『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

四月三日  黒人聖ベネディクト

 聖会は人びとの救霊をはかる場合、身分や人種などで差別待遇をしない。人類はみなキリストの御血によって贖われた同じ神の子であり、どんな人もその魂のうちに神のみ姿をうつしている者とみなすからである。また聖会内の職務にも人種、家柄などで差別せず、聖徳や腕しだいで広く人材登用の道を開く。

 聖ベネディクトは黒人のどれい階級からしだいに身を起こし、世の偏見やちょう笑に属せず、神の恵みをよく利用して身を修め徳をみがき、聖会のために有用な入物となった。

 彼は一五二六年、南イタリアのメッシナに生まれた。聖人の父母はどれいとして、ある富豪の家で働いていたが、正直で農事にくわしいことから総支配人に取り立てられた。四人の子どもたちは疋直で働ぎ者の両親に似て、しつけよく何ごとにも勤勉だった。ことに長男のベネディクトは性質温和で克己心が強く、家畜の番をしながら、よく祈りや黙想をした。心ない人たちはただ膚が黒く、どれいあがりであるという理由だけで彼を笑いものにした。しかし彼は歯をくいしばってじっとこれに耐え、少しもいじけずに日々の労苦を自他の罪の償いにささげ、収穫の一部を貧者に恵んだり、他人の手助げをしたりして、だれにでもあいそがよかった。

 十八歳のとき、村びとのちょう笑には目もくれず、黙黙と畑を耕しているところへランザという高名な隠修士が通りかかった。ランザはベネディクトの仕事ぶりに感心し、そこへ集まって来た人びとに「この青年は今に偉くなる」と予言めいたことを言い、数日後またやって来て、「わたしのところへ来て修道生活をしたらどうか」とすすめた。ベネディクトはあたかも主キリストのみことばを聞くかのように、いさぎよく家庭や畑から離れ、ランザの弟子に加わった。

 その団体は僻地に住み、貧しい衣食で満足し、朝早くから夜おそくまで祈り、黙想、苦業などに専心した。この聖なる生活がしだいに人びとに知られ、さらにベネディクトが病人を奇跡的に治してからというもの、静寂そのものだった修院も訪問客で押すな押すなの雑踏をきわめた。そこで修道者たちは静けさを求めてもっと山奥にはいった。数年後、院長のランザがなくなると、その後継者にはベネディクトが万場一致で選挙された。

 一五六二年、教皇ピオ四世の命令により、この一団はフランシスコ会と合同することになったので、ベネディクトは部下の修道者を連れてパレルモの修道院に移った。その後もベネディクトは全心全霊をあげて修業に励み、聖務の時以外は喜んでだいどころの仕事に携わった。ある冬のこと、降り続く大雪に交通がとだえ、それにつれて修院内の食糧もそろそろ底をつきだした。ベネディクトはどうしようもなく、ある日、水のはいったおけを幾つか料理場に運び入れて熱心に祈った。翌朝見ると、その中には不思議にもぴちぴちした魚が多数泳いでいたという。

 一五七八年、五十二歳のときパレルモの修院長に選ばれ、忠実にその聖務を果たし、慈愛深く部下の修道者を導いた。彼は幼いときから教育の機会に恵まれず、司祭にはなれなかったが、その代わり聖徳、上知のたまもの、奇跡を行う能力など授かった。学識豊かな司祭も有名な説教家も、この黒人修道士を尊敬するあまり喜んで、そのさしずに従った。彼は不思議にも聖書の奥義に精通し、あらゆる難問にてきぱき答えていた。またベネディクトが十字架のしるしをしただけで、めくらが見え、びっこがなおるというので人ぴとは彼の姿を見ると通りの両側に人がきを築いて祝福か求めた。このため、けんそんな彼は外出にはできるだけ夜を選んだ。

 院長の務めをりっぱに果たしてから、神のおぼしめしのままに「自我」を捨てて体力の続くかぎり修練長や料理の仕事にも喜んで携わった。

 一五八九年、六十三歳を迎えた彼は、かねがね予言していたとおり聖木曜日にイエズス、マリアのみ名をとなえつつ安らかに息を引ぎ取った。

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