誰も親族共同体に帰りたいとは思っていない「現代資本主義社会」では、どんなに結婚したいとしても、「お見合い」という制度を復活させるわけにはいかない。
合コンや街コンは、仲介者への義理立てもない。しかも圧倒的に多数のサンプルを比べることができる。
そして最終的に「数をたくさん見比べられたから、この人で納得できる」という理由が、合コン参加者の「私の相手は私が決める」という合理性とプライドを支えている。
合理性は論理としては批判のしようがない。しかし、合理性が何を省くかというと、時間、つまり感情の成熟である。
そのプロセスを省いたことへの心理的補償は、どこかでなされなければならない。
それが「自分語り」となる。「私の選択は間違ってない」「自分で選んだ人だ」という物語を他人にむけて語ることになるのである。
その「ライフスタイル語り」は、アルコール依存症の人たちが自助グループで話す「自分語り」に構造が近い。
そこでは、名も無い一個人として体験を話すことで癒える人が多く出る。
そして癒える話には類型があり、最後に「依存症になったからこそ見える世界があった」と、苦難を受けた選民のように自らを捉え直す型が多く聞かれる。
また、型通りに語れる人が回復する、とも言える。
女優・二谷友里恵(1964年 - )が著した「愛される理由(1990年)」。このタイトルからは、ライフスタイル語りの力学構造が見えてくる。
「愛される」とは、大衆的には「羨まれる」ことである・・・ジャック・ラカンを引用するまでもなく。
二谷は何が羨まれるかを知っていた。
「愛される理由」において、出身校である慶應義塾内部の固有名詞を何の説明もなく出すことなども、そういう理由からだろう。
それが計算上なのか本能的なのかは、わからないが。
そして、ベストセラーとなったこと(1990年度の書籍売上一位)を通して、二谷はライフスタイル語りの類型を作ったと言える。
それは「人生におけるターニング・ポイントに際して、それは良い選択だったと他人に承認してもらうこと」である。
その類型は、後に多くの芸能人から踏襲されることになる。
重要点は「他人からの承認」である。
鏡に対する反応で、その猫の性格がわかる・・・まさに「投影法」だね。
しかし、「他人からの承認」に頼ることには危険性も潜んでいる。
「承認を与えないこと」で「承認を求める人」をコントロールできてしまうのだ。
その(悪い意味での)類型を使う人々の例は、枚挙に暇がない。
ブラック企業の社長、自称カウンセラー、サイコパス・・・
では、他に方法は無いだろうか?
続きは次回の講釈で・・・