■今日の概念
各種の防衛機制
失策行為
夢の作業
置き換えと圧縮 などなど

■補足事項
今日は精神分析に関して、フロイト理論に焦点を当てて学習しました。
置き換えについてだけ、説明が舌足らずだったので、補足しておきます。
フロイト理論で置き換えは、現実のある要素が夢の中で他の要素に入れ替わることです。
参考までに、圧縮とは、現実にある二つの要素が夢の中で一つの要素に結合されて置き換わることでした。

テクストでは、現実の父が夢の中でローマの兵士に置き換わるとう事例が出てきました。
なぜ「父→ローマの兵士」という変換が置き換えなのでしょうか?
来週出てきますが、フロイトの「置き換え」をラカンは「換喩」と読み替えていきます。
フロイト理論の「置き換え」は、文字通り、あるものが他のものに置き換わること、取り換えられることです。
これに対してラカンは、ヤコブソンを援用して「置き換え」を「換喩」として、すなわち統語的な関係にある要素間の置き換えとしてとらえ直します。
統語とは文構造(SVOC)のことです。
例えば、「小学生はランドセルをしょっている」という文を想定して、主語である「小学生」を述語「ランドセル」で喩えるのが換喩です(テクストでは換喩を部分と全体の関係性で説明していましたが、これは厳密には「提喩(synecdoche)」)。

小学生は ランドセルを しょっている  → 小学生=ランドセル
(S)     (O)      (V)

メガネをかけている人をメガネと呼ぶのも換喩ですね。
辞書を引くと、換喩は「隣接性」で要素間を結ぶと出ていると思いますが、隣り合うとは文の統語関係にある要素同士の関係を指すと考えればわかりやすいでしょう(ちなみに「隠喩」は「類似性」で要素間を結ぶ)。
以下のような文を考えてください。

「父は厳格だ」(父=厳格)

「ローマの兵士は厳格だ」(ローマの兵士=厳格)

二つの文の述語「厳格だ」が共通しているので、父はローマの兵士に置き換わるのです。

■このブログの趣旨
早稲田大学文学研究科英文学専攻、都甲幸治ゼミ門下生による、自主的な文化理論研究会の記録です。
基本書として Barry, Peter. Beginning Theory: An Introduction to Literary and Cultural Theory. を用いて、毎週ゼミ後にリアルで行っている研究会「批評理論キャッチアップ勉強会」のウェブ版です。
ただ、逐語的な記録は大変なうえに面白くないので、要点や疑問点や補足事項を書くようにしています。
敢えて公開のブログにしたのは、文学・文化研究プロパーの院生や学部生で、批評理論(文学・文化の理論を指しています)を「眼の上のたんこぶ」のように思っている方にも読んでもらいたい、とのささやかな野心からです。

■「はやわかりろん」という名称について
文化理論の基礎を、効率よく、すなわち時間対効果が最大化されるように、習得することを趣旨としています。
「はやわかりろん」というブログの名称には、そのような趣旨をこめてあります。
しかし、理論を安易に理解できるなどと思い上がっているわけではありません。
かといって、難解であれば価値があるというような誤った衒学主義も不毛でしょう。
理論に限ったことではありませんが、知識を深める、自分の頭で理解する、つまり単に知っているのではなく、論文で使える道具にするには、相当の根気が必要です。
だから、この研究会の最終目的は、必要な理論を自分で読解して、論文に生かしていくための基礎体力をつけることです。
せめて理論の「はじめの一歩」をみんなで効率よく踏み出そうということですね。

以下のマルクスの言葉を、戒めと希望の意味を込めて引用しておきましょう。

学問をするのに簡単な道などない。だから、ただ学問の険しい山を登る苦労をいとわないものだけが、輝ける絶頂を極める希望をもつのだ。(『資本論』)
■今日の概念
正当化/脱正当化
抗争
大きな物語/小さな物語
など

■忘れないうちに、リオタールの言うモダンとポストモダンにおける知のステータス(身分・状態)の違いを整理しておきます。

[モダン]
   
   知
   ↑
   ↑正当化
   ↑
「大きな物語」(啓蒙=解放の物語、思弁=哲学の物語)

[ポストモダン]

   知(言語ゲーム)
   ↑
   ↑
   ↑
  規則

モダンにおいては、啓蒙やら思弁といった「大きな物語」が知を正当化する機能を担っていました。
しかし、啓蒙、すなわち合理的理性の力で世界はより良くなるという発想は、アウシュビッツ以降、疑問視されるようになります。
というのも、合理的理性を信奉して社会を発展させた結果、あのような惨禍を招いたという反省を生んだからです。
補足すると、アドルノやホルクハイマーといったフランクフルト学派第一世代は、ほんらい目的を作り出す理性が目的に盲目的に奉仕する手段=道具となり果てたとして、そうした堕落した理性を「道具的理性」と呼んで批判しました。

リオタールの理性観はフランクフルト学派第一世代の理性観と似ています。
理性に対して極めて懐疑主義的なのです。
啓蒙も思弁もその正当化の機能を喪失し、いまや一つの物語、言語ゲームに過ぎなくなったと言うのですから。
つまり、理性によって真理や良きことに到達するといった基本前提がもは疑わしくなってしまったのです。
そしてリオタールは、いかなる言説も、普遍性を主張しえず、ルールを共有する共同体の内部においてのみ、その正しさは正当化されるに過ぎないとします。
注意したいのは、正しいものが廃絶されたと彼が主張しているのではなく、誤解を恐れず言えば、正しいものはそれを信じる者達の内部でしか正しくないと言っていることです。
そうしたルールを持つ言語ゲーム=小さな物語の併存を、彼は「争異」「抗争」(differend)と呼びます。

抗争が大事なのは、今考えると、「抗争」が多文化主義的なポリティクスのモデルと見える点です。
多文化主義とは、文学でいえばキャノンに表象されるような、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)中心の文化規範ではなくて、例えば黒人、チカーノ、日系人、中国系等の文化マイノリティは相互に価値の優劣をつけられない独自の文化規範を持つのだから、それぞれの民族的な文化が平等に尊重されるべきだとする主張です(多文化主義にもいろいろ問題がありますが、それはまたの機会で)。
つまり、脱中心的な、文化相対主義的なポリティクスの先駆けとなっている点で重要なのです。