212熱狂(1-1) | 左団扇のブログ

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『熱狂』L’Enthousiasme 書き下ろし長編(1901年2月、オランドルフ社刊)。自伝的小説で、妹のジョルジェットに献呈されている。原稿の1枚目に作者は「個人的価値 焼却すべし」とメモしている。

 

 

 

    熱狂         

    モーリス・ルブラン  

 

 

 

     Ⅰ

 

 兎も角、私はこの誠実な紙面で語ろうと目論んでいる、我が青春の一部を過ごした、地方の都市に再訪したいと思っていた。去ってから数年を経て、初めてその苦痛で魅力的な巡礼の旅をしたが、サン=ジョル=アン=ウルム[1] の人々は私の中に、かつて()け者して自分達が追放した子供を認める事が出来た。きっと私の大胆さは彼等憤慨させただろう。私の方はその敵意に充ちた視線に尊大に酔い痴れても、身震い一つしなかった。感情は卑俗な本能を抑制するものであり、繊細な心に人の過去を呼び起こして湧き起こるものは、とても純粋な感情の中でも特に純粋なものだ。

 

 そこで、私はその街路を再び辿ったが、その一歩一歩が苦悩や至福の時を思い出させてくれた。かつては思わぬ遭遇に期待をしながら大通りに沿って進んだものだ。処々(ところどころ)ショー・ウインドーの前立ち止まり、近くの曲がり角から最愛の女性が現れるのを辛抱強く待った。ここでは一方の歩道からもう一方の歩道へと微笑みを投げ掛けてくれた。あそこでは、私を見て見ぬふりをした。この薄暗い袋小路で、落ち合う事が出来たし、この玄関の下で私は涙を流した。

 

 どんなに胸が高鳴った事か。昔の感情が、見付かった迷子の様に私に向かって駈け寄って来た。おそらく、最も素晴らしい感情が私をもっと悲しませた。苦悩より幸福を思い出す事の方により哀愁がある。それでも何と心地好い哀愁だろうか。

 

 ここは街の山の手で、自然の多い丘の上にあばら家が群がっており、急な小路が迷路の様に入り組んでいる。城[2] の残骸とオルヌ川[3] 彎曲部を取り囲む市壁とは、サン=ジョルが小さな要塞都市であった苦い過去を今に残しているものの全てだ。対岸には平凡で整然とした、近代的な街がある。前世紀の間に、一連の状況がそこを地域の産業の中心地にし、他の場所の発展を止めさせ、裕福な家庭は進取の精神を失い、活動が鈍化した。三万の人口[4] があるにも(かか)わらず、死の都市と呼ばれていた。

 

 私が離れてから何も変わっていなかった。進歩に対しての相変わらずの抵抗、同じ無気力感。大広場の拱廊(アーケード)の下には今少しの静寂があり、横道の舗石の間にはもう少し多くの草が生えていたが、おそらく、人の心の奥底の不寛容は殆ど減らないままだ。人々には以前と変わらぬ、諦めの物憂さや、無知から来る満足の雰囲気が漂っていた。最早、彼等が呼吸したり、手足を動かしたり、物を見たり聞いたりする事に、喜びを感じている様には思えない。せいぜい、語り合う事を娯しんでいるだけの様に見える。かつて、敢えて自分の気まぐれに従って生きると決めた無分別な若者に対し、この陰気で停滞した小さな社会が抱いた憎しみを、今日(こんにち)の私はどう自分に納得させたら良いのだろう。

 

 広場とそれを横切る大通りで作られる角の一つ、天文学者にして航海者のアントワーヌ・ベレ[5] の銅像の裏に、私の実家がある。空き家になっていて、鎧戸は閉ざされ、これからも誰も住む事はあるまい。それが母の望みだ。そこに嫁いで来て、夫が亡くなるまでの八年をそこで幸福に過ごした。私もそこで生まれ、妹のクレールも七年後にそこで生まれた[6] 。私達が母の優しい眼差しの下で育ったのはそこだ。仮に私達が母の期待に添えなかったとしても、この住まいの古い壁の中で自らの人生の掛け替えの無い夢を、私達の為に抱いていた事だけは彼女は忘れ得ない。

 

 そしてここが中学(コレージュ)[7] だ。ああ、冬の朝に、陰気な建物正面を認めて、(つら)く堪らなかった時と同様に、私は悲痛に身を震わせた。この大時計が、今もなお弔鐘の如く私の耳に鳴り響いている。鉄柵の右、この低い門が私を目掛けて、まるで牢獄の扉の様にバタンと閉まる。全く、そこから人生がスタートする牢獄ではないか。人が空間に、独立に、物の美に、空や地平線の景観に、興味を抱いた途端に、彼はそこに閉じ込められてしまう。そこには壁が、牢番が、土牢が、処罰があり、空気や光は殆ど無い。子供が何か悪い事をしたら、もっとそれ以上の非道がなされたのではないだろうか。

 

 人生の始まりは心奪われる様な素晴らしいものであるべきで、そうじゃない理由は何処にも無いと、私はしばしば思っていた。真っ(さら)な心凡ゆる形の幸福を受け入れる準備があり、(けが)れの無い体はその心の妨げをしない。そして、財産や境遇の問題はどうでも構わない、何故なら幸福になる為に、子供に必要なのは自由である事だけだからだ。特権階級の中にいた私は、光り輝く思い出しか持ち得なかったし、自分と云う少年が選ばれた人間であると考えざるを得なかった。運命の力に拠って、そう云う者には、走ろうとする所に大平原が開かれ、登ろうとする所に木々が植えられ、ビー玉を転がす山[8] が築き上げられ、妖精達が動き回る童話や勇者達が戦う高尚な歴史物語が構想されるのだ。どんなに記憶を振り絞っても、自分目がけてバタンと閉まる、監獄の扉に怯える中学生の哀れなシルエット以外に、どうして過去は私に思い出を与えてくれないのか。私は不幸ではなかったが、そうであったように思われる。善い人間であれ悪い人間であれ、私が想い起こす人々、舎監、教師、自習監督と云った人達は、特に私を抑圧しようとする任務を帯びた人物として、変わらぬ姿で現れて来る。中学の外にあっても、同じ息苦しい感覚が私を付き纏った。祖父のアムラン氏は厳格で無愛想な人と云うに留まらず、残忍な監視人であり、私の他の敵どもと協力して抑圧の務めを続けた。



[1]  架空の地名。「私」ことパスカル・ドヴリューが著者自身だとすればルーアンに相当する。サン・ジョル(Saint Jore)はノルマン語で聖ゲオルギウスの事。ル・ウルムはルーアンの近郊にある町の名。

 
 

[2]  13世紀の初めに造られたブーヴルイユ城がルーアンにあった。今は、百年戦争時に捕らえられたジャンヌが幽閉された塔等が残るのみ。市壁も現在では大部分取り壊されている。

 

[3]  オルヌ川はルーアンからもっと南西の方を流れている。ルーアンにはセーヌ川が通っている。

 

[4]  ルーアンならば、当時11万人以上の人口があった。

 

[5]  不詳。中部フランスのピュイ=ド=ドーム県の県庁所在地クレルモン=フェラン市には、おそらく彼の名前を冠したアントワーヌ・ベレ通りがある。

 

[6]  モーリス・ルブランの場合、実際には母親の方が1885年に、先に亡くなっている(享年41)。父親のエミールが亡くなったのは1905年(享年75)だから、この小説発表の後。それに、2年前(1863年)に生まれた姉のジャンヌがいたし、この小説のクレールに当たる妹ジャンヌは四歳下(1869年生まれ)。

 

[7]  モーリス・ルブランは1875年から1882年にかけ、コルネイユ高等学校(リセ)に通ったが、その当時は、第6学級に始まり第1学級まで(上の学年に進むに連れ、数字が減って行く)と、最終学年の哲学級の7年間で、最終学年は他に数学級があった。モーリスの場合、第6、第5学級は、別館の「プチ・コレージュ・ド・ジョワユーズ」で学んだ。

 
 

[8]  これはビー玉を転がして遊ぶ、小型のジェットコースター(フランス語ではmontagnes russes「ロシアの山」と言う)の様なコースを意味するのか。