アラゴン連合王国 旅行記  2025年

15 土曜の午後は川風に吹かれて - リェイダ(2) 

  

 リェイダは観光地としてはあまり有名ではないが、歴史的な見どころも旧市街を中心に点在している。たいていの場所は17時から営業を再開するのだが、土曜日の今日はやっていても明日、日曜日は休みのところや午前中だけ開館というところも多い。なので、綿密に訪問計画を立てたつもりである。日が長い季節なのがありがたい。

 

 

 ところが、プラ市場は前述のとおり、外観を見るだけで終わってしまった。そこで、坂道の途中にあるサント・ロレンツ教会へ行って見る。しかし、開館時間が過ぎているのに門は固く閉ざされたままである。

 仕方なく、人気のない坂道をさらに下って、市庁舎のパエリア宮へ行く。ここには地下の遺構を見学できる筈である。だが、ここもまた入口が閉まっている。

 

 

 

 それならばと、新大聖堂の向かいにあるサンタ・マリア病院へと引き返す。ここは17時30分再開なのだが、やはりやっていない。

 

 

 

 目星をつけていた場所が何ひとつ見られないので、急に疲労感を覚えた。お腹も空いたので、夕飯にしよう。新大聖堂前の広場に出ているパラソルで、生ハムとチーズのバゲットサンドを食べる。この店はイル・モリネットと言い、リェイダではあちこちで支店を見かける。この街のローカルなチェーン店らしい。

 

 

 

 

 一応、お腹がふくれたので、すぐそばの新大聖堂に入ってみる。広い堂内は薄暗く、参詣者の姿もあまりない。

 

 

 

 

 

 

 各礼拝堂に祀られているのが、大工の一家として描かれたイエス親子だったり、ブランクーシの彫刻みたいなマリアや天使だったりと一風変わった教会である。ステンドグラスだってきれいだ。

 

 

 主祭壇には長方形の天蓋があって、その下に十字架にかけられたキリスト像が吊り下げられている。

 

 

 古拙な容貌の聖母子像は、いずれもが黒い肌色で表現されていた。

 

 

 

 大聖堂の玄関を出ると、向かいに建つサンタ・マリア病院が開いている。石の壁に小さな窓が開いた閉鎖的な建物で、治療というより隔離のための施設のようでもある。自由に入れるのは、イタリア風の回廊がめぐらされた中庭だけであった。

 

 

 

 

 

 病院が開いているなら、もしかしたらと思ってパエリア宮に引き返してみる。はたして、ここも玄関が開いていた。

 地上階の回廊天井に描かれた紋章がなかなか興味深い。

 

 

 

 地下に降りると尖頭アーチが並んでいる。古い部分はローマ時代の遺構だと言う。

 

 

 

 

 

 プラ市場はもはや遺跡となってしまっていたが、セグレ川の対岸には現代の市場も残っている。そのカッポント市場まで、土手を川風に吹かれながら散歩してゆく。

 

 

 

 しかし、この市場はごく小さかった。こだわりの食品などを扱っているのか、どれもいいお値段である。人の流れは、どちらかというと地下のスーパーマーケットの方に向かっているようだ。そして、スーパーマーケットにも特に買いたいようなものは売っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 再び旧市街に戻って来た。土曜日と言う事もあってか、ものすごい人出である。サン・ジョアン広場に植えられたねむの木の下のカフェも満席だ。

 

 

 

 

 

 広場の名のもとになっているサン・ジョアン教会にも入ってみる。意外と立派な教会で、こちらのステンドグラスも新しいものではあるが、なかなか美しい。

 

<16 歴史都市に中世を思う‐前編 リェイダ(3) に続く>

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14 人種分断の街? - リェイダ(1) 

  

 宿泊するアパートに着き、オーナーのおばさんに案内されて扉を開ける。すると、そこは地下室へと続く階段であった。部屋に入ると午後の一番気温が高い時間帯であるにもかかわらず、全く暑さを感じない。居間やダイニングにはライトコートに面した大きな窓があるので、閉塞感もない。

 

 

 

 

 

 これらのスペースやバス、トイレは二部屋の共用なのだが、もうひとつの部屋はずっと空いていたので、気兼ねなく使えた。今回の旅行で宿泊した中ではここが断トツに良かった。

 

 

 部屋で一休みして、再び街歩きに出かける。先ほど歩いた商店街の通りを逆に歩く。店のなかに昔の建物のアーチが残されているところがあった。

 

 

 この商店街通りは、旧大聖堂の建つ岩山を半周して1.2キロメートルあまりも続いている。一筋の道なのに、名前がちょこまか変わるので、どう呼んでいいのかわからない。

 

 

 

 

 道々、右手の山側にある路地へ入り込んだり、逆に川沿いの道に出て旧大聖堂を見上げたりする。

 地図を見た限りでは、山側に伸びる階段がなかなか魅力的に見えたのだが、実際は殺風景な細道に過ぎないところが多い。一歩裏手に回ると意外と建物が新しいせいもあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 市庁舎であるパエリア宮の前に来ると、舞台の上で女の子が何やら歌っていた。貼り出されているポスターを見るに、フェスタ・デ・ラ・ムージカなる音楽祭らしい。第28回と書いてあるから立派なものだ。だが、出演者はプロではなく、市民文化祭といった趣である。

 さっき、アパートのおばさんが「音楽は好きか?」と尋ねたので「もちろん」とは答えたものの、何のことだか分からなかったのはこれだったのかと思う。

 

 

 

 

 市庁舎の前から商店街の名はマジョル通りとなり、いよいよ店舗の密度も濃くなってくる。つまり、間口が狭く奥に長い短冊状の建物が櫛比しているのだ。そんな中に、正面に泉を備えた階段を見つけた。なかなか良い雰囲気なので、階段を上がる。階段は右に折れてさらに続いている。

 

 

 

 登りきったところは、思いがけず空地になっていた。ただの空き地ではなく、遊歩道や鉄板の歩道橋が複雑に絡み合っている。地図を見ると、ここはユダヤ人街の跡なのであった。

 

 

 

 小高い場所なので周囲の街並みの屋根が目線の高さに見える。よく見るとコウノトリが巣を作っている。古い教会の屋根にも、手前の新しいコンクリートの塔屋にも。

 

 

 そのまま丘に広がる街の中に入ってゆく。この一帯は地形が複雑な所で、路地は絡み合い階段が至る所につくられている。しかし、全般に建物が新しく、地図で見るほどおもしろいところではない。しかも、この一角は移民・・・黒人の居住区となっていた。彼らがたむろし、物々交換の市が立っている駐車場の広場を見ていると、まるでアフリカの都市としか思えない。坂下の繁華街には黒人の姿は見かけないし、白人たちもこの地区には足を踏み入れない。だから、坂上と坂下とを結ぶ坂道など、ほとんどゴーストタウンのようである。

 

 

 そんな中で、唯一、白人たちが集まっている広場があった。仮設舞台が作られ、ロックを演奏している。お揃いのアロハシャツを着た一団もいて、大いに盛り上がっている。

 

 

 さらに坂道を登ったところには、プラ市場がある。旧市街では唯一の市場であったが、既に役割を終えている。従業員通用口のようなところからツアー客が入ってゆくから、見学はできるようだ。もっとも内部はがらんどうだから、窓から覗き込めば充分である。

 それにしても、どうしてこんな街の一番高い所に市場を置いたのだろうか。普通なら、街道なり水路なりの便が良いところにつくりそうなものではないか。

 

 

 

 ここまで来れば旧大聖堂やスーダ城へも、あとひと息である。自家用車が次から次へと坂道を登って来て、観光客がぞろぞろと門に吸い込まれていく。混んでいそうなので今日のところは入場せずに、胸壁上を散歩する。

 

 

 

 頭上には旧大聖堂の廃墟がのしかかりように建っている。ステンドグラスはなくなってしまったのか、元からないのか、大きな飾り窓は素通しであり、反対側の空が見えている。

 

 

 

 

 

 赤瓦の旧市街は幅が狭く、セグレ川の向こうには中層のアパートが建ち並んでいる。新市街もさしたる規模ではなく、その向こうには意外と緑の多い大地が広がっていた。リェイダの人口は14万人程である。

 

<15 土曜の午後は川風に吹かれて - リェイダ(2) に続く>

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13 AVE03113便 サラゴサからリェイダへ

 

 

 サラゴサ・デリシアス駅に戻って来た。この駅は何度見ても、化物じみた巨大な駅舎だ。売店や待合室が雁行する通路の先にホームへの降り口がある。駅全体がひとつ屋根の下に納まっていて支柱もないので大変に見通しが良い。但し、機能的ではあってもおしゃれな空間とは言い難く、天井からクレーンでも下がっている方が似合っている。

 

 

 

 何はともあれ、荷物のエックス線検査を通過しておく。待合室やベンチがあちこちにあって、座って列車を待てるのは良い。

 しかし、スペインの高速鉄道には改札がある。この時間、バルセロナ方面へは立て続けにIRYO、AVANT、AVEと3本の高速列車が発車するから、誤乗防止のためにも改札は必要かもしれない。その一方、3本ともが2番線を使用するので、改札口前には後の列車を待つ人の列ができてしまうのだ。

 

 

 さらに言えば、車両の停車位置案内は待合室にあるだけで、ホームに降りてしまうと何の目印もない。2編成が連結した列車だと全長は400メートルもあるから、乗客はホームを走って右往左往することになる。

 

 マドリード始発のリェイダ経由バルセロナ行きAVEは、定刻12時52分に17分遅れで到着した。観光での都市間移動には手頃な時間ではあるが、この列車が一日のうちでも一番安かったのだ。

 シートに納まってみると、サラゴサまでの列車とはタイプが違うのか、フットレストがつき、リクライニングもするシートであった。

 遅れをそのまま持ち越して発車。しばらくは、サラゴサ市内の地下線を走る。ゴヤ駅やポルティージョ駅といった市街地の駅も、ホームは広軌の近郊線側にしか作られていない。

 

 

 地上に出ると既に市街地は背後に過ぎ去り、列車の速度もぐんぐんと上がる。だいたい時速230キロメートルから300キロメートルの間で加減速を繰り返す。

 車窓は荒れ地と耕地が交互に展開し、意外と起伏が多い。いずれにしても地面は乾燥している。スペインらしい景観なのに、高みに発電用の風車が林立しているのが興をそぐ。夏場の午後では風などないのか、回転しているプロペラはひとつも見当たらない。

 

 

 マドリードからバルセロナまでリェイダ経由のタルゴに乗った宮脇俊三は、退屈な車窓だとしきりに書いている。もとより、今通っているのは当時とは別な線路ではあるのだが、今日ではリェイダまでの所要時間はわずか43分だから退屈する暇もない。

 

 

 リェイダに近づくと急に緑が生き生きとし始め、市街地をトンネルで抜けて明るいホームに到着した。高速新線の効果なのか、乗降客が多い。これも、ほとんど乗降客が無かったと言う、宮脇俊三の紀行文とは状況が違う。

 

 

 

 リェイダの駅は、これまで見てきた大都市の駅とは違い、古い駅舎をきれいに改装して使っていた。駅前広場に面してホテルやレストランがあり、正面には幅の広い並木道、その右側には商店街になった細い通りがあり、並行に走っていずれも街の中心部へ導くようになっている。日本ではごく当たり前のような街の構造だが、ヨーロッパの都市としては珍しい。

 

 

 

 

 

 宿のチェックインまでは若干の時間があるので、街を少し見て土地鑑を養っておこう。まずは並木道の「ランブラ」を進む。既にシエスタの時間でもあるし、この道は一部が工事中でもあるので、あまり人通りがない。

 だが、遊歩道の先に仮設の舞台が作られていて、大音量のダンスミュージックが聞こえてくる。近寄ってみると、屋外ディスコの趣であるが、踊っているのは中年以上の男女である。バンドマンたちもプロではないようだ。

 

 

 

 

 

 並木道がセグレ川のほとりに出ると、右手の市街地側に三角ペディメントを戴いた門があった。リェイダもローマ時代から続く古い街であり、かつては城壁に囲われていたのだ。市壁の門としては唯一残っているのがこの「アルク・デル・ポント」であり、門の前に架かる橋は「ポン・ヴェル」、つまりは「古い橋」である。その橋を渡って、対岸に渡る。

 

 

 

 対岸の土手に立って旧市街を眺める。河川敷が原っぱになっていて、幅の狭い街のすぐ背後に小丘が立ち上がっている。建物は全く違えども、日本の城下町に通じるものを感じる。丘の上には旧大聖堂の廃墟がそびえ、その背後には中世の城の遺構もあるはずだ。

 

 

 もう一度橋を渡って、先ほどの門をくぐる。門内の店舗には古い石のアーチが見えた。

 門を出ればすぐ先が、駅から続く商店街の通りである。角に「カワイイ」というカフェがある。のどが渇いてはいるのだが、抹茶シェイクが1000円近くするので、水を飲んで我慢する。

 

 

 

 通りの向かい側にもアーチがあり、路地が続いている。傍らの柱に取り付けられた彫刻には1759年の年号が刻まれていた。

 

 

 

 

 

 商店街通りの左右はポルティコ状になっている。日陰にカフェのテーブルが並び、陽射しを避けたお客がビールなどを飲んでいる。ポルティコの天井に紋章の様な模様が描かれているのは、どんな由来があるのだろう。

 

 

 そろそろチェックインの時間だ。宿泊するアパートは駅の反対側にあるので、商店街を歩いて戻ろう。

 

 

 

 先ほどの門を通り過ぎると広場があった。面する店の前面には壁の様なものが作られている。展望台としては中途半端だし、人通りを分散させない配慮なのだろうか。

 

 

 

 丘側には屋外のエスカレーターとエレベーターがそれぞれ一段上の道路に通じている。これらは、城跡へ登るときに使ってみよう。

 

 

 

 広場の片隅には「灯台」があった。単なるモニュメントではなくエレベーターの乗り場である。だが、行けるのは地下駐車場だけだ。展望台の手すりに立っているのは人形で、人は上がれないのだった。

 

 

 

 「灯台」の対角線上にはマクドナルドがおおきなテントを出していた。徐々にわかってきたのだが、スペインにはマクドナルド以外、グローバル展開をしている飲食チェーン店はまず見かけないのだ。

 

 

 ここまでちょっと歩いただけではあるが、リェイダとはこんなにおもしろいところだったのかと思う。

 通りを先へ進む。「ダンダラ」という洋品店がある。これはダンダラ模様のことなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 途中で駅へ通じる道を右に分け、城跡に沿ってカーブしていく。こちらも下町ふうの一角で、飲食店が多い。サグラダ・ファミリアという名の学校、箒や籐細工の籠を飾ったショーウインドウ・・・

 

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12 朝市のサクランボがうまかった - サラゴサ(9)

 

 サラゴサ滞在も今日で終わり。デリシアス駅12時52分のAVEでリェイダに向かう予定である。午前中は時間があるので、旧市街をもう一回りして来よう。

 

 

 幹線道路のマドリード通りを東へ行くと、小さな児童公園がある。夕方に通ったときには子どもたちが大勢遊んでいた。今朝は人っ子ひとり見当たらない。

 このまま行けばアルハフェリア宮殿の前を通って旧市街に達するのだが、今まで通ったことのない裏道に入ってみる。このあたりは5階建てくらいのビルが並んでいて、何となく台湾の街と感じが似ているなと思う。

 

 

 

 旧市街との境目には三角形の大きな公園というか空地があって、地下を線路が走り、エル・ポルティージョなる停留所も設けられている。実はこの公園は元々、鉄道のターミナル駅だったところである。駅だった証拠に、大きな郵便局が今でも隣接して建っている。

 空地の向かいにはチョコレート工場の社屋を利用したホテルもあるのだが、これは最近の開業だろう。いずれにしろ、街はずれのデリシアス駅より、旧市街に近いこちらを活用してくれた方がありがたかったように思う。

 

 

 環状道路を越え、人通りの少ない寂しげな街区を進む。今日は土曜日だから、皆、朝寝坊をしているとみえて、殊の外、人が歩いていない。公園の角を曲がると、黒い石畳の路地が鐘楼の下に開けられた通路に続いていた。アーチの名前は、アルコ・デ・サン・イルデフォンソという。

 

 

 

 

 

 

 

 トラムの線路を越え、まだ眠りから冷めやらぬエル・トゥーボ地区を抜けてピラール聖堂前の広場までやってきた。ここまで来るとさすがに朝から人出が多い。いや、多いのには理由があった。広場の一隅で朝市が開かれているのだ。

 

 

 

 

 商品は野菜や果物が中心で、どのテントにも行列ができている。並んでいる人たちは地元民だろう。

 

 

 

 

 

 

 しばらく見物していると、ある店でサクランボを試食させてくれた。長径が3センチメートルはある大きな粒でウエスカ産だと言う。このサクランボが最高においしかったので200グラム買いたいと言ったが、500グラム以上でないと売らないのだそうで、あきらめる。

 

 

 ところで、今朝はまだ朝ご飯を食べていない。平日ならば、朝食を意味するデサユーノの看板がバルなどに出ているのだが、土曜日はお休みらしい。店自体は営業していても、黒板に書かれたメニューの金額が消されたりもしている。

 駅まで行けば何か食べられるだろうと思い、早めに向かうことにする。ここから駅までは直線距離でも2.5キロメートルはあって、結構遠い。出来るだけ近道をすると、アルハフェリア宮殿の脇を通ることになる。

 

 

 

 宮殿の前まで来ると、1軒のカフェテリアで朝食を供していたので、宮殿を道の向こうに眺めながら食べることにする。注文したのはトルティージャとコロッケである。トルティージャはメキシコのとは違って、ジャガイモのタルトである。コロッケの中身は全体が緑色で、ショーケースの札にはテルエルのハムとボラッハだと書いてあった。テルエルのハムとは要するに生ハムのことらしいのだが、入っているのかどうかよく分からない。ボラッハの方はルリチシャという野菜のことだ。青い五弁の花が咲くそうで、この花なら庭園などでよく見かける気がする。

 

 さて、アルハフェリア宮殿まで来れば、デリシアス駅まではもう一息である。宮殿を取り囲む公園の高みに登れば、駅舎は幹線道路の先に巨大な姿を見せている。幹線道路といっても車は少なく、並行している細長い公園を歩いて行けばよい。もっとも、この公園にはパーゴラ程度しか設備がなく、木陰もないので陽射しが非常に暑い。

 

<13 AVE03113便 サラゴサからリェイダへ に続く>

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11 オリガミスタに出会った - サラゴサ(8)

 

 サン・パブロ教会の見学を終えると、早くも空腹を感じた。だが、今日のうちにもう1か所、見ておきたい博物館がある。この博物館もご多聞に漏れず14時から17時までシエスタなので、その前に行ってしまおう。

 

 

 

 

 トラムの線路を横切り、トゥーボ地区を抜けて、マグダレーナ教会の先へと歩く。このあたりは旧市街の東側部分である一方、ローマ時代には城壁外だった地区である。地図を見る限りでは商店もないようだから、少々寂れた街区を想像していた。

 

 

  しかし、歩いてみると意外にも古い石造の建築が残っている。中でも、アパルタメント・ロス・シティオスなる建物が大きくて保存状態も良い。

 

 

 

 やって来たのは、サラゴサ折り紙学校・博物館。略称EMOZで、サラゴサ歴史センターの一角に入っている。この歴史センター、広場に面した側はサン・アグスティン教会のファサードを利用しているのだが、内部は全くの現代建築になっている。

 サン・アグスティン教会は元々大きな教会だったらしく、脇の建物にくりぬかれたアーチを抜けると回廊跡の四角い広場がある。ただ、この広場にはホームレスの若者たちが布団などを並べていて、昼間はともかく、夜はとても歩けるところではなさそうだ。

 そういえば、サラゴサには乞食が多い。繁華街の路上でずっと土下座をしている若い乞食もいて、子どものころに見た「傷痍軍人」を思い出してしまった。

 

 

 

 さて、歴史センターの階段を上がって、4階にある折り紙博物館の玄関前ホールに立つ。折り紙のオットセイみたいなモニュメントが置いてある。同じかたちのものがピラール聖堂前の広場にもあったのだが、そちらには何の説明もなかったから、例え気がついてもこの博物館まで足を運ぶ人はあるまい。

 

 

 博物館の展示は、まず折り紙の歴史から始まる。中国では西暦105年、CAI LUNの時代から折り紙が存在したという。ガラスケースの中には紙のうちわみたいなものが展示されている。2世紀なら漢の時代だし、カイ・ルンなどという名前はベトナムの皇帝みたいだと思っていたら、それは有名な蔡倫のことであった。

 その後、7世紀には朝鮮や日本へ、また8世紀にはサマルカンドを経由してイスラム世界に伝わったともあり、紙の製法とともに折り紙も伝わったということなのだろう。

 

 

 1035年には、エジプトやフェズで、包装紙の小箱が使われていたようだ。近代に入ると、日本で出版された「折り方手本」などの紹介もされている。

 

 

 イタリア、ドイツ、フランスを中心に、現代のオリガミスタたちの作品も多数展示されている。これはこれで中々に興味深いものではあるのだが、折り紙というより紙を使った造形という方がふさわしいものが多い。

 

 

 

 

 

 現代における折り紙の発展に貢献した人のひとりとしてKoko Uchiyamaという名前も挙げられていた。名前からしてモダンなおばあさんを想像していたら、内山興正なる僧侶のことであった。この人の本ならば、子どものころ我が家にもあった気がする。

 

 

 

 

 

 折り紙博物館を出て、中世の城壁を見に行く。中世の壁は、旧市街の東端を廻る環状道路である、アロンソ5世通りとアサルト通りにそれぞれ残っている。アロンソ5世の方は半円形平面の防御塔が連なり、片端は壁をそのまま利用したアパートになっていた。アサルト通りの方は背後のアパートの下階と一体化してしまっていて、塔などの出っ張りは見当たらない。

 

 

 

 

 路地を適当に歩いて行くと、サン・ミゲル教会の所に出た。傍らに位置する同名の広場は、かつて市電の1系統が出ていたところである。今も残る環状の車道は、終端ループの名残であろう。

 

 

 広場に面した店でタパスの昼食にする。オープンサンドの方は、店のおばさんが「バカラオ」(鱈)だと言う。もうひとつは、平たいフライドポテトの中にツナやマッシュルームのマヨネーズ和えが入っていた。大変においしいものだが、添えられたナイフとフォークでは食べにくい。

 

 

 サン・ミゲル広場とエスパーニャ広場を結ぶ裏通りのサン・ミゲル通りは賑やかな商店街になっていた。堀淳一が「雑踏がすごい」と書いたのはこの通りのことと思われる。現在では少々古びた商店街といった感じもするが、中ほどにはサン・ミゲル市場がある。シエスタ時間を取らずに15時まででおしまいで、市場にはときおりこうした営業時間設定の場所もあるようだ。

 

 

 市場の入口は、間口の小さなバルのようである。実際、通路にテーブルが置かれ、老若男女がビールを飲んでいる。市場本体はその通路の奥にあって自動ドアで仕切られているそのドアが開くと、肉の臭気が一気に襲ってきた。しかし営業している店は少なく、買い物客も若奥さんがひとりだけである。ここも存続の危機に瀕しているようだ。それにしても、ただ1軒きりでしかない肉屋でもこれほど臭いがするとは。クーラーもなく、多くの店と人で賑わっていた時代にはどれほどひどい臭いがしていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 サン・ミゲル市場の裏手の方へ行って見る。学校や病院、修道院、さらにはアール・デコ調のアパートなどわりかし立派な建築が多いように感じる。

 

 

 

 

  このあたりが旧ユダヤ人街だったはずだが、追放後500以上も経っているから、往時の面影は全く残っていない。

 

 

 

 

 

 旧市街の中心部へ戻り、大聖堂の周囲をぶらぶらしているうちに雲行きが怪しくなりはじめた。宿に早く戻っておこうと歩き出す。スーパーマーケットで買い物もしておきたいので、南部の新市街を回って行く。途中、アラゴン広場のあたりでとうとう降り出した。軒先で雨宿りしているうちに、雨は止んだのだが、意外なことにスペイン人は結構な割合で雨傘を携帯していて、さしたる降りでもないのにさして歩いているのだった。

 

 

 

 途中で、まだ入ったことのないテルエル市場に立ち寄る。サラゴサの市場としては店舗数が多い方だろう。しかし、ここも閑散としていることには変わりがない。魚屋の氷を敷き詰めた冷蔵ケースにも品数が少ない。奇妙な顔の魚には値札にメルルーサとあり、給食でよく出たやつだなと思う。

 

 

 メルカドーナという大きなスーパーマーケットで夕飯とお土産用の紅茶を購入する。茶葉の産地は不明だが、一応スペインでも紅茶を飲む人はいるのだなと思う。それにデザート用のクレマ・カタラーナも買っておく。

 

 

 宿の近くのメルカード・シウダー・ハルディンにも立ち寄る。内装工事は終わっていたが、営業している店舗は今日も少なかった。

 

 

 宿に戻り夕飯を食べていると、空が真っ黒な雲に覆われ、雷が鳴り出した。大粒の雨も降り出す。雨は3時間近く続いたろうか。雨が止んでからデリシアス通りに出てみたら、路上のテーブルやイスが片付けられているのは当然として、22時前なのに飲食店もほぼ店じまいをしていた。オルチャータの店も閉まっている。さっきのスーパーマーケットでマンゴーとパッションフルーツのミックスジュースを買っておいたから、今夜はそれで凌ごう。

 

<12 朝市のサクランボがうまかった - サラゴサ(9) に続く>

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