小倉城日本庭園は、小笠原家の別邸であった下屋敷跡を1998年に復元した池泉回遊式庭園です。1602年に細川家の筆頭家老・松井康之は主君・細川忠興とともに中津藩から小倉藩へ移る際、この地に屋敷を建てました。1632年に細川家に代わり初代藩主・小笠原忠真が入国して、以後234年間にわたる小倉藩の統治を開始しました。5代藩主・小笠原忠苗(ただみつ)の時代に、和歌や茶道を楽しむための下屋敷が完成し、この屋敷は天守のすぐ下に位置していたことから、「御下屋敷(おしたやしき)」と呼ばれていました。しかし、1866年の第二次長州征討の際に御下屋敷は焼失しました。この小笠原家は「小笠原流礼法」の宗家としても知られています。小笠原流礼法とは、室町時代から700年以上続く、武家社会に由来する日本の伝統的な礼儀作法です。相手を思いやる心を自然な所作で表すことを本質とし、無駄のない合理的で美しい振る舞いを基本としています。

 最初の写真は書院棟の大玄関です。次の2枚は大玄関前と庭園側から見た書院棟で、内部は上段の間、一の間、二の間、取次の間に分かれており、広縁の一部が池に張り出した懸造りになっています。次はその上段の間の床の間です。次の2枚は書院棟の広縁からみた庭園の全景で、この庭は「浮見の庭」とも呼ばれ、池泉の水面が周囲よりもかなり低く設計されている「のぞき池」です。次の3枚は池の滝口、石組、州浜の様子です。次は庭園越しに見た天守閣です。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小倉城は北九州市にある平城で、勝山城、指月城とも呼ばれています。1569年、毛利氏が城を築いたことに始まり、毛利勝信などが居城しました。関ヶ原の戦いで徳川家康に与した細川忠興は、徳川政権下で豊前国へ加増転封となり、1602年から7年かけて唐造の天守閣を築城しました。細川氏が肥後国熊本藩へ転封となった後、1632年に譜代大名である小笠原忠真が入城し、幕末まで小笠原氏が居城しました。1837年には失火のため天守閣が焼失し、残る城郭も1866年、第二次長州征討で長州藩の反撃を受けた小倉藩が、混乱の中で自ら城を焼却しました。戦後、1959年に天守閣が再建されました。

 最初の写真は大手門跡で、枡形門です。次は藩主、家老などのみが通行を許可されていた格式の高い槻(けやき)門跡です。次は鉄(くろがね)門で、通常の武士の登城口として使用されていました。次は西ノ口門跡で、搦手門(からめてもん)にあたります。次の2枚は本丸から見た天守です。細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観が特徴だったが、再建の際に天守としての見栄えを優先して大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が追加されました。次は再建された着見(つきみ)櫓です。次の2枚は内堀と内堀越しの天守です。次は北の丸跡に建てられた八坂神社の正門脇にある小倉城の北口門跡です。次は北方向からみた天守です。次は天守から見て寅の方角にある虎の門跡です。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宇佐神宮は大分県宇佐市にある神社で、宇佐八幡とも呼ばれ、全国に44,000社ある八幡宮の総本宮です。その本殿は小高い丘陵の小椋山山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、境内は国の史跡に指定されています。祭神は一之御殿が八幡大神(はちまんおおかみ)、二之御殿が比売大神(ひめのおおかみ)、三之御殿が神功皇后の3柱で、社伝によれば、応神天皇の神霊である八幡大神が571年に宇佐の地に現れたのがその始まりとされています。その後、奈良時代の823年に本殿が完成したと伝えられています。また、769年には道鏡による宇佐八幡宮神託事件が起こったことはよく知られています。

 最初の写真は門前の仲見世です。次は寄藻川に架かる神橋です。次は表参道大鳥居です。次の2枚は参集殿と神宮庁斎館です。次は絵馬殿です。次の2枚は参道の左に広がる菱形池とその中島に建つ能楽殿です。次の2枚は御炊宮(みけみや)とも呼ばれる下宮の門と本殿で、810年代に嵯峨天皇の勅願によって創建され、上宮と同じ3神が祀られています。次は若宮神社で、応神天皇の若宮である仁徳天皇を祀っています。次は西大門で、桃山風の華麗な構造です。次は南中楼門で、上宮の勅使門です。南中楼門の内にある上宮御殿は一、二、三之御殿とも八幡造の様式で、2棟の切妻造平入の建物が前後につながった形をとっており、奥殿は「内院」、前殿は「外院」といわれています。次は上宮の裏、菱形池の畔にある御霊水で、3つの霊泉があり、八幡大神が現れたところと言われています。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 旧益習館庭園は兵庫県洲本市にある池泉回遊式庭園で、日本最大級の巨石を用いた武家庭園として、2018年に国の名勝に指定されています。淡路島は大坂夏の陣の後に徳島藩の領有となり、藩主・蜂須賀氏の筆頭家老だった稲田氏が淡路支配を担う洲本城主に任命されました。この旧益習館庭園は稲田氏の別荘「西荘」の庭として江戸時代初期に作庭された後、1854年に稲田氏の私塾学問所・益習館となりました。幕末には桂小五郎、山形狂助、西郷吉之助らも滞在したが、捕吏の追跡で由良浦から海を渡り、紀州へ逃げ延びたと伝えられています。1870年の庚午事変により、益習館の建物は焼失したものの庭園は残りました。庚午事変とは、明治維新に伴う禄制改革に逆らい、陪臣の稲田家臣が稲田家の分藩独立運動をおこしたことで、主君の徳島藩士の怒りを買い、徳島藩士が稲田とその家臣の屋敷を襲撃した事件です。この旧益習館庭園のある場所は、当初は洲本城建築のための石切場だったことから、この庭園の見どころである巨石をふんだんに用いることができたと思われます。

 最初の写真は、庭園入口から見た庭園の全景です。次は山側から見た母屋です。次の2枚は東西に長い池泉の全景です。次は母屋と池泉の間の花崗岩の飛石の連なりです。次は池泉の山側護岸に置かれた高さ4m、幅5.8mの和泉砂岩の巨石です。次は自然石を使った高さ4mの巨大な山燈籠です。次は同様に自然石を使った雪見燈籠です。つぎは曲田山の斜面に置かれた石群です。次は借景とされた山城である洲本城の天守です。(2026年5/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊弉諾(いざなぎ)神宮は淡路島にある神社で、淡路国一宮であり、旧社格は官幣大社です。祭神は日本神話の国産み・神産みに登場する男神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と女神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。古事記・日本書紀によれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊が淡路島を始めとする国生み・神生みを果たし、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国家統治を委ね、当地である淡路島の多賀の幽宮(かくりのみや)で余生を過ごしたとされ、これが伊弉諾神宮の起源です。幕末までは禁足地の神陵の手前に本殿があったが、明治初年の造営事業で神陵地を造成し、墳丘上に本殿が移築され、幣が付設されました。

 最初の写真は大鳥居で、花崗岩製の神明型鳥居としては全国最大級です。1995年の阪神・淡路大震災で倒壊したものの、その年の内に再建されました。次はさざれ石です。次は参道の脇にある放生の神池で、幽宮跡にあったとされる濠の遺構といわれています。次は茶室・明日庵です。次は1883年に再建された正門で、檜皮葺の四脚門です。次は貴賓殿及び参集殿です。次の2枚は1688年に改修された東・西神門で、徳島藩主・蜂須賀家が寄進したものです。次は夫婦大楠で、樹齢九百年の兵庫県指定天然記念物です。次は1882年に再建された拝殿で、銅板葺入母屋造です。次は1879年に建築された本殿・幣殿で、檜皮葺三間社流造です。本殿と幣殿が屋根で連結されています。次は本殿の左に建つ祓殿(はらいでん)です。次は本殿の右に建つ神輿庫(しんよこ)で、1808年藩主・蜂須賀治昭が造営寄進しました。(2026年5/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 MOA(エムオーエー)美術館は静岡県熱海市の高台にある私立美術館で、岡田 茂吉が1982年に開館しました。その前身は熱海美術館で、岡田 茂吉の収集品である国宝3件、重要文化財67件を含む3500件の東洋美術品を所蔵しています。岡田 茂吉は明治から昭和にかけての芸術家、実業家、思想家、宗教家で、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動しました。1945年に箱根強羅と熱海の土地を購入し、同じ時期に美術品の蒐集を本格的に始め、1952年に箱根美術館、1957年に熱海美術館を開館しました。

 最初の写真は、MOA美術館のエントランスで、ここから本館まで、60mの高低差があり、7基のエスカレータで斜面の地下を上がっていきます。次は黄金の茶室で、1586年、豊臣秀吉が正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したものです。次は展示されていた野々村仁清の国宝・色絵藤花文茶壺です。他に有名な尾形光琳の国宝・紅白梅図屏風を所蔵しています。次は本館に隣接している「茶の庭」の入口にある唐門です。次は光琳屋敷で、尾形光琳が過ごした京都の屋敷を、光琳自筆の図面などの史料に基づいて1985年に復元したものです。次の3枚は、光琳屋敷の前にある露地風の庭園です。次の2枚は石造国東塔と石造十三重宝塔です。次は片桐門で、神奈川・大磯の三井家城山荘内にあった門を移築したものです。次は本館メインロビーから見た熱海の眺望で熱海城が見えます。(2026年4/21撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「百寺巡礼」の第155番は修禅寺です。修禅寺は伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で、807年に空海が創建したと伝えられ、その後の470年間は真言宗に属しており、当初は桂谷山寺と呼ばれていました。鎌倉時代初期には修禅寺の名称となり、

源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の長子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家がここに幽閉されたことでも知られています。1250年頃に南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆が訪れたことに伴い臨済宗に改宗されました。その後、1409年の戦乱で伽藍が全焼し荒廃したものの、最初の戦国大名とされる北条早雲の寄進によって、叔父の隆渓繁紹を開山として迎え、曹洞宗の寺院として再興されました。また明治から現在に至るまで、多くの文豪や芸術家に愛された修善寺温泉は、正岡子規や夏目漱石、芥川龍之介などが訪れ、執筆しました。

 最初の2枚の写真は修禅寺の山門と鐘楼堂です。次は壇信徒会館です。次は弘法大師立像で、奥之院・正覚寺は、791年に18歳の空海が修行したところと伝えられています。次は1883年に再建された本堂で、本尊は金剛界大日如来坐像です。1210年に北条政子が源頼家の七回忌供養のために寄進したものです。次は本堂の東隣に建つ方丈です。方丈裏には大正天皇が皇太子時代に修禅寺を訪れた際に、「東海一の庭園である」と言われたと伝わる池泉回遊式庭園がありますが、秋の紅葉時のみの公開で、残念ながら今回は鑑賞できませんでした。次は修禅寺の南を流れる桂川に架かる虎渓橋です。次は独鈷(とっこ)の湯で、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯です。次は同じ桂川河畔にある竹林です。(2026年4/22撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三嶋大社は、静岡県三島市にある旧官幣大社の神社で、創建の時期は不明であるものの、社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、古代から伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬されてきました。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)の2柱で、三嶋大神(みしまのおおかみ)と呼ばれています。平安時代の末、伊豆に流された源頼朝は三嶋大社で源氏再興を祈願し、これが成就したことから益々崇敬することとなりました。所有する国宝・梅蒔絵手箱は、頼朝の妻・北条政子が奉納したものと伝えられています。

 最初の写真は三島大通りに面して建つ大鳥居です。次は参道の両側にある神池で、1185年源頼朝が放生会を行いました。次は神池の中にある厳島神社で、北条政子が勧請したと伝えられます。次は神木の大楠です。次は1931年建立の総門です。次は社務所です。次は芸能殿で、旧総門です。次は腰掛け石で、源頼朝と北条政子が源氏再興を祈願した際、腰を掛けて休息したと伝わる石です。次は1868年に建立された神馬舎(しんめしゃ)です。次は1867年に建立された神門です。次は樹齢1200年と推定される金木犀で、国の天然記念物に指定されています。次は1867年建立の舞殿(ぶでん)です。次は1866年建立の社殿で、本殿・幣殿・拝殿が連なっています。社殿は現在修復中につき、これはパンフレットから借用しました。(2026年4/22撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 起雲閣は静岡県熱海市にある別荘で、1919年に実業家・政治家の内田信也が実母の静養のための別邸として建設しました。1925年には実業家・根津嘉一郎が内田から土地・建物を取得し、洋館を増築して根津別邸となり、岩崎別荘、住友別荘と並び「熱海の三大別荘」と呼ばれました。また1947年に金沢のホテル経営者・桜井兵五郎がこれを取得し「起雲閣」と名付け、旅館として開業しました。この宿は、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一などの文豪たちにも愛され、1958年には三島由紀夫が新婚旅行で宿泊しました。その後、2000年に熱海市が12億円で取得し、それ以降は熱海市所有の観光施設となっています。施設内には内田が建設した2つの和館と、根須が増築した日本・中国・欧州などの装飾や様式を融合させた3つの洋館があります。

 最初の写真は、起雲閣の表門で、薬医門の形式です。次は和館「麒麟・大鳳」で1階が麒麟、2階が大鳳です。次はその麒麟の床の間です。次は洋館「玉姫・玉渓」です。次は洋館・玉姫の正面中央にある暖炉で、欧風デザインを基本にし、中国風の彫刻や、唐草模様の彫刻で飾られています。次は洋館・玉渓で、ヨーロッパの山荘風の造りになっています。次は洋館・金剛で、螺鈿細工の模様が使用されています。次は金剛に併設されたローマ風浴室です。次は和館・孔雀で、座敷に床の間や付け書院があります。次の2枚は2階の大鳳から見た庭園の全景です。次の2枚は庭に降りて散策しながら見た美しい池泉の様子です。(2026年4/21撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「百寺巡礼」の第88番は金峯山寺(きんぷせんじ)です。金峯山寺は吉野にある金峯山修験本宗の総本山です。金峯山とは奈良県の吉野山から山上ヶ岳に至る山岳霊場を指し、白鳳年間に修験道を始めた役行者(えんのぎょうじゃ)が、この金峯山で修行し、山上ヶ岳の大峯山寺と吉野山の金峯山寺にお堂を建ててお祀りしたのが蔵王堂の始まりです。修験道とは、日本古来の山岳信仰に、神道や仏教・道教などが混合してできた日本独特の民族宗教です。吉野山は南北朝時代には南朝の中心地で、役行者が蔵王権現のお姿を桜の木に彫刻したことから、桜はご神木として保護され、吉野山は桜の名所となりました。この金峯山寺を含む吉野・大峯の霊場と和歌山県の高野山および熊野三山からなる「紀伊山地の霊場と参詣道」は、2004年に世界文化遺産に登録されました。 

 最初の写真は金峯山寺の南口です。次は蔵王堂の前にある四本桜で、1333年に護良親王が鎌倉幕府勢に攻められて、最期の酒宴をした場所に植えられています。次は本堂の国宝・蔵王堂で、入母屋造り檜皮葺き、高さ34m、幅・奥行ともに36mあり、現在の建物は1592年頃に再建されたものです。中に秘仏本尊・蔵王権現三体が安置されています。次は鐘楼です。次は1958年に建立された南朝妙法殿で、南朝の四帝と忠臣たちを祀っています。次は聖仏舎利宝殿です。次は蔵王堂の北側に位置する高さ20mの国宝・仁王門で、南北朝時代の再建とされています。現在は修復中につき、これは2009年に撮影したものです。次の2枚は仁王門の北にある銅鳥居と黒門です。(2026年4/06再撮影)