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臨猫心理学会 紀要

連絡・告知や活動報告、雑談、相談、冗談など

ミシェル・フーコー(1926年-1984年 フランス)は、「狂気の歴史(1961年)」を著し、精神病という概念は近代以降に生まれた新しい病であるとし、
患者が自己を見失うから病になるのではなく、社会そのものが病をつくると説いた。

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フーコーは主著「言葉と物(1966年)」で、近代社会を支配している見えない構造である「パラダイム」を、歴史的に考察し取り出すことによって、ヨーロッパ近代思想を再定義しようとした。
「パラダイム」とは、各時代の人々によって知らず知らずのうちに作り上げられる「知の枠組み」のことだ。

近代後期(17世紀半ば以降)に、世界についての新しい認識が生まれた。
「死せる有限の存在である人間(生き、語り、労働する個としての人間)」という認識である。
この変化によって、生物学・言語学・経済学が誕生し、現在のようなパラダイムに至る。

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しかし当然ながら、この枠組みも歴史の中で変化し相対化されるだろう。
すなわち「人間の終焉」は近いとフーコーは主張する。

当時の冷戦構造世界において「近代の思想では対立を克服できないのではないか」「高度消費化社会へ変貌していく先進国では管理・合理化が進み、人々の自由は見えない力によって圧迫されていくのではないか」という危機感を多くの人々が持つ中、フーコーは時代の旗手であった。

フーコーは晩年、西洋社会が「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することもできないような新しい管理システムを発展させつつあることを示そうとした。
従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し、時には抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。しかし、この新しい「生の権力」は抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。
例えばそれは、住民の生を公衆衛生によって管理・統制する、福祉国家という形態をとって出現する、と説く。

フーコーがいまだ色あせないのは、現代にも通じる執拗低音(オスティナート)を抱えた、その切迫感に他ならない。



シャンプー後のドライヤー。でも、大きな音をたてる存在を猫は嫌がるのだよね。
ところで、猫にとっての飼い主の存在は「生の権力」なのだろうか?



閑話休題


「生の権力」・・・
たとえば、TPPに代表される貿易協定やWHOによる人道支援の内実が、たんなる医薬品の押しつけだったり、古来の伝統医療の抑圧であれば、それは医療帝国主義に過ぎない。
そこに陥らないためには、学問的解析と展望が必要となる。

人間の生命維持そのものに関わる医療行為。それを人類学的観点から研究対象とするのが「医療人類学」である。


続きは次回の講釈で・・・

オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト(1856年-1939年)

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その理論は、精神医学の分野だけにとどまらず、
人間の「欲望」や「身体性(官能性、感受性)」についての本質的な思想として読むこともできる。
その理論をまとめるならば・・・

人間は誰でも、何が美的か、何が正しいかについての、いわば「自己ルール」を持っている。
この自己ルールが、人の欲望や感受性(エロス的な身体性)の形を決めている。
自己ルールは生来のものではなく、人間関係の中で徐々に形成されていく。
そして、私たちは誰も、それ(自己ルールやその成立プロセス)を忘れてしまう。
でもそれは私たちをずっと束縛しているので、ときには現在の欲望や感情の在り方と食い違って不具合(神経症)を起こすことがある。
それを私たちは「無意識」と呼ぶ。

これは、人間の欲望、感受性、身体性の考え方のモデルとして、画期的に新しいものだった。



フランスの精神科医、ジャック・ラカン(1901年-1981年)は、構造主義の観点からフロイトを解釈し、一躍脚光を浴びた。

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ラカンはフロイトを、どう解釈したか・・・

前述のように、人間の欲望や感受性は生来のものではなく、人間関係の中で時間的に編み上げられていく、というモデルをフロイトは構築した。

ラカンはここから、人間の真の「主体」は、「意識」ではなく「無意識の欲望」のほうだ、と強調する。
その説明のため、動物とは違った人間の本質として「無意識の欲望」を描く。
動物では「身体」の能力は自然が決める。そのことで動物は、自然界の秩序の中に絶対的に埋め込まれる。
そして動物では、あくまで生理的な「欲求」が主体で、「身体」はこの「欲求」を実現するための道具に等しい。それが動物の身体性の本質だ。
しかし人間の「身体」は、「欲求」に奉仕するたんなる道具ではなく、「自己ルール」に応じた「欲望や感受性」によって世界と生を感受し味わう。
しかも動物とは違って、私たちは「欲望や感受性」を「無意識」のうちに常に編み変え、刷新していく。

では、その「無意識の欲望」は何によって変化していくのか。
ラカンは欲望の原因を「対象a」と呼んでいるが、これは欲望の幻想性を示す概念だ。
たとえばブランド商品も、他の人がその価値を認めていなければ、何の欲望もわいてこないだろう。
決めているのは商品そのものより、それを持つことで他人に称賛されることであり、その商品には他の人々との関係にまつわる幻想が織り込まれている。
「人間の欲望は他者の欲望である」とラカンは言った。
他者の承認を求めることが人間的欲望の根幹にあることを、ラカンは鋭くとらえていたのである。



でもね、ラカンさん。
うちの三毛猫(トム)と白犬(ブルート)は、互いの関係性を認めたうえでプロレスごっこを楽しんでいるようにしか見えないのだけど・・・




ラカン等が提唱した「知の枠組み(パラダイム)」も、やがて歴史の中で変化し相対化されるだろう。
そう主張したのは、やはり精神科医のミシェル・フーコー(1926年-1984年 フランス)だった。
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続きは次回の講釈で・・・


文化は文章でのみ表現できるものではない。
例えば、人間の内面の発露するものとして宗教美術がある。
信仰の対象である図画や彫像に内在する意味、そしてそれを崇める庶民の心情は、
信仰対象と礼拝者の緊密な関係として、画像的に現れる。


エルヴィン・パノフスキー(1892年-1968年 ドイツ)が理論化をすすめたイコノロジー(図像解釈学)は、
20世紀の美術史学にとって「様式論」と並ぶ最も重要な方法論となった。
代表的な研究には「デューラーのメランコリア 起源と類型の一史的考察(1923年)」がある。

アルブレヒト・デューラー(1471年-1528年 ドイツ)は、ルネサンス期の画家。
1513年から1514年にかけて、銅版画の傑作である、
『騎士と死と悪魔』、『メランコリア』、『書斎の聖ヒエロニムス』などの作品を発表した。

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考え込む大天使、背後の魔法陣、かたわらの方解石、眠り込む獅子、それらは学問の寓意だと理解される。
しかしそこに秘められた内面の発露は、その作品についての詳細な検討はもとより、
作家の意思、鑑賞者の意識、環境や世相など、さまざまな条件を考慮して解釈する必要がある。

パノフスキーの成果は、美術に関連して文化形態を解釈し、人類・民族の精神発達を記述するところにあり、
この方法は他の分野にも応用可能だろう。

チベット仏教における霊性の具現化としての曼荼羅(まんだら)。
そこに視線を向けて、中沢新一・明治大学特任教授が構築した芸術人類学も、同じ方向性と言えるだろう。
 
 
  
さて・・・
この動画の、「猫」ピアニスト氏が発露した内面とは・・・?