四月二十一日 聖アンセルモ
聖アンセルモは、一〇三三年、北イタリアのアナスタ市の貴族の家に生まれた。幼少のころは信心深く、神に一生をささげたいとの望みさえいだいていたが、青年になるとこの殊勝な考えを忘れ、ほうとうに身をもちくずし、ついには家を飛び出してフランスに行き、そこで三年間放浪の旅を続けた。しかし、もともと善良でけいけんなだけに、ふとした動機から良心に目ざめ、前非を悔やんで償いを果たす決心を立てた。
改心した彼は、北フランスのル・ベック修道院の門をたたいた。ここの院長は当時名声の高かったランフランク神父だった。入会を許されたアンセルモは、この大先生の指導のもとに哲学神学を修めるいっぽう、修徳にも励み、一〇六〇年、二十七歳のときベネディクト会士となった。その後も人一倍熱心に徳を積み、三年後には早くも副院長に選ばれた。アンセルモは資性温厚で、目下に対しては血も涙もあり、いたって寛大で、自分自身には厳格そのものだった。昼は学生に神学を教え、夜は祈りと黙想に專心した。
彼の学者としての、研究態度は、まず信仰の玄義を信ずることから始まり、次に信ずるところを埋解するように努めることだった。つまり信ぜんがために理解するのではなく、反対に理解するために信ずる(sed credo utintelligam)態度をとった。彼は自らの信仰を理解することは、とりもなおさず神の直視そのものに近づくことだと考えていたので、教理を聖書と教父たちの教えにもとづいて説明し、けいけんな観想に傾きがちな考え方の根拠をそこに求めた。著作活動も著しく、「なぜ神は人となりたもうたか」でご託身を論じ、モノロギウム(独語録)で神の本質を説き、プロスロギウム(後言録)で神の存在を証明している。彼は聖アウグスチヌスの思想にはぐくまれた。彼の観想と理論の豊富な宝庫から取られた多数の定義、概念区別などは今でも神学上の慣用語となっている。このように聖アンセルモは学界において、スコラ学の先駆者もしくは父と呼ばれるだけの業績を後世に残したのである。
また聖アンセルモは、一〇九三年英国のカンタベリ大司教に就任し、英王の圧力下にあった教会の自由のために大胆に活躍した。当時欧州には俗人的叙階が流行し、国王が教皇の許可なしにかってに自分の選んだ一般人を司教に叙階していた。その結果、聖職売買、聖職者の妻帯などの悪弊が教会内に生じた。そこで教皇グレゴリオ七世は、一〇七五年法令を発布し、俗人から司教区を授かった者はこれを司教区と認めないこと、償いとしてその司教区を返さなければ教会にはいれないこと、まただれかを司教に叙階する皇帝、国土、貴族なども同じ処罰を受けることを各国に知らせた。聖アンセルモは、この法令を誠心誠意支持し、英王ウィリアムニ世の叙階権行使に極力反対した。そのため英国王の怒りにふれ、二度も英国を去らねばならなかった。一回目は一〇九七年、英国の司教たちが王の叙階権行使に賛同し、聖アンセルモから離れたとき、ローマのウルバノニ世のもとに帰り、翌年開かれたローマの教会会議に参加した。二回目は一一〇三年ウイリアムニ世がなくなってヘンリー二世が王位を継ぐに及んで、聖アソセルモを召還したが、しかしヘンリーは父王と同じく叙階権の行使を続げ、パスカリ二世教皇の要求をも拒絶したので、聖アンセルモはふたたびカンタベリの教座を去り、フランスに三年間とどまった。
しかし、聖アンセルモの英知と慈父のような愛により、また英国の皇后や王妹などの仲介により、ついに一一〇六年教皇と王とのあいだにベックの協定が成立した。この協定で英国は叙階権を断念し、さらに英国の司教たちがパスカリニ世教皇の特免により忠誠の誓いを立てることを許されてから、聖アンセルモはなみなみならぬ心労ろうくと努力に疲れた老躯をさげてカンタベリに戻った。その後は王の信任がきわめて厚く、一一〇八年には摂政に任じられたほどである。また聖アンセルモは一一〇九年その地で永眠するまで、教区付司祭および修道会司祭の改革につくし、さらに英国カトリック教会の典礼上の伝統的権利の保持のためにも尽力した。彼の死後、カンタベリ司教座教会にある彼の墓では多くの奇跡が行なわれた。
一一二〇年、教皇クレメンス十一世は聖アンセルモの学識の深さとその聖徳のゆえに、かれに聖会博士の称号を与えた。