『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月二十一日 聖アンセルモ

 聖アンセルモは、一〇三三年、北イタリアのアナスタ市の貴族の家に生まれた。幼少のころは信心深く、神に一生をささげたいとの望みさえいだいていたが、青年になるとこの殊勝な考えを忘れ、ほうとうに身をもちくずし、ついには家を飛び出してフランスに行き、そこで三年間放浪の旅を続けた。しかし、もともと善良でけいけんなだけに、ふとした動機から良心に目ざめ、前非を悔やんで償いを果たす決心を立てた。

 改心した彼は、北フランスのル・ベック修道院の門をたたいた。ここの院長は当時名声の高かったランフランク神父だった。入会を許されたアンセルモは、この大先生の指導のもとに哲学神学を修めるいっぽう、修徳にも励み、一〇六〇年、二十七歳のときベネディクト会士となった。その後も人一倍熱心に徳を積み、三年後には早くも副院長に選ばれた。アンセルモは資性温厚で、目下に対しては血も涙もあり、いたって寛大で、自分自身には厳格そのものだった。昼は学生に神学を教え、夜は祈りと黙想に專心した。

 彼の学者としての、研究態度は、まず信仰の玄義を信ずることから始まり、次に信ずるところを埋解するように努めることだった。つまり信ぜんがために理解するのではなく、反対に理解するために信ずる(sed credo utintelligam)態度をとった。彼は自らの信仰を理解することは、とりもなおさず神の直視そのものに近づくことだと考えていたので、教理を聖書と教父たちの教えにもとづいて説明し、けいけんな観想に傾きがちな考え方の根拠をそこに求めた。著作活動も著しく、「なぜ神は人となりたもうたか」でご託身を論じ、モノロギウム(独語録)で神の本質を説き、プロスロギウム(後言録)で神の存在を証明している。彼は聖アウグスチヌスの思想にはぐくまれた。彼の観想と理論の豊富な宝庫から取られた多数の定義、概念区別などは今でも神学上の慣用語となっている。このように聖アンセルモは学界において、スコラ学の先駆者もしくは父と呼ばれるだけの業績を後世に残したのである。

 また聖アンセルモは、一〇九三年英国のカンタベリ大司教に就任し、英王の圧力下にあった教会の自由のために大胆に活躍した。当時欧州には俗人的叙階が流行し、国王が教皇の許可なしにかってに自分の選んだ一般人を司教に叙階していた。その結果、聖職売買、聖職者の妻帯などの悪弊が教会内に生じた。そこで教皇グレゴリオ七世は、一〇七五年法令を発布し、俗人から司教区を授かった者はこれを司教区と認めないこと、償いとしてその司教区を返さなければ教会にはいれないこと、まただれかを司教に叙階する皇帝、国土、貴族なども同じ処罰を受けることを各国に知らせた。聖アンセルモは、この法令を誠心誠意支持し、英王ウィリアムニ世の叙階権行使に極力反対した。そのため英国王の怒りにふれ、二度も英国を去らねばならなかった。一回目は一〇九七年、英国の司教たちが王の叙階権行使に賛同し、聖アンセルモから離れたとき、ローマのウルバノニ世のもとに帰り、翌年開かれたローマの教会会議に参加した。二回目は一一〇三年ウイリアムニ世がなくなってヘンリー二世が王位を継ぐに及んで、聖アソセルモを召還したが、しかしヘンリーは父王と同じく叙階権の行使を続げ、パスカリ二世教皇の要求をも拒絶したので、聖アンセルモはふたたびカンタベリの教座を去り、フランスに三年間とどまった。

 しかし、聖アンセルモの英知と慈父のような愛により、また英国の皇后や王妹などの仲介により、ついに一一〇六年教皇と王とのあいだにベックの協定が成立した。この協定で英国は叙階権を断念し、さらに英国の司教たちがパスカリニ世教皇の特免により忠誠の誓いを立てることを許されてから、聖アンセルモはなみなみならぬ心労ろうくと努力に疲れた老躯をさげてカンタベリに戻った。その後は王の信任がきわめて厚く、一一〇八年には摂政に任じられたほどである。また聖アンセルモは一一〇九年その地で永眠するまで、教区付司祭および修道会司祭の改革につくし、さらに英国カトリック教会の典礼上の伝統的権利の保持のためにも尽力した。彼の死後、カンタベリ司教座教会にある彼の墓では多くの奇跡が行なわれた。

 一一二〇年、教皇クレメンス十一世は聖アンセルモの学識の深さとその聖徳のゆえに、かれに聖会博士の称号を与えた。

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四月二十日 パルザムの聖コンラド

「よしよし、忠義なしもべだ、おまえはわずかなものに忠実だったから、わたしは多くのものをおまえに任せよう。おまえの主人の喜びに加われ」(マテオ25の21)。聖コンラドも主キリストの善良な忠義なしもべだった。別に人目を驚かすことはせず、たえず熱心に祈り、日々の聖務を忠実に、良心的に果たすことによつて聖者になったのである。

 コンラドは一八一八年、南ドイツのバワリア州の一寒村パルザムに農民の子として生まれた。信心深い両親のことばや善行を見ならって、けいけんに育ち、七歳で早くも初聖体を授けられた。小学校では品行学業ともに模範生として級友の信望を一身に集めていた。

 少年時代、相次いで父母を失ったコンラドは、ひとりで田畑を耕すかたわら暇さえあれば祈りに没頭した。そのため世間の汚れに少しも染まらず、さながら野のゆりのような清さを保っていた。

 一八五一年、コンラドは三十三歳のとき、聖フランシスコ会にはいって修道服を身につけた。誓願を立ててからは責任の重いアルトエッチングの聖アンナ修道院の門番に任命された。それ以来四十有余年、死ぬまでうまずたゆまずこの職場を守り抜いて周囲に信心と愛徳のかおりを放った。その背後にはアシジの聖フランシスコの精神に従う祈りと苦業の修道生活があった。

 その豊かな内的生活が、すべてににじみ出て、応接がものやわらかで気転がきき、すべての訪問客に好感を与えた。暑さ寒さ、季節を分かたず、気むずかしい訪問客などには愛をもってけっして不快な顔を見せず、いつもあいそよく接した。貧しい人には全く慈父のようにやさしかった。わが身の食べ物まで節制して彼らに施した。そのときには必ずよいすすめや、いましめを与えた。

 ことに彼は貧しい子どもたちが大好きだった。道で彼らに会えば童心に返って楽しげに打ち解けて語り合うのだった。そしてパンや、かしなどを分けてやるまえに必ず子どもたちに祈りをとなえさせた。こうして子どもたちのほうでも、コンラドになつき、彼の言うことならなんでもするようになり、知らず知らずのうちにコンラドの徳に感化されていった。

 後年、この子どもたちの中から司祭が幾人も出たが、これはコンラドのよい導きと祈りのたまものであると言っても言いすぎではない。この点でも彼は幼いイエズスを育てた聖ヨゼフの役目を果たしたといえよう。

「わたしどもは祈らなければならない!」これはコンラドが口ぐせのように言っていたことばだった。こういうだけあって、彼自身、実によく祈った。朝の三時になれば寝台からはね起きて祈りをしに聖堂へ急いだ。祈りに夢中になっている彼の口から火花が散り、その姿から後光がさすのを見たという人も少なくなかった。昼問、仕事をしている間も心を天に上げてたえず親しく紳と語り合った。

 主のご受難に対する信心はきわめて深く、毎日十字架の道行きをし、ときには幾時間も十字架の前にひざまずいていることさえあった。

「十字架はわたしの教科書です」とコンラドはしるしている。「わたしは、そこからけんそんと柔和を学びます。またどんな場合でもを十字架さえ仰ぎ見れば、すぐに取るべぎ道がわかってぎます。」コンラドの成功のひけつは実にこの十字架にあった。

 第二のキリストとしてすべてを十字架につけたコンラドは、一八九四年四月二十一日、忠実なしもべとして主人の喜びに加わることになった。コンラドの帰天の報に接した人びとは「聖人がなくなった」と言って、みんな彼の死をいたんだ。死後、その墓に巡礼し代祷を請う者は引きもきらず、コソラドの取り次ぎによって多くの恩恵を受けた。



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四月十七日 聖ベネディクト・ラブル

 十八世紀の中ごろ、ひとりの青年がヨーロッパの巡礼地をまたにかけて、てくてくと無銭旅行をしていた。身にぼろ服をまとい、腰になわ帯をしめ、首にロザリオをかけ、背に小さな袋を負っていた。頭髪も、ひげもぽうぽうとのび、顔も手足もあかだらけで、ちょっと見たところそこらのこじきと少しも変わらなかった。しかしその柔和なまなざし、たえず祈りを口ずさむけいけんな態度、あいそのよい応待ぶりが心ある人の注意を引いた。これが権力、富、快楽をめぐって目まぐるしい闘争を続ける世の中に超然として福音的満貧を実行した聖ベネディクト・ラブルのありし日の姿.である。

 彼は一七四八年、フランスのアメット村に生まれた。幼時から利口なうえに信心深かったので、十二歳のとき両親は将来むすこを司祭として神にささげたいと思い、司祭だったおじのもとに預けて教育してもらった。それから、五年の後、国中に伝染病が流行すると、彼はおじといっしょに東に西に病人を見舞い、その看護に力をつくした。そのうちにおじも疫病に感染し、ぽっくりいったので勉強を中止して実家に帰った。

 その後、修道者になるつもりで二、三の修道院にはいってみたが、いずれも自分に適していないと悟り、二十二歳のとき在俗のまま清貧の生活の中に自分の成聖の道を求めようと決心した。そこで、彼は欧州諸国の巡礼地をたずねる目的でひとり巡礼の旅にのぼった。道すがら雄大な大自然のけしきをながめて神のことを黙想しつつロザリオをつまぐり、一夜の宿を恵んでくれた人びとのためには特に熱心に世のむなしさを説いて聞かせた。アルスの聖ヴィアンネの祖父もこの巡礼の話をかたわらで聞いて非常に感動し、祈りと苦業の生活を望むようになったといわれる。

 巡礼先の聖堂の聖体や聖像の前では何日も祈りに明け、祈りに暮れた。彼は人々からの施し物によって命をつないでいたが、もらいが多すぎるとすぐそれを貧者にわけ与えるのであった。ときには怠け者だとけんもほろろのあいさつで何一つもらえないで、ちり箱の中に食べものをあさることもあった。また克己、けんそんの精神を養うためにぼろぼろになった衣服をわざと着替えないで、しらみをわかした。そのため心ない入びとになぶられ、門前ばらいをくらって寒さにふるえ、雨にたたかれながら野宿しなければならなかった。

 まさに彼の生活そのものが、「わたしはうじ虫で人間ではない、人間の恥、民衆のくず」(詩編21の7)という聖句の実物教示だった。またベネディクトば、とぼとぽと放浪の旅を続けて行く途中、行き倒れた人を見れば親身になって介抱したり、悩める人に会えば道ばたに腰をおろして相手の心を慰め、励ましてやった。「隠れたるより現われるはなし」で、いつしか人びとは彼を見て、あの人は非凡な人格者だ。身なりは卑しいが神のみ前では潔白な人にちがいない」と互いにささやき合うようになった。

 ベネディクトが最も好んだ巡礼地はイタリアのロレットだった。そこには聖家族の住居が保存されているとの伝えがあるので、きまって毎年一度、半月くらいその地にとどまった。こうして旅から旅へと渡り歩くこと六年、ついにあこがれのローマに着いた。

 彼の最大の楽しみは数多くの殉教地や遊戯場で昔の殉教者たちの壮烈な最後をしのぶことと、顕示された聖体のみ前で四十時間の聖体礼拝を行なうことであった。こうしてローマでいつとはなしに「あのこじきの聖人はほんとうに生きた十字架像だ」といううわさがたちだした。

 ローマ滞在七年めの一七八三年、ベネディクトは聖週問にあたり、聖母マリアの聖堂で四十時間の聖体礼拝をすませ、聖堂の階段をおりた瞬間、気を失ってぱったり倒れた。それを見たある信者は同情にかられて自分の家にかつぎ込み、あれこれと手厚く介抱したあげく司祭を呼び迎えた。そのおかげでベネディクトは終油の秘跡を受けることができ、すべてを神のみ手に任せた安らかなおももちで永遠の幸福の門出についた。

 人びとは「聖人がなくなられた」といううわさを耳にしてぞくぞくとなきがらのまわりにつめかけてその死をいたんだ。死後四日め、軍隊まで出動するという全市をあげての荘厳な葬式のうちに、その遺体は生前聖人のなじみ深かったアドモソテスの聖母堂の中に埋葬された。

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Saint Of The Day (March 17)
St. Patrick

Prof. Plinio Corrêa de Oliveira

 Patrick was the Apostle of a people, the light of Ireland, the father of this nation whose martyrdom will endure for ages. In him the gift of the apostolate shone. Christ put this gift in His Church and it will remain in her to the end times.

 Some apostles were given the mission of working with a small part of the Gentiles and planting a seed among a certain group of people. It germinates to a greater or lesser degree according to the maliciousness or docility of men. But other apostles have the mission of making rapid conquests and submitting entire nations to the Gospel. Patrick belongs to this latter type of apostles. We should honor him as one of the most outstanding monuments of Divine Mercy toward men. His work was admirably solid.

 In the 5th century, Great Britain was unaware that the Messiah had come. All the northern nations slept in the darkness of faithlessness. Before the successive awaking of many of those peoples, Ireland received the news of salvation. The word of God brought by the Apostle Patrick grew on that emerald Island, more fertile in fruits of grace than of nature. Its saints were abundant and spread throughout Europe.

 The Irish missionaries spread the evangelization they received from their Founding Saint to other countries. When the hour of the great apostasy of the 16th century sounded, Germany, England, Scotland and the Scandinavian nations fell to Protestantism. But Ireland remained faithful. No persecution, subtle or atrocious as it might be, was able to take it from the Catholic Faith as taught by St. Patrick.

 

『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月十五日  聖リドヴィナ

 この世からでぎるだけ災いや苦悩をなくして幸福に生きたいと望むのは人間自然の庸である。しかし現実には「入事をつくして」も必ず入は大なり小なりさまざまの苦しみに出会う。この現実に直面してわたくしたちはどう処すべきか、聖女リドヴィナの、生涯はこの点についてわたくしたちにりっぱな手本を示している。

 聖女リドヴィナは、一二八〇年、オランダのスチエーダム市に生まれた。両親はリドヴィナのほかに八人の男の子を養うため、貧乏暇なしで自由労働者としてけんめいに働いた。リドヴィナは幼いときから聖母マリァを深く崇敬し、使い走りで教会の前を通るときは必ず聖母の絵の前で「天使祝詞」をとなえていた。彼女はその清い心を目にも顔にも反映して、背のすらりとした美しい少女になった。

 十二歳になると、早くもほうぼうから縁談がもち込まれた。しかしリドヴィナはこのときすでに童貞を守り、生涯神に仕える決心を立てていた。そして、けなげにも私欲をおさえて家事を手伝いながら、けんそんにわたしのからだの美しさをお取りくださいませと祈りはじめた。美しさをえさに罪と永遠の減亡に自他を落としいれるくらいなら、むしろみにくい女となって貧者、病者、罪びとの友なるキリストに従うほうがましだと考えたからである。

 その祈りが聞き入れられたのだろう、彼女が十五歳の冬のころ、スケートをしているとき、ころびそうになった友だちの少女がすがりついてきたため、リドヴィナもころんで運悪く筋骨を一本折ってしまった。両親は医者を呼び、手をつくしてみたが、次から次へと病を併発するばかり、いっこうなおるようすはなかった。だんだんからだの中にうみがたまり、虫がわき、全身かさぶたでおおわれ、見るもあわれな姿になってしまった、傷口からうみが出るので板張りの上にじかに寝かされ、来る日も来る日も天井を見つめたまま苦痛にうめいた。背中一面床ずれでちくちく痛み、そのうえ頭痛に襲われ、夜もろくろく眠れなかった。

 病気が長びくにつれて生きるしかばね同然にみんなに見放され、ことに両親の死後は兄嫁からじゃま者扱いにされ、ときにはつばを吐きかけられたリドヴィナはいつ果てるともわからない激しい苦痛に絶望しそうになった。この沈みそうな気持ちを慰め、引き立ててくれたのが、賢明な聴罪司祭ヨハネ・ポント師の指導によるイエズスご受難の黙想だった。

 ポット師はリドヴィナに美しいおとめのころの願望を思い起こさせて「あなたは犠牲の小羊に選ばれたのです。あなたはキリストと共に十字架につけられました。・・・リドヴィナ、あなたは悲しい苦しいキリストを捨てて十字架から逃げるのですか」と説明した。リドヴィナは司察の話が半分しか理解できなかった。それでも己にに負わされた十字架から逃げてはならないと決心した。数日後、ふたたび見舞いに来たポット師を見て、リドヴィナは涙をこぼした。病苦を神にささげようといくら努力しても、あまりに苦痛がひどいものだからー。

 司祭はこのかれんな病人に神につぶやいて、その苦痛をむだにしないよう、人類の悩みと悲しみを背負って十字架につけられたキリスト、うちたたかれ、いばらの冠をかぶせられ、あなどりはずかしめられた十字架上のキリストを仰ぎ見るようにすすめた。この黙想に加えて主の聖体を熱心に拝領しているうちに、リドヴィナの心はキリストのご受難、ご死去などの奥義にいっそうよく目が開けてきた。

 そのときから彼女は「苦しみの人たるイエズス」の手本にならおうと、病床を十字架、薬を海綿に含ませた酢、痛みなくぎづけのようにみなして、これを人びとの霊魂の救いのためにささげた。このように真心からキリストを愛するほどに彼女の生活はいそがしくなった。その英雄的忍耐と柔和は「世の光」となって、「ます」の上に置かれることになったからである。ある婦人は彼女に心配を打ち明けて慰めを受け、ある婦人は絶望のあまり自殺まで思いつめたが、彼女のことばで生きる力を得た。ある仲の悪い夫婦は彼女の仲介で仲直りをした。

 リドヴィナは自分自身苦しみながら訪問客をにこやかに迎えて慰めを与え、自分は動けない病人でありながら、他の病人のために心配した。罪なき者でありながら他の人の罪の償いを背負い、涙ながらに他人のために祈った。そして幾人もの人がその代願で病気をいやされたり、改心の恵みを受けたりした。そのたびに多額の謝礼金をもらったが、必要以外はそれをみんな貧着に施した。

 こうして彼女は苦しみのるつぼの中で不純な自分を清めるほどに「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶ」(ペトロ前4の13)境地に達した。ここにこそ「災いを転じて福とする」キリスト教的賢明さがあり、成聖のかぎがある。彼女が三十八年もの長いあいだベットにくぎつけられたままで自己を聖化し、多くの人を救ったのも結局は自分の苦しみをキリストのこ受難に合わせるという信仰の精神によるのであろう。

 死期の迫ったある日、天使は彼女にばらの枝を見せて「このきれいなばらをごらんなさい。まだ少しつぼみがあるでしょう。これがみんな咲いたころには、あなたは天国にはいるのです」と言った。このことばのとおり、復活祭から三日め、バラの花のほころんだころ、被女は「苦しみのさかずき」を最後の一滴まで飲み干しながら息を引き取った。不思議にも、その死に顔は一片の苦悩の影すらとどめず、美しく輝いていた。

 

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四月十一日  聖スタニスラオ

「正義のために迫害される人はしあわせである。天の国は彼らのものだからである。」(マテオ5の10)世に信仰道徳を乱す者があれば、責任者は一身を顧みず、にがいいましめのことばも言わねばならない。聖スタニスラオ司教殉教者も、義のために命をささげたひとりである。

 彼の両親は家名、財産とも何不足ない身であったが、ただ一つさびしいのは結婚後三十年も子宝に恵まれないことだった。祈りに祈りを重くて、ようやく一〇三〇年七月、玉のような男の子を授けられた。これがのちの聖スタニスラオ司教である。喜ぶ両親はわが子を将来聖職者としで.神にささげることにきめ、心身両面からいたわり育てた。スタニスラオも親の期待にそい、よく祈りよく学び、国の二流校グネーゼン大学を卒業後、パリ大学に留学した。そこでもいつしんに学問に励み、徳行をみがき、パリにあること七年にして聖会法博士の学位をかちえた。

 こうして故郷ににしきを飾ったスタニスラオは、まもなく父母に死に別れると、修道院にはいるつもりで全財産を貧者に施した。クラカウの司教ランベルトはスタニスラオの人物有見込んで司教座顧問とし、ついで司祭に叙階し、さらに副司教にまであげた。ランベルト司教がなくなると、スタニスラオはまつ先にその後継者にあげられたので、やむをえず一〇七二年、四十二歳でクラカウの司教に就任した。司教はことばで教えるまえに、身をもって教区民にてほんを示した。
 まず熱心に祈り、しばしば大斎し、貧者を助げ、清い生活を営んだ。そのため彼の一言は千金の重みがあった。

 時の国王ボレスラフニ世はわがままで、邪欲のとりこになり、臣下の妻や娘に対し、しばしば道ならぬふるまいをしていた。臣下は後難を恐れて泣ぎ寝入りし、ただそのうえは司教に頼んでいさめてもらう以外に方法がなかった。

 そこでスタニスラオが王をいさめると、はじめはおとなしく回心を誓った。が、時がたつにつれて以前よりもだらしなくなった。スタニスラオも大胆にこのような不倫を続けるなら破門も覚悟しなければならないといましめた。王はこれを根にもち、彼の名誉を傷つけようとはかった。

 そのころスタニスラオは、ぺトロという一農夫の土地を教会用地に購入し、その代金を支払った。王はペトロが領収書を渡さぬうちに急死したと聞いて、ひそかにその遺族に命じ「スタニスラオ司教は、わたしどもの土地を奪いました」と法廷に訴えさせた。

 スタニスラオは土地買売の件にくわしい証人もいることだし、自身をもって出廷したところ、証人も王に買収され司教に不利な証言をした。苦境に立った司教は判事に「では最も確かな証人を連れてまいりますから、三日のあいだお待ちください」と申し出た。判事はほかに証人など出ることはあるまいとタカをくくり、三日問待つことにした。

 伝えによるとスタニスラオは三日間断食し熱心に祈り、三日めの朝、ミサのあと司教の盛装をしてペトロの墓に行ぎ、その墓を開かせて「復活せよ!」と言った。するとぺトロは息を吹き返し、司教に同行して法廷の証人台に立ち、土地売買の件を明らかにして、ふたたび墓に帰り死人になったという。

 この奇跡に驚いた王は、一時改心したが、のち習慣的に同じ不品行をくり返し、スタニスラオの再三の忠告をもうるさがり、はてはこれを殺害しようとたくらんだ。

 一〇七九年五月八日のこと、スタニスラオ司教が町はずれの聖堂でミサをささげているところを、ボスラレフ王は部下を率いて乱入し、自ら司教をきり殺した。こののち王は国民の反乱にあって国外に追放され、亡き司教は聖人として崇敬された。

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四月十日  聖ジェンマ・ガルガニ

 「キリストにならいて」の中に「十字架は常に用意されていて、いたるところでおまえを待っている。どこへ行こうがおまえはそれから逃げおおせることができない。なんとなればおまえはいたるところに自分というものをともない行ぎ、常に自分を見いだすからである。おまえは上を向こうが下を向こうが、外を向こうが内を向こうが、どんなところにも十字架を見いだすだろう」(第二巻12の4)とある。

 今は行きたいところに行ぎ、ほしいものをすべて手に入れることができて万事とんとんびょうしにいっているとしても、やがて病弱、疲労、たいくつなどの肉体上の十字架や、失敗、侮辱、意見の相違、利書の衝突、親しい人との死別などの霊的な十字架をいやでも背負わなければならない。

 諸聖人はこれらの十字架を神から贈られたたまものと考え、キリストの犠牲に合わせて、これを自他の罪の償いや徳の訓練に利用するすべを心得ていた。聖ジェソマも病弱の身でありながら、おおしく自分の十字架をになってキリストの救世事業に参学した現代の英雄的なおとめである。

 聖ジェンマ・ガルガニは、一八七八年、北イタリアはルッカ市に近いカミリアノという一小村に生まれた。父は薬剤師で妻子九人を養うために毎日いそがしく立ち働いていたが、母は健康がすぐれず床に伏す日が多かった。四番めのジェンマは幼いころから母の病床で信仰上のことや祈りなどを習うのが大好きだった。

 あるとぎ母は幼いジェンマに十字架を見せながら、「ジェンマ、やさしいイエズス様は人をお愛しになったのに、かえって人から打たれ、あざけられ、傷つげられて十字架上でおなくなりになったのです」と、主イエズスのご受難を話して聞かせた。これに感動したジェンマは目に涙を浮かべながらイエズスをいたわる心からその御傷にせっぷんした。こうして後年、ご受難の花ともいうべき、いうべきジェンマの偉大な成聖は母のまくらべで芽ばえたのである。

 主イエズスは、一八八五年、七歳のいたいけなジェンマに最大の犠牲を求められた。堅信の秘跡を受けてから、ミサにあずかり、母のために祈っていると、とつぜん心の中に声がした。「ジェンマ、母をわたしに与えないか。」彼女はすぐさま「わたしもいっしょに連れて行ってくださるならば・・・」と答えると、「おまえはなおしばらく父と共にこの世に残りなさい。わたしは母をまず天国に入れよう。快く母を与えよ」とおっしゃった。こうしてジェンマは苦しみのさかずきをおぼしめしのままに受け取り、キリストのご心痛にあやかりながら最愛の母親と死別した。

 その後、ジェンマは女子修道会経営の学校にはいり、熱心に勉学や信心に励んだ。優秀な学業成績に加えて、その徳行はたちまち級友の模範となった。ジェンマは形式や、おせじにはこだわらず人の心を傷つけない程度に白は白、黒は黒とはっきりものを言った。しかし、人の意見を重んじ、きまってよい話を聞くほうにまわっていたので表面的には無能者のように見えることさえあった。休み時間には快活に遊び、ときどき自分のあやまちでないことでとがめられてもじっとこらえた。

 十六歳のとぎ、またしても大きな犠牲が求められた。兄のジノが死に、ジェンマ自身もその看護に疲れはてて三ヵ月も床に伏す身となり、ついに学校を退学しなければならなくなった。その後は弟妹の母代わりとなってこれを養育したり、家事を取り締って父親を慰めていたりした。そのうちに一家の支柱ともたのむ父が失業して無一文になり、続いてこの世を去った。そのうえ自分もせぎずいをわずらい、いろいろと治療をつくしてもなおらなかった。

 この病気と貧困の二重苦の中に、彼女はつゆほども自己の不運を嘆かず「わたしはイエズス様と共に苦しみとうございます。わたしの唯一の楽しみは、主と共に苦しみにたえることです」とくり返し言っていた。そのうちに聖ガブリエル・ポッセンチや聖マルガリタ・マリア・アラコクの取り次ぎで奇跡酌に全快したので、修道院入りを願ったが健康上の理由で許されなかった。その後ジェンマはチェチリア未亡人の養女となり忠実に寡事の手伝いをしていたが、二十歳のとき、とつぜん脱魂状態におちいり、イエズスと同一の聖痕を受けた。なお彼女は聴罪司祭の指導のもとに聖体、聖母、守護の天使に対する信心を深めながら、罪びとの改心のために、布教のために、教会の発展のためにたえまなき祈りと儀牲とをささげた。

 こうして 一九〇三年、純白なジェンマの魂は、二十五歳をいちごとして復活祭の前夜天配のもとへ飛び去った、「キリストと共に光栄を受けるために、その苦しみを共に受ける」(ロマ8の17)。

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四月六日  福者ヘルマン・ヨゼフ

 主キリストは「あなたたちが子どもの状態に立ちかえらないなら、天の国にははいれないだろう」(マテオ18の3)と仰せられた。ヘルマン・ヨゼフは聖母を熱愛し、生涯を通じ子どもの単純さを失わなかった点で右のみ教えの実践者である。

 ヘルマンは、一一五〇年、ドイツはケルン市の貧しい家に生まれた。幼いときから信心深く、小学校へ通学の途中には必ず家の近くの聖母堂に立ち寄り、イエズス、マリアのご像に話しかけていた。

 たとえば、幼子イエズスに向かって「わたしは、けさパンを少し食べただけでおなかがすいていますが、この世で貧しい生活をなさったあなたを思ってがまんいたします。全能の神様、まずくとも必要な食べ物だけは与えてください」と。また聖母には「聖母マリア様、あなたはこの世で多くの悲しみにあわれました。どうぞ、わたしの父母を慰めて、日用のかてが与えられますよう取り次いでください」と祈っていた。

 ある日、ヘルマンは母親からパン一切れとりんご一個をもらい、パンはすぐに食べたが、りんごはあまり美しいので食べるのが惜しくなった。それで例の御子をいだいた聖母像の前にもって行ぎ、「聖母マリア様、ご承知のとおり、わたくしは貧しくて御子にささげるものをもっていません。きょうこのりんごをもらいましたからさしあげます」と、言って御子にさし出した。しかし悲しいことに背のびしても届かない。すると、ご像の聖母がにっこりほおえまれて、それをみ手に受け取り、御子に渡されたという。

 その後、彼はますます聖母を崇敬したが、聖母も多くの恵みを与えられた。「終業の祈り」の「天主の聖母のご保護によりすがり奉る。いと尊く祝せられたもう童貞、必要なるときに呼ばわるを軽んじたまわず、かえってすべてのおやうぎより常にわれらを救いたまえ」は、聖母にヘルマンがささげた祈りという。

 また、ある寒い冬のことだった。貧乏なヘルマンはくつも買ってもらえず、はだしで例の聖母堂にはいった。すると聖母は気の毒そうに「なぜくつをはきませんの?」とお尋ねになった、「くつを買うだけのお金がありません・・・」ヘルマンが正直に答えると、聖母は床の一つの石を指さし、「この石の下をさがしてみなさい」と仰せられた。すぐにヘルマンがその石を坂り除いてみると、そこからくつの代金が出てきたという。

 十二歳になると、ヘルマンはプレモントレ会のシュタインフェルド修道院にはいった。ここで信心や勉強に励むかたわら、毎日修院の雑役や食堂の給仕をした。

 のち、この単調な役目にあきたらなくなった彼は、これを聖母に訴えると、聖母は「従順に愛の心から兄弟に仕えるよりりっぱな務めはほかにありません」とさとされた。その後、修院長はヘルマンの性向を顧慮して香べや係を命じた。ヘルマンは注意深くこの務めを果たし、暇さえあれば祭壇の下や聖母像の前で長く祈り、多くの賛歌をもつくった。

 まもなくヘルマンは司祭に叙階され、巡回教説師や修道女らの聴罪師となり、じょうずに霊魂を指導した。

 また独力で聖書を研究して雅歌の解釈書を著わしたり、ほうぼうのとけいを巧みに修理したりした。そのほか厳格な苦業に身をゆだね、あまり過度に大斎を守ったために胃を痛め、晩年、大いに苦しんだ。そのおいだにヘルマンはいろんな示現を受けた。

 ある夜、大きな火の玉が地上から舞い上がるのを見て、自分の教区の司教がまもなく殉教することを悟った。はたして数ヵ月もするとそのとおりになった。またケルン市出身のウルスラ童貞殉教者もヘルマンに現われたという。

 このような恵みを受けてもヘルマンは、深くへり下って自分を無用の者とみなし、古着や質素な日用品を愛し、心を純潔に保ち、一二四一年、この世を去った。

 

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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月五日  聖ヴィンセンチオ・フェレリオ

 話しはうまいが実際はどうでもとか、口先だけで約束は守らないとか、批判はするが自分は手を出さないとかいうことを、私たちはよく耳にし、そんな生活態度の人をよく見かげる。なぜか?誠意というか信念というか、人間の意志を内面から動かす原動力に欠けているからではないだろうか。聖ヴィンセンチオ・フェレリオは弁舌の聖人であるが、ことばと聖性のつながりについて世にりっぱな手本を示している。

 ヴィンセンチオ・フェレリオは一三五七年にスペインに生まれた。幼いころから.、修道院に入って神に仕えたいと両親にうちあけていた。そして十四才のときから哲学と神学を学びはじめ、十八才でドミニコ会の修道院に入り、祈りと聖書研究に没頭した。

 司祭叙階後、バルセロナのカタロニア大学でさらに研究を続け、一二八四年、二十八歳で神学の博士号を獲得した。

 その後、ヴィンセンチオは故郷のバレンシアに帰り、熱烈な説教をはじめた。内面の信仰からほとばしり出る彼の一語一語は聞く者の心を揺り動かし、神の愛を伝える大ぎな力となった。彼は自分が神の道具、神の代弁者にすぎないと自覚し、神への愛の情熱から全心をぶっつけて説教していたのである。何ら自己の名声とか利益を求めず、かえって自己のみじめさ、罪を目前に置き、謙遜な慈悲深い態度で、聞く人の魂に呼びかけた。

 ヴィンセンチオが優れた説教家であったのは、説き聞かせ、感動させ、改心させるーこの三つの事柄を実践していたからである。ヴィセンチオ自身も、自著の中で私共にこう教えている。

 「あなたは、自分の利益のために学びたいのですか? あなたの学問をすべて神にささげなさい。自分を学者にするために学問するのではなく、聖人になるために勉強しなきい。書物にのみ頼ることなく、神にたずねなさい。そして書物で読んだことをよく理解できるように謙遜に神にお願いしなさい。学問だけに熱中するとあなたの身も心も疲れさせてしまいます。ですから勉学の合い間にも、たびたびキリストに祈って、新しい勇気と力をいただきなさい。そうすれば慈悲深いキリストは頼いをお聞き入れになり、おん傷のうちにあなたの疲れた魂をいこわせてくださいます。学識はわれわれの光である御父のお恵みです。それゆえに、単に理性のためだけや白己の利益のためにのみ使うものと思ってはなりません」と。

 このようにヴィンセンチオは議遜と十字架上のキリストのご受難に合わせた毎日の労苦によって、人びとにあらための心と神への愛を起こさせることができた。

 また彼は激しい情欲にさいなまれ、不浄な想像に苦しめられたが、深く心からへり下り、ひたすら祈ることによって、それらを追い払った。

 一二九八年、ヴィンセンチオは三十九歳のとき教皇特使に任ぜられ、以来二十年間全ヨーロッパを説教して回った。行く先で熱のこもった説教をするヴィンセンチオの後に多くの改心や霊的指導を受けようとする人の群れがつき従った。彼の力強い説教は数百人の罪人のかたくなに固った心をも和らげ、教会を離れて行った人たちさえも教会へ連れ戻した。

 英国のヘンリー四世の招待を受けて英国へ渡ったときもロンドン、スコットランド、アイルランドとあますところなく説教して歩いたが、暇きえあれば絶えず祈り、厳しい大斎を守った。

 時には神から不思議な力を受け、彼が自国語のスペイン語で説教しても、ドイツ人が聞けばドイツ語に聞こえ、フランス人が聞けばフランス語に聞こえた。広場で数千の聴衆に説教することもあったが、その声は隅みずみまでひびき渡ったと言われている。

 なおヴィンセンチオの名声を聞いたグラナダの回教徒たちから、説教を依頼されることもあった。彼は喜んでその招待に応じた。多くのユダヤ人や回教徒たちが神に魂の救いを求めているように思えたからである。その説教の結果、たくさんの改宗者を出した。このままでは全員改宗するのではないかと、回教の指導者たちは恐れをなして、国王にヴィンセンチオを追放してくれと要請したほどであった。トレドでの説教でも多くのユダヤ教徒の改宗者を出したので、改宗者たちは自分たちの会堂を聖母マリアにささげた聖堂として使用してくれと申し出た。サラマンカでも同じことが起こり、ユダヤ教徒の改宗者は、その会堂を十字架の聖堂と改名した。

 そんなに忙しい説教行脚の中でも、ヴィンセンチオは「霊的生活への指南」や「信仰への指南」を書き残した。

 一四一七年、フランスのブルタニュー地区で二年闇説教した。もはや六十の老いの身で思うように歩けなかったが、その説教には若い目の情熱と感動がこもり、ブルタニュー教会の刷新に大きな影響を及ぼした。そしてワンヌの町で急病にかかり、一四一九年四月五日、天を仰ぎながら静かに息をひきとった。遺骸はスペインのパレンシアの司教座聖堂に安置されている。

 

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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月四日  聖イシドロ

 聖書に「主をおそれることは知恵の始めである」(集会書1の16)とあるとおり、昔から博学な聖人たちは何よりも先に神のことを学んで、その信仰を養い、その徳行をみがいた。なぜなら、彼らは「すべての知恵は主から出る。それは常に主のがたわらにある」(集会書1の1)ということ、つまり神こそが真理そのものであり、光明の源であることを知りつくしていたからである。

 聖イシドロは少年のころ大の勉強ぎらいだったが、ふとした動機から自己に目ざめ、信心業に合わせて猛烈に勉強した結果、神の光栄と人びとの救霊のために大いに活躍することがでぎた。

 聖イシドロは五五穴年頃、スペインのセビリアのけいけんな貴族の家に生まれた。イシドロは聖レアンドロ司教および聖フルゼンチナ司教の弟であり、しかも聖女フロレンチナの兄というから、きわめて家庭環境に恵まれた聖人一家の中で育ったわけである。ところが兄弟のうちでイドシロだけは、どうしたわけか特にものおぼえが悪かった。そこで長男のレアソドロ司教は自分の創立した学校に弟のイシドロを入れて厳格に教育してみた。

 しかし頭の回転がおそくて級友についていけない。兄からはしかられどうし、また宿題がどうしてもできないので、ある日のことイシドロはとうとう学校を飛び出してしまった。その足で村はずれまで来て半口あまりぶらぶら遊んでから、井戸ばたの大ぎな石の上に腰掛けてしょんぼり物思いにふけっていた。するとまもなく村の婦人が水くみにやってきでイシドロの話相手になった。

 イシドロは問われるままにぽつりぽつり自分の悩みを打ち明げた。婦人はすなおな少年の心臆に同情して近くの大きな石をさしながら、「この石をごらんなさい。水のしたたりですら長いあいだにはこんなに堅い石にでも穴をあけることができるではありませんか。学問の道もこれと同じくわずかのあいだで窮めつくすことはできませんが、うまずたゆまず努力するならば必ず目指す目的に到達するでしょう」と励ました。イシドロはこれに勇気づけられてふたたび学校に帰り、司祭を目ざして猛烈に勉強しだした。こうして四か国語をマスターし、さらに数学、哲学、神学など当時のあらゆる学科を身につげて司祭とたった。

 当時、ゴート族出身のスペイン国王レヴィジルトは、アリオ派の異端、すなわちキリストは最も完全な被造物であって神ではないという邪説に迷わされて、きびしくカトリヅク信者を迫善しはじめた。イシドロの兄レアンドロ司教は、熱心にこのびゅう説を反ばくして多くの改宗者を出し、おとで聖人となった皇太子をも聖会に帰正させた。

 このため王は大いに怒って司教を国外に追放し、皇太子を殺してしまった。そのあいだにイシドロはセビリアにとどまり、殉数の覚悟で東西に奔走しながら迫害に苦しむ信者を慰め励ましていた。そのうちに王は自己の非を後悔して、五八六年、レアンドロ司教をふたたびセビリアの大司教座に呼び迎えた。その三年後の五八九年、王の遺言により次の国王レッカルドが聖会に帰正したので、これ以来カトリックがスペインの国教と定められた。

 その後、イシドロは一修道院にこもり、祈りと研究に没頭していたが、人びとのせつなる願いに応じて、ついに六〇〇年、なき兄レアンドロのあとを継いでセビリアの司教となった。かつては学業に失敗しそうになったイシドロも、今は深遠な学識と崇高な聖徳を身につけて大司教区の司牧にあたるかたわら、聖会の典礼や学校教育のためにも力をつくした。またイシドロほ当時のあらゆる知識を集大成した「語源」や「神学命題集」などを次々と著して後世までも人びとに大きな影響を及ぼした。彼の博学をいっそう輝かせたのはその聖徳だった。たえず祈りながら貧者を恵み、病者を慰め、罪びとを救いの道に導いた。このように大司教の責任を負うこと三十六年、イシドロは死期の迫ったのを知って自分の財産をすべて貧者に寄付し、善終の準備を終わってから安らかに永眠した。

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