酒とホラの日々。 -66ページ目

暮明の洪水   

タイの街中にしばらく逗留したときのこと、いく度か洪水に見舞われた。
だが、かの地の洪水は家や家財が流出してしまうような激しいものでなく
ゆるゆると水かさの増した川がゆるゆると街中に浸入してきては
道や店先を水浸しにしてしまうだけなので、

いつも人のくるぶしやすねを水に浸した以上の被害らしいものは
どこにも見受けられないのだった。

こんな水浸しの町で、ある日の夕方のこと、
サンダルをはいて道を歩くうちに日が暮れて、
地平に没した太陽の残光による薄明があたりを包んだ。
暮れ明かりに天然の間接照明となった光は、行き場を
決めかねるように町の中にゆるゆると滞留して行き惑う。

こんな指向性を失った光の訪れる時間帯は、マジックアワー
呼ばれ、光を追う写真家と予期せぬ魔物が活発に行き交う。
まさに逢魔が時である。

だがその日、突如水鏡の上に薄明に包まれた寺院や建物が出現した有様は
本当に魔物の仕業のようで、私は連れに
「知ってるか、この町は千年に一度だけ水の中から一晩だけ姿を現すんだ。」
話さずにはいられなかった。

連れは、笑みを浮かべて私の胸に指を当て、「ニルス・・・」と言っただけだった。

ニルスの不思議な旅

『ニルスの不思議な旅』 ラーゲルレーブ / 偕成社文庫


子供のころ一度は誰しも一度は何らかの形で触れたことはあるだろう。

この話の私が好きな場面は、ヴィスヴィの浜辺の夜の出来事。

かつて海の底に沈んだ都が、百年に一度きっかり一時間だけ地上に姿を現して、

外から来た生きている者が何がしか買い物をすれば、都は再びずっと地上に戻る

ことができるのだが、無一文のニルスが銅貨を拾いに浜に戻るうちに、

町はまた百年の彼方へと地上から姿を消してしまう。

雨降る晩には

しとしと雨降るさびしい晩に、私がいつも思い出すのは
昔々、山の中の一軒家での、じいさんとばあさんの話。
暗闇に降る雨を眺めていると、ひとりでに頭の中に会話が流れ出す。

  「この世で一番怖いのは、なんじゃ?」
  「それはふるやのもりだ。ふるやのもりほど怖いもんはない」

  じいさんばあさんの家に潜んだ
  どろぼうも狼も芯から震え上がらせるほど
  怖い怖いふるやのもりとはいったい・・・

本当のふるやのもりの怖さを知らない私は、
頭の中で昔の絵本の記憶をなぞって
山の中の暴走に近い物語の展開が始まる前に布団にもぐりこむ。

雨降る晩は、早い時間に明かりを消して
闇と雨音に抱かれて眠る。


子供のころ布団で絵本を読んでもらった幸福感を
思い出すのも雨の晩の効用かもしれないな。


ふるやのもり

定点撮影

ふたごの木

『ふたごのき』 写真 姉崎 一馬 ・ 文 谷川 俊太郎  / 偕成社


丘の上に寄り添って立つニレの木を、
通り過ぎる季節の中、定点撮影した美しい写真絵本

絵本には、二本のニレを姉弟に見立てた文もついていて、
人の一生を超えてずっと、丘に立ち続ける樹木の会話が、
私たちもまたこの広い空間と時間の点景に過ぎないことを
思い出させてくれる。

ここでも使われた定点撮影の技法は、
ただ同じ位置から時間をずらして撮影を重ねていくわけだが
言葉では簡単なようで、自然の風景相手となるとこれがなかなか大変だ。
私も木を含む風景の撮影を試みたことがあるが、晴れた日降った日、
プロでないので制約も多く、たまたま定点にカメラを据えたときが
写真の絶好機になるとは限らない。自分の描いたフォトジェニックビジョンと
映像の落差が大きくて無駄になることも多い、なかなか根気の要る作業だった。

それでもカメラの後ろで四苦八苦してレンズを覗くことを繰り返すうちに、
いつも木のほうが私を覗き込んでいるような奇妙な感覚を覚えたが、
動かぬ樹木こそ、移ろい行く世界の優れた定点観察者だったのだと

あとから気がついた。

大人の楽しみと辞書

成人向けの書籍が入手し難かった中学生のころ、

辞書でソノ手の言葉を次々に引いては読むことで、

これに代わる慰めを見出した経験を持つ方もきっと多いことだろう。
そうした意味からも、辞書は学習の基本である。
(こんなことまじめに書くな>拙者)

拙者はもちろんすでに、成人後だいぶ経つので、大人の慰めを求めるのに
世間体さえ気にしなければ特に障害はないのだが、
なぜか今もって辞書を読むのは好きで、
時折要りもしないような新しい辞書を買ってくる。

もちろん、大人の楽しみといっても後ろめたいことではなくて
真っ当に知的快楽のため辞書を読み楽しむのである。

最近入手して驚いたのがこの辞典
「アメリカ・ウエスタン辞典」
ウエスタン辞典
西部開拓史・西部劇のためのような辞典である。
もっとも拙者は西部劇には興味はなくて、いったい何の役に立つのかと
思って見たのだが、なんとこの面白いこと。

たとえば「OK牧場の決闘」は、・・・ワイアット・アープ兄弟たちが町を無法者から救ったのか、単なる殺人なのか明らかでない。ワイアット・アープがシェリフの職が欲しくて、その機会を狙っていたとき、アイク・クラントンが挑発に乗ったのではないかと考えられる。決して勧善懲悪ではなかった。


ジェロニモは・・・、ワイルド・ビル・ヒコックは・・・、次から次へと飽きることがない。

映画や小説による自分の知識と、史実との対比ができるのが面白いのだが、西部劇ファンでもない拙者が、西部開拓史上の事件や人物のよく知っていることに何より驚いた。出てくる言葉の大半はどこかで見聞きしたことばかりなのである。


日本って、アメリカ文化の流入を受けていること、ものすごいものがあるのだな。

それにしても、こんな辞典出すって、研究社恐るべし。


え?大人の慰めはどうしたって? 拙者は大人だから別に辞典に慰めてもらわなくてもいいのだが、この本は単なる読み物としても超オススメ。

朝の挨拶  あるいは酒飲みの朝の歌


夜半から降り出した雨は、風を伴って夜通し窓を叩いていたのだが、
夜が明ける頃までにはおさまって、朝になって窓を開けると、
雲の切れ間から射し込む朝日が、木々の間を埋めるように
地面を朱色に染めていた。

小鳥たちは夜通しの横なぶりの雨で、どこかに退避するのも難儀なことだったろうが、
すでにいつもと変わらず元気にあたりを飛び回っていた。
まるで夕べのことなど忘れたかのように、今夜の寝床や明日の木の実の
心配も気にかけるそぶりもみせず。

私も今はただ、ここにある静謐と朝の空気に包まれていたい、と切実に思った。

・・・なぜなら二日酔の朝の出勤はひどく億劫なものだからである。(自爆)


今しばらくこの朝の空気に留まりたいとは願うのだが、決して反省はしない。
だって、今夜も酒盛りなんだから。

都市部の自然


冷えだした町を高架の上から毎朝眺めていると
冬に向かって町の色が微妙に変化していることがわかる。
飾り付け、人の服、乾いてくる空気、低く巡回する太陽、
様々な要素が混ざり合って、冷えだした町じゅうを
しだいに冬の色に染めていくのである。

都内の、ビルと車と空宙の塵芥に淡くくすんだ眺めは、
郊外の澄んだ空気のコントラストがはっきりした濃い色彩とは

決定的に異なる。
こんな景色の基調となる色だけでも、私たちは澄んだ空気に無縁の
世界で呼吸していることがわかる。

中にはこうした事実をもって、都市には自然がないと言う人もいるが、
それは正確ではない。


たしかに都市の自然は郊外と同じではなく、いかに大公園といっても
都市部の森や草木の息づかいは、郊外のそれとは決定的に違う。
誰しも感じることだが、たとえば木の匂いが薄いのである。


しかし都市では自然を感じないというわけではなく、都市には都市なりの
自然感というものがあるだけだ。

先を急ぐ人群れの足取り、
道路に長く伸びたビル群の影、
休日の物流拠点のヒトケのない倉庫の森、
中空の微粒子を通してアスファルトを照らす朝日の色、
これがすべて都市の自然景観である。

童心ダッシュ

散歩の途中、ある神社の境内を通り抜けようとしましたら、ちょうど中学生の運動部が石段登りのトレーニング中で、二人ずつ同時に階段を競争のように駆け上がっておりました。
そこの神社は百段余の急な細い石段があり、ステンレスの手すりが真中を分け、ちょうど二人並んで登るには都合よくできているのです。

全体を仕切るスタートの合図をする中学生が私を見止めて、このトレーニングを一時中断してくれようとしたのですが、私はそれは申し訳ないとも思いましたので、順番を待つ中学生の列に、私も入れてもらうことにしました。

「オレも入れろ。 一番速いのは誰だ?」

おおーっと歓声が上がり、よく日に焼けた生意気そうなのが私の相手をしてくれることになりました。まさか負けることはないと思いましたが、念のため、列の最後尾に入り、足に酸素を溜め込むようなつもりで軽くアップして順番を待ちました。

それでもよくすぐに受け入れてくれたものです。インディージョーンズみたいな
帽子をかぶり、無精ひげ生やして、ダブダブした上着とズボン(これが私の普段の
スタイルである。当世流行の細身の服は入らないのである。)で、階段ダッシュ
する光景は妙なことだったでしょう。

結果はどうだったか? 当然、拙者のぶっちぎりの圧勝であります。

「どーだー!」 ぜー、ぜー、
「ダテに筋肉ついてないぞー」ゼー、ゼー、

「もう一回、もう一回お願いします!」「お願いしまーす!」

「あ?、いや、また今度な、わ、私は用があるから」ゼー、ゼー、
「みんな、練習はしっかりやって、怪我しないように!」ゼー、ゼー
中学生らの「スゲー、速えー」という賞賛の声を背に、私は悠然と(ゼーゼー)立去ったので
ありました。

一瞬童心に返ったものの、回復力がなー、二本目の勝負は三日後以降にしてもらわないと。。。

・・・瞬発力勝負の筋肉はダテでない以上に、

内臓デブと内からの老化はもっとダテでないようで。。。トホホ。

秋深くの奥州土産

秋の果ても秋冬の境にも出会えませんでしたけれど、天候にもまずまず恵まれて、秋の奥深いところと酔いの深いところを堪能してまいりました。

まだまだ暖かいようでも、木も草も人も、いたるところで冬支度が確実に進んでおりました。


ナナカマドの実
真っ赤に色づいたナナカマドの実。


土壁

土壁に影を映す、残った柿の実は鳥たちのえさになる。


冬を待つ葉

地面に張り付いた草は、やがて雪の下で冬を越す。


大根干し

干した大根はたくあんになるのか。
冬の味覚の「凍み大根」の鍋で一杯やるのを思い出して食の記憶が腹に沁みる。


結局食い物の話に行き着く拙者であった。


後悔も朝のうちだけ酒の果て

うーむ、またしても飲みすぎてしまった。
二日酔もそう悪いものではないと強がっても
やはり朝飯も食えないのは面白くない。

だが、こういうときには古来より人類の知恵は「迎え酒」
英語ではたしか「a hair of the dog」
中国ではなんというのか知らないが、頭に浮かんだのは 
  酒伴、来たりて相命ず
  樽を開きて酲を解かんと
(飲み友達がやって来て、二日酔に迎え酒と言う風情。
「酲を解く」は酒飲みにはおなじみの言い回しである)
人類は昔から二日酔に悩んでやることは同じだったのだ。

今の私ならさしずめ
 『酒飲みは振り返らずに迎え酒』
飲んでしまったものは仕方がない。常に前向きな酒飲みでありたい・・・

でもそう言う問題じゃないな。
体をいたわって、と言うか、迎え酒は
将来ジジイになったときにとっておくことにしようかな。
どうせ酒が抜けたらまた飲むんだし。
で、タイトルにも書いた『後悔も朝のうちだけ酒の果て』

う、うう気持ち悪い。。。

野あざみのひとつ倒れて秋の果て


しぐれ空で急に雨雲の端に出会うように、秋の果てを眺望したいと思い、
本日より列車に乗ってしばし旅行です。

以前やはり11月に旅行に出かけた際にも、列車で渋い秋色に染まった木立を抜けると、
時雨の上がったばかりの野原が、晩秋の微光にただ静かに明るく照らされておりました。


乱れた黒雲と明るい野原の冷たいコントラストに
そうか、ここが秋の終息地なのだと、そのときの私は納得したものです。

木も草も、外に広がる力を競うかのようだった夏の繁茂は、嘘のようにおさまって、
外に向かう勢いの代わりに、内へ向かう力を感じるがこの時期。
この季節の移ろいに連れ、わたしたちも外見的物質的なものから、
見えないけれども確かなものを省みずにはおれません。
それゆえ秋から冬は、内省的なあるいは哲学的な季節であるといえます。

そんな内向する力は植物においては春への備えであり、
人間においては自分の奥深くへ目を向けることなのでしょう。
それゆえ人は、秋に限りない感傷を覚えるのかもしれません。


こうして秋の旅に思いをめぐらしていると、訪問先の秋の果ての仲間よりメールが来ましたが、
それは秋の果ての大酒盛りの準備を知らせるものでありました。
どうせ秋の果てなんて、放っておいてもいずれ向うからやってくるのだから

まずは飲もうというわけでもありますね。

うーむ、おかげでこの時期、去年もおととしも大酒喰らって
早い時間に沈没したことを思い出してしまいまったわい、
よくも感傷的で哲学的な気分を台無しにしてくれたものであるな。

秋の果ての光景には出会ってみたいものですが、
酒の果ての醜態には出会いたくないものです。。。