阿蘇神社は熊本県の阿蘇山の北麓にあり、全国に450社ある阿蘇神社の総本社です。社伝によれば、創立は紀元前282年で、速瓶玉命である第7代孝霊天皇が両親を祀ったのに始まり、祭神は、一の神殿に神武天皇の孫の健磐龍命(たけいわたつのみこと)はじめ5柱、二の神殿に5柱、三の神殿に2柱の家族神12神を祀り、阿蘇十二明神と総称されています。中世には広大な社領を有していたものの、豊臣秀吉の九州平定の際に社領を没収され、その後に領主となった加藤清正や熊本藩主の細川氏によって、社領の寄進、社殿の造修が行われました。2016年4/16に発生した熊本地震により、楼門と拝殿が全壊、神殿も損壊したが、楼門回廊を除き2023年末に復旧しました。

 最初の2枚の写真は南北鳥居とその間の参道で、全国的にも珍しい神社と並行な横参道です。次は復旧が成った楼門です。これは九州最大の規模を誇り、鹿島神社、筥崎宮と並ぶ日本三大楼門の一つとも言われ、高さが18mあり、神社では珍しい仏閣の様式で1849年に建てられた二層楼山門式です。次の2枚は楼門の左右にある1848年造営の還御門と神幸門です。次の2枚は2021年に復旧した檜香る美しい新拝殿・翼廊です。次の2枚は拝殿の右手にある願掛け石です。次は謡曲「高砂の松」に因んだ縁結びの松です。次の3枚は1840年造営の一の神殿、1842年造営の二の神殿、1843年造営の三の神殿です。参道の門前町商店街では阿蘇の湧水が多く、水基(みずき)と呼ばれる湧水汲み場がたくさんあります。(2024年5/21撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天岩戸(あまのいわと)神社は宮崎県高千穂町にあり、日本書紀・古事記に記された天岩戸神話の舞台となった神社です。岩戸川をはさんで西本宮と東本宮があり、西本宮の旧称は天磐戸神社、東本宮は氏神社であったが、1970年に合併して天岩戸神社となりました。祭神は西本宮、東本宮とも天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、西本宮は本殿がなく、岩戸川対岸の断崖中腹にある天岩戸と呼ばれる岩窟跡を御神体としています。社伝によれば、西本宮は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天岩戸の故事を偲び、その場所にお祭りしたのがその始まりで、1897年に社殿の造営が行われました。東本宮は思兼神(おもいかねのかみ)が天岩戸より現れた天照大御神に、東本宮の地に造営した社殿への鎮座を願ったのに始まるといいます。

 最初の写真は、西本宮の社務所の前に立つ二の鳥居です。次は西本宮神門です。次は神門を入って右側にある御神木の招霊(おがたま)の木です。次は神楽殿で、毎年11月3日には、天岩戸夜神楽三十三番大公開まつりで神楽が奉納されます。次は1986年に造営された拝殿です。拝殿の右から回って拝殿の裏に位置する天岩戸を遥拝するための遥拝殿で天岩戸を参拝しました。天岩戸は撮影不可でした。次は松尾芭蕉の「梅が香に のつと日乃出る 山路哉 はせを」の句碑です。次の4枚は岩戸川の川上にある天安河原(あまのやすかわら)、仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわや)とも呼ばれ、岩戸隠れの際に八百万の神々が集まって相談した場所であると伝えられています。(2024年5/21撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高千穂峡は、宮崎県高千穂町にある五ヶ瀬川にかかる峡谷で、五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)として国の名勝・天然記念物に指定されています。阿蘇の火山活動によって、27万年前、14万年前、12万年前および9万年前の4回にわたって噴出した火砕流が、五ヶ瀬川の峡谷沿いに帯状に流出し、急激に冷やされて溶結凝灰岩となり、柱状節理が生じました。この溶結凝灰岩は侵食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって高さ80〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続く峡谷となりました。

 最初の写真は三段橋で、下から神橋(石橋)、高千穂大橋(鋼橋)、神都高千穂大橋(コンクリート橋)の3つの橋が高千穂峡に架かっています。次は槍飛橋で、高千穂峡を流れる五ヶ瀬川の最も狭い部分にかけられた橋です。次は鬼八の力石で、この一帯を荒らしていた荒神鬼八が投げたといわれる石で、重量は推定200トンです。次は高さ70mの仙人の屏風岩で、切り立った柱状節理が屏風に見えることから名付けられました。次は柱状の岩肌がV字渓谷を形成する柱状節理です。次の3枚は真名井の滝で、それぞれ滝見台、御橋、ボートから見たもので、落差17mあり、日本の滝百選の一つです。次はその上にあるおのころ池で、池の中には伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)両神により生み出されたとされるおのころ島があります。次は峡谷の崖上の自然公園にある玉垂の滝です。次は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が高天原を追放される際に詫びの印として自分を表現したといわれる月形です。

(2024年5/21撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熊本城は熊本市にある平山城で、別名、銀杏城(ぎんなんじょう)とも呼ばれています。豊臣秀吉の子飼いの家臣であった加藤清正は1607年に、それまであった中世城郭の千葉城、隈本城を取り込み、茶臼山丘陵一帯に熊本城を築城しました。二代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、豊前小倉城の城主だった細川忠利が肥後に入国し、徳川家康にも仕えて細川家は幕末まで残りました。明治に入り1877年の西南戦争で、天守と本丸御殿一帯が消失しました。1960年に鉄筋コンクリート造で大小天守が再建されたが、2016年の熊本地震で熊本城全域が被災しました。この熊本城は1955年に国の特別史跡に指定されています。

 最初の写真は坪井川に面した石垣上に直線で242mの長さをもつ長塀で、2021年に復旧しました。次はその近くに建つ清正公像です。次は奉行丸にある被災を免れた未申櫓です。次は数寄屋丸にある二階大広間です。次の2枚は見学通路から見た本丸御殿と大天守です。本丸御殿の昭君之間の壁には、狩野派の絵師によって中国前漢の元帝の時代の悲劇の美女「王昭君」の故事が描かれていました。次は加藤時代の石垣を細川時代に拡張した二様の石垣です。次は東竹の丸の櫓群の一部で、田子櫓、七間櫓、十四間櫓が見えています。次は闇り(くらがり)通路で、本丸御殿の床下にある石垣でできた地下通路です。次の3枚は大天守と小天守が並び立つ天守閣で、2021年に完全復旧しました。大天守は外観3重、内部は地上6階地下1階建てで、四面に千鳥破風と最上階の南北に唐破風が配されています。(2024年5/20撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 草千里ヶ浜は阿蘇山のカルデラ内にある草原地帯で、杵島 (きしま) 岳と烏帽子(えぼし)岳との間の標高1140m、面積78万5千㎡の火口跡です。これは3万年前に形成された直径1kmの火口の中に、400mの火口が生じた二重の火口跡で、中央の小高い丘を挟んでほぼ東西に窪地が存在し、雨水が溜まって池になっています。この2つの池は、西側の池が外側の火口底、東側の池が内側の火口です。草千里ヶ浜は2013年に「米塚及び草千里ヶ浜」として国の名勝および天然記念物に指定されました。阿蘇山全体は火の国・熊本のシンボルであり、南北25km、東西18km、周囲128㎞の外輪山の内側に東から順に、根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の阿蘇五岳があります。

 最初の2枚の写真は、草千里ヶ浜の北側にある草千里展望所近くからみた草千里ヶ浜の全景です。次の中央の小高い丘は、高さ30mの駒立山です。次はその駒立山の麓に咲く見頃のミヤマキリシマです。次の2枚は駒立山の東側と西側の池です。次の2枚は草千里ヶ浜の北側にある杵島岳と南側にある烏帽子岳です。次の2枚は草千里ヶ浜の東側にある今も白い噴煙を上げている中岳です。次は草千里ヶ浜から北に2.7km離れている米塚(こめづか)で、お椀を逆さに置いた美しい形をしており、高さは80mあります。次は北外輪山カルデラ縁にある標高935メートルの大観峰からの眺めで、阿蘇五岳を一望できます。ここから望む阿蘇五岳は、お釈迦様の寝姿に見えることから「涅槃像」と呼ばれています。(2024年5/19撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 識名園(しきなえん)は沖縄那覇市にある敷地面積42,000㎡の琉球庭園の一つで、識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑とも呼ばれています。2000年に国の特別名勝に指定され、同じ年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録されました。この識名園は1799年に造られた琉球王家の最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。その後、第二次世界大戦の沖縄戦で壊滅的な被害を受けたものの、1975年から約20年かけて再建されました。庭園は池泉回遊式庭園で、中央に心字池を配し、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小の石橋が配され、池の周囲は琉球石灰岩が取り囲んでいます。

 最初の写真は国王一家や冊封使が出入りした正門です。次は池の水源である育徳泉で、琉球石灰岩をあいかた積みにして巧みな曲線を描いています。次の2枚は御殿(ウドゥン)で、上流階級のみに許されたつくりの赤瓦屋根の木造建築です。次の六角堂は池に浮かぶ島につくられた六角形のあずまやで、屋根の形、瓦の黒い色付けに中国の影響がみえます。次は庭園の中心に位置する心字池です。次の2枚はその池に架かる大小2つの石橋で、中国風のアーチ橋です。次は池からあふれた水が石造の懸樋(かけひ)から流れる滝口です。次は舟揚げ場で、池に浮かべて楽しんだ小舟を引き揚げる場所です。次の2枚は高台の勧耕台のあずまやとそこから見た那覇の町並みです。次は番屋で、御殿の近くにある識名園を管理した番人の住居です。(2024年4/13撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首里城は沖縄那覇市にある城趾で、14世紀に創建され、1429年から最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡す1879年まで琉球王国の国王の居城でした。この首里城は内郭と外郭に分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しました。しかし1453年、1660年、1709年に3度焼失した後、1945年の沖縄戦で4度目に焼失した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。そして2000年に首里城跡が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。しかしながら、2019年10/31の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築が全焼しました。正殿の再建は2022年から開始され、2026年秋の完成を目指して工事中です。

 最初の写真は日本城郭の大手門に相当する守礼門で、中国風の牌楼形式で建立されています。次は歓会門で、首里城の城郭内に入る第一の正門です。次は瑞泉門で、門の手前右側にある湧水が龍樋(りゅうひ)と呼ばれ、それに因んで名付けられました。次は漏刻門で、漏刻や日時計で時間を計測していました。次は福を行き渡らせる広福門で、建物そのものが門の機能を持っています。次は奉神門で、正殿前広場の「御庭(うなー)」へ続く最後の門です。向かって左側は納殿、右側は君誇で儀式に使われました。今回の火災では左側の納殿が失われ、既に修復されました。次の2枚は焼失前の首里城正殿と北殿で、これは絵葉書から拝借しました。次は木曳門で、普段は石積によって封鎖されていて首里城を修復するときだけ開く門でした。(2024年4/12撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 篠山城は丹波篠山市にある平山城で、日本百名城の一つであり、国の史跡に指定されています。1609年、徳川家康は徳川譜代の松平康重を篠山に封じ、西国諸大名のおさえとして、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に篠山城を築きました。これは天下普請として、浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・福島正則ら豊臣恩顧の大名を始めとして、15か国、20の大名を動員し、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手・藤堂高虎が手がけました。明治に入り、1873年の廃城令で篠山城も取り壊されたが、その際、二の丸御殿の大書院は残ったものの、1944年の失火で焼失しました。その後、2000年に大書院が復元されました。

 最初の写真は外堀で、外周は1辺40mのほぼ正方形です。次は東馬出(うまだし)跡で、東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていました。次は外堀に面した三の丸広場で、外堀沿いには桜が約1000本植えられています。次の2枚は内堀で、内堀内に本丸と二の丸が設けられています。次の2枚は中之門跡と鉄門跡です。次は二の丸御殿の中心的建物だった大書院です。この大書院は木造建築物としては規模が大きく、京都二条城の二の丸御殿にある遠侍(とおさぶらい)と呼ばれる建物に類似しています。次は二の丸御殿跡で、江戸時代の古絵図をもとにして2002年に平面表示しました。次は二の丸御殿庭園の井戸です。次は本丸内にある青山神社です。次は本丸の南東隅にあった天守台跡で、天守は建立されませんでした。次は南門である埋門跡です。(2024年4/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 福知山城は京都府福知山市にある平山城で、福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍(がりょう)城とも呼ばれています。明智光秀が織田信長の命を受けて1579年に丹波を平定し、西国攻略の拠点として福知山城と城下町を築き、明智の「智」の字を用いて「福智山」と名付けたと伝えられています。光秀は1582年の本能寺の変で、織田信長から一時的に天下を奪ったものの、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。その後、関ヶ原の戦いの後、有馬豊氏が入城して城の改修と増築を進め、現在の城郭や城下町が完成しました。明治になり1873年の廃城令で天守は失われ、石垣のみとなったものの、1986年に江戸時代の絵図をもとに市民の寄付によって天守が再建されました。

 最初の写真は登城坂の脇に植えられた7分咲きの桜です。次は登城坂を登った先にある本丸跡です。次は本丸跡の東側から見た大天守で、これは3層4階で、北側だけに廻縁があります。次は本丸跡にある銅(あかがね)門番所で、これは何度か移設されたものの、唯一の現存建造物です。次は天守閣に使用された転用石で、野面積みの石垣に石塔や石仏などの転用石が多数使用されています。次は再建された釣鐘門で、天守閣東側に建っています。次は釣鐘門の前にある豊磐井(とよいわのい)で、この井戸は直径2.5m、深さは50mあります。次の2枚は釣鐘門から見た大天守とその右に並ぶ続櫓と小天守です。次の2枚は天守前にある鉄砲石碑と朝暉神社です。次の2枚は天守からの眺めと福知山城公園から見た城の遠景です。(2024年4/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大阪城豊国神社は大阪城二の丸南側にある神社で、京都・豊国神社が「とよくに」と読み、豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、大阪城豊国神社は「ほうこく」と読み、豊臣秀吉に加えて、秀頼、秀長を祀っています。1868年に明治天皇が大阪に行幸の際に、「豊國神社」建立のお沙汰があり、1873年に京都に豊国神社が創建され、1880年にその別社として大阪中の島に建立されました。その後、1961年に大阪城二の丸の現在地に遷座しました。

 最初の写真は、北西に向いて立つ表鳥居です。次は豊臣秀吉像で、1903年に大阪城内に建立され、1943年の金属類回収令により供出された後、2007年に文化勲章受章者の彫刻家・中村晋也により復元されました。次は西向きに建つ社殿で、拝殿・幣殿・本殿からなっています。次の4枚は1972年に昭和の作庭家・重森三玲により作庭された石庭・秀石庭で、秀吉の秀と大坂城の建つ地名・石山から一字ずつとり名づけられました。この石庭は徳島産の緑泥片岩を使用して、手前から3組、5組、7組の石組で構成された七五三の庭であり、奥中央の3石が三尊石組で蓬莱山を表現しています。また、秀吉の馬印であった千成瓢箪にちなんで、秀石庭には瓢箪がデザインされています。ここ大阪城豊国神社には、社宝として重要美術品の紙本著色の秀吉像があります。これは京狩野の初代とされた狩野山楽筆と伝えられています。次の4枚は大阪城豊国神社の北東に広がる梅林で、内堀の東側1.7haの広さに105品種、1245本の梅が植えられており、今見頃です。(2024年2/16撮影)