臨猫心理学会 紀要 -3ページ目

臨猫心理学会 紀要

連絡・告知や活動報告、雑談、相談、冗談など

誰も親族共同体に帰りたいとは思っていない「現代資本主義社会」では、どんなに結婚したいとしても、「お見合い」という制度を復活させるわけにはいかない。
合コンや街コンは、仲介者への義理立てもない。しかも圧倒的に多数のサンプルを比べることができる。
そして最終的に「数をたくさん見比べられたから、この人で納得できる」という理由が、合コン参加者の「私の相手は私が決める」という合理性とプライドを支えている。

合理性は論理としては批判のしようがない。しかし、合理性が何を省くかというと、時間、つまり感情の成熟である。
そのプロセスを省いたことへの心理的補償は、どこかでなされなければならない。
それが「自分語り」となる。「私の選択は間違ってない」「自分で選んだ人だ」という物語を他人にむけて語ることになるのである。

その「ライフスタイル語り」は、アルコール依存症の人たちが自助グループで話す「自分語り」に構造が近い。
そこでは、名も無い一個人として体験を話すことで癒える人が多く出る。
そして癒える話には類型があり、最後に「依存症になったからこそ見える世界があった」と、苦難を受けた選民のように自らを捉え直す型が多く聞かれる。
また、型通りに語れる人が回復する、とも言える。

女優・二谷友里恵(1964年 - )が著した「愛される理由(1990年)」。このタイトルからは、ライフスタイル語りの力学構造が見えてくる。
$臨猫心理学会 紀要-1

「愛される」とは、大衆的には「羨まれる」ことである・・・ジャック・ラカンを引用するまでもなく。
二谷は何が羨まれるかを知っていた。
「愛される理由」において、出身校である慶應義塾内部の固有名詞を何の説明もなく出すことなども、そういう理由からだろう。
それが計算上なのか本能的なのかは、わからないが。

そして、ベストセラーとなったこと(1990年度の書籍売上一位)を通して、二谷はライフスタイル語りの類型を作ったと言える。
それは「人生におけるターニング・ポイントに際して、それは良い選択だったと他人に承認してもらうこと」である。
その類型は、後に多くの芸能人から踏襲されることになる。
重要点は「他人からの承認」である。



鏡に対する反応で、その猫の性格がわかる・・・まさに「投影法」だね。



しかし、「他人からの承認」に頼ることには危険性も潜んでいる。
「承認を与えないこと」で「承認を求める人」をコントロールできてしまうのだ。
その(悪い意味での)類型を使う人々の例は、枚挙に暇がない。
ブラック企業の社長、自称カウンセラー、サイコパス・・・

では、他に方法は無いだろうか?
続きは次回の講釈で・・・


社会学者のアーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman, 1922年 - 1982年 カナダ)は「社会的相互作用」という概念を提唱した。
社会的相互作用とは、人々が状況に意味を持たせ、他者が意味しているものを解釈し、それに応じて反応する事象である。
$臨猫心理学会 紀要-1


その観点から「合コン」や「婚カツ」を考察するなら・・・

そこで参加者たちにとって重要なのは「すべきこと」よりも、むしろ「すべきでないこと」である。
がっつかない、目立とうとしない、仕事の話をしない、などなど。
自然で偶然的な出逢いの場を作り上げるには、参加者全員が協力して禁忌を回避する必要がある。

その結果、多くの矛盾が表出する。
錯綜するコミュニケーションの中で出逢うことは、実はきわめて難しい。
建て前上は平等な競争の場であるはずが、そこでの序列化があまりにも熾烈で複雑で、身動きがとれなくなってしまう。

さらには、意中の異性を射止めようとして、期待される「女」や「男」を演じることが、出逢いそのものを困難にする。
なぜなら、その場に存在するコードに則って周りに気を遣いながら、うまく立ち回りながらの出逢いは、限りなく虚構に近いのだから。
虚構のような「男」と「女」だから、そこでどんなに意気投合したとしても、その舞台を降りると醒めてしまう。

うまく振る舞えないからうまくいかないのではなく、うまく振る舞ってしまうからこそうまくいかないのだ。



この猫は、鏡の向こうの世界に行きたいらしい。



では、どうすれば?
続きは次回の講釈にて・・・


患者が自己を見失うから病になるのではなく、社会そのものが病をつくると説いた、ミシェル・フーコー(1926年-1984年 フランス)その典型例は、意外にも身近にある。
ジャーナリストのデイヴィッド・シェンク(1966- アメリカ)は、

$臨猫心理学会 紀要-1

著書「Forgetting(2002)」の中で、医師たちが1970年代の半ばにアルツハイマー病を「病気」として意識し始め、大衆がそれに敏感に反応し、そのために症例が当時の約50万人から500万人へと増加したことを指摘している。

昔から、いわゆる「老人ぼけ」のような、アルツハイマー病に相当するような状態は存在していた。感染症ではなく慢性疾患とされるアルツハイマー病が、社会変動もないのに爆発的に増加した要因は、「恐れ」にある。病への「恐れ」が、古来同じ装いのままである対象に「病気」という異称を与えた。
医学界が、ごく軽い認知能力の低下にも「経度認知障害:MCI」という境界領域を設け、それがアルツハイマー病へ移行する可能性が大きいことを示唆した。すると、市場原理が横行し、効率を上げることが優先される先進国に特有の社会状況では、この病気への関心は高まるばかりだったのだ。
しかし医療人類学的観察から見ると、認知能力の衰えを「病気」ではなく「老いの表現」として認識している社会では、それはdementia simplex(単純痴呆)と呼ばれる穏やかな痴呆状態として受け入れられることが多い。


1978年に精神科医の真喜屋浩(1935- 日本)が沖縄県島尻郡で行った調査報告は、知力の低下した老人が周辺症状を現わすことのない実態を示している。

$臨猫心理学会 紀要-2

真喜屋は村の65歳以上の老人708名(男268名、女440名)全員について精神科的評価を行った。その結果あきらかに「老人性痴呆」と診断できる方は27名(全体の4%)で東京都の有病率と変わらないものの、全症例を通じて、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄症状を示した人は存在しなかった(ただし統合失調症と思われる一例は報告されている)


ある現象は、見る人の関心や問題意識、さらには情動により、異なる解釈がなされる。
かつて青年期の煩悶などは、人間的成長を遂げるために必要なステップと考えられていた。もし、その悩みに対して何らかの「病名」がついてしまったなら・・・

認知症が、記憶や見当識や物事を計画する機能が失われることを意味するのならば、そこに生じる基本的な情動は「不安」である。
同じように、若者が環境世界とのつながりが失われ「不安」にさいなまれるなら、「ひきこもり」と呼ばれてしまうのかもしれない。



じゃあ「ひきこもり」の反対語はなんだろう?「リア充」?
この仲良しな二匹は「リア充」?



「リア充」を自由恋愛の楽しみに耽るカップルと定義するなら、「合コン」で彼女を見つけたり。
それを定職に就くことだと定義するなら、「就カツ」で就職先を見つけたり。
それを結婚して家庭を持つことだと定義するなら、「婚カツ」で相手を見つけたり。

実は、そこには「制度と幻想」が存在する。
あれ、ここにもまた、ミシェル・フーコーの影が・・・

続きは次回の講釈で。