Saint Of The Day (March 9)
St. Frances of Rome

 St. Frances, who was to become a noble Roman matron, had resolved at the age of eleven to consecrate her virginity to God and enter a convent; but in obedience to her parents she married Lorenzo Ponziani, a wealthy young nobleman.

 In the married state she observed, as far as it was lawful for her to do so, the austerities of the stricter life she had intended to lead; and her endurance in adversities was wonderful to see. To counteract the trend toward worldly display and vanity among the married women of Rome, she founded a house for Oblates in the City, under the rule of St. Benedict as observed in the congregation of Monte Oliveto.

 When her husband died, she retired immediately to this house and begged humbly to become a member of the community. Her petition was granted, and she was made superior of the group, but she preferred to call herself the handmaid of all and the most worthless of women. She thwarted the tricks by which the devil kept trying to entice her, and with the help of her guardian Angel turned every temptation into the occasion of a glorious triumph.

 Renowned for her virtues and miracles, she journeyed to the Lord at the age of fifty-six. Pope Paul V added her name to the list of the saints.  


Taken from The Hours of the Divine Office in English and Latin, Vol. I: Advent to Passion Sunday (Collegeville, Minnesota: The Liturgical Press, 1963), pp. 1820-1821.

Saint Of The Day (March 9)
St. Frances of Rome

Prof. Plinio Corrêa de Oliveira

 Born 1384 in Rome, died 1440 in Rome. St. Frances of Rome received a supernatural gift of visions from God. She is famous for her visions about Hell. Perhaps throughout the History of the Church no other mystic has had so many descriptive visions of Hell as St. Frances.

 The following text is taken from Rohrbaher, Universal History of the Catholic Church. The author reproduces words of the Saint regarding one of her visions on Hell:

 While one-third of the angels sinned, the other two-thirds persevered in grace. One-third of the fallen angels are in Hell tormenting the condemned souls. These devils are the ones who freely followed Lucifer and deliberately revolted against God. They cannot leave the abyss except with the special acquiescence of God, when He decides to punish the sins of men with a great calamity. These are the worst among the devils.

 The other two-thirds of the fallen angels inhabit the air and the earth. They are the ones who did not take a side in the battle between Lucifer and God, but remained silent.

 The devils of the air often instigate storms, winds and thunders to frighten souls, causing their wills to weaken and cede to inconstancy, thus preparing them to falter in the Faith and to doubt Divine Providence. The devils who live on earth among men to tempt us are the fallen angels of the lowest choir. The faithful angels of this choir are our guardian angels.

 The prince and chief of all devils is Lucifer, who is confined at the bottom of the abyss, where he punishes the other devils and the condemned men and women. Since he fell from the highest place among the angels, the Seraphic choir, he became the worst devil. His characteristic vice is pride.

 Below him and under his power are three other princes: First, Asmodeu, who represents the vice of impurity and was the head of the Cherubim; second, Mammon, who represents the vice of avarice and was the first among the Thrones; third, Belzebuth, who represents idolatry, sorcery and spells and was the chief of the Dominations. He is over everything that is dark and that diffuses darkness over rational creatures.

 

『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
 
三月十日 聖ドメニコ・サヴィオ
 
 「罪よりもむしろ死を」これは少年聖人ドメニコ・サヴィオが七歳で初聖体を受けたとぎに立てた決心の一つである。実際、彼はイエズス、マリアに信頼し、利己心と戦い、聖ドン・ボスコの導きの決心を生涯守りとおした。
 
 彼は一八四二年、イタリア、トリノ付近のリパ・ディ・キエリのかじ屋の次男に生まれた。けいけんな両親に似て信心深く、五歳になるとミサ仕えをしようと、雨の日も風の日も毎朝教会へ通い、その入口にひざまずいて頭をたれ、小さな手を胸に組んで戸があくまで祈っていた。
 
 夕方、仕事に疲れた父親の顔を見ると、ドメニコは「おとうさん、疲れた?ぼくはいつもおとうさんが元気でいるようにって、それからぼくがよい子になるようにって祈っているよ」と言うのだった。小学校では勤勉で成績がよく、しかも信心深いので規定の十一歳を繰り上げ、七歳で初聖体を許された。
 
 一八五二年、恩師クリエロ神父は十歳のドメニコのうちに司祭への芽ばえを読み取り、念入りにこれを育てた。翌年の冬のある日、教室のストーブに石と雪がつめ込んであった。教師のクリエロ神父は怒った。犯人のいたずらっ子たちはこわくなって、おとなしいドメニコにその罪をなすりつけた。
 
 ドメニコはとんだぬれぎぬを着せられてびっくりした。最初は弁解しようとしたが、あとで黙っていたほうがいいと思いなおし、みなに代わってさんざんにしかられた。しかしあとで全部はっきりした。「どうして最初、自分でないと言わなかったんだ。「先生、ぼくはイエズス様を考えました。イエズス様も不正な訴えをお受けになったのですから。」少年ドメニコは人のために苦しむ価値をすでに悟っていたのだった。
 
 一八五四年、十二歳のとき、ドメニコはクリエロ神父の紹介で、青少年の教育を目的とするサレジオ会創立者ドン・ボスコに会った。その最初の出会いの印象をドン.ボスコは書いている、「すぐ親しみをもった。彼はわたしに、わたしは彼に・・・。」やがてドメニコはトリノ近郊のドン・ボスコの学院にはいった。
 
 住みなれた家や遊び仲間と離れてつらく感じるときとか、困難なときに、ドメニコは聖母の祭壇のもとにひざまずぎ、初聖体のときの決心をくり返した。「聖母マリア様、あなたにぼくの心をささげます。いつまでもあなたのものとしてお受け取りください。一つの罪を犯すくらいなら、どうぞぼくを死なせてください」と。
 
 そして十三歳のこの少年は、「ぼくが聖人になるのを神は望みたもう。だから、ぼくは、そうならねばならない」という信念の旗をかかげて前進した。それにはドン・ボスコのすすめた方法、つまり「たえず平静な快活を保ち、信心と勉学の義務を怠りなく努め、友だちといっしょに遊ぶのがよい」を実践した。
 
 ドメニコはしばしばな告解と聖体の秘跡を受け、理由なく聴罪司祭を変えなかった。聴罪司祭を変えよとすすめる友だちがあると彼はこう答える。「聴罪司祭は心の医者です。医者を変えるときは、その人への信頼を失ったときか、あるいは、もう病気のなおる見込みのないときです。ぼくはそのどちらでもないので変えません」と。
 
 十四歳のとき「ぼくは聖母のために何かしたい。ときがなくならないうちに・・・」と考えたり祈ったりした末、仲間を集めて無原罪信心会をつくった。この目的はドソ・ボスコの手足となって、少年たちを告解や聖体の秘跡に近づかせ、学院の生徒の道徳を向上させることにあった。
 
 たとえば、ドメニコは秘跡に遠ざかっている連中に近づき、ちょっとの休み時間を利用してはなにげなく話しかける、、「土曜日にいっしょに告解に行こうか?」相手はとっさに「そうしよう」と答える。ドメニコは、この「そうしよう」を忘れず、土曜日になると彼をさそってドン・ボスコのもとに連れて行った。
 
 ある祝日に、ひとりの少年が一枚の新聞を学院にもち込んだ。少年たちは下品な絵や、わいせつ記事ののっている新聞を取り囲んで、げらげら笑っていた。ドメニコも何事だろうと近寄ってみた。彼は黙ってそれを取り上げ、みなの見ている前で破った。
 
 「目は被造物の美しさを見るために神様から与えられたのだ。それにきみたちは霊魂を滅ぼすためにこんなものを見て喜んでいるのかい?」「別に喜んでやしないよ、見て笑っただけじゃないか」とひとりがふくれっつらで答えた。「まさか笑いながら地獄へ行きたくないだろう?」「だけど君の言うほど悪いものではないじゃないか。」「そうかなあ、こんなもの見なれた人問だけだよ、そんなことを言うのは、きみ。」真心からの忠告はみなの心にこたえた。彼らは黙って散って行った。
 
 だが、いつも忠告がすなおに受け入れられるとはかぎらない。ある日、ちょっと注意してやったひとりの友だちから、ののしられたたかれた。ドメニコは怒りをじっと静めて言った。「きみ、こんなことはもうしないでくれ、少なくとも他の人には・・・」また悪いことばを口にする少年をいましめたり、石を投げ合ってけんかしているふたりの少年を仲直りさせたりした。
 
 ドン・ボスコのすすめに従って、ドメニコはむち打ちや断食をあきらめ、その代わりに学校の規則を守ること、目と舌をつつしむこと、侮辱を忍耐すること、暑さ寒さ、疲労病気を喜んで神のみ手から受げることなどを自分の苦業とした。
 
 もともとからだの弱かったドメニコは、いつも忍耐づよく明るく生活していたが、たえまない精神の緊張と、熱心な勉強に精力を消耗し、とうとう肺炎の犠牲となり、一八五七年、十五歳の若さで神のみもとに帰った。

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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

三月九日 ローマの聖フランシスカ

 聖書に「すぐれた婦人をだれが見つけるだろうか。彼女は真珠よりもはるかに値うちがある。夫の心は彼女を信頼し、その財産はけっしてへらない。・・・貧しい人に手をさしのべ、とぼしい人に腕を開く。・・・賢く口を開き、その舌には慈悲のことばがある。彼女は家の人の出入りをよく見守り、無為に岸らしてパンを食べる、とはない・・・」(格言31章)とある。聖会は昔からこの聖句にぴったりあてはまるような聖なる主婦を数多く世に送ったが、聖女フランシスカもそのひとりである。

 彼女は一三八四年、ローマの貴族の家に生まれた。洗礼名にフランシスカと名づけられたのは、彼女の両親がアシジの鰹フランシスコを尊敬していたためである。彼女は両親のしつけよろしく敬虔に育ち、ものこころがついて以来、母のとなえる聖母マリアの小聖務日課や、その他の祈りを暗記して、母と共に毎日これらの祈りをとなえていた。また両親に連れられてローマの諸教会を訪問し、そこで行なわれる祭式にあずかることを何よりの楽しみとし、そのほか好んで説教を聞いたり、聖人伝を読んだりしていた。

 七歳になると、彼女は主任司祭(ベネディクト会士)の霊的指導のもとにご託身の玄義やキリストのこ苦難などについて黙想することを教えられ、彼女の心はさながら花園をにおわせるまっかなばらの花のようにイエズスに対する純情に燃えていた。

 こうして彼女はイエズスこそ唯一の愛し奉る御者と心に堅く想うようになり、イエズスに任えるため、家にあってはどんなつらいことまでも微笑を失なわずに両親の言いつけを守るように努め、貧者を見舞っては自分に贈られたものを分け与えていた。

 十二歳になると、父親は娘の修道院入りを恐れるあまり先手を打って、ポンチアニ家と縁談をまとめてしまった。それを知った彼女の驚きと悲しみはひととおりでなかったが、指導司祭も両親の望みに従うようすすめたので、ロレソッナ・ポンチアニという一青年貴族と結婚した。

 彼女は万事を神のおぼしめしにまかせて夫や、しゅうとめによく仕え、多くの親類や召使いにもあいそうよくふるまい、暇をみては夫の弟の妻バルッツオと共に祈りや黙想に専心するなどしてよい家庭をつくるように努力した。やがて彼女はフランシスコ第三会員となり、家事のかたわら貧者や病者を見舞ってこれに援助の手をさしのぺた。

 しゅうとめはこれを知ると家の名折れになると思い、むすこのロレンツオにすすめてこれをやめさせようとした。しかし、彼は敬虔で寛大な騎士だったので、むしろ妻のすぐれた徳行をほめ、「彼女が妻の務めを怠ってそのようなことをするならば、もちろんとがめねばなりませんが、りっぱに毎日の務めを果たしてから善業をするのですから、かえってこれを助けねばなりません」と答えたそうである。

 夫の証言どおり、フランシスカはどんなに熱心に祈っているとぎでも、夫の用があればすべてをさしおいて夫のいいつけに従った。そのほか育児、家計、料理、召使いの監督、客の接待などてんてこまいの毎日が続いたが、彼女はこれらを快活に愛する御者のためにささげるのであった。

 そのうちにこの平和な幸福な家庭にも試練の日がおとずれた。一四〇九年、フランシスカが二十五歳のとぎである。三十一年まえにローマと南仏のアヴィニォンにふたりの教皇が対立し、教会はついに二つに分裂した。これを統一するためピサで会議が行なわれ、新しくアレクサンドル五世が教皇に選ばれた。しかし前二教皇はこの会議な認めなかったので、今度は三教皇が互いに対立し、紛糾はますます激しくなった。この混乱に乗じてナポリのラジスラス王がローマに侵入した。

 そのときロレンツォは教皇軍を指揮して勇戦奮闘したが、戦いに敗れて捕虜となり、長男ヨハネも敵の人質とされ、次男はペストで倒れ、娘のアグネスにも急病で先立たれ、家財もことごとく略奪されてしまった。

 しかし彼女は、「主は与え、また奪われた、主のみ名は祝されよ」(ヨブ記1の21)というあつい信仰から自分よりも他人の不幸を考え、略奪を免れた衣類を集めて寝具や、ほうたいをつくり、邸内にペスト患者を収容してこれを看護したり、貧者のために金品をこい歩いたりした。

 一四一四年ラジスラス王が死に、さらにその三年後には、コンスタンス公会議でマルチヌス五世が教皇に選ばれ、救会の大分裂も終わりを告げたので、ローマはふたたび平和にもどった。夫も長男も追放から帰ってぎた。

 フランシスカは以前にも倍して彼らのめんどうをみるかたわら、一四二五年、献身会を設立し同志の貴婦人たちと共に慈善事業を続けた。一四三六年、五十二歳のとき夫に先立たれて寡婦となるや、念願かなって献身会の修道院にはいり、院長となって修道女を折導し、その四年後に生前親しく交わった守護の天使に導かれて天国ヘ旅立った。

 

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Saint of the Day for March 7
Saints Perpetua and Felicity(d. 203)

 “When my father in his affection for me was trying to turn me from my purpose by arguments and thus weaken my faith, I said to him, ‘Do you see this vessel—waterpot or whatever it may be? Can it be called by any other name than what it is?’ ‘No,’ he replied. ‘So also I cannot call myself by any other name than what I am—a Christian.’”

 So writes Perpetua: young, beautiful, well-educated, a noblewoman of Carthage in North Africa, mother of an infant son and chronicler of the persecution of the Christians by Emperor Septimius Severus.

 Perpetua’s mother was a Christian and her father a pagan. He continually pleaded with her to deny her faith. She refused and was imprisoned at 22.

 In her diary, Perpetua describes her period of captivity: “What a day of horror! Terrible heat, owing to the crowds! Rough treatment by the soldiers! To crown all, I was tormented with anxiety for my baby…. Such anxieties I suffered for many days, but I obtained leave for my baby to remain in the prison with me, and being relieved of my trouble and anxiety for him, I at once recovered my health, and my prison became a palace to me and I would rather have been there than anywhere else.”

 Despite threats of persecution and death, Perpetua, Felicity–a slavewoman and expectant mother–and three companions, Revocatus, Secundulus and Saturninus, refused to renounce their Christian faith. For their unwillingness, all were sent to the public games in the amphitheater. There Perpetua and Felicity were beheaded, and the others killed by beasts.

 Felicity gave birth to a girl a few days before the games commenced.

 Perpetua’s record of her trial and imprisonment ends the day before the games. “Of what was done in the games themselves, let him write who will.” The diary was finished by an eyewitness.

Saint Of The Day(March 7)
St. Thomas Aquinas,

Prof. Plinio Corrêa de Oliveira

“In truth, St. Thomas possessed all the moral virtues in a very high degree, and so closely bound together in his soul that they formed one whole in charity [the love of God], which, as he himself states, ‘informs the acts of all the other virtues.’ If, however, we seek to discover the specific and particular characteristics of his sanctity, the first thing that appears is a virtue that gives St. Thomas a certain likeness to the angelic natures. We refer to that chastity which he preserved unsullied in a crisis of the most pressing danger. Because of this he was judged worthy to receive from the Angels a mystic girdle [belt of purity] ….

“The most distinctive feature, however, of the sanctity of St. Thomas is what St. Paul describes as the ‘word of wisdom’ [sermo sapientia], and the union of the two forms of wisdoms – the acquired and the infused – with which nothing accords so well as humility, devotion to prayer, and the love of God.

“That humility was the foundation upon which the other virtues of Thomas were based is clear to anyone who considers how submissively he obeyed a lay brother in the course of their communal life. It is no less obvious to anyone reading his writings, which manifest such great respect for the Fathers of the Church. As Leo XIII noted, ‘Because of his utmost reverence for the doctors of antiquity, he seems to have inherited in some way the intellect of all.’

“But the most magnificent illustration of his humility is to be found in the fact that he devoted the faculties of his divine intellect not to gain glory for himself, but to the advancement of truth. Most philosophers as a rule are eager to establish their own reputations, but St. Thomas strove to efface himself completely in the teaching of his philosophy so that the light of heavenly truth might shine with its own effulgence.”

Saint of the Day for March 8
Saint John of God
(March 8, 1495 – March 8, 1550)

 Having given up active Christian belief while a soldier, John was 40 before the depth of his sinfulness began to dawn on him. He decided to give the rest of his life to God’s service, and headed at once for Africa where he hoped to free captive Christians and, possibly, be martyred.

 He was soon advised that his desire for martyrdom was not spiritually well based, and returned to Spain and the relatively prosaic activity of a religious goods store. Yet he was still not settled. Moved initially by a sermon of Saint John of Avila, he one day engaged in a public beating of himself, begging mercy and wildly repenting for his past life.

 Committed to a mental hospital for these actions, John was visited by Saint John, who advised him to be more actively involved in tending to the needs of others rather than in enduring personal hardships. John gained peace of heart, and shortly after left the hospital to begin work among the poor.

 He established a house where he wisely tended to the needs of the sick poor, at first doing his own begging. But, excited by the saint’s great work and inspired by his devotion, many people began to back him up with money and provisions. Among them were the archbishop and marquis of Tarifa.

 Behind John’s outward acts of total concern and love for Christ’s sick poor was a deep interior prayer life which was reflected in his spirit of humility. These qualities attracted helpers who, 20 years after John’s death, formed the Brothers Hospitallers, now a worldwide religious order.

 John became ill after 10 years of service, but tried to disguise his ill health. He began to put the hospital’s administrative work into order and appointed a leader for his helpers. He died under the care of a spiritual friend and admirer, Lady Ana Ossorio.


『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ
 
三月八日 聖ヨハネ・ア・デオ修道者 (1495-1550年)
 
 聖人の中で、神のために冒険者となった人は多いのですが、幼い時から冒険者で、多くの探検を経た後、大人になって神の冒険者となった人が、今日の聖人ヨハネ・ア・デオ修道者です。
 
 ヨハネ・ア・デオはポルトガルに生まれました。八歳の時、家を出て隣国のスペインに行き、そこである地主の羊飼いとして雇われました。やがて地主の右腕になるまでに成長し、娘と結婚して後を継ぐよう頼まれましたが、冒険への誘惑に駆られてそこを逃げ出すと、軍隊に入りました。しかし、戦争で負傷し、おまけに管理を任されていた金を紛失して、泥棒扱いの上死刑を宣告されましたが、最後の瞬間に許されました。その後、オーストリアまで遠征して戦ったり、追放された哀れな家族に無給で仕えたり、アフリカに渡ったりもしました。彼はアフリカで殉教者になる希望を持っていましたが、自分から殉教を求めるのは誤りであるとある司祭から言われ、スベインに帰りました。
 
 いつでも熱心な良い信者であった彼は、いつしか仕事を通して神に仕えたいと考えるようになり、信心の本を担いで町や村を売り歩きました。四二歳の時、行商でグラナダという町に行き、そこで聖ヨハネ・デ・アヴィラという有名な司祭に出会ったのです。彼の説教を聞いて深く感動したヨハネは、教会の公衆の面前で大声で自分の罪の告白をし、神の哀れみを願うと叫び続けたのです。人びとは彼が発狂したものと誤解し、無理やり精神病院に押し込んだのでした。
 
 当時精神病院は牢獄と少しも変わらず、患者は鎖でつながれ、鞭打たれ、ひどい扱いを受けていました。彼はその体験から自分の道を悟りました。退院後一年ほどはその病院の手伝いをしましたが、そこを出ると薪を売って金をため、家を借りて、捨てられた病人を収容し、人びとが驚くほどの完備した管理のもとで手厚く看病しました。その評判はまたたく間に広がリ、多方面からの援助が増えていきました。しかし中には彼を疑うものもおり、ある侯爵の人などは、困っていると偽って、彼が持っている金のすべてを寄付させました。しかしヨハネの寛大さと神への信頼に自らを恥じた侯爵は、それ以後、いろいろと援助を与えました。彼の愛は自分の病院に収容した人に限らず、その地方のすべての貧しい人、失業者、未亡人、孤児、売春婦にまでも及びました。
 
 ある厳しい真冬、貧しい人びとのためにたき火をしようと、数人で流木を拾いに川へ行きました。仲間の一人が川に落ち、それを助けようと川に飛び込んだ彼は、それがもとで重い病気にかかってしまいました。小さな部屋で、毛布もなく、ただ古い外套だけをかぶって高熱にあえいでいる彼をみた貴族の婦人は、ヨハネが自分の命令に従うよう大司教に頼みました。そして自分の屋敷に連れ帰って手厚い看護をしましたが、病気は悪化する一方でした。市長をはじめ町の権威者たちは彼が亡くなる前に祝福を受けようと押しかけましたが、司祭でもない彼は、その申し出を断わりました。しかし人びとはなおも彼の祝福を願いました。臨終の時、十字架をいただきながら「イエズス、イエズス、あなたの御手に私を委ねます」と言って、この世を去りました。十二年前に発狂者として扱われた彼の葬儀は、前例のないほど壮大なものでした。
 
 それから数年後、彼の協力者から、病人、特に精神病患者の世話をする修道会が生まれ、病入のみじめな姿の中にキリストの姿を見いだす心を、全世界に広める会となりました。現在世界には、一九一の修道院があり、会員は一七二一人に及びます。会の施設と病院を合わせると一七七になり、一年間の病人数は約三二万八にのぼります。
 
 苦しむ人に対する愛の心を持つことができるよう、聖ヨハネ・ア・デオの取り次ぎを願って祈りましょう。

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『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ

三月七日 聖ペルペトゥアと聖フェリチタス殉教者記念 (-203年)

 三世紀のこの聖人たちの殉教の話は、非常に珍しい話です。それは死刑の寸前までの記録が、彼女ら自身の手で書き残されているからです。そして死刑そのものの記録は、目撃者によって書かれました。

 二〇三年、今の北アフリカのチュニジアにあたるカルタゴで、五人の求道者が逮捕されました。その一人は、子どもを産んだばかりの二二歳になる貴族の姑八ペルペトゥアであり、もう一人は、身重の奴隷フェリチタスで、残りは三人の男性でした。後日、五人をキリスト教に導いた伝道士のサトルスも自ら捕らえられ、同じところに監禁されました。

 ペルペトゥアの父ぱ、最愛の娘に信仰を捨てるように、説きましたが、彼女は「お父さま、あなたはその水がめを、水がめでないものとして呼ぶことができますか」と言い、父が「いや」と答えると、「私も同じです。私はキリスト者ですから、キリスト者でないと言うことはできません」と答えました。これを聞くやいなや、父はペルペトゥアに飛びかかりました。彼女は目をえぐられるのではないかと思いましたが、それ以上父は何もしませんでした。

 監禁されている間に五人の求道者は洗礼を受け、すぐ投獄されてしまいました。光り入らない暗い部屋はひどくむし暑く、それがどれほど恐ろしいことであったかをペルペトゥアは書き記しています。その後、生まれたばかりの我が子とともにいることが許されたので、牢獄も宮殿になったとも書き残しています。裁判の時、父は娘に対して、慎重なことばで棄教をすすめましたが、彼女は苦しみながらも「神の望みが行なわれるでしょう」とだけ答えました。あきらめきれなかった父は、なおも彼女に寄りそい離れようとしませんでしたので、兵隊たちから殴られました。彼女は「年老いた父が殴られるのを見て、私が殴られているような痛みを感じました」と、その時の辛さを書き残しています。

 判決は競技場で猛獣に食われるという非常にむごたらしいものでしたが、法律によって妊婦の処刑が禁じられていましたので、フェリチタスだけは残されるのではないかと心配しましたが、みなが祈ったからでしょうか、予定より早く出産し、その子は他の信者の子どもとして引き取られました。

 刑場につれ出された殉教者たちは、見物人が驚くほど、勇気と喜びに満ちていました。その態度に感嘆した牢番は、後に改宗してキリスト教信者となりました。男たちは熊と豹に食い殺され、ペルペトゥアとフェリチタスの二人の女性は、どう猛な雌牛に襲われました。群衆は出産後の婦人を哀れみましたが、刑は執行されたのです。刑場で平和の挨拶を交わした二人は、執行人の剣に何度も何度も突き刺され、最後はペルペトゥア自身、自分で剣先を正しい位置に突き刺して息絶えました。

 この求道者の熱心が、信者の私たちの刺激になるよう祈りましょう。