大鳥大社は堺市にある神社で、旧社格は官幣大社の一つとして全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社です。この大鳥大社の名は通称であって、正式名称は大鳥神社です。祭神は日本武尊と大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)です。社伝によれば、日本武尊は、西の熊襲と東国を平定したのち、伊勢国で亡くなって、その地に葬られました。そしてその陵墓から魂が白鳥となって飛びたち、114年に降り立ったのが大鳥の地で、社を建ててお祀りしたという白鳥伝説が残っています。この大鳥神社は大鳥連が祖神を祀ったのが始まりだとされ、「日本後紀」に823年には朝廷の祈雨の願いを受けたと記されています。また1159年には熊野参詣に向かう途上の平清盛・平重盛らが立ち寄って詠んだ歌碑が立っています。その後、戦国時代までの間に焼失し、1602年に豊臣秀頼による一連の社寺造営で再建されたものの、大坂の陣でまた焼失しました。1662年に堺町奉行・石河利政が大鳥神社を再建しました。現在のものは1909年に再建されたものです。

 最初の写真は、一の鳥居です。次は絵馬堂です。次は二の鳥居で、木造の神明鳥居です。次の2枚は祈祷殿と儀式殿です。次は銅板葺の拝殿です。次は四脚門形式の神門です。次の本殿は大鳥造と言い、切妻造、妻入の構造が出雲大社の大社造によく似ています。次の2枚は奥宮の影向石(ようごうのいし)です。影向とは神仏が一時姿を現すことです。次は根上がりの大楠です。次は平清盛の歌碑で、明治初年、大鳥大社の大宮司であった富岡鉄斎の筆になるものです。(2025年11/30撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 堺市にある大仙公園の日本庭園は、元大阪芸大学長で、作庭家の中根金作が1989年に大仙公園の西端に作庭した築山林泉廻遊式庭園です。中根金作は昭和の小堀遠州と称えられ、大仙公園・日本庭園の他に、城南宮楽水苑、妙心寺退蔵院余香苑、足立美術館庭園、ボストン美術館天心園など日本国内外で300近い美しい庭園を作庭しています。

 最初の写真は日本庭園の総檜作りの表門です。次は堺の豪商たちによって組織された納屋衆の集会所をイメージした休憩舎です。その後ろに見える塔は大仙公園内にある戦没者・戦災死没者を追悼し、恒久平和を祈念するために1971年に建てられた高さ60mの三角柱の平和塔です。次は休憩舎から見た日本庭園の中心を成す池泉です。この池泉は大海を意味し、池泉の東岸が堺市を、西岸が中国大陸を表しています。次の2枚は中島にかかる平橋の映波橋と反橋の印月橋で、紅葉が鮮やかです。次の2枚はL字クランク形の春燕橋(しゅんえんきょう)とその上流を流れる石津渓です。次は泉北丘陵を模した桃源台と右奥に見える流杯亭です。次は初夏には花菖蒲や杜若(かきつばた)が咲く杜若池(とじゃくち)です。次は杜若池に架かる八ツ橋とその先にある青苔亭です。次は庭園を一望できる傘亭です。次は中国江西省にある名勝・廬山を模した築山で、池に映った形がきれいです。次は廬山にある渓谷「虎渓」と「飛龍瀑」です。次は甘泉殿で、そばに清く甘い泉が湧くことに由来します。(2025年11/30撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大仙公園は、堺市にある世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の日本最大の仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳に挟まれた場所にある都市公園で、日本の都市公園100選に選ばれています。この大仙公園内には伸庵と黄梅庵(おうばいあん)の2つの茶室が並んでいます。まず伸庵は、数奇屋普請の名匠といわれた仰木魯堂が粋をこらして1929年に建てた茶室で、もと東京芝公園にあったものを、1980年に福助株式会社から寄贈され移築したものです。建物は茶室を含めて10室の和室を持つ風雅な二階建てです。次に黄梅庵は、堺の茶人今井宗久・宗薫親子ゆかりと伝えられる茶室です。奈良県橿原市の豊田家にあった江戸時代からの茶室を、明治・大正・昭和に亘る茶道の四天王の一人とされた松永安左ヱ門が譲り受けて改装し、小田原で愛用した茶室で、1980年に寄贈され移築したものです。

 最初の写真は茶室露地の表門です。次の2枚は伸庵の外観で、2階建の桟瓦葺の建物です。中庭を囲み玄関・広間・茶室・座敷等が配置されています。次の2枚は露地を構成する飛石と待合です。次は黄梅庵の外観で、銅板葺き屋根を重ね合わせ、内部は八畳敷広間と小間と勝手水屋等からなる数寄屋造りの建物です。次は黄梅庵の露地に立つ1306年制作の旧浄土寺九重塔で、千早赤阪村の浄土寺にあったものを移したものです。次は大仙公園の北隣にある仁徳天皇陵古墳の拝所で、仁徳天皇陵は現在、正式には大仙陵古墳といいます。次は絵葉書から借用した仁徳天皇陵古墳の全景です。(2025年11/30撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駿府城(すんぷじょう)は静岡市にある平城で、府中城、静岡城などとも呼ばれ、現在は、本丸と二の丸の城跡が駿府城公園として整備されています。もともとこの地には、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって今川館が築かれていました。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、1568年の武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失しました。その武田氏も1582年に滅亡し、1585年から徳川家康が駿府城を築城し直しました。その後、家康は1605年に将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府城に隠居し、天下普請によって大修築して、現在の3重の堀を持つ輪郭式平城が完成しました。

 最初の写真は二ノ丸堀と呼ばれる中堀です。次は1989年に復元された巽櫓(たつみやぐら)で、二ノ丸の東南角に設けられた二重三階の隅櫓です。次は2014年に復元された坤櫓(ひつじさるやぐら)で、南西は未(ひつじ)と申(さる)の間の方向であることから、名付けられました。次の3枚は東御門橋・高麗門と高麗門を入った所にある多門櫓と櫓門です。これらは二ノ丸への東御門で、1996年復元されました。次は本丸堀で、駿府城の三重堀の内堀です。次は本丸と二ノ丸をつなぐ二ノ丸水路です。次は紅葉山庭園の入口で、後ろの紅葉が見頃です。次は四阿周辺の「里の庭」で、八つ橋周辺に花菖蒲が植えられています。次の3枚は州浜が広がる松原や荒磯周辺の「海の庭」です。次の2枚は「山里の庭」で、茶畑に見立てたサツキの畝と芝に囲まれた築山は、富士山を表しています。(2025年11/24撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久能山東照宮は静岡市にある徳川家康を祀る神社です。家康が1616年に死去すると、その遺命により駿河湾に面した久能山に葬られ、翌1617年に2代将軍・秀忠によって久能山東照宮の社殿が造営されました。久能山には推古天皇の頃、渡来系の秦氏が久能寺を建立し、1568年には武田信玄が久能寺を他に移し、この要害の地に久能城を築きました。また、久能山東照宮と同じ時期に日光東照宮の造営が行われ、家康の一周忌に日光東照宮へ遷宮されました。日光東照宮は3代将軍・家光による寛永の大造替で、家康を祀る日本全国の東照宮の総本社となり、同時に家光は久能山東照宮の整備も命じ、社殿以外の透塀、薬師堂、神楽殿、鐘楼、五重塔、楼門が増築されました。

 最初の写真は楼門で、後水尾天皇の宸筆・東照大権現の扁額が掲げてあり勅額御門とも言われています。次は神厩で、名工左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められています。次は鼓楼で、明治の神仏分離の際に鐘楼から鼓楼に改称されました。次は拝殿正面にある唐門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造の門です。次は御社殿の周囲にめぐらされた玉垣です。次の2枚は神楽殿と校倉造りの神庫です。次は日枝神社で、創建当時は本地堂として薬師如来像が安置されていました。次は唐門の拝殿側で、羽目板に唐獅子牡丹、黒松に鳥の透彫があります。次の4枚は1617年に建立された国宝の御社殿で、拝殿、石ノ間、本殿が連結された権現造です。次は廟所に通ずる廟門です。次は神廟で、1640年に家光によって石造宝塔に造替されました。(2025年11/24撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 日本平は静岡市の駿河区と清水区の境界にある有度山(うどやま)の山頂とその一帯の呼び名で、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には南アルプスの赤石山脈も望める景勝地であることから国の名勝に指定されています。日本平の名称は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に山頂から四方を眺めたという伝説に由来します。また丘陵南域の久能山の山腹には徳川家康を祀った久能山東照宮があり、日本平山頂から東照宮までを日本平ロープウェイが結んでいます。

 最初の写真は有度山山頂部にある展望施設の日本平夢テラスです。2018年にオープンした日本平夢テラスは、東京五輪のメイン会場となった新国立競技場を手がけた建築家・隈研吾が設計したもので、奈良の法隆寺・夢殿にヒントを得た八角形の形状をしており、地元静岡県産のヒノキ材を使って空中回廊を設けています。次は日本平夢テラス前の庭園です。次の2枚は3階展望フロアから見た駿河湾越しの富士山の雄姿です。次は三保半島の東側に広がる三保の松原で、日本三大松原のひとつとされて国の名勝に指定され、また富士山と共に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されています。日本三大松原の残りふたつは佐賀県唐津湾の「虹の松原」と福井県敦賀湾の「気比(けひ)の松原」です。次は眼下に見える清水港です。次は北側に見える南アルプスの赤石山脈です。(2025年11/24撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「百寺巡礼」の第154番は千光寺です。千光寺は広島県尾道市にある真言宗系の単立寺院で、標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、806年空海の開基で、中興は源氏の名将・多田満仲と伝えられています。

 最初の3枚の写真は千光寺公園へのロープウェイを上がった先にある千光寺頂上展望台から見た尾道市街の眺望です。次は文学のこみちにある林芙美子文学碑で、この1kmの遊歩道には尾道ゆかりの作家・詩人など25基の文学碑が立っています。次は鏡岩で、昔、玉の岩の宝珠または太陽、月の光を鏡のように反射させていたと伝えられています。次は玉の岩で、烏帽子岩とも呼ばれ、周り50m、高さ15mの巨岩です。この大岩の頂にある穴が光を放つ宝玉があった跡だといわれています。次は大師堂で、千光寺を開いた空海をお祀りしています。次の鐘楼は大師堂前の断崖絶壁に建っており、「時の鐘」として知られています。次は梵字岩で、円形の中に光明真言、大日如来真言の梵字が刻まれており光明真言曼荼羅です。次は護摩堂で、本尊は不動明王、脇侍に阿弥陀如来、地蔵菩薩が祀られています。次は赤堂と呼ばれる千光寺本堂で、本尊の千手観世音菩薩は、33年に一度開帳の秘仏です。次は大仙堂で、鳥取の大山寺の御本尊、地蔵菩薩の分体がここに祀られています。次は三十三観音堂で、西国観音霊場の各札所の観世音菩薩33体が祀られています。次は毘沙門堂で、本尊毘沙門天、脇士禅尼師童子、吉祥天女はともに鞍作止利仏師の作と伝えられています。 (2025年11/16撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 福山城は広島県福山市にある平山城で、百名城のひとつに数えられ、城跡は国の史跡に指定されています。徳川家康の従弟にあたる水野勝成が、福島正則改易後1619年に備後10万石の領主となり、海を埋め立てて城下町を建設し、1622年に福山城を築きました。明治になり、1873年の廃城令によって、取り壊しが実施されたが、地元福山町などの請願によって、本丸の天守・伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿・鐘櫓の5棟の建築物が残されました。その後1945年の福山大空襲によって、伏見櫓、筋鉄御門を残して焼失しました。現在の天守、月見櫓、御湯殿は1966年に鉄筋コンクリート構造で復興されたものです。

 最初の写真はJR福山駅北口を出てすぐの福山城の入口石段です。次は現存する伏見櫓で、3重3階の望楼型の櫓です。これは1601年頃に徳川家康が建てた伏見城松の丸の東櫓を1620年に移築したものです。次は本丸の正門に位置する現存する筋鉄御門で、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。次は1979年に修復された鐘楼です。次の2枚は再建された石垣から建物を突出させた懸造の御湯殿と月見櫓です。次は1973年に再建された鏡櫓です。次は天守の建つ本丸です。次は本丸にある黄金水で唯一現存する井戸です。次の4枚は南、西、北、南東方向から見た復興天守で、5重5階地下1階の層塔型です。天守内部は福山市立福山城博物館として利用されています。次は天守の最上階から見た福寿会館で、海産物商の安部和助が昭和初期に建造したもので、本館、洋館、茶室などがあります。(2025年11/16撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迎賓館赤坂離宮は東京都港区にある日本で唯一のネオ・バロック様式による建物で、赤坂迎賓館とも呼ばれています。この建物は後の大正天皇である皇太子・嘉仁親王の東宮御所として、1909年に宮廷建築家・片山東熊(とうくま)の設計により、元紀州藩の屋敷跡に建てられました。そして太平洋戦争の後、1968年から建築家・村野藤吾によって大規模な改修工事を行い、和風別館・游心亭の新設と合わせて1974年に国の迎賓館として開館しました。また2006年から2008年の平成の大改修のあと、創建100年後の2009年に旧東宮御所として国宝に指定されました。片山東熊は明治時代に活躍した建築家で、この他に、奈良および京都国立博物館や東京国立博物館表慶館などを設計しています。

 最初の写真は国宝指定の正門です。次は正門の内側から見た本館の遠景です。次は中門です。次は本館とその前の前庭です。本館内には晩餐会招待客の国・公賓との謁見用の「彩鸞の間」、公式晩餐会が催される「花鳥の間」、国・公賓用のサロンとして使われる最も格式の高い「朝日の間」、舞踏会場として設計された「羽衣の間」があります。次の2枚は本館南面です。次の2枚はその南側に広がる主庭とその中心に置かれた国宝指定の噴水です。次は建築家・谷口吉郎の設計による和風別館・游心亭の正面玄関である中門です。游心亭内には、47畳の主和室、カウンター越しにお寿司などを振る舞う即席料理室や茶室があります。次の3枚は、主和室の前に広がる池泉を中心とした和風庭園です。(2025年11/09撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京都庭園美術館は東京都白金台にある都立美術館で、旧朝香宮邸とも呼ばれています。朝香宮邸は、昭和天皇妃であった香淳皇后の叔父にあたる皇族・朝香宮鳩彦王が、高松藩松平家の下屋敷があった白金御料地に1933年に建設したアール・デコ様式の宮殿です。この宮殿の室内装飾はアール・デコの代表的フランス人デザイナーのアンリ・ラパンが担当しました。1900年頃、欧州で流行したアール・ヌーヴォーの有機的な曲線や自然モチーフとは対照的に、アール・デコは1910年代後半から1930年代にかけて流行した直線的で幾何学的なデザインを特徴としています。この宮殿は1947年に朝香宮家が皇室離脱した後、吉田茂首相公邸として使用され、1955年から1974年まで国賓・公賓のための迎賓館となりました。その後1981年に東京都の所有となり1983年に東京都立美術館として一般公開されました。

 最初の写真は目黒通りに面する正門です。次は西洋庭園です。次は旧朝香宮邸の本館です。1階には大広間、客室、大食堂などの接客用スペースが配され、2階には宮家の人たちの書斎・居間・寝室などの私室が配されています。次は本館前に広がる芝庭です。次は新館です。次の2枚は日本庭園の中心を成す池泉の全景です。次の2枚は池に架かる木橋と雪見灯籠です。次の4枚は池畔にある茶室・光華とその簡素な門です。この茶室は武者小路千家の茶人である中川砂村が設計し、大阪の数奇屋大工棟梁・平田雅哉が施工して、1936年に上棟しました。「光華」という名称は、朝香宮鳩彦殿下自らの命名で、扁額も殿下直筆のものと言われています。(2025年11/07撮影)