『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月三日  黒人聖ベネディクト

 聖会は人びとの救霊をはかる場合、身分や人種などで差別待遇をしない。人類はみなキリストの御血によって贖われた同じ神の子であり、どんな人もその魂のうちに神のみ姿をうつしている者とみなすからである。また聖会内の職務にも人種、家柄などで差別せず、聖徳や腕しだいで広く人材登用の道を開く。

 聖ベネディクトは黒人のどれい階級からしだいに身を起こし、世の偏見やちょう笑に属せず、神の恵みをよく利用して身を修め徳をみがき、聖会のために有用な入物となった。

 彼は一五二六年、南イタリアのメッシナに生まれた。聖人の父母はどれいとして、ある富豪の家で働いていたが、正直で農事にくわしいことから総支配人に取り立てられた。四人の子どもたちは疋直で働ぎ者の両親に似て、しつけよく何ごとにも勤勉だった。ことに長男のベネディクトは性質温和で克己心が強く、家畜の番をしながら、よく祈りや黙想をした。心ない人たちはただ膚が黒く、どれいあがりであるという理由だけで彼を笑いものにした。しかし彼は歯をくいしばってじっとこれに耐え、少しもいじけずに日々の労苦を自他の罪の償いにささげ、収穫の一部を貧者に恵んだり、他人の手助げをしたりして、だれにでもあいそがよかった。

 十八歳のとき、村びとのちょう笑には目もくれず、黙黙と畑を耕しているところへランザという高名な隠修士が通りかかった。ランザはベネディクトの仕事ぶりに感心し、そこへ集まって来た人びとに「この青年は今に偉くなる」と予言めいたことを言い、数日後またやって来て、「わたしのところへ来て修道生活をしたらどうか」とすすめた。ベネディクトはあたかも主キリストのみことばを聞くかのように、いさぎよく家庭や畑から離れ、ランザの弟子に加わった。

 その団体は僻地に住み、貧しい衣食で満足し、朝早くから夜おそくまで祈り、黙想、苦業などに専心した。この聖なる生活がしだいに人びとに知られ、さらにベネディクトが病人を奇跡的に治してからというもの、静寂そのものだった修院も訪問客で押すな押すなの雑踏をきわめた。そこで修道者たちは静けさを求めてもっと山奥にはいった。数年後、院長のランザがなくなると、その後継者にはベネディクトが万場一致で選挙された。

 一五六二年、教皇ピオ四世の命令により、この一団はフランシスコ会と合同することになったので、ベネディクトは部下の修道者を連れてパレルモの修道院に移った。その後もベネディクトは全心全霊をあげて修業に励み、聖務の時以外は喜んでだいどころの仕事に携わった。ある冬のこと、降り続く大雪に交通がとだえ、それにつれて修院内の食糧もそろそろ底をつきだした。ベネディクトはどうしようもなく、ある日、水のはいったおけを幾つか料理場に運び入れて熱心に祈った。翌朝見ると、その中には不思議にもぴちぴちした魚が多数泳いでいたという。

 一五七八年、五十二歳のときパレルモの修院長に選ばれ、忠実にその聖務を果たし、慈愛深く部下の修道者を導いた。彼は幼いときから教育の機会に恵まれず、司祭にはなれなかったが、その代わり聖徳、上知のたまもの、奇跡を行う能力など授かった。学識豊かな司祭も有名な説教家も、この黒人修道士を尊敬するあまり喜んで、そのさしずに従った。彼は不思議にも聖書の奥義に精通し、あらゆる難問にてきぱき答えていた。またベネディクトが十字架のしるしをしただけで、めくらが見え、びっこがなおるというので人ぴとは彼の姿を見ると通りの両側に人がきを築いて祝福か求めた。このため、けんそんな彼は外出にはできるだけ夜を選んだ。

 院長の務めをりっぱに果たしてから、神のおぼしめしのままに「自我」を捨てて体力の続くかぎり修練長や料理の仕事にも喜んで携わった。

 一五八九年、六十三歳を迎えた彼は、かねがね予言していたとおり聖木曜日にイエズス、マリアのみ名をとなえつつ安らかに息を引ぎ取った。

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『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

四月十六日 聖ベルナデッタ・スビルー (1844-1879年)

 南フランスにあるルルドの小さな村でいちばん貧しかったのは、スビルーという家族だったでしょう。数年前まで父親は水車小屋の持ち主だったのですが、文盲で人がよすぎたためにだまされてしまい、家はしだいに落ちぶれていきました。村に泥棒事件が起きた時、ただ貧しかったというだけで疑いをかけられ、無実の罪で投獄されました。家賃が払えなくて家を追い出され路頭に迷っていると、ある人が哀れみをかけて部屋を貸してくれましたが、それは牢として使われていた湿っぽく暗い部屋で、いくら掃除をしても多くのダニなどが出るありさまでした。

 スビルー一家は、飢えをしのぐために子どもがねずみをとって食べたこともあるほど、食事に事欠く日が多かったのです。一家には一〇人の子どもが生まれましたが、一八五四年にはすでに六人が死んで、残り四人のうちいちばん年上がベルナデッタでした。彼女は貧困のため体も弱く喘息で苦しんでいましたが、明るくしっかりした娘でした。家族は熱心な信者で、毎日揃って祈っていましたが、ベルナデッタは、家計を助けるために働きに出なければならなかったので、公教要理の勉強にはあまり出席できませんでした。

 彼女が十四歳の時、それは日本ではペリー来航の四年ほど後のことになりますが、二月十一旧、彼女の前に聖母マリアがあらわれ、それから七月の十六日まで、十八回繰り返し繰り返しあらわれました。いうまでもなく、彼女にとってその嵩現は天にも昇るような喜びでしたが、同時に苦しみをももたらしました。その一つは警察の厳しい尋問でした。母とともに二時間ばかり立たされましたが、やっとのことで座ってもよいと言われると、「いいえ、椅子を汚しますから」と答えて座らなかったと伝えられています。この他にも大衆の好奇心の的となったベルナデッタは、まるで見せ物のようだと感じて、喘息の苫しみに同情してくれる入に、「喘息よりも、こうして見せ物扱いされる方がもっと苦しい」と、その苦痛を述べています。しかし人びとは、金を支払ってでも、ベルナデッタのメダイやロザリオなどを手に入れたくて、彼女の気分をこわすようなことをたびたびしたのです。彼女の家族は、どのような形であっても決してお金はもらうまいとしましたが、小さな弟が約束を破った時、彼はベルナデッタから「生涯でいちばん強いげんこつ」を受けたといわれています。

 ベルナデッタは十六歳の時、彼女を大衆から守るためと、勉学のために、授業料を免除されて修道会の学校に入学することができました。彼女の学校生活は特別変わったところはありませんでしたが、何事にも熱心で、彼女のいるところはいつも明るい笑いに溢れていたようです。そして、時折、見せる彼女の頑固さやたいへん機転の利くようすから、聖人というのは人間昧の薄いものだと思っていた人びとを驚かせました。

 聖母マリアの出現があってから、ベルナデッタはシスターになろうと決めていましたが、自分は何の役にも立たぬ人間ではないかと思いわずらって、思い出すのをためらっていました。二〇歳の時、縁談を断わったのを機会に、ルルドと愛する家族から離れて、遠方の修練院に入りました。

 修練院では、特別な恵みを受けた者としてうぬぼれる危険があると思われたのか、彼女の無能さをいろいろな形で言われ続けました。同じようなことを言われた別のシスターが泣き出すと、驚いたベルナデッタは「ただそれだけのことで泣くのですか」と、彼女の強い一面をのぞかせました。

 その後、誓願を立てたベルナデッタは、六年間、みなから愛されながら、修練院の信頼すべき看護婦として勤めましたが、彼女自身の健康はだんだんすぐれなくなり、後半の三年間は「病人」としての務めだけでした。最後にはいろいろな病気を併発して、のたうち回るような苦しみの中で過ごしました。ある人が「あなたのために神の慰めを祈ります」と言うと「慰めではなく、忍耐を祈ってください」と答えました。そんな苦しみの毎日を送りながら、アフリカの奴隷解放の資金を作るために自分の髪の毛を売ったりもしました。

 苦痛のために悶え続けながら、三か月後、大きく十字を切って頭をたれ、静かに霊魂を神に委ねました。三五歳でした。しかし、数十年後、その体は、まったく死んだ時と同様の、腐敗していない姿で見つかり、今でも巡礼者の目にふれるところに安置されています。

 聖ベルナデッタの取り次ぎによって、彼女と同じように、深い謙遜の心を持つことができるよう祈りましょう。

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『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

四月八日 聖ジュリア・ビリアート (1751-1816年)

 この聖女の生涯は、信じること、そして、愛することを知っていた女性の心に、宣教の種が成長していった歴史です。

 マリー・ローズ・ジュリア・ビリアートは、北フランスの小さな村で商業を営む一家の、七人中五番目の子どもとして生まれました。それまでの比較的豊かな暮らし向きが、その頃から働きかけましたが、代々受け継いだ信仰と道徳は、一家の不朽の財宝でした。幼少から神の豊かな恵みに導かれ、熱心に祈ったり学んだりしていたジュリアは、やがて叔父の経営している学校に入り、七歳になったばかりの頃から同級生に信仰を伝えはじめたほどでした、主任司祭は、彼女が特別に恵まれていることを知って懸命に導き、普通は十四歳で授ける初聖体を、当時としては考えられないことでしたが、九歳の時に授けました。

 しかし、まもなく試練の時がやって来ました。盗難にあった後の貧しい家計を助けるために、ジュリアは、畑仕事の重労働に日雇いの大人たちに混じって携わり、仕事の合間には、病人を見舞ったり、仲間の人びとに信仰の教えを説いたりしました。村人はこのようなジュリアの優れた人柄に魅せられて、彼女を「聖女」と呼ぶようになりました。ところがある晩、ジュリアが父のそばで縫い物をしていると、突然、一人をめがけてピストルが発射されました。この襲撃のショックからジュリアは歩けないほどの状態になり、病床の人となりました。しかし、このようになっても見舞う人をかえって励ましたり、また、求める人たちに霊的的指導を続けるのでした。しかも、病苦の中にあっても、ジュリアの心から溢れ出るのは、「神さまはなんとやさしいお方なのでしょう」ということばでした。

 そのうちフランス革命が勃発し、教会の人びとへの迫害が起こりはじめました。そして分離教会から司祭がやって来た時、ジユリアは村民たちに彼を認めないように指導しました。そこで革命者たちは怒りに燃え上がり、ジュリアを火あぶりにしようとしました。ジュリアは、は難を逃れて友達の家に移りましたが、そこでも革命者たちに狙われ、ワラを積んだ馬車に隠れて逃げなければなりませんでした。それ以後、ジュリアは「主よ、この地上に私の居所がなくなりました。天国に私の場所を与えてください」と祈らねばならぬほどで、三年間に五度も住所を変えねばなりませんでした。聖心会の創立者、マグダレナ・ソフィア・バラを指導されたバラン神父は、ジュリアの熱心な信仰と努力に感心して、特に貧しい子どもたちの教育を手がける会を創立するように導きました。これを知ったある神父は、教育事業に携わるにはジュリアの身体的状態が妨げになることを残念に思い、実際は彼女のためでしたが、彼女に九日間、特別な意向のために祈るよう頼みました。祈りを始めて九日目、その年の六月一日、すなわち聖心の月の初日に、神父は突然ジュリアに「信仰があれば、イエズスの聖心の栄光のために歩きなさい」と言いました。彼女は言われるままに立ち上がり、二三年間不可能であった一歩を踏み出したのです。

 その時から、ジュリアは、新しい修道会の創設とその宣教の使命のために全身全霊をささげ尽くしました。それは貧しい子女の教育を目的とした、当時では考えられないような階級制のない修道会の創設でした。しかし、ここでまた大きな試練に出会いました。教区の一司祭が、その教区内だけで働く、総長をもたない修道会をつくりたいという願望を持っていたため、教区を越えたレベルでの宣教を志すジュリアと真正面から衝突したのでした。そのためジュリアにあらゆる難問題、屈辱が降りかかりました。何事も神の許しなしには起こらないという確信を持って、ジュリアはすべてに甘んじ、すべてを許し、すべてを耐え忍び、すべてを神にゆだねて、この難しい事態に対処しました。

 ついに、ジュリアのめざす修道会のあり方に理解を持つベルギーのナミュール市の司教の下に本部を移すこととなり、会の名称もナミュール・ノートルダム(聖母)修道女会となりました。会の仕事は次第に拡張され、方々からの依頼に応じることができなくなるほどでした。後には追放された教区からも戻るように要請されましたが、それはただ神への深い感謝を表わす機会となったのでした。

 彼女の活動は、休むことなく続けられました。聖パウロと同じように、ジュリアは人びとからも現実からも逃れようとはしませんでした。常に神の呼びかけに応えて、聖霊の力によって惜しみなく自分を与え続けました。そうして教理指導、手紙、旅行、会員の養成、講話、家事と祈りによって、自分のいのちを周囲の人ぴとに分け与えました。ジュリアはすべての中に、すなわち入や物や出来事や環境の中に神を求め、神を見いだし、どこにあっても神の喜びに溢れる証人となりました。この生き方こそ、今世界各地で教育使徒職に携わっている三千人あまりのノートルダム修道女会の使徒的生活を支えているもので、その精神は、修道会の宣教の使命の中に生きています。

 ジュリアは一八一六年、ナミュールで病に臥し、皆しみのうちにも信仰と純粋な心をもって神をたたえ、聖母マリアの賛歌を唱えながら、四月八日、その生涯を奉献した神のみもとに、旅立ちました。六十五歳でした。

 私たちも、マザー・ジュリアのように神のために働くことができるよう祈りましょう。

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四月七日 聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サール(記念)(1651-1719年)

 日本であの有名なラ・サール学園を経営する修道会の創立者は、北フランスの貴族であり、非常に熱心な信者である家庭に生まれました。彼も幼い頃から信心深い子どもであり、司祭になることを志し、十九歳の時、峙神学校に入って、八年後司祭となりました。翌年、貧しい子どものために学校を創設した入びとに出会って、だんだんその学校の七人の教師と親しくなりました。

 当時、このような学校はほとんどなく、費用もすべて寄付に頼っていました。ラ・サール神父は、自分の家に彼らを住まわせ、彼らの食費も自分で賄いました。また、徳の低い教師は、キリスト教的な理想の教師に近づくよう教育しました。しかし、ラ・サール神父の二人の兄弟は、乱暴な教師に耐えきれず家を出てしまい、逆に、ラ・サール神父の教育に耐えきれなかった教師たちも出ていってしまいました。しかし残った生徒と新しい教師は、ラ・サールを指導者としましたので、彼はまた、貧しい子どもと教師たちの経済的な援助をするために自分の財産をつぎ込み、少し余裕のあった金も全部、ちょうど飢饅のために苦しんでいた人びとの救済に使い果たしてしまいました。

 五年後、ラ・サール神父と十二人の教師たちは、生涯を貧しい子どもの教育にささげるために、修道誓願を立てました。そして、「キリスト教的な学校の兄弟たち」という修道会が創設され、教師たちをはじめ、教師を目指す子どもたちが入会しました。当時、会の最大の特徴は、ラ・サール以外に誰一人司祭がいなかったということでしょう。

 ラ・サール神父は、教育学に画期的な変化をもたらしました。一つは、それまでなかった集団教育を始めたことです。ラ・サール神父の活動は容易なことではありませんでした。あらゆる方面から、彼の新しい活動に対する攻撃が始まったのです。パリの大司教にも、熱心な司祭にも、ラ・サール神父の活動方針が理解されず、苦しみの連統でした。

 彼はまた、こうした外的な苦しみの上に、自分自身に対して非常に厳しい苦行を加えました。貴族として生まれ、ぜいたくに慣らされていた彼は、貧しい食事に耐えきれず、血を吐くこともたびたびでした。しかし、その貧しさに慣れるために可能な限リ絶食し、極限状態で食事をとることを繰リ返したのです。

 ある時、彼は、自分が会の指導者に適していないのではないかと考え、辞職することを決意しましたが、会の兄弟たちはみな、もう一度彼に修道会の指導者として、自分たちを導くよう願いました。

 ラ・サール神父のもう一つの特徴は、教会に対して、たいへん忠実であったということでした。その頃、フランスで非常に強かったヤンセニズムに挑戦し、子どもたちに、たびたび聖体拝領をするよう一生懸命にすすめました

 三〇年間、ラ・サール神父は、自分の会の活動を広げるために、弱い体にもかかわらず、一生懸命働きました。そして、自分の総会長としての後継を選ぶことになった時、これで白分の使命は終わったと感じたのでしょうか、六八歳の聖金曜目、静かに息を引き取りました。

 「キリスト教的な学校の兄弟たち」は、教育のための修道会の中でいちばん大きく、現在一三〇二校を経営し、九八四七名の会員がいます。彼らは、子どもたちに「神を愛し、純真さを守り、悪に対する嫌悪を教える」ために、全世界で働いています。

 教皇は、聖ヨハネ・バプティスタ・ド・ラ・サールを、すべての学校と教師たちの保護者と定めました。今日、彼に倣って、すべての子どもたちと、その教師と、キリスト教的な学校のために祈りましょう。

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『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

三月十九日  聖ヨセフ(祭日)(前一世紀末~後一世紀初)

 人びとを救う神の計画の中で、人間として、聖母マリアの次にヨセブの役割がいちばん大切だといえます。しかし、ヨセフについて私たちが知っていることは、聖書に書かれているほんとうにわずかなことだけです。ヨセブは聖書の中で「正しい人」(マタイ1・19)と呼ばれていますが、それは聖書では非常に広く深い意味を持っています。別の表現をすれば、神の御心にかなう人とでもいうのでしょう。

 マタイとルカの福音書によるイエズスの系図では、ヨセフはダビデの子孫だということになっています。が、ヨセフが聖書に登場する時は、現在のイスラエルの田舎町、ガリラヤのナザレという村の、名もない大工としてであります(マタ13・55)。当峙彼の仕事は、今日の日本の大工とすきくわは違い、家の扉や、鋤、鍬、リヤカーといった農業用具などを作ることでした。マリアとの出会いについてはわかりません。ただ、聖母マリアへのお告げの時、マリアとヨセフは、婚約とも結婚ともいえないような状態で結ばれていました。というのは、イスラエルの婚約は、実際には結婚でしたが、夫婦は数か月間、いっしょに住むことはありませんでした。

 お告げの時のことばによってはっきりしていることですが、聖母マリアは、終生処女の誓いをしていました。では、どうしてヨセフと結婚していたのでしょうか。二つの答えが考えられます。一つは、ヨセフも同じように童貞の誓いを立てていたので、結婚によってマリアの保護者になるという目的を持っていたということです。実際、数年後にはそのようなこともあったと、最近明らかにされた資料が示しています。二つめは、社会の習慣によって結婚するよう追い詰められたであろうマリアが、ヨセブの正しい心を知っていて、自分の終生処女の決意を尊重してもらえることを確信していたから結婚したと考えられます。

 とにかく二人は、たがいに深く信頼し、尊敬し合い、純潔な愛と熟心な信仰で結ばれていました。ところが、そんな時、ヨセフは非常に苦しい試練に陥りました。マリアが親戚エリザベット訪問から帰った時、妊娠していることがはっきりわかったのです。しかしマリアを疑うことはできませんでした。エリザベット訪問の途中、暴漢に出会ったということも考えられるからでした。

 でも、お告げのことは何一つ言わないで、すべでを神に任せると決心したマリアの沈黙は、より深くヨセフを惑わせました。と同時に、ヨセフは、マリアの胎内にいる子どもを認めることもできなかったのです。彼は非常に苦しみながら、聖書に書かれているように、ほんとうに離縁しようと決心したのです。当蒔の社会制度では、離縁の理由をあげなくてもよかったのですが、いくらかでもマリアの名誉を守りたいと考えたからだと思われます。それとも、ある聖書学者が言うように、離縁ではなく、蒸発するという計画だったかもしれません。いずれにしても、そのどららも彼の責任においてけなわれることでしたから。

 しかし、その苦しみの時、神の助けがあらわれました。主の使いは次のように言われたのです。「ヨセフよ.マリアを家に迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは、聖霊によるものである。・・・その子をイエズスと名づけよ。自分の民をもろもろの罪から救う者となられるからである」(マタイ1・20~21)。

 ヨセフの苦しみは大きかったのですが、今の限りない喜びとは比べものにならないものでした。同時にヨセフは、人問となられた神の子の保護者と養父の使命にマリアと同じく自分の頼りなさを痛感したに違いありません。その時からヨセフは、マリアとイエズスの離れることのできない仲間となりました。

 マリアとともにベツレヘムへと旅立ったヨセフは、いろいろな困難や苦しみの末、キリストの誕生という喜びを味わったのでした。子どもが生まれて八日目、ヨセフは天使のことばに従って、イエズスと名づけました。それからエジプトへの逃亡という神の命令を、家族の頭として受けました。

 ナザレに帰ってからは、幼子イエズス、後に少年イエズスを育てる喜びと、父親として命令する不思議さが、毎日の大工仕事の励みになったと思われます。

 ヨセフがいつ亡くなったのかはっきりわかりませんが、キリストの公生活の間、イエズスが「マリアの子」(マルコ6・3)と呼ばれていたことは、父親と思われるヨセフが亡くなって、かなりの年月がたっていたことを、証しているとみることができましょう。ヨセフは死ぬ時、おそらくイエズスと聖母マリアに囲まれて死んだと思われることから、「良き死」の保護者として崇められるようになりました。また、キリストを守ったヨセフは、神秘的なキリストである教会の特別な保護者とされています。

 ヨセフの取り次ぎによって、教会のために祈りましょう。
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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

三月十九日 聖ヨゼフ(聖母の浄配)

 人間の中で聖母に次ぐ偉大な聖者といえぱ、それは聖ヨゼフであろう。というのも、かれは聖母の浄配、キリストの御養父として、神の特別のお恵みを受けていたからである。

 旧約聖書によると、救い主は、ユダヤ国の王ダピドの子孫から生まれるはずになっていた。しかしダピド家は代を重ねるにつれて、あおれな境遇に落ちぶれ、諸国に四散してほそぼそと暮らしていた。ダビド王より約千年後、四十二代目のヨゼフもナザレトで大工、木工職人としてひたいに汗しながら毎日のかてを求めていた。またその仕事を通じて宇宙の創り主なる神の英知と力とを賛美していた。

 かれはけんそんにして貞潔、しかも律法には忠実、その思い、望み、行ないは神のみ前にも人の前にも一点の非の打ちどころがなかった。それで神も奇跡的にこれを同じダピドの家系のマリアと婚約させたのである。婚約後、マリアは大天使ガブリエルのお告げで、救い主の御母になることを承諾し、まもなく聖霊によって救い主を懐胎した。

 ところでヨゼフは、同居しないまえにマリアのみこもっていることを知り、事情のわからないまま、何日も思い悩んだ。皆げ深い寛大なヨゼフはマリアを責めたり、訴えたりして少しでも苦しませたくなかったし、そうかといって律法上、彼女を引きとめておくわけにもいかなかった。とにかくこの事件は神秘に包まれ、なにひとつはっきりしないので、だれにももらさず、マリアをひそかに離別しようと考えた。もちろんマリアを心から愛し、その貞潔を信じているヨゼフだけに、それはたいへんつらいことであった。

 こうしてヨゼフが思案にくれているときだった。一位の天使が夢の中にあらわれ「ダビドの子ヨゼフよ、ためらわずにマリアを妻として迎えよ。マリアは聖霊によってみこもっているのだから」と告げた。これによってヨゼフの疑いは全く晴れ、いいようのない喜びに満たされた。そこでヨゼフはマリアの名誉を守るため、天使の勧めのままに、すぐマリアを妻に迎え、神の特別の恵みによってともに童貞のまま清い生活を始めた。

 それからまもなく、ローマ皇帝アウグストから人口調査の勅令が出て、人々はみな自分の本籍地に出頭しなければならないようになった。ヨゼフもマリアも、本籍地はエルサレムの近くのベトレヘムである。託身の秘密をナザレト人には知られずベトレヘムへ旅立った。

 冬のことであり、しかも身重のマリアをろばの背に乗せて、さまざまの苦労を忍びながら、数日後やっとべトレヘムに着いた。ただちにヨゼフは、お産のため適当な場所を捜したがみつからない。宿屋も戸籍登録に帰郷した人や軍人などでいっぱいだった。やむなくヨゼフは、マリアを町はずれの洞窟に連れて行った。そして牛馬の住む、むさ苦しい洞窟にわらを敷いて、そのうえにマリアを休ませ、夕食の準備をした。

 ヨぜフは、わが身のふがいなさを心苦しく思ったが、”人事を尽くして天命を待つ”という心から、じっとこれに耐えた。この犠牲が報われて、よろこばしいことが続いて起こった。
 真夜中ごろ、救い主イエズス・キリストが馬ぶねの中に降誕し、天使たちがこれを賛美し、羊飼いが訪れ、またやがて東方の賢人たちも参拝にきたのである。

 この喜びもつかのま、ヨゼフとマリアの上にまたもや苦しい試練がふりかかってきた。賢人たちの帰ったその日の晩、天使がヨゼフの夢の中で、「すぐ起きて御子と聖母を伴いエジプトに逃げ、再び告げるまでそこに留まれ。ヘロデが御子を殺そうと挫し求めているからである」と知らせた。

 この知らせを聞いたヨゼフの胸中は、どんなだったろう。エジプトまでは遠いし、途中には広大な砂漠さえある。そこには頼るべき人はだれもいない。いったいどうして職を見つけ、家族を養うかなどいろいろな心配もおきたことだろう。しかしそこがかれの信仰の強いところで、いっさいを紳のみ摂理にまかせた。

 二、三年エジプトに滞在していると、また天使から「ヘロデはすでにこの世を去った。早くイスラエルに帰れ」と言われて、ヨゼフは 家を連れてナザレトへ帰った。

 ナザレトでヨゼフは家具づくりにいそしみながら家計を維持し、イエズスとマリアに献身的に奉仕した。イエズスもマリアも、ヨゼフへの感謝の気持ちからヨゼフをたいせつにしヨゼフのために祈られた。

 イエズスは、ヨゼフの明らかな言いつけはもちろんのこと、その最もささいな望みまでも従われた。マリアも万事においてヨゼフに従い、その労苦に対して深い感謝の心をいだき、尊敬と信頼の念をあらわされた。このような聖家族のあたたかい明るい環境の中で、身は貧しくとも労働しながらヨゼフの霊魂がどれほど高められ、真の幸福と心の安らぎをえたかは、人間の推測を許さない。というのも、聖トマス・アクイナスのいう通り「ものは根源に近づけば近づくほど、もっとその作用を受げる」からである。

 やがてヨゼフは、天職を全うし、イエズスが公生活にはいられるまえに、イエズスとマリアにみとられながら安らかに永遠の休息にはいった。

 ちなみに、聖ヨゼフのこ像やご絵には、ゆりの花を持ったものが多い。これは次の伝説にもとついている。

 エルサレムの大司祭ザカリアは天使の勧めに従い、マリアのむごを選ぶため、ダピド家の独身者に杖を持って来させて、熱心に神殿で祈った。するとヨゼフの杖だけに花が咲いたのでヨゼフが選ばれたというのである。

 教皇ピオ九世は、一八七〇年十二月八日に聖ヨゼフが教会の保護者であることを宣言されたが、これは第一ヴァチカン公会議の教父たちの要望によるものであった。

 教会は聖ヨゼフにならって、与えられた務めを忠実に果たし、日々の労苦のうちに自己を清めるように努力しなければならない。教会とはキリストを中心に聖母マリアと固く結ばれている全キリスト者のことである。全キリスト者は現在の身分や職業が神から与えられたお恵みであること、また真の幸福は、よく働いて義務を忠実に果たし信仰を守り、家庭を平和にすることのうちにあることを考え、毎日の仕事を完全に果たさなければならない。そして聖ヨゼフにお恵みの取り次ぎを願おう。聖ヨゼフは力ある保護者として、すべて自分により頼むキリスト信者を助け、守り、導き、使命を全うさせてくださるにちがいない。

 

『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ
 
三月十七日 長崎の信徒発見記念日
 
 今日は、世界宗教史の奇跡といわれている、長崎の信徒発見の記念すべき日です。
 
 「サンタマリアのこ像はどこ」で有名になった、キリシタン復活のこの奇跡を体験した先祖の喜びに触れてみましょう。
 
 大浦天主堂の向かって右の脇祭壇に、白い聖母子像が安置されています。美術的価値はともかく、そのご像こそ、歴史的に大きな影響を与えたご像なのです。
 
 一八六五年、浦上の農民たちは、フランス寺の見物にやって来ました。そして見たのです、この母子像を。「フランス寺にサンタマリアさまがおいでなさる」といううわさが、耳から耳へひそかにささやかれて、村中の人の心を感動で包みました。「サンタマリアさまがいらっしゃるなら、そこの異人さんはパーデレさまに相違ない」。二五〇年の間、待ちに待った神父さまを見わけるしるしが、三つありました。七世代親から子へと伝えられてきたこのしるしの一つ、パーデレさまはサンタマリアさまを崇敬なさるということが、村人の脳裏によみがえりました。
 
 「フランス寺へ行って、パーデレさまに会いたい」と口に出して言ったのは、浜口の助産婦イザベリナゆり、五二歳でした。村の老人たちは慎重にようすを見ようと思いました。九年前、浦上三番崩れで多くの殉教者を出していたからです。釈放された人びとの中には、牢内の拷問で痛めた体を、今なお病床に横たえている者もいました。「もし異人さんがパーデレさまでなかったら・・・」、人びとの胸の中を一瞬、恐怖がよぎりました。しかしゆりは、どうしても行くと言い張りました。「サンタマリアさまがおいでなら、そこの異人さんはパーデレさまにまちがいない。パーデレさまに会えたら殺されてもよか」と言ってきかなかったのです。内心パーデレさまを待ちこがれていた老人たちもゆりに同意しましたが、口数の少ない物静かなゆりだけをやるのも心配で、活発で気の強い妹のクララてる、四九歳を付けてやることにしました。すると、てるの夫やゆりの娘婿も行くと言い出し、結局老昔男女十一~十五人ほどになりました。
 
 一八六五年三月十七日、金曜日の昼下がり、一行はフランス寺に着きました。扉は閉まっていました。掛金の開け方を知らなかったのでガチャガチャさせていると、庭にいたブチジャン神父が見つけて開けてくれました。一行は見物人を装い、ちりぢりに散って行きました。神父は祭壇の前にひざまずき祈っていましたが、ふと気がつくと、中の一人の婦人が近づいて、中の一人がこうささやきました。「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」。「私たちは浦上のものでござりまする」と。このことばを耳にした神父の驚きと喜びは、いかばかりだったでしょう。立ち上がろうとする神父に、婦人たちはたたみかけて言いました。「サンタマリアさまのご像はどこ」。神父は聖母子像の前に案内しました。散っていた人たちも集まってきました。「ほんとにサンタマリアさまだ。御子ゼススさまを抱いていらっしゃる」。「私たちは今、悲しみの節を守っています。あなたも守りますか」。迫害下に、一人の神父も持たないキリシタンたちは、それでもかたくなに断食と祈りの四旬節の掟を守っていたのです。この日の出米事を、ブチジャン神父は、横浜のジラール教区長に手紙で知らせました。そして、それは全世界に広まったのです。
 
 ところで、バーデレを見わけるしるしは三つでした。浦上の信者たちは、サンタマリアの崇敬だけでプチジャンをバーデレと知りましたが、あとの二つとは何だったのでしょうか。神の島のペトロ政吉は、プチジャン神父に「せっかく参りましたので、お父さまや奥さまにご挨拶したい」と言うと、「私は一人です。どの部屋にもいないでしょう」。「では、お国にお残しですか」。
 
 「国にもいません。私たちは一生独身です」。プチジャン神父が独身と知って政吉は「独身でござるか、ありがとう、ありがとう」と床に額をつけて喜んだといわれています。また、出津の代表は、教皇さまに従うかどうかを確かめるために尋ねました。「ローマのお頭さまのお名前は、何とおっしゃりますか」。「ピオ九世と申します。私たちは、ローマのお頭さまから遣わされて日本に来ました」。
 
 ゆりのささやいた「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」のことばが、キリシタン復活の歴史をつくりました。浦上をはじめ、外海、五島、天草に潜んでいたキリシタンたちは、次々とあらわれ、神父の指導を受けに来ました。こうして日本のカトリック教会は、再びその道を歩みはじめました。日本の教会は力を得、発展してきました。
『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

三月十七日 長崎の信徒発見記念日

 今日は、世界宗教史の奇跡といわれている、長崎の信徒発見の記念すべき日です。

 「サンタマリアのこ像はどこ」で有名になった、キリシタン復活のこの奇跡を体験した先祖の喜びに触れてみましょう。

 大浦天主堂の向かって右の脇祭壇に、白い聖母子像が安置されています。美術的価値はともかく、そのご像こそ、歴史的に大きな影響を与えたご像なのです。

 一八六五年、浦上の農民たちは、フランス寺の見物にやって来ました。そして見たのです、この母子像を。「フランス寺にサンタマリアさまがおいでなさる」といううわさが、耳から耳へひそかにささやかれて、村中の人の心を感動で包みました。「サンタマリアさまがいらっしゃるなら、そこの異人さんはパーデレさまに相違ない」。二五〇年の間、待ちに待った神父さまを見わけるしるしが、三つありました。七世代親から子へと伝えられてきたこのしるしの一つ、パーデレさまはサンタマリアさまを崇敬なさるということが、村人の脳裏によみがえりました。

 「フランス寺へ行って、パーデレさまに会いたい」と口に出して言ったのは、浜口の助産婦イザベリナゆり、五二歳でした。村の老人たちは慎重にようすを見ようと思いました。九年前、浦上三番崩れで多くの殉教者を出していたからです。釈放された人びとの中には、牢内の拷問で痛めた体を、今なお病床に横たえている者もいました。「もし異人さんがパーデレさまでなかったら・・・」、人びとの胸の中を一瞬、恐怖がよぎりました。しかしゆりは、どうしても行くと言い張りました。「サンタマリアさまがおいでなら、そこの異人さんはパーデレさまにまちがいない。パーデレさまに会えたら殺されてもよか」と言ってきかなかったのです。内心パーデレさまを待ちこがれていた老人たちもゆりに同意しましたが、口数の少ない物静かなゆりだけをやるのも心配で、活発で気の強い妹のクララてる、四九歳を付けてやることにしました。すると、てるの夫やゆりの娘婿も行くと言い出し、結局老昔男女十一~十五人ほどになりました。

 一八六五年三月十七日、金曜日の昼下がり、一行はフランス寺に着きました。扉は閉まっていました。掛金の開け方を知らなかったのでガチャガチャさせていると、庭にいたブチジャン神父が見つけて開けてくれました。一行は見物人を装い、ちりぢりに散って行きました。神父は祭壇の前にひざまずき祈っていましたが、ふと気がつくと、中の一人の婦人が近づいて、中の一人がこうささやきました。「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」。「私たちは浦上のものでござりまする」と。このことばを耳にした神父の驚きと喜びは、いかばかりだったでしょう。立ち上がろうとする神父に、婦人たちはたたみかけて言いました。「サンタマリアさまのご像はどこ」。神父は聖母子像の前に案内しました。散っていた人たちも集まってきました。「ほんとにサンタマリアさまだ。御子ゼススさまを抱いていらっしゃる」。「私たちは今、悲しみの節を守っています。あなたも守りますか」。迫害下に、一人の神父も持たないキリシタンたちは、それでもかたくなに断食と祈りの四旬節の掟を守っていたのです。この日の出米事を、ブチジャン神父は、横浜のジラール教区長に手紙で知らせました。そして、それは全世界に広まったのです。

 ところで、バーデレを見わけるしるしは三つでした。浦上の信者たちは、サンタマリアの崇敬だけでプチジャンをバーデレと知りましたが、あとの二つとは何だったのでしょうか。神の島のペトロ政吉は、プチジャン神父に「せっかく参りましたので、お父さまや奥さまにご挨拶したい」と言うと、「私は一人です。どの部屋にもいないでしょう」。「では、お国にお残しですか」。

 「国にもいません。私たちは一生独身です」。プチジャン神父が独身と知って政吉は「独身でござるか、ありがとう、ありがとう」と床に額をつけて喜んだといわれています。また、出津の代表は、教皇さまに従うかどうかを確かめるために尋ねました。「ローマのお頭さまのお名前は、何とおっしゃりますか」。「ピオ九世と申します。私たちは、ローマのお頭さまから遣わされて日本に来ました」。

 ゆりのささやいた「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」のことばが、キリシタン復活の歴史をつくりました。浦上をはじめ、外海、五島、天草に潜んでいたキリシタンたちは、次々とあらわれ、神父の指導を受けに来ました。こうして日本のカトリック教会は、再びその道を歩みはじめました。日本の教会は力を得、発展してきました。

 先祖の強い信仰と教会に対する忠実を、私たちも持つことができるよう祈りましょう。

 
 先祖の強い信仰と教会に対する忠実を、私たちも持つことができるよう祈りましょう。

『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

三月十七日 聖パトリック司教 (385頃-461頃)

 アイルランドの保護老であるパトリックは、イギリス人でした。パトリックの祖父はカトリックの司祭(注 まだ教会の掟として、司祭の独身は定められていなかった)で、父は助祭でもあり、町会議員でもありました。しかしパトリック自身によれば「神を知らなかった」と言っています。その意味は、たぶん不熱心であったというくらいの軽い意味であったと思われます。彼が十六歳の時、アイルランドの野蛮な海賊に、彼の町は襲われました。家族のものは逃げることができましたが、パトリックと多くの町民は捕らえられ、奴隷としてアイルランドに売られました。そこで彼はブタを飼わされました。その時「異国において、神は私の不信仰な目を開いてくださリ、私は回心しました。奴隷の苦しみは、神から遣わされた恵みであります」と自覚するようになり、重労働をしながら常に祈ることを習い、不愉快なことでも、感謝しながら神の手からいただくことができました。

 奴隷になって六年たった時、彼は神の導きと想いに従って脱走を企て、一.一六〇キロ余りもある危険な逃亡の末、イギリスに面する海岸にたどり着きました。海岸で運よく船に出会ったのですが、なんと船長は乗せることを拒んだのです。しかし突然気が変わって、彼を自分の国まで運んでくれました。その頃は、昔しみを受けたアイルランドには嫌気がさしていましたし、またもう一度そこに帰るとは夢にも考えていませんでした。しかし神は、その後二五年間にも及ぶフランスでの修道生活を通して、司祭になっていた彼に、あれほど自分を苦しめたアイルランドの人びとの永遠の救いが気になって仕方がないといった想いを抱かせたのでした。パトリックは急いでローマへ行き、アイルランドの司教として叙階され、教皇の命によってアイルランドの地を踏みました。これは現代の歴史家の研究によって、かなり真実性の高いものです。こうして彼は、キリスト教信者のほとんどいないアイルランドで、伝道への道を歩みはじめました。四七歳の春、毎年春分に行なわれるアイルランド全体の荘厳な宗教の集まりで、魔法使いのような土着宗教の神官に挑戦し、全国の主族長たちに力強くキリストの福音を伝えました。それについて一つの伝説があります。

 彼は、彼の性格の強さによってか、それとも奇跡によってか、居合わせた並だった人びとに非常によい評判を得て、キリスト教を伝道する自由を獲得しました。いうまでもなく魔法使いはあきらめませんでした。彼はその後、一〇回にも及ぶ逮捕を経験しただけでなく、御者が偶然馬車の席を代わってくれたので、殺害を免れたこともありました。また彼は各地を巡って教会を建て、多くの修道院を建てました。同時に、一千八ぐらいの司祭を叙階させ、二百人ぐらいの司教も叙階させました。その司教はだいたい修道院の院長でした。それとともに、その時まで魔法使いの専有であった読み書きを、一般の人びとにも教えました。アイルランドの古い法律も改善し、社会とその慣習に大きな影響を及ぼしました。奴隷であった彼は、弱い人、特に奴隷に心を配りました。彼が残した唯一の手紙は、アイルランドを襲って多くの奴隷や娘たちをさらった海賊の頭への手紙でした。その手紙は、強く悲しい抗議の手紙であったとともに、奴隷を解放しないと神の罰が下ると預言したものでした。海賊の頭はそれを軽くあしらって信じようとはしませんでしたが、数日後、気が狂ってしまったということです。

 パトリックが奴隷の時代に回心したのは、自分自身のためだけだと思っていたようですが、彼の回心は、その奥に、アイルランドのキリスト教化を秘めていたのです。また、アイルランドのキリスト教化は、アメリカと他の国のカトリック教会の最初の土台でした。だから多くのキリスト教信者は、聖パウロがコリント人に言ったように、パトリックを自分の霊的な父として仰ぎ兇なければなりません。

 その信仰と使徒的な熱心に倣うことができるよう祈りましょう。

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Saint Of The Day (March 10)
The 40 Martyrs of Sebaste,

Prof. Plinio Corrêa de Oliveira

 The story of these martyrs unfolded in the city of Sebaste during the reign of Emperor Licinius in 320 AD. A garrison of Roman soldiers - 40 in number - were stationed in this remote Armenian town. They were bold, courageous Catholic Roman soldiers who preferred to die rather than renounce their Faith. Upon hearing of this, the infuriated Emperor issued an edict, stating that those throughout the Empire who would not worship pagan gods would be tortured and put to death.

 The 40 martyrs of Sebaste in Armenia were whipped, tortured and imprisoned, but would not relent. Finally, the governor Lysias devised an extraordinary kind of death which he hoped would shake their constancy. He ordered the soldiers to be placed in a pond of frozen water and left for a whole winter night.

 In the morning the bodies of all were supposed to be carted off to be incinerated. However, the youngest of the officials, whom the acts call Melito, was found alive. Seeing this, the pagan soldiers removed him from the cart with hope that he would apostatize when he came to himself.

 The mother of Melito, who was present, understood their intention. Rich in faith, this good Catholic approached her son, quite frozen and barely breathing, looking on her with languishing eyes. She exhorted him to persevere to the end. Then she returned his body to the cart with the corpses of his companions. She told him, “Go, go, my son, proceed to the end of this happy journey with your companions, that you might not be the last of them that present themselves before God.” She pronounced these words without a single tear, and with a joyful countenance she followed the cart to the fire.

 After the bodies were burned, the ashes were to be dispersed in the wind and their bones thrown into the river, but God conserved them so that the faithful could gather them later and keep these precious relics.

 Reflecting on these martyrs, St. Basil wrote:

 “O sacred troop! O glorious company! O invincible battalion! Flowers of the Church, yes I repeat, human flowers! Stars that shine among the stars! Martyrs worthy of the praise of all the centuries! To you the doors of Paradise were opened, and from the palaces of Heaven the Angels, Prophets, Patriarchs and all Saints came out to witness your triumphal arrival. A sight worthy of the Angelic Army! Forty warriors in the very flower of their youth who have disdained this life, who have loved the Lord above parents, children, wives and relatives. They disregarded this temporal life that they might glorify God in their members .…

 "Having raised up the trophy of their victory against Hell, each one received a crown from the hand of Christ Jesus Our Lord, to Whom be glory and dominion to the ages of ages.”

Saint Of The Day (March 10)
Saint Dominic Savio

(April 2, 1842 – March 9, 1857)

 So many holy persons seem to die young. Among them was Dominic Savio, the patron of choirboys.

 Born into a peasant family at Riva, Italy, young Dominic joined Saint John Bosco as a student at the Oratory in Turin at the age of 12. He impressed Don Bosco with his desire to be a priest and to help him in his work with neglected boys. A peacemaker and an organizer, young Dominic founded a group he called the Company of the Immaculate Conception which, besides being devotional, aided John Bosco with the boys and with manual work. All the members save one, Dominic, would, in 1859, join Don Bosco in the beginnings of his Salesian congregation. By that time, Dominic had been called home to heaven.

 As a youth, Dominic spent hours rapt in prayer. His raptures he called “my distractions.” Even in play, he said that at times, “It seems heaven is opening just above me. I am afraid I may say or do something that will make the other boys laugh.” Dominic would say, “I can’t do big things. But I want all I do, even the smallest thing, to be for the greater glory of God.”

 Dominic’s health, always frail, led to lung problems and he was sent home to recuperate. As was the custom of the day, he was bled in the thought that this would help, but it only worsened his condition. He died on March 9, 1857, after receiving the Last Sacraments. Saint John Bosco himself wrote the account of his life.

 Some thought that Dominic was too young to be considered a saint. Saint Pius X declared that just the opposite was true, and went ahead with his cause. Dominic was canonized in 1954.