来年の春をデザインする
不精なガーデナーの私であるが、先日チューリップの球根の植え付けをした。
チューリップの球根の種類の多いことは毎年驚くばかりだが、多種多様な花の球根が並ぶ園芸店から、適当に球根を買いこんでは去年の球根と適当に混ぜて植えつけるのである。
チューリップは、植えたら後は半年くらいほったらかしなので、無精者向きでもある上、地植えでは何年も、植えっぱなしのほったらかしもあって、なお良い。
なんだかんだで五十球くらいの球根を植えるのだが、来年の春に花が咲きそろった様子を想像しながら球根を配置していく作業は、まさに来年の春の眺めをデザインすることにほかならない。
来年の春をデザインする? 私が春をつくる? そうか、私は春の妖精というわけか~。
(春の妖精は男ぢゃないのでは?、という疑問はおいといて
自分で言っておいて、気分が悪くなった)
秋深まる
知らないうちに秋はその半ばをすぎつつあって、やがて冬が忍び寄ってくる。
何が苦手といって、寒さほど苦手のことはないので、秋のうちにやり残したことはなかったかと、焦りにも似た感慨でいっぱいになる私。
写真の野ブドウも秋も後半の点景としてきれいだけれど、食用ではなくて湿布薬になど使うのではなかったかな。このドングリも丸くて太ってってかわいいのだけれど、アクが強くて食用には今ひとつと聞いたことがあるな。
なんか結局食えるかどうかに関心の行く私。
人は食い物だからこそ強い関心を持って、よく観察する、とも言えるのだけれど。
食欲の秋は、いまだ終わらず。
シーズンオフ
今朝、新聞のスポーツ面は閑散として、競技のオフの話題が中心である。
マリナーズの長谷川投手の退団が決まったこと、イチローの5年連続ゴールドグラブ賞の受賞、ソフトバンクの城島保守のメジャー挑戦のこと、西武ライオンズの松坂投手のメジャー行きの断念のこと、去就の注目されるヤンキースの松井が米マスコミの高評価を得ていること、もちろん日本の野球の秋季キャンプや楽天のTBS株取得によるコミッショナー会議での懲罰問題などというものもある。
秋季キャンプなんて、出来の悪い生徒の居残り補習授業みたいなものに興味はないが、
こうして記事を眺めていると、「オフの野球の見方」というものがあるとしたら、少し前とは微妙に変わってきたとようにも感じる。以前は良くも悪くも日本的ムラ社会で、記事や読者の主な観点も、選手や監督にサラリーマン的「組織の中の哀感を共有」するようなものだった。
不合理な人事にも、オフもトレーニングもみんな一緒の集団行動にも、上役の薄っぺらな話にも、組織に生きる者として諾々と従い、はみ出しものはバッシング。
それが今は、監督や選手への共感や憧れよりも、オーナーや球団経営者としての視線から選手の要不要、論功行賞、さらには今後の球団のあり方に注目するように変わってきたようだ。
これもまた、社会(会社)と個人の関係が変わりつつある時代の小さな反映ではあるな。
イタリアン・ランチ・デリバリーです
休日に会社の事務所に出かけて仕事をしていたときのこと。
平日に比べると、格段に人も少なく空気もゆるいオフィスの中は、いつもの休日出勤とはいえ、まるで倒産の憂き目にあった会社のような眺めである。
その日もぼちぼち仕事をこなすうちに昼も過ぎて、今日はどこに昼飯に行こうかと話していると、受付から電話がきた。
電話の向うのお兄ちゃん曰く、「イタメシの配達です。」
「イタメシ? イタ飯の配達? おい、誰か出前頼んだ?」
・・・ところが誰も心当たりがない。
お兄ちゃんは届け先に絶対間違いはないというし、いったいなんだろう、食ってしまっていいんだろうか、といぶかしく思いながらも1Fの受付(休日なので裏)まで降りてみると、そこにはなんと・・・
山のような板目紙(いためがみ)が届いていた。
もちろん、板目紙は文書の綴り込みに使う固いボール紙であるので
食えるはずはない。
休日だから当然庶務の担当もおらず、
わたしたちはすきっ腹と大量のボール紙を抱えて途方にくれたのだった。
最近はイタ飯という言い方がなくなったのは、実はこのような取り違えが
頻繁にあちこちで起きたて、苦情が相次いだためなのである。
それはともかく、誰も信じてくれないけど、休日の会社でおきた本当の話である。
温泉旅館のお土産売り場
これはツボ押しに使う卵の形状をした石、単なる石である。温泉土産で300円也。
われながらよくもまあ頻繁につまらないものを買うものだ。
単に私が子供っぽいのか、温泉旅館という日常からの開放感のなせるわざなのか、
たぶん両方なのだろうけれど。
宿屋のあまり高級感のない、どちらかというとわびしさといじましさを感じさせる
お土産コーナーには、たいしたものはないとわかっていながらもなにか
心惹かれるものがあって、一通り眺め回して手にとってひっくり返しては
何がしか買わずにはおられない。
これでは駄菓子屋にたむろしては、たわいもないおもちゃや駄菓子を買う
子供と同じではないか。
でも温泉旅館のお土産売り場で童心に返れるというのならば、そこは
脱日常の幸福感を得られる「霊験あらたかなスポット」である。
(温泉卵石は実はとても気に入っている)
酒と読書と男と女
本日の酒は以前liu
さんにきいた「獺祭」(だっさい)でした。
ふむふむ、山口の酒なのですね。獺祭(だっさい)とは字のとおりカワウソの祭りのことなのでしょうけれど、たしか正岡子規の東京における居宅(借家)も「獺祭庵」と称していたような気がします。
獺は捕まえた魚をお供えのように積み上げる様が、お祭りのようなので、乱雑に書物を積み上げた、子規の書斎の様子からそう名づけたのではなかったでしょうか。
liuさんにこの酒の事を聞いてだいぶ時間が経ってしまいましたが、これも、酒が、本と同様、星の数ほど種類があるためでもあります。デパートの酒売り場を眺めて、いつも思うのですが、一生に読める本がいくらもないように、生涯に飲める酒もまたいくらもありませんね。
ただ、ネタの仕入れや資料調査としてなら、本も酒もかなりの数に出合えるでしょうが、数だけをこなすのが目的でなく、要は自分をいかに耕し、何を考えたかなので、数を嘆いても仕方ありませんけれど。
問題は数ではなくて ひとつひとつの出会いの深さなのだというのは、
本も酒も、人の恋愛と同じということでしょうか。
トカゲと散歩
我が家の住人のトカゲ嬢です。なかなかの美人ですね。
トカゲと美人を結びつけるのも妙といえば妙ですけれど、トカゲのイメージの形成に江戸川乱歩の小説『黒蜥蜴』あたりが影響を及ぼしているのかもしれません。もっとも内容は全く覚えていないのでありますけれど。おそらく妖艶な美女が出てきて奇怪な事件が進展したのでありましょうか。
もっともトカゲのいる風景って、なんとものどかなものです。ぽかぽかと日が照ってコンクリートの上で昼寝をしていたり、ちょろちょろ移動していたり。悪役は似合いません。だいたい一般的にトカゲは人気キャラクターらしくて、子供向けの本のコーナーでもトカゲキャラの登場するトカゲの絵本や写真集をよく見かけます。そういえば私の子供のころも、トカゲは尻尾切って逃亡するという自割の一芸ゆえに、親しみと畏敬を持って接する特別な存在でしたね。
(人気のトカゲキャラクターの例 byアランジアロンゾ)
ヤモリと酒盛りをする方法
わが家の天井に張り付いたヤモリ。振り向いてカメラ目線をくれた。
なんともカワイイ。
家の中を当然のようにのし歩いていてどちらかというと歓迎されているやつ。
庭のトカゲやダンゴムシなどとともにわが家の住人として認知されている。
ヤモリに親しみを感じるのはなぜだろうと、じっと見つめ合っていると、住人として認知以前に、彼もわれもこの世界の同じ全体の一部というような気分になってくる。呼吸ひとつとっても、外の空気は息として取り込めばわたしたちの一部となり、吐き出せば外の物となって循環するように、私たちはこの世界を構成する全体の一部としてある。
物質的には共通の「物」であるとしたら、心や精神的なものがかけ声と看板だけのものになっている現代で、彼ら自然のものと我の差異を際だたせる物は、経済的活動をするかどうかというだけなのだろうかな。
こんなことを一瞬のうちに想起させるヤモリ君、なかなか哲学者じゃないか。
ヤモリでなかったら一緒に一杯やりたいところだ。
ふむ、親切にしておけば、あとで人間の女にでもなって訪ねてくるかも知れないな、と思ってみたけれどヤモリに親切って、いったい何をすれば・・・?などと思考がアホの側に傾いたら、ヤモリ君、スタコラどこかへ行ってしまっていたのでありました。
サムライのトランペット
久々にCDを買って聞いていておりました。
前衛的で日本的な印象のトランペット演奏。
国内版は出ていないようで、アメリカ発売のCDで入手。
アルファベット表記された曲のタイトルの「Ungetsu」とか「hukotsu」に
・・ああ「雲月」か、「風骨」か、と漢字表記当てはめて想像し確認する作業が、
このCDの曲を聴いてその印象をとらえる作業と妙に似ています。
まさにこのCDはアルファベットで表記された漢語の如く、
トランペットで描かれた山水画のようです。
この演奏者、NHK時代劇の「秘太刀馬の骨」の音楽を担当していたので、私も興味を持ったのですが、なんとも予想を裏切る演奏スタイルに驚きました。
好き嫌いは分かれるでしょうが、このところ朝晩雑踏を眺めながら聞いております。
拙者やはり江戸時代なら武士であったであろうな。
たぶん30石取りくらいの下級武士。
万世節イブ
ハローウィーンは日本ではあまり定着していない。
そもそも文化的背景がないのに、商業的魂胆だけが先行しているようで
ハローウィーンを流行らせようとするたくらみにはなにかイヤらしいものを感じる。
それでも、ここ数年わけもわからずジワジワと店頭のディスプレイや
飾り付けの用具が商品化されて並んでいるのを見かけるようになってきた。
なんでも商売の種にせねば済まない、市場主義の徹底と、
他に楽しいことも明るい見通しも増えない世の中だから、
この際便乗してしまおうという、空気のためである。
ではハローウィーンをもっと本格的に流行らせるためにはどうしたらよいか。
これまでの第一次商売ネタ先行は、ご存じの通り失敗している。
バレンタインの便乗告白のような、みんながノレル理屈がなかったためである。
もしやるのなら「クリスマス方式」だろうか。
キリストは夏生まれといわれているから、12月25日は何も元からキリ君の
誕生日だったわけではない。一説には冬至前後にローマのお祭り期間があったためと
されているので、明治頃のクリスマスの和訳は「洋冬至」である。
またサンタクロースも、歳末のどさくさに本地垂迹されて日本的宗教観のなかに
取り込まれて定着している。
これに習えば、ハローウィーンは死んだ人が戻ってくるのだから、
「西洋盆」とか「洋盂蘭盆」とかになるのかな。
となると期待は「死霊の盆踊り」(エド・ウッドの迷作映画)かな。
映画自体はハローウィーンとはあんまり関係ないけど、
ハローウィンには「西洋盆踊り」と銘打った「裸踊りをセット」にしたら、
こりゃあ盛り上がって定着するかも知れぬ。
私は日本のハローウィンなんてどうでもいいけど。
(注:蛇足ながら映画「死霊の盆踊り」とは、ジャングルで遭難した男女が
次々に現れる死霊(若い女)の裸踊りを見せられるシーンが二時間も続くだけ
という、評価の難しい作品)







