脱★根暗宣言 -16ページ目

アーティスト

法事でした。

定期的にご先祖様を思い出す事は

それだけでも意味があるなって思った。

ぶっちゃけお経聴くのも、正座で足がしびれるのも、

辛くて嫌なんだけど、

自分が生まれてきた元をたどって

生かされている事を感じるいい機会になる。

いい文化なのかも。




そのあと友人の出演していたダンスコンテストに。

表現する事は本当に簡単そうで難しい。

伝える事って、そう簡単に出来ない。

伝えてる「つもり」に陥ってしまえば、

それはとても独りよがりなものになってしまう。

エネルギーを発するよりも

エネルギーを奪う物になってしまう。





やっぱりなにがなんでも貫けばいいってもんじゃないなー。

ただただ変なことをするのは誰にだって出来る。

でもそれが一つの表現方法として

お客さんの感覚に訴えるものとして確立するためには、

それなりに自分を客観的に観察して

試行錯誤をこらさなければならない。

そういう中で、

メッセージのエッセンスが生まれたり、

凝縮されたり、

よりハッキリとした形で扱えるようになる。




そこにたどり着くためにはやっぱり

傷ついてでも、

批判を受けたり、自己批判をしたり、

そういう反省する機会が絶対的に必要なんだろうな。

後輩の公演の過程を見ていてもそう思った。

やっぱり妥協すれば

それはお客さんに伝わってしまう。

「私はこれやりたいんだから、いいでしょ。個人の自由でしょ。」

そういう姿勢のパフォーマンスは

個人的にあまり好きになれない。




伝えるパワーってどこから湧いてくるんだろう。

例え実際に芸術活動に関係していないとしても、

それを探究する人は、誰でもアーティストなんじゃないだろうか。

迷いのない人生

昨日のエントリーについて色々考えていて、

色々とまた考えが巡った。

やっぱり難しいのは

どこまで大人が介入するかと

どこまで大人が見守るかのバランスなのかな。




今回のは大学生の話だから

もうかなり自立した状態を前提としているけれど、

中等教育の現場では

生徒はまだまだ人格形成のまっただ中なわけだし、

知識も経験も相対的に少ないのが事実。

そんな中で大人側/教師側の役割はどうなるんだろう。




大人の意見を表明する事とはどういうことなんだろう。

押し付ける事との違うってなんなんだろう。

小さい子どもには何が何でも熱々のアイロンには近づけさせない。

どれだけ大人が「触ってはダメよ」

と、大人の経験上の意見をいったとしても

子どもはよくわからないまま興味で触ろうとしてしまう。

それを大人は力づくでも引き離すだろう。




それは年齢の問題なんだろうか。

一体子どもはどれほどの判断力をもっているのだろうか。

命の危険にさらされる場合は許されるのだろうか。

大人は子どもを守ろうとする。

でも過保護になってしまえば

守ってくれる人がいなくなった時に無力である。

大人と子どもの信頼関係は

そう簡単に築かれるものでもない。




やっぱり試行錯誤の中で見いだしていくしか無いんだろうな。

きっと個人差が激しいだろうから、

一人一人サポートの仕方も違うんだろう。

大人が方向を示さなければ見えない物もある。

でも大人には示せないなにかもある。

「これがいい!」って思った物をひたすらするだけじゃなくて、

してみてどうなったかを振り返ったり、

反省点を見つける事はやっぱり大切だなーと思う。

昨日も日記を書いて、

自分の考えをはっきりと示してみたからこそ

今日のこの思考も生まれた。




改めて思うのは、

こうやって振り返ることの出来る余裕を

いかに自分でつくれるかということの重要性。

余裕があるからいいというわけではない。

余裕が無いからこそ生まれるものもあるし、

むしろ私はいつもギリギリ生活だから

その良さもそれとなく実感としてある。

でも余裕が無い時は余裕が無い自分に気づいてあげたい。

それもやっぱりある程度の余裕がないとだめかな。

あーまとまらない!!

でもそれはそれで正解かな。

迷いの無い人生は

どこかやっぱり味気ないと感じてしまうから。

大人と子ども

後輩のダンス公演を見てきた。

今日が楽日で、その一瞬一瞬に2ヶ月間の努力が詰まっていて、

とても勇気づけられたし、

私も頑張らなきゃなって気持ちになった。

恐怖の教育実習も

きっと辛い事沢山あるだろうけど、

とにかく出来る事を最大限にやるしかない。

そんな気持ちにさせてくれた。




例えダンスがそこまで上手くなくても、

例え何もかも完璧に整えられてなくても、

上手くなろうと一生懸命努力したその姿勢とか、

なんども失敗して、

諦めそうになっても最後までやり遂げたその底力に

胸を打たれる。





結局私が見ているのは

技術力とか、見せ方の上手さとか、

もちろんそういうのもとても大切だけど

小手先ではどうにもならない

いかにその事に取り組んだかっていう

姿勢の現れであるオーラであったりするんだろう。





「上手く見える」

とか

「それっぽく見える」

とかじゃなくて

その人がその空間に存在する事そのものに

意味があるっていう空気が

好きだ。





良い笑顔であり、良い涙。

本当に若い人は凄い。

大人の支えなんて本当はそんなにいらないんだろう。

というかむしろ大人は若者のパワーを奪い過ぎだろう。

私は「大人」という訳ではないけど、

今回の公演に関しては「見る側」であった訳で

主役である後輩達にどうやって接したら良いのか

凄く凄く悩んだ。





私は社会人の人達や就活生に比べたら暇人だったし、

通し練習の時には毎回お邪魔させてもらった。

先輩は毎回終わった後に一人ずつコメントを言う制度になっていて、

その後個別のジャンルにダメ出しを行うのが習慣。

でも私の言う事がこの子達を潰してしまったらどうしようって

いつも不安で仕方が無かった。

古い考えを変に押し付ける事になって

せっかくの新しいアイディアや

皆が自分達で精一杯作り出した産物を

先輩達がこねくり回して、異物に変えてしまうのではないかって。





きっとそんな他人に着せられた服を来て舞台に立つなんて

例えどれだけ完成度が高くなったとしても、

どれだけ先輩受けがよくなったとしても、

自分たちで納得いかないだろうから。





大人は良く「あなたのため」と言って

自分の意見を押し付ける。

「こうしておけば間違いないから」

そういって私達の失敗する機会を奪っていく。

失敗から自分自身で学ばなければ

私達は常に外部から押し付けられた価値観の中で

窮屈に生きていかなければならない。





「間違いないって言ったじゃない」

あなたがそういったからこうしたのに。

そうやって他人のせいにするしかなくなってしまうんだ。

大人達はそこまで全て責任とるつもりでいるんだろうか。

子ども達をいつまでもゆりかごの中に閉じ込めるんだろうか。





支える事と、

染める事は違う。





今の大人のようになれば良いんじゃない。

自分がなりたい自分になれなければ意味が無い。

意見を言うのは大切だ。

私がダメ出しで心がけていたのは

「どうしたらいいか」を伝えるよりも

「どう感じたか」を伝える事。

「どうするか」を考えるのは本人のすること。





もちろん具体案の一つや二つは提示できたら良いかもしれないけど、

それを押し付けるような言い方をしたり

「今のはダメだから、こうすべき」

というのは相手のためを思っているようで、

結局は自分のためにしていること。

要は大人側の勝手なエゴだ。

その事に気づかないでいると、

いつのまにか一人一人の個性を潰してしまう。




大人は子どもに「失敗を回避する術を身につけさせる」んじゃなくて、

「失敗に向き合う術を学ぶ機会を与える」ことじゃないのかな。

もちろんそれは放任とは違う。

適度な距離にいて、無言のHELPサインを感じ取る事。

そこに、必要であればつかめる手がある事を示す事。

示すのではなくて、一緒に考え、悩む事。

簡単なようで実は難しい。

でもそれが大人の役割なんじゃないかな。





教育でも同じ。

個人の力を最大限に引き出すにはどうしたらいいのか。

それをいつも悩んで考えて、

自分に出来る最大限の事をしたい。

子どもの成長の芽を「善意」という名の元に踏みにじりたくない。





私は今回の公演でも思ったけれど、

やっぱり私は若い人達のエネルギーに

ひたすら支えられている。

私だってまだまだ若いんだから、頑張るぞって

思わせてくれる。

そして一生青春してやるって、

思わせてくれる。

それはとてもエネルギーを消耗するし、

辛い事を沢山経験する事を意味しているけど、

それでも私はその先に見える何かがあまりにも輝いているから

手を伸ばさずにはいられない。

そして手を伸ばそうとするパワーと勇気をくれるのは

やっぱり本気で頑張ってる人達なんだ。





大人とか子どもとか

確かに分けて考えられる事は多いし、

人生の経験値が高いであろう大人が「教える」側に立つ事が多いけれど、

大人は子どもから学ぶ事が山ほどある事を忘れてはいけない。

お互いに刺激をし合って、

お互いに高め合って、

お互いにお互いを認められる。

っていう理想論を私はまだしばらくは

持っていられそう。

与えてもらったから出来る事

なんで教師になりたいんだろう。




漠然と理由はあった。




なんとなく昔から教育に興味があった。

こうしたらもっと面白くなるのにとか、

こうしたらもっと生徒は集中するだろうにとか、

生徒側の目線で色々と考えていた。



日本では義務教育が定められていて、

学校教育は国民たるもの、皆が受けなければならない物だ。

その影響力の凄まじさと、恐ろしさは、

高校生の私に大きな興味を抱かせた。

鬱々とした話題の続く現代社会を変革するには、

「教育」を根本から見直すしかないだろう。

そうも思った。




ちょうどイラク戦争とか911の同時多発テロがあった頃で、

世界はどうしても平和にならないものなのかと日々悩んだ。

学校に上手く適応できなかった私は、

もっと多様な人間にとって居心地のいい場所は作れないだろうかと

日々悩んだ。

そしてそれらは共に、

学校教育の重要性と変化の必要性を私に示していた。




でもそれはとても周辺的な理由でもあった。

別に学校の教員にならなくても、

世界平和に向けて貢献する事も出来るだろうし、

現場に立たなくても教育行政や政治に介入したって

教育は変えていける。




でも私が本当に求めているものは

それだけじゃない。

もっと中心にある何か。



必死に生きる人間の姿。

そしてその姿からもらえる勇気。




子どもは多感だ。

別に大人が皆多感じゃないとは思わないし、

皆それぞれ一生懸命生きているのには変わりない。

でもまだ人格も不安定で、

発達課題が山ほどあって、

上手く行かない事も多くて、

自分が誰なのかわからなくて、

でも生きていかなきゃいけなくて、

必死にもがいて、

努力して、

失敗して、

凹んで、

諦めたくなって、

ちょっと諦めてみて、

でもやっぱり生きていて、

どうにかしてくて、

でもどうしたらいいかわからなくて、

またもがいて、

苦しんで、

もう嫌だってなって、

でも小さな希望に出会って、

少し前を向く勇気を抱いて、

自分で一歩だけでも踏み出してみて、

その時の結果がどうであれ、

その自力で踏み出した一歩で、

自信が生まれる。




この姿に

私はこの上ない勇気をもらえる。




別に何か大きなものに成功したわけじゃないかもしれない。

それは小さな、でも燃えるように激しい、

内なるエネルギーだ。

それがその人を通して滲み出た時、

私は言葉にできない心の動きを感じる。

そしてとても許された気持ちにもなるんだ。

それは生きていくための強さを強要されることではなくて、

生きている事を、ただそのまま肯定してくれる。




子どもにも個人差がある。

歩み方も一人一人違う。

でもやっぱり人間は共通に

生命力を生まれながらにして持っていると思ってる。

というか信じているんだと思う。

これは信仰の域かもしれない。

その生命力は時に弱ったりもするけど、

生きている限り絶対に消えない。

その本能的な人間の力に、

驚異すら憶える。




それを私は忘れたくない。

そして、与えてもらうだけじゃなくて、

与えてもらったからこそ出来る事をしたい。

私もいつまでも必死に生きること。

それがまた人に何かを与える事ができたら、

本望としか言いようが無い。




教師になる理由なんていくらでもあるんだろう。

これだけが全てじゃない。

でも絶対に忘れたくない原点が、

少しだけでも見えた気がした。

感謝って、

こういう時にするものなのかもしれない。

環境内

今日はバイト後、修論用に学術論文をひたすら読んでいた。

活字が苦手なので、文献集めるの本当に苦手なんだが、

やはり内容に興味があると、わくわくしながら読める。




やる気でなかったり、

大学院生としてありえないモチベーションの低さに陥ったり、

勉強不足過ぎて恥ずかしい思いをしたり、

そういう日も多々(かなりの割合で)あるけれど、

心身の健康状態含め、環境さえ整っていれば

ちゃんとやる気も出るし、

勉強不足でも、今からちゃんと頑張ろうって思える。




だから私自身がやる気の無いダメ人間なんじゃなくて

やる気の無い時も、ちゃんとやる気が出る時も

環境によってどちらもあることを、

忘れないでおきたい。

そうしたらもしやる気がなくなってしまう時がまたやってきても、

焦らずに待つ事ができる気がする。

っていうのもその時には信じられなかったりするんだけどさ。

それはそれで良いって思えたらいいのかな。

とりあえず今、やる気あるうちに、色々やっておこう。