ここ数回にわたって取り上げてみた、ロックバンド「イエス」の「ロンリーハート」
その完成形が、このPV(プロモーション・ビデオ)である。
1980年代のPVにありがちな映画仕立ての演出で、バンドメンバーの演奏シーンは冒頭の数十秒のみ。
それにもかかわらず、このPVは高く評価され、1970年代後半に失速していったプログレッシブ・ロックというジャンルに、新しい方向性を与える先鞭となった。
「音楽は楽曲のみで評価すべきだ」という主張も当然ながら存在する。
彼らに言わせれば、PVなどのイメージ操作が加わった評価は邪道らしい。、
しかし、クラシック音楽の分野での同様の対立概念である「絶対音楽(音楽そのものを表現する音楽)」か「標題音楽(文学的な何ものかを音楽で表現する音楽)」か、というパラダイムにおいては、
「歌詞を持つ音楽はそれ自体が文学的な表現をするので、標題音楽・絶対音楽という分類そのものが無意味」ということになってしまう。
絶対音楽においてすら、奏者や作曲家のパーソナリティやルックス、バイオグラフィが、その評価に影響を与えないとは言い切れない。
まして、評価をくだす側も、その時代背景や個人的要因から影響を受けないはずもない。
音楽は音楽のみでは存在しえないのだ。
さて、ベートーヴェンとビートルズはそれぞれ「不朽の名作」を残したとされる。
しかし、ここでいう「名作」とは、どちらも同じ意味なのだろうか?
ビートルズと、彼らのサウンド・プロデューサーであるジョージ・マーチンは、アルバム作品を重ねるたびに、レコーディング・スタジオでの音響実験やテープ編集などの技術を、その音楽に練り込んでいった。
その技術の頂点といわれるアルバムが、1967年に発表された「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」である。
1966年以降、コンサート活動を停止していたビートルズは、このアルバムによって、レコードが生演奏とは異なった基盤に立つ音楽実践であると宣言することとなった。
この段階で、二つの「作品」概念が並立することになる。
楽譜に依存するクラシック音楽的な作品概念のもとでは、楽譜に指示される音と音との形式構造こそが「作品」とされる。
一方、レコードという形で最終的にまとめあげられるポピュラー音楽においては、そこに実現された音の響きのまとまりこそが「作品」と見なされるようになったのである。
音楽における「作品」とは何なのか。この問いは、現在の音楽をめぐるさまざまな混乱と直接繋がる。
なぜなら、著作権制度が保護をする「著作物」という概念は、音楽を「作品」と見なす考え方を前提としている。
音楽における作品概念の揺らぎは、そのまま著作権ビジネスを揺るがすことになるのだ。
録音、編集テクノロジーが音楽文化の中で大きな位置を占めることで、何をもって「音楽それ自体」を構成する要素と見なすか、さまざまな基準が並立する状況がもたらされた。
そしてそれは、新たなパラダイムを求めている。
たとえば、すでに録音された音楽作品をサンプリングして用いるクラブDJ。彼らを、「音楽を作品という枠組みでのみ考える経済概念」では、捉えきれないことは明白である。
新たなパラダイムのもとでは、「楽器」の意味も「作曲」の意味も「音楽行為」の意味も、現在のそれらとは大きく変化する。
(いや、すでに変わりつつある)
変動するのは音楽の経済構造だけではない。
我々の音楽観、認識構造も変わるはずだ。
それは具体的にどのような?・・・
続きは次回の講釈にて。