■今日の概念
正当化/脱正当化
抗争
大きな物語/小さな物語
など

■忘れないうちに、リオタールの言うモダンとポストモダンにおける知のステータス(身分・状態)の違いを整理しておきます。

[モダン]
   
   知
   ↑
   ↑正当化
   ↑
「大きな物語」(啓蒙=解放の物語、思弁=哲学の物語)

[ポストモダン]

   知(言語ゲーム)
   ↑
   ↑
   ↑
  規則

モダンにおいては、啓蒙やら思弁といった「大きな物語」が知を正当化する機能を担っていました。
しかし、啓蒙、すなわち合理的理性の力で世界はより良くなるという発想は、アウシュビッツ以降、疑問視されるようになります。
というのも、合理的理性を信奉して社会を発展させた結果、あのような惨禍を招いたという反省を生んだからです。
補足すると、アドルノやホルクハイマーといったフランクフルト学派第一世代は、ほんらい目的を作り出す理性が目的に盲目的に奉仕する手段=道具となり果てたとして、そうした堕落した理性を「道具的理性」と呼んで批判しました。

リオタールの理性観はフランクフルト学派第一世代の理性観と似ています。
理性に対して極めて懐疑主義的なのです。
啓蒙も思弁もその正当化の機能を喪失し、いまや一つの物語、言語ゲームに過ぎなくなったと言うのですから。
つまり、理性によって真理や良きことに到達するといった基本前提がもは疑わしくなってしまったのです。
そしてリオタールは、いかなる言説も、普遍性を主張しえず、ルールを共有する共同体の内部においてのみ、その正しさは正当化されるに過ぎないとします。
注意したいのは、正しいものが廃絶されたと彼が主張しているのではなく、誤解を恐れず言えば、正しいものはそれを信じる者達の内部でしか正しくないと言っていることです。
そうしたルールを持つ言語ゲーム=小さな物語の併存を、彼は「争異」「抗争」(differend)と呼びます。

抗争が大事なのは、今考えると、「抗争」が多文化主義的なポリティクスのモデルと見える点です。
多文化主義とは、文学でいえばキャノンに表象されるような、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)中心の文化規範ではなくて、例えば黒人、チカーノ、日系人、中国系等の文化マイノリティは相互に価値の優劣をつけられない独自の文化規範を持つのだから、それぞれの民族的な文化が平等に尊重されるべきだとする主張です(多文化主義にもいろいろ問題がありますが、それはまたの機会で)。
つまり、脱中心的な、文化相対主義的なポリティクスの先駆けとなっている点で重要なのです。