くから、街の中心へはここから行く方が近いのだと言う。

 

 

 オートリキシャで旧市街の中心へ。四角い貯水池があって、真ん中に堤道で結ばれた寺院が立っている。

 池のそばにファストフード・レストランの看板を見つけたので、早速入る。メニューはべつにファストフードではなく、普通のレストランである。ポットのコーヒーと焼きそばが入った上海チャーハンなるものを食べる。久しぶりにうまいものを食べた気がする。

 

 

 

 カトマンズでは、旧市街の中央部に位置するゲストハウスに宿をとった。屋上に上がるとスワヤンブナート寺院が望める。隣のビルの若奥さんがテラスでゲームボーイに熱中しているのも見える。

 

 

 早速街歩きに出る。まず目についたのは、華やかな装飾のアカシュバイラブ寺院だった。だが、この寺院の結構はかなり特殊なものだと後に分かる。

 

 

 

 

 他の寺院はもっと地味な外観であって、1階を商店にしているところも少なからずあるのだ。

 

 

 中には、ギリシャ神殿風の柱の前に、ネパール式の狛犬が鎮座するという不思議な寺院もある。

 

 

 

 民家の通路に描かれた壁絵が不気味だ。何となく訴えたいことはわかる気がするのだが。

 

 

 

 

 

 通りを歩けば、次から次へと寺院や祠に出合う。それらが大小を問わず、生きた信仰の中にあるのだ。

 

 

 

 小さな祠には、ナーガを祀ったものが多い。レンガ色の粉が撒かれているのは、古代の埋葬施設で使われた朱に通じるのだろうか。

 

 

 

 街角に建つ三重塔は、屋根を支える方杖に施された彫刻が見事だ。全体のプロポーションは日本のそれと似通っているが、軒先が反り上がっているところが違う。

 

 

 

 

 

 一般の住宅の方は、コンクリート造の民家であっても2階以上の窓には木彫りの枠がはめ込まれている。これらの彫刻はかなり精巧なもので、維持管理も大変なものだと思われる。

 

 

 

 

 

 そして何より印象に残ったのは、路地やその奥に隠された行き止まりの広場で遊ぶ子どもたちの姿である。

 

 

 

 

 ゴム跳び、石けり、鬼ごっこの類など懐かしい遊びに興じる子どもたちの姿は、日本の昔を見るようだ。

 

 

< に続く>

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

12 ジャナクプール鉄道 

 

 

 

 ビールガンジ(ラクソール国境のネパール側)からジャナクプールまでの道はかなりの悪路であった。部分的には道路がなくなり、林の中を迂回して走ったりもした。3時間で着くと聞かされていたのに、実際には5時間半もかかった。

 

 

 

 昼過ぎにジャナクプールのバスターミナルに着き、リキシャでジャナクプールダム駅へ行く。低いホームには相当にボロい客車2両と、少しはマシな1・2等合造車1両とが停まっている。

 

 

 

 次の発車は、国境とは反対側のビジャールプーラ行きが15時だと言う。だとすると発車まであと2時間もあるのに、既にかなりの乗客が車内に腰かけている。

 

 

 駅へ行きビジャールプーラまでの切符を買う。切符売場のなかにいるのはむくつけきオッサンで、台の上にあぐらをかいて座っている。

 それはともかく、購入した券面には「BIZARPURA」とラテン文字で書かれている。一方、頭上の掲示板のデーヴナーガリー文字では「ザ」ではなく「ジャ」である。

 トーマスクック時刻表の表記も「ZA」となっているが、「ジャ」の方が正しいようだ。

 実は、あるネパール人から「ビザールプーラ」なんて土地は聞いたこともない。だいたい、ネパール語には『ザ』の音はないんだよ。」と言われていたのである。その「ビジャールプーラ」はこの鉄道の終点であることに間違いはないが、わずかな情報によれば、何にもないところらしい。

 だから、終点まで乗り通すつもりはない。ひと駅だけ乗って、乗り物があればそれに乗って、もしなければ歩いて街まで戻ってこようと考えている。ひと駅なら、たとえ10キロメートル離れていても、3時間も歩けば戻って来れるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 地元の人々は構内を好き勝手に行き来しているので、それに倣って車庫を覗いたりしているうちにたちまち時間が経った。

 

 

 

 14時20分、1両の機関車が動き出し、停車していた客車に後ろ向きに連結された。

 

 

 

 

 それでは、客車に乗りこもうかとホームに戻る。ところが客車のデッキには既に男たちが取りついている上、車内も満員で入り込む余地がない。

 

 

 すると、客車の屋根上から声がかかった。そこならまだ充分に空きスペースがあると言うのだ。幸いにして車両が小型だから窓枠に足を掛けるなどしてよじ登ることはできた。

 

 

 だが、今は静止しているからいいけれども、カーブした屋根にはつかまるところなどない。この客車の状態からして、相当に揺れることは覚悟しなければならないだろう。

 

 

 

 聞いていたのとは違って、発車は14時40分であった。走りだすと、これまた当然のことながら、機関車から吐き出される煙をまともに浴びることになる。かといって、後ろの車両に飛び移るのは命がけだ。じっと我慢するしかない。

 

 

 

 

 

 

 それでも、高い位置から眺める農村風景は楽しい。農家の庭は人と牛との共用空間の趣があり、夕飯の支度をする女たちの周りで子どもたちが遊び回っている。壁絵が描かれた家も多い。

 

 

 

 

 列車は40分かけて3つの村を走り抜け、最初の停車駅であるピプラリ・ホルトに停車した。ホームなどは何もなく、水牛に乗った子どもたちが汽車を見に来ている。

 

 

 

 

 屋根から滑り降り、ビジャールプーラに向けて走り出した列車を見送る。そして、ジャナクプールに向けて、線路を歩き出した。

 ここまでのひと駅間に40分もかかったのは、いささか想定外だった。平均時速20キロで走ったなら、距離は約13キロメートルということになる。まあ、日暮れまでには街に着けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 客車の屋根上から眺めた村や農家を、今度は地上で観察することになる。家の壁に描かれた模様には蕨手紋のようなものが多い。妙に細い象や図案化された樹木などもあって、こうしたプリミティブな壁画には世界中で共通するものがある様に思われる。

 ジャナクプールの街が近づくと、仕事を終えて村に帰る人たちが徒歩や自転車で続々とやって来るようになった。

 

 

 

 ジャナクプールからは夜行バスでカトマンズへ向かった。タータ社製であるこのバスは、とにかく寒かった。暖房設備がないのは当然ながら、窓ガラスに止め具もないので、車体の振動で徐々に開いてすき間風が吹き込んでくる。留め具があったと思しき窓ガラスの穴にボールペンを差し込んで窓枠に押し付ける。が、力をゆるめると再び開き出すので、手を下ろすわけにはいかない・・・

 

<13 カトマンズ(1) に続く>

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

11 インドからネパールへ 

 

 

 サマスティプール駅に戻ってきた。

 改めて駅構内を観察すると、食堂やエアコンクラスの待合室、1・2等専用待合室があり、有料トイレまで備えられている。地方都市の駅にしては充実した設備と言ってよい。

 

 

 

 Enquiry(案内所)でホームを確かめる。「ポーンチ」と答えたから5番線からの発車だ。

 ホームには鉄道警察がウロウロしていて、車内に入り込んだ浮浪児が追い出されて泣いている。だが、写真撮影については何も言われない。

 ホーム上には警察官ばかりでなく、ヤギも歩き回っている。

 構内には電車、電気機関車はもちろんのこと、ディーゼル動車もいない。全て蒸気機関車が牽く列車である。

 

 

 

 

 ジャイナガール行きは十数両もの客車を連ねた長大な編成であった。中間には電源車もはさまっている。

 

 

 定刻、ゆっくりと牽き出されて発車。蒸気機関車独特の味わいある動きだ。

 途中、駅でも何でもない所で長々と停車したりして20分以上かかって、次のムクタプール駅にたどり着いた。こんな調子では終点ジャイナガールにつくのは何時になることやら。先が思いやられるなと思う。

 ムクタプールの駅舎には二又になった古レールが吊るされていた。発車合図の鐘の代わりに駅員がカンカンカーンと叩く。

 

 次のキサンプールにはホームもなく、馬車が線路際でお客を待っている。

 

 

 

 

 沿線は田んぼと菜の花畑が半々くらいで、荒れ地ばかりだった昨日の車窓よりずっと豊かな土地のように思える。

 

 

 

 いくつかの駅に停まり、15時25分、ラヘリアサライ着。向かいに座った人が停まるたびに駅名を教えてくれる。

 

 

 その次が、沿線唯一の街、ダルバンガであった。ホームにはバダム(ピーナツ)売りがたくさんいる。20分あまり停車して、16時7分に発車。

 

 10分ほど走って、西日が射すボダイジュ林の中で停車。

 背広、革靴の紳士がデッキから飛び降りて立ションしている。ほかにもルンギーをはいた男たちが何人もしゃがんで用を足している。なぜ、ここで?と思う。

 だが、ここでは対向列車と交換するために20分以上も停車した。

 

 

 日が暮れてしまうと、なぜか列車の速度が上がった。途中の駅で次々とお客が降りてしまい、車内は不気味なほど空いている。

 19時15分、駅でもない真っ暗なところで停車。しかし、その前方に明りが就ているところが終点ジャイナガールであった。

 

 駅の近くにあるホテルに行くと、主人が「まずチェックポイントへ行ってこい」と言う。その言葉に従ってリキシャでチェックポイント、つまりは出入国管理事務所へ出向く。

 事務所の中には爺さんが一人で詰めていて、ランプを持ち出して薬の間から申請書らしき紙を取り出す。いつのまにやら若者が10人余りも集まって来ていて、パスポートの記載をヒンディー語混じりの英語で読み上げる。爺さんはそれを書類に書き込んでいく。

 ところが、書類が完成したと思いきや、爺さんが国境は封鎖されていると宣うではないか。

 明朝7時の列車に乗ってダルバンガまで戻り、バスでラクソールまで行けばネパールに入れると言う。

 

 爺さんと一緒にリキシャに乗り、さっきとは別のゲストハウスへ。トリプルベッドのある部屋が、一泊たったの30ルピー(99円)。後にも先にもこれほど安い宿に泊まったことはない。

 

 この町ではミネラルウオーターやビン、缶入りのドリンクなどは手に入らない。サマスティプールでも同様だった。水筒の水を大切に飲まなければ!

 

 

 翌朝6時すぎ、駅への道では小さな焚火で煮炊きし、暖を取る人たちがいた。今朝も霧が出ていて非常に寒い。食堂などはもう店を開けていて、チャイ3杯とパンで朝食にする。

 おつりにネパール・ルピー札が混ざって返ってきた。一応、かまわないかと尋ねてからだったが。

 

 

 

 

 駅に着くと、チェックポイントの爺さんが見送りに来ていた。見送りというより、不法出国しないか監視に来たのかもしれない。

 

 10時、ダルバンガ駅構内に差し掛かったところで列車が停まったまま動かなくなったので、勝手に降りる。

 

 

 

 降りたところは、操車場と市場と踏切が混然一体となったような場所であった。ほとんど使われなくなった側線の上など、店を開くのに格好の空地なのだろう。

 

 リキシャに乗ってバスターミナルへ行き、バスでラクソールへ。

ラクソールはインド~ネパール間の代表的な陸路国境だから、すんなりと出国できた。

 ネパールのビザ代は40米ドル。本当は顔写真が必要だが、持っていないと言ったら写真なしでも通してくれた。

 

 ネパールに入るとペプシ・コーラの看板が目立つ。酒も売っているし、コールド・ドリンクなどと掲げた店もある。ネパールのミネラルウオーターは、インドのみたいにフタをねじるとへこんで水があふれたりはしない。果物のビニール袋もインドのはすぐに破ける。ダッカで買ったときの袋は未だ健在なのに。

 

 ジャナクプール行きのバスは朝の6時、7時、8時発の3本。3時間で着くそうだ。6時は早すぎるが、せめて7時発のをつかまえたい。

 

 

<12 ジャナクプール鉄道 に続く>

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

10 サマスティプール 

 

 ほとんど眠れないまま、パトナ駅近くのホテルで朝を迎えた。

 パトナからは北上してネパールへ向かう予定だ。目指すのは、蒸気機関車牽引の国際軽便鉄道の始発駅ジャイナガールである。

 

 パトナの北方、ガンジス川とネパールとのあいだには、線路幅1メートル、いわゆるメーターゲージの鉄道網が張りめぐらされている。だが、それらはどちらかと言うと東西方向に走っていて、パトナから北上する路線というのはない。だから、この区間はバスに頼らざるを得ない。まずは、サマスティプールなる街を目標にする。

 

 

 

 早朝、宿を出て駅周辺の市場を歩く。霧が出て非常に寒い。昨晩に購入したジャンバーを着てはいるのだが、モコモコするばかりで全然暖かくない。

 こんな時間でも食べ物の店は開いていて、どの店でも売り子がショールをかぶって震えている。

 

 バスターミナルに着くとサマスティプール行きのバスは何台も並んでいた。但し、車体のおでこに掲げられた行き先は、デーヴナーガリー文字でしか書かれていない。

 7時40分にバスは発車した。30分ほどパトナの市街を走った後、深い霧の中、ガンジス川にかかる長い長い橋を渡る。

 

 

 インドでも一番貧しい州だというビハールの農村風景を眺めながら、3時間弱でサマスティプールに到着。まず駅に行き列車の時刻を確かめて切符を買っておく。発車までのあいだ、街をひと回りしよう。

 

 

 

 サマスティプール駅は鉄筋コンクリートの近代的な駅舎を構えていた。しかし、その駅前に並んでいるのは、街頭理髪店であった。雑踏する駅前広場で顔に剃刀を当てて髭を剃っている。通行人がちょっとよろめいたら、たちまち惨事になりそうだ。

 

 

 

 

 駅とバスターミナルの間にはヒンズー寺院があるのをさっき確認していたので、駅舎の横から線路脇に出た。地元の人たちは普通に歩いているので、特に問題はなかろう。

 すると、前方から旅客列車がやってきた。しかも、蒸気機関車牽引である。続いて同じ型の機関車に牽かれた貨物列車も来た。狭軌線はまだ蒸気機関車天国なのだ。

 

 

 ホームの端に大きな駅名標があった。ここでは線路と直角に立っている。デーヴナーガリー文字、ラテン文字、アラビア文字の3種類でサマスティプールと書いてある。ビハール州ではウルドゥー語も使われているのだろうか。

 

 

 

 

 線路を渡って行ったヒンズー寺院の中は、床も柱もヒンヤリしていた。祀られているハヌマーン像を拝んだら、額に赤い印をつけられる。

 

 

 

 線路を挟んだところにも三叉鉾が乗った高い塔が見える。こちらはカーリー祠堂であった。

 


 

 駅を離れて街の中へと行ってみる。通りには2階建ての家が並び、やせた牛がのっそりと歩いている。これがインドの田舎町なんだなと思う。

 

 

 商店街の中に、太鼓の工房があった。わりと胴が細長いタイプである。

 

 

 街角の屋台でグアバを食べる。青いのと黄色いのがあって、どちらも1個が3.50ルピー(12円)。青い方はまだ熟していず、黄色い方はクリーミーでおいしい。

 バナナを買ったら2ルピー(7円)で6本も買えた。カルカッタでは1本が1ルピーだったのに随分と物価水準が違う。

 食堂で飲んだ紅茶は1.25ルピーであった。5パイサ硬貨をはじめて見た。

 

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船旅汽車旅ヒンドスタン  1994年

9 プールヴァ急行 

 

 

 今日はカルカッタからパトナへ列車で向かう日である。

 宿のそばからミニバスに乗って始発のハウラー駅へ向かう。フーグリー川にかかるハウラー橋は渋滞がひどいと聞いていたが、さほどのことはない。橋を渡る路面電車は既に廃止されたようだが線路は残っていて、橋の上に廃車体が留め置かれている。何も渋滞する橋の上を占拠しなくても良さそうなものだ。

 

 

 橋の上からは城砦のように巨大なハウラー駅舎が見えている。前面が幅の広い川で遮るものがないから、なおさら豪壮に見える。

 

 

 ハウラー駅については、いろいろなところで噂されている。要するにインドの混沌を象徴するかのような駅だということである。

 しかしながら、実際に来てみれば、ところかまわず寝転ぶ人を跨いで歩くこともなければ、駅を住居としているような人も見かけない。

 今日も非常に寒い日で、ホールを吹き抜ける風が冷たい。それくらいだからか、線路上に垂れ流された汚物の臭気が立ち昇ることもない。

 いささか拍子抜けした想いで改札口へ向かう。改札鋏を持った男が立っているが、かまわず通れというしぐさをする。

 

 ホイーラーズという本屋の前に囲いがあって、時刻表を売っている。全国版は40ルピー、北東部時刻表は7ルピー。いずれにしろ重くなるので、買いはしない。

 

 

 電光表示板を見て、街中のオフィスで予約した列車の出るホームへと行く。券面を見るとプールヴァ急行という列車の愛称とともに、車両番号、座席番号が記されている。

 それにもかかわらず、客車のデッキ脇にはコンピューター打ち出しの乗客名簿が貼りつけられているので、一応は確認してみる。もちろん、自分の名前(性別や年齢も)が印字されている。

 

 

 この列車のハウラー発は10時15分、パトナには18時15分に着く。日中の区間しか乗らないが、列車自体はインドの北西部まで夜を徹して走るから、寝台車である。線路と直角向きの3段寝台と、通路を挟んで窓と平行に2段寝台が備えられているという、線路幅の広いインドの幹線に独特の配置である。指定された席は2段寝台の側で、寝台をセットしていないときは、1人掛けのベンチが向かい合わせになる。

 

 停車中から、車内には物売りがいろいろやって来る。

 コーヒー屋はコンロになった石油缶に収めたヤカンと紙コップを持っていたが、紅茶屋はバケツの水に浮いたガラスコップで飲ませるらしい。もっとも、コーヒー屋の紙コップはフチが真っ黒だったから、どちらがマシかは測りかねる。

 数が多いのは新聞売りで、貸し枕屋などというのもやって来る。もっとも、四つ折りにして取っ手のついたスリーピング・シートを持ち込んでいる人もいる。寝具はいちいち別料金だから、度々寝台車を利用するならばこの方が煩わしくないだろう。

 物売りではないけれども、乞食ももちろんやってくる。

 

 定刻、前方でファーンと頼りなげな警笛が鳴って発車。

 10分足らずで最初の停車駅。駅舎はレンガ積み。赤帽の制服もレンガ色。民家の屋根瓦もレンガ色をしている。

 郊外に出ると複線区間を時速85キロメートルくらいで快走し始めた。

 

 

 4段重ねのカレーチャパティ弁当を食べる。

 紅茶売りは「チャア」と陰気な声で車内を売り歩く。車内売りのカップは素焼きで、線路のまわりには、割れたカップが大量に捨てられている。

 

 

 ステンレスのトレイに載せたミネラルウォーターや、ぶっかき氷を入れたバケツで冷やしたビン入りジュースなども売りに来る。

 ヨーグルトも売りに来れば、素焼きのカップに匙を突き立てたアイスクリームも売りに来る。

 車内にいる限り、飲食の心配は必要なさそうだ。

 

 

 いつのまにか線路が複々線になっていて、スピードも上がった。時速100キロメートルは出ていそうだ。

 

 ほうきで床を掃く12歳くらいの少年もいる。後でお金を徴収にくる。箱に入っているのは20パイサ貨が多い。彼のお陰で、とにもかくにも車内がきれいになった。

 

 

 13時ドゥルガプール着。このあたりから、鉱工業地帯に入り、石炭列車を多く見かけるようになる。石炭用の貨車は緑色に塗られている。

 13時40分、アサンソール着。貨車からこぼれ落ちた石炭を拾い歩く人が何人もいる。子どもの頭大のがごろごろと転がっているのだ。

 

 14時、カットレットを売りに来た。ヴェジタブル・カットレットのサンドイッチで、4.60ルピー(15円)。

 ビハール州に入ったのか、駅名標からベンガル文字が消えた。車窓の方も、ゆるやかな起伏の雄大な景色に変わっている。そういえば、紅茶売りも「チャイ」と呼ばわっている。

 

 14時55分、マドゥプール・ジャンクション着。ここではヒヨコ豆もやしのサラダを売りに来た。故紙に一杯で4.50ルピー。香草とトマト2切れをのせ、レモンを絞る。うまいが、かなり顎が疲れる食べ物でもある。

 

 

 15時50分、低山に囲まれた常緑樹の森を通過した。ラージャグリハもこんなところだったのだろうかと思う。

 森を抜けて16時ちょうど、赤茶けた崖下の駅、ジャンジャンに着く。同音2文字の駅名標がカッコイイ。

 

 

 ときおり、駅構内で蒸気機関車の姿を見かけることがある。広軌線では、既に蒸気機関車牽引の列車はなくなったはずだが、入替用にはまだ稼働しているようだ。

 

 

 少々遅れて、19時ちょうど、パトナに到着。ビハール州の州都にしては、暗くて小さな駅である。

 

 それにしても寒い。とても耐えられないので、バザールでコートを購入する。着丈は合っているのだが、手足の細長いインド人の体形に合わせて作られているから、肩幅がきゅうくつだし、袖口のゴムがきつい。

 

 駅のすぐそばにあるホテルに投宿。夕飯はホテルに併設のレストランに行った。ミックスヴェジタブルなるものを頼んだら、超絶辛いカレーで、スプーン1杯も食べられない。

 

 駅前には、緑とピンクの蛍光灯が何層にもついた塔のある寺院があって、スピーカーでがなり立てている。「エーカー、エーカー、エーカーエー」の大合唱、演説、そしてまた大合唱。それが一晩中続き、部屋の中にまで響いて来る。

 

 

 

 

<10 サマスティプール に続く>

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