脱★根暗宣言 -15ページ目

卑屈さ

うはー

今日で今学期の授業が終わった。

というのも来週からは教育実習だから。

別にそんなにびびる必要も無いのかもしれないけど、

なんかもう恐ろしい。




まだラッセルの教育論読んでるんだが、

厳格な規範の中で育つと

間違いを恐れたり

間違いを犯す人を軽蔑したり

間違いを犯すのではないかと恐れて周りを伺ってばかりだったり、

恐怖故に嘘をついたり

そういう冒険心とおおらかさに欠けた人間になると。




別にうちは厳格ではなかったし

そんなに色んなことを押し付けられたわけではないけど

私は「いい子でいなきゃっ」ていう意識はとても強かった。

道徳的に良い子でいなければいけないと

強迫観念にすらなっていたと思う。




なんでだかはわからない。

沢山大人にほめられたかったのかな。

私は一人っ子で、おじいちゃんおばあちゃんも独占できたから

暴君のように振る舞うことができた。

私を中心に世界は回っていた。

その権力を維持したかったのかもしれない。

嫌われるのが怖かったのかもしれない。




うちの家庭は多少過保護であったという点では

問題がなかったとは言えないかもしれないけど、

私がここまで卑屈になったのには

バレエ教室での経験がある程度まで関係している気もする。




前にも一度バレエを始めた頃については書いたことがあるけど、

私は先生によく怒られていた。

今でも怖くて会いにいけない。

私はいつもなんで自分は怒鳴られるのかわからなかったし、

つねに先生の顔色を伺っていた。

親や親戚にさんざん甘やかされていたから、

先生に嫌われているんじゃないかと思うことはとても辛かった。

こんなに頑張り屋で、いい子で、なんでも出来る私なのに

なんで怒鳴られなきゃいけないの。

なんで私より下手な子の方が褒められるの。




不当としか思えなかった。

でも次第に私は「きっと自分に悪いところがあるからだ」

と思うようになって、

私はそうやって人を見下すからダメな子なんだとか、

一人っ子でわがままだからダメな子なんだとか、

こんな風に大人の顔色ばかり伺ってるからダメな子なんだとか、

自分に非があって、怒られるのは仕方が無いという結論に達する。




そういうこともあって

「どうせ私はダメな子だから嫌われるんだ」とか

「愛してもらえないんだ」とか自暴自棄になる。

他人の顔色を伺ってばかりで、

能力の有無で人の価値を判断して、

自分が一番大切だと思っている傲慢な私は

醜い存在なんだ。




子供だからすぐに極端な思考に陥ってしまうんだろう。

イタリアに引っ越してからも

上手く友達は作れないし、

皆に嫌われてるに決まっていると思い込んで

自分から積極的にアプローチなんて出来なかった。

言葉が話せなくて、

これまで得意だった勉強すらできなくなって、

外見も美人の多い中に入って余計に劣等感が強まって、

勉強ができない上に友達関係もなくて、

自分は無能であるから価値がなくて、

存在することが苦痛で仕方なかった。




もう自慢できる要素も、

取り柄と言える物もなくて、

さらに卑屈になっていって、

他人との間に分厚い壁を作るしかなくなった。

人が私を傷つけると思い込んでいるから

怖くて更に顔色を伺って、

傷つけてきそうな人と話す時は嘘まみれになって

なんとか嫌われないように必死になった。

それも全部逆効果になったりするのだけど。




人が怖い。

現代人の多くはそういう悩みを持っている。

きっと心底安心できる空間や基盤が十分に与えられなかったから

傷つくことが致命傷を負うことと同義語になってしまっている。

傷つけられても、安心できるところに戻って

その傷を癒すことができるのならば

それは大きな問題にはならないのだ。

皆恐れている。

だから余計に棘を身にまとってしまう。




教育実習も同じ。

人を傷つけるんじゃないか。

誰かに傷つけられるんじゃないか。

非難されたり、否定されたらどうしよう。

怖い。

傷つけられたら立ち直れるかな。

誰も私を守ってくれない場所。

シビアに評価される場所。





私は本当に根本的な問題意識を貫いて

「子供たちのため」ということを追求できるのか。

自分を守ることで必死になってしまうんじゃないか。

鎧ばかりが重くなって身動きが取れなくなるんじゃないか。

それでも貫くことが出来るのか。





きっと試されている。

私は教員を目指そうとした時から

それを乗り越えられるって信じてきたはず。

そんな自分を信じ続けられるか。

今現に信じることが難しいけど、

もしこれを乗り越えられたら

また少し自分に自信が持てるはず。

決心した時の自分を思い出して

そのときの気持ちを思い出して

頑張るしかないんだろうな。




言い訳ならいくらでも出来るけど

逃げることも出来るけど

とりあえず出来ることやってみないことには

なにも見えてこないんだよね。

なんか無理矢理ポジティブに持ってきた感は否めないけど

これが今の自分の卑屈さへの必死な抵抗であって

心の準備の過程でもあるんだろうなー。

社会適応

不登校とかひきこもり関連の論文を読んでいると

泣きたくなる。

凄く胸がざわざわして

ああああああ

って声が出そうになる。

逃げ出したくなる。





私は中高と不登校にはならなかった。

不登校になるのがかっこわるいと思っていたし、

そういうのは辛い状況を我慢できない

弱くてダメな人間がするものだと思っていたから。

私は違う。

私は強いから学校が辛くても

休んだり不登校になったりなんて絶対にしない。

そういうプライドだけで通い続けた。




でも今思うと

ただのやせ我慢なんだよな。

自分に自信が無くて

自分の主張すら出来ない

人に察してもらうのをただひたすら待って

自分からは反抗も適応もできない。




社会不適合者のレッテルを貼られるのが、

「学校に行けなかった弱い子」という肩書きを背負うのが、

あまりにも恐ろしかったから逃げてただけだ。

そういうレッテルを貼られる事が

私の一生を台無しにしてしまうんじゃないかって

そう考えるだけで恐ろしくて、

学校に行って人々に馬鹿にされたりする方が

期間限定だと思えばよっぽどましだった。





私は嫌な事を嫌と言えない。

私はだめな事をだめと言えない。

自信が無いから。

間違うのが怖いから。

間違ったら馬鹿にされて

誰にも尊敬してもらえなくなるから。

私は怖い事を怖いと言えない。

臆病な子だと思われたくないから。





なんでこんなに人の目を気にするんだろう。

ちっぽけな人間だな。

もっと失敗すれば良いのに。

もっと間違えば良いのに。

なんでそんなに怖いんだろう。

なにをそんなに恐れなきゃいけないんだろう。

慎重過ぎる程慎重なのもきっと私の特質なんだろうけど。





私は不登校を推進はしない。

不登校になる必要性がないのであれば

ならない方が良い。

でももし学校に行けない理由があるのであれば、

そうやって問題を不登校という形で

表面化するのも一つの手だとも思う。

その時は確かに大変な事態になるし、

人生の汚点のように思えるかもしれない。

でも結局問題が表面化せず、

奥底で人格に影響を与え続ける方が

長い目で見ると問題を悪化させる事もある。




ただ今の社会の現状では

不登校やひきこもりへの理解もあまりなくて、

実際社会で生きていくのが困難になるケースもあるから

その辺りはやはり難しいところだ。

自分のタイミングで

自分の発達上の課題に取り組めないのは

とても辛い事だ。

本当の意味で人間の成長を望む社会なのであれば

もう少し互いの違いを表面化して、知って、

その違いを直視した上で共存するのが理想だけど。

「人それぞれ」っていう言葉は

まだ現状の社会においては

ただの綺麗言でしかなくなってしまう。





あーーーーー

今日は帰宅早々に家族で死刑制度について

激論を繰り広げすぎて脳みそが凄い疲れた。

不登校とかの社会適応の問題も

私を未だに悩ませるテーマであって

とても精神力を奪われる。

軽蔑していた自分への罪悪感なのか

当時の嫌なことを思い出すからなのか

未だに直視できない。

思考は生もの

自殺やら原発やら不登校やら心身症やら

そういう話題に取り囲まれて

疲れた~





臨床心理系の授業で

自己同一性とか自我同一性とか

精神内界とか外界とか

境界とかセンサーとか

すごい面白くて

すごい興味深くて

もっともっと知りたいって思うんだが

すごくすごく疲れるのも事実だ。




知りたくて色々調べてみたりするけど

結局考えるのに疲れちゃう

私は気になったら一気にうおおおおってなるから

勝手にヒートアップして

勝手に疲労をためる。




何事も一気に理解しようとしたところで

限度があるということですかね。

もっと地道に研究していくためにも

少し落ち着かないと気力がもたないな。




臨床心理士になるつもりはこれっぽっちもないけど

いつか臨床心理士の資格はとってみたいな。

もし学校の教師を続けていたとしたら

教育実践研究だけじゃなくて

臨床心理、認知心理、社会心理、発達心理らへんも

もっと研究してみたいなぁ。

そういう時間と心の余裕を積極的に作らないとな。




あーそわそわする。

心臓が震える感じ・・?

なんでだろう。なんかあったかな。

環境から知らないうちに受けている影響に

私達がどれだけ振り回されているかを考えると

本当に自分のちっぽけさというか

無力さに気づかされる。




地球上で人間が日々死んでいくように

地球という星も、この銀河の中でいつか死ぬ。

私達人間は次の世代を担う人間に何を残せるかを考える。

でも地球はこの銀河に何を残せるんだろう。

人間の一生と地球の一生のスパンは

あまりにも違いすぎるから

私達は地球の大地は不動で絶対的だと思い込みがちだけど

これだけ必死に築いた文明もなにもかも

終わる日がいつかは確実にくるんだよね。





最近は思う事が色々あったけど

ブログにかく元気がなかった

そして全部忘れ去られていった

思考はほんとに生ものだな。

書き留めたりしないと

流れていってしまう。




いつまでも探究心を持ち続けたい。

とりあえず生ものに火を入れて長期保存が効くようにしてみた

っていうとりとめの無いエントリー。

甘えとか無知とか正常とか

想像以上に

教育実習が迫っているという事実に神経をやられている。

どんだけ神経弱いねん。

前向きに努力しなきゃほんとやばいと思い始めてはや一ヶ月。

割と前向きに努力してたら

今度はなんやら疲労が。




やらなきゃやらなきゃと気負いしてるだけで

実際そこまで色々頑張ってる訳じゃないのに

無駄に疲れちゃうっていうこの不毛具合。

自分に出来る事しか出来ないのはわかってるけど

このままじゃさすがに顔向けできない。

焦ったところで良い事もないのわかってるけど

あまりにもやばすぎてそんなことも言ってられないと思ってしまう。




んー。




とりあえず今ラッセルの教育論読んでいて、

世の中の人間の多くが

幼少期の教育の段階で色んな傷を負っていて

その傷のために大人になってからも色んな困難を抱えて

自分ではどう解決したら良いかわからない問題とか

一生悩まされるような課題を持っているんだなと思う。




不安や恐怖心の根本にあるものとか、

子どもの頃に親から特別扱いされることによって

「甘え」が染み付いてしまうこと。

私は一人っ子の女の子で確実に甘やかされて育ったから

その「甘え」との戦いが大人になった今でも続いているんだろう。




なんで私がこんなに大変な事をしなきゃいけないんだろう

だれか助けてくれればいいのに

なんで私がこんなに辛い思いをしているのに

誰も助けてくれないんだろう

私は皆から愛されるべき人間のはずなのに

どうして皆私を邪見に扱うんだろう

皆酷い人。

皆非情。

皆私の気持ちなんてわかってくれない。

わかろうともしてくれない。




皆私を愛してくれないから

悪い人。

皆私を助けてくれないから

酷い人。

だから皆嫌い。

私は悪くない。

悪いのは皆の方。




全て「甘え」からうまれている。

全ては「私は特別」という意識からうまれている。

赤ちゃんは大人にちやほやされる。

泣けばあやしてもらえるし

誰かが不快を快へと変えてくれるまで泣けばいい。

でもだんだんとそれは許されなくなる。




もうお姉さんなんだから、一人で出来るでしょ。

最初は喜んで色んな事にチャレンジするけど

つまづけばだだをこねる。

大人が優しく抱き上げてくれるのを

泣きながら待ってる。

嘘泣きではないにしろ、

それは悔しさや悲しみの涙というよりも、

「だれか私の泣き声を聞いて助けにきてよ」という

メッセージのこもった涙だ。





でも誰も来ない。

誰も来てくれない。

あたりまえだ。

もう大人なんだから。

見捨てられた。

もう誰も助けてくれない。

一人で立ち上がらなきゃ行けない。

でも立ち上がり方がわからない。




大きな挫折。

これを大人になってから克服するのは

とても難しい。

幼少期に習慣として身に付けることは容易でも、

成長過程で柔軟性も低下して、

しかも大人としてのプライドやプレッシャーがかかる中で

自分なりに克服していくのは至難の業だ。




大人になれない若者が多いというのも

こうやって育った人が

身体的には大人になっても

この挫折感を上手く乗り越えられない場合が

多いんじゃないかな。




どうしたらいいんだろう。

社会の中ではただの「甘ったれ」のレッテルを貼られ、

「社会のお荷物」とか「怠け者」と批難される。

一体そんな環境でどうやって

前向きに自分の課題に向き合えるだろうか。

そこにあるただでさえ巨大な壁に

有刺鉄線を巻き付けて

さらに「お前なんかに乗り越えられるもんか」

と言われているようなものじゃないのか。




もっと壁に杭をうつとかして

一歩ずつ上っていける工夫をしなければ到底無理だ。

そして「大丈夫、あなたなら乗り越えられる」

そう心から声をかけてくれて

見守ってくれる人が必要だ。

そういう中で自分で踏み出した一歩に

小さな子どもが初めて自分の足で歩いた時のような

鮮烈な喜びを覚えるんだ。

そこで初めて「自分」という物が生まれたような

そんな不思議な二度目の誕生を果たす。




今の社会は不安と恐怖に満ちている。

何かが出来ない人、ちょっと変わってる人、理解出来ない人、

そういう人達に対して抱く

理解できない「恐怖」は

次第に「不快感」や「憎しみ」に変わっていって

社会から排除される対象となる。

しかも排除している側は大抵の場合、

自分達が「正しい/正常」な側だと思い込んでいて、

排除を正当なものだと信じている。




「憎しみ」は「恐怖」に裏付けられていて、

「恐怖」は「無知」によって増大する。

私だってそうだ。

不可解な行動をしている人や、

当たり前のモラルすら持ち合わせていない人に

恐ろしいほど強烈な嫌悪感を感じる事が多々ある。

でもそれは自分の中にある「甘え」を抑圧して

自分は出来るのになんであの人は当たり前の事が出来ないのだ

そう責め立てているに過ぎない。




それはその人が「悪い」とか私が「正しい」という事にはならない。

私の中の「無知」に立ち向かう勇気の欠如を証明している。

自分が「正常」だ「正しいんだ」と思う事の恐ろしさは

それによって埋められてしまうものが

人々から好奇心と無知に立ち向かう力の源すら奪ってしまうから。




色んなトピック混ぜすぎて混乱するエントリーだな。

でも今の自分の思考はこういうのが全部繋がってて

あー自分乙。

状態になっているから(しかもここ数日間慢性的に)

自己防衛もかねて分析してみた結果だ。

後日読み返して反省しよう。

正義

ビン・ラディンが死んだらしいね。

オバマさんは堂々と

「殺害」を「正義」としていた。

アメリカの民は大騒ぎ。

凄いとしかいいようがない。




前に死刑制度について書いた事もあったけれど

人の命を奪う事が「正義」とされる事が

私には大きな違和感だ。

一概に命を奪う事が悪いというよりも、

それに「正義」という冠をつける事が、

そしてそれに大々的に歓喜する人々が大勢いる事が、

私には酷く恐ろしい事に思えて仕方ない。




偽善?

きれいごと?

わからない。

ただ大きな違和感だけが残る。

私は大切な何かを無惨に奪われた事が無いから?

第3者の立場でしか見る事が出来ないから?

憎しみを抱いていないから?




きっと自分たちを苦しめて、

自分たちの大切な人を奪った

憎むべき悪党への報復が成功したって聴いたら

大喜びをするんだろう。

仕返ししてやった。

当然の報いだ。

傷つけられたんだから、傷つけて当然だ。




でもわからない。

憎んでしまうのは自然の事だ。

復讐したいと思うのは当然の事だ。

実際に復讐を実行に移す事もあるかもしれない。

でもそれを「正義」として

あたかも自分には何も非が無いかのように振る舞うのは

おかしくないか。




不安と恐怖と不信と狂気の入り交じった、

報復へのモチベーション。

それは殺害を裏付けたとしても、

正当化はしてくれない。

やはりそこには人間の弱さがある。

弱い事は罪ではない。

でもその弱さを誤摩化して、

見せかけの強さに変換して、

自分の弱さが引き起こした罪を

罪ではなくしてしまうのは罪ではないか。




偽善?

きれいごと?

わからない。

それでもやっぱり私には大きな違和感が残る。