岡崎城は愛知県岡崎市にある平山城で、その起源は15世紀中頃に、明大寺の地に西郷頼嗣によって築城されたのがその始まりです。その後、1531年に徳川家康の祖父・松平清康が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城といわれるようになりました。家康は1542年にここ岡崎城内で誕生し、6歳で織田信長の父・信秀の、8歳で今川義元の人質となりましたが、1560年の桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に、岡崎城で自立しました。1570年、家康は本拠を遠江・浜松城に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。1579に織田信長に迫られて信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。1590年に家康が秀吉によって江戸に移封されると、秀吉の家臣・田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。天守は本田氏によって1617年に建てられました。明治になり、1873年の廃城令によって廃城となり、城内の天守、大手門、東隅櫓、土塀などの建物が撤去されました。

 最初の写真は大手門で、1993年に木造復元されました。次は1982年に開館した「三河武士のやかた家康館」です。次は清海堀跡で、本丸北側にある大規模な空堀です。次は巽閣で、かつて巽櫓があった場所に建てられた施設です。次は天守の東隣にある龍城神社で、徳川家康と本多忠勝を祭神として祀っています。次は1959年に復興された天守で、複合連結式望楼型3重3階の形式です。次は龍城堀で、本丸南側を守る水堀です。次はその龍城堀に架かる神橋です。(2026年10/11撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 浜松城は静岡県浜松市にある平山城で、その前身は曳馬城であり、15世紀頃に今川貞相が初めて築城したともいわれています。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。徳川家康は1570年に本拠地を三河国岡崎城から遠江国曳馬城に移し、城の名前を浜松城に改称し、城の拡張や改修を行いました。1586年に家康が浜松から駿府へ拠点を移した後、1590年からは豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴・忠氏親子が合わせて11年間在城し、この時期に天守が創建されました。関ケ原以降は徳川の譜代大名が入城し、歴代城主の多くが後に江戸幕府の重鎮に出世したことから出世城といわれました。その後、浜松城は明治維新後に廃城となり破壊されたが、城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の天守が再建されました。また、2017年に続日本100名城に選定されました。

 最初の写真は、本丸南広場からみた天守の全景で、天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっています。東西56m南北68mの多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門(うずみもん)が配され、16世紀末に築かれた天守台が残されています。次は2014年に復元された天守門です。次の2枚は再建された天守です。次は築城当時の姿を遺す石垣です。次は富士見櫓跡です。次は日本庭園の東門です。次は庭園内の中心にある木の太鼓橋です。次の2枚は石橋とその背後にある滑滝です。次は庭園内の川の上流にある大滝です。(2026年10/11撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 掛川城は静岡県掛川市にある平山城で、木造復元した天守として、2006年に日本城郭協会により日本100名城に選定されています。掛川城は、1513年に大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて龍頭山に築城させたことがその始まりとされています。今川氏が徳川家康に敗れたあと、その家臣の石川家成が城代を務めたが、家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が入り、掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・天守などを整えました。関ヶ原の戦いの後、一豊は高知城に移封され、そのあと多くの譜代大名が入ったが、1854年に安政東海地震によって、天守等を含む大半の建物が倒壊し、二ノ丸御殿、太鼓櫓、蕗の門、大手二の門は1861年再建されたが、天守、四足門等は再建されませんでした。

 最初の2枚の写真は大手門と大手門番所です。大手門は1995年に木造復元されました。次は四足門(よつあしもん)で、1994年に再建されました。次の2枚は十露盤(そろばん)堀と三日月堀です。次は太鼓櫓です。次の2枚は三の丸広場と本丸広場から見た天守で、1994年に再建されました。これは高さ16mの複合式望楼型3重4階構造で、最上階に黒漆塗りの廻り縁と高欄が巡らされています。次は霧吹き井戸で、この井戸から深い霧が立ち込めて、徳川軍の攻撃から今川のこの城を救ったという伝説が残されています。次は二の丸茶室です。次の2枚は二の丸御殿で、二条城、高知城、川越城とともに全国に4ヵ所しかない現存する貴重な御殿です。(2026年10/11撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大垣城は岐阜県大垣市にある平城で、1535年に宮川安定が創建したといわれています。戦国時代の西美濃三人衆の一人である氏家直元が1563年に城郭を整備したが、1586年の天正地震によって全壊焼失しました。その後豊臣家の家臣・伊藤祐盛が1596年に望楼型3重4階の天守閣を築きました。1600年の関ケ原の戦いでは、大垣城は西軍・石田三成の本拠地となり、本戦部隊が関ケ原に移動した後も、城では壮絶な攻防戦が繰り広げられ、東軍が勝利したことで落城しました。1635年には戸田氏鉄が城主となり、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となり、その間に4重4階の複合式層塔型天守を築きました。しかし天守は1945年の大垣空襲ですべて焼失したが、1959年に外観復元天守として再建されました。

 最初の写真は、1985年に新たに設置された東門で、七口之門の一つである柳口門をまねて築かれています。次は1985年に再建された艮(うしとら)隅櫓です。次は水之手門跡です。次は乾(いぬい)隅隅で、1967年に郡上八幡城を参考に復元されました。次は西門です。次は大垣藩初代藩主・戸田氏鉄騎馬像です。次は天守の西面です。次は本丸の南口にある鉄(くろがね)門跡です。次はその横に立つ金森吉次郎像です。金森吉次郎は1896年の大洪水時には、大垣輪中堤防委員長として指揮をとり、水没した大垣輪中内の4万の人命を救いました。次は天守の石垣に刻まれたその洪水の水位跡です。次の2枚は本丸とその北西隅に築かれた天守です。次は天守最上階からの関ケ原方向の眺望で、一番高い山は伊吹山です。(2026年5/30撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小倉城日本庭園は、小笠原家の別邸であった下屋敷跡を1998年に復元した池泉回遊式庭園です。1602年に細川家の筆頭家老・松井康之は主君・細川忠興とともに中津藩から小倉藩へ移る際、この地に屋敷を建てました。1632年に細川家に代わり初代藩主・小笠原忠真が入国して、以後234年間にわたる小倉藩の統治を開始しました。5代藩主・小笠原忠苗(ただみつ)の時代に、和歌や茶道を楽しむための下屋敷が完成し、この屋敷は天守のすぐ下に位置していたことから、「御下屋敷(おしたやしき)」と呼ばれていました。しかし、1866年の第二次長州征討の際に御下屋敷は焼失しました。この小笠原家は「小笠原流礼法」の宗家としても知られています。小笠原流礼法とは、室町時代から700年以上続く、武家社会に由来する日本の伝統的な礼儀作法です。相手を思いやる心を自然な所作で表すことを本質とし、無駄のない合理的で美しい振る舞いを基本としています。

 最初の写真は書院棟の大玄関です。次の2枚は大玄関前と庭園側から見た書院棟で、内部は上段の間、一の間、二の間、取次の間に分かれており、広縁の一部が池に張り出した懸造りになっています。次はその上段の間の床の間です。次の2枚は書院棟の広縁からみた庭園の全景で、この庭は「浮見の庭」とも呼ばれ、池泉の水面が周囲よりもかなり低く設計されている「のぞき池」です。次の3枚は池の滝口、石組、州浜の様子です。次は庭園越しに見た天守閣です。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小倉城は北九州市にある平城で、勝山城、指月城とも呼ばれています。1569年、毛利氏が城を築いたことに始まり、毛利勝信などが居城しました。関ヶ原の戦いで徳川家康に与した細川忠興は、徳川政権下で豊前国へ加増転封となり、1602年から7年かけて唐造の天守閣を築城しました。細川氏が肥後国熊本藩へ転封となった後、1632年に譜代大名である小笠原忠真が入城し、幕末まで小笠原氏が居城しました。1837年には失火のため天守閣が焼失し、残る城郭も1866年、第二次長州征討で長州藩の反撃を受けた小倉藩が、混乱の中で自ら城を焼却しました。戦後、1959年に天守閣が再建されました。

 最初の写真は大手門跡で、枡形門です。次は藩主、家老などのみが通行を許可されていた格式の高い槻(けやき)門跡です。次は鉄(くろがね)門で、通常の武士の登城口として使用されていました。次は西ノ口門跡で、搦手門(からめてもん)にあたります。次の2枚は本丸から見た天守です。細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観が特徴だったが、再建の際に天守としての見栄えを優先して大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が追加されました。次は再建された着見(つきみ)櫓です。次の2枚は内堀と内堀越しの天守です。次は北の丸跡に建てられた八坂神社の正門脇にある小倉城の北口門跡です。次は北方向からみた天守です。次は天守から見て寅の方角にある虎の門跡です。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宇佐神宮は大分県宇佐市にある神社で、宇佐八幡とも呼ばれ、全国に44,000社ある八幡宮の総本宮です。その本殿は小高い丘陵の小椋山山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、境内は国の史跡に指定されています。祭神は一之御殿が八幡大神(はちまんおおかみ)、二之御殿が比売大神(ひめのおおかみ)、三之御殿が神功皇后の3柱で、社伝によれば、応神天皇の神霊である八幡大神が571年に宇佐の地に現れたのがその始まりとされています。その後、奈良時代の823年に本殿が完成したと伝えられています。また、769年には道鏡による宇佐八幡宮神託事件が起こったことはよく知られています。

 最初の写真は門前の仲見世です。次は寄藻川に架かる神橋です。次は表参道大鳥居です。次の2枚は参集殿と神宮庁斎館です。次は絵馬殿です。次の2枚は参道の左に広がる菱形池とその中島に建つ能楽殿です。次の2枚は御炊宮(みけみや)とも呼ばれる下宮の門と本殿で、810年代に嵯峨天皇の勅願によって創建され、上宮と同じ3神が祀られています。次は若宮神社で、応神天皇の若宮である仁徳天皇を祀っています。次は西大門で、桃山風の華麗な構造です。次は南中楼門で、上宮の勅使門です。南中楼門の内にある上宮御殿は一、二、三之御殿とも八幡造の様式で、2棟の切妻造平入の建物が前後につながった形をとっており、奥殿は「内院」、前殿は「外院」といわれています。次は上宮の裏、菱形池の畔にある御霊水で、3つの霊泉があり、八幡大神が現れたところと言われています。(2026年5/15撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 旧益習館庭園は兵庫県洲本市にある池泉回遊式庭園で、日本最大級の巨石を用いた武家庭園として、2018年に国の名勝に指定されています。淡路島は大坂夏の陣の後に徳島藩の領有となり、藩主・蜂須賀氏の筆頭家老だった稲田氏が淡路支配を担う洲本城主に任命されました。この旧益習館庭園は稲田氏の別荘「西荘」の庭として江戸時代初期に作庭された後、1854年に稲田氏の私塾学問所・益習館となりました。幕末には桂小五郎、山形狂助、西郷吉之助らも滞在したが、捕吏の追跡で由良浦から海を渡り、紀州へ逃げ延びたと伝えられています。1870年の庚午事変により、益習館の建物は焼失したものの庭園は残りました。庚午事変とは、明治維新に伴う禄制改革に逆らい、陪臣の稲田家臣が稲田家の分藩独立運動をおこしたことで、主君の徳島藩士の怒りを買い、徳島藩士が稲田とその家臣の屋敷を襲撃した事件です。この旧益習館庭園のある場所は、当初は洲本城建築のための石切場だったことから、この庭園の見どころである巨石をふんだんに用いることができたと思われます。

 最初の写真は、庭園入口から見た庭園の全景です。次は山側から見た母屋です。次の2枚は東西に長い池泉の全景です。次は母屋と池泉の間の花崗岩の飛石の連なりです。次は池泉の山側護岸に置かれた高さ4m、幅5.8mの和泉砂岩の巨石です。次は自然石を使った高さ4mの巨大な山燈籠です。次は同様に自然石を使った雪見燈籠です。つぎは曲田山の斜面に置かれた石群です。次は借景とされた山城である洲本城の天守です。(2026年5/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊弉諾(いざなぎ)神宮は淡路島にある神社で、淡路国一宮であり、旧社格は官幣大社です。祭神は日本神話の国産み・神産みに登場する男神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と女神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。古事記・日本書紀によれば、伊弉諾尊と伊弉冉尊が淡路島を始めとする国生み・神生みを果たし、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国家統治を委ね、当地である淡路島の多賀の幽宮(かくりのみや)で余生を過ごしたとされ、これが伊弉諾神宮の起源です。幕末までは禁足地の神陵の手前に本殿があったが、明治初年の造営事業で神陵地を造成し、墳丘上に本殿が移築され、幣が付設されました。

 最初の写真は大鳥居で、花崗岩製の神明型鳥居としては全国最大級です。1995年の阪神・淡路大震災で倒壊したものの、その年の内に再建されました。次はさざれ石です。次は参道の脇にある放生の神池で、幽宮跡にあったとされる濠の遺構といわれています。次は茶室・明日庵です。次は1883年に再建された正門で、檜皮葺の四脚門です。次は貴賓殿及び参集殿です。次の2枚は1688年に改修された東・西神門で、徳島藩主・蜂須賀家が寄進したものです。次は夫婦大楠で、樹齢九百年の兵庫県指定天然記念物です。次は1882年に再建された拝殿で、銅板葺入母屋造です。次は1879年に建築された本殿・幣殿で、檜皮葺三間社流造です。本殿と幣殿が屋根で連結されています。次は本殿の左に建つ祓殿(はらいでん)です。次は本殿の右に建つ神輿庫(しんよこ)で、1808年藩主・蜂須賀治昭が造営寄進しました。(2026年5/05撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 MOA(エムオーエー)美術館は静岡県熱海市の高台にある私立美術館で、岡田 茂吉が1982年に開館しました。その前身は熱海美術館で、岡田 茂吉の収集品である国宝3件、重要文化財67件を含む3500件の東洋美術品を所蔵しています。岡田 茂吉は明治から昭和にかけての芸術家、実業家、思想家、宗教家で、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動しました。1945年に箱根強羅と熱海の土地を購入し、同じ時期に美術品の蒐集を本格的に始め、1952年に箱根美術館、1957年に熱海美術館を開館しました。

 最初の写真は、MOA美術館のエントランスで、ここから本館まで、60mの高低差があり、7基のエスカレータで斜面の地下を上がっていきます。次は黄金の茶室で、1586年、豊臣秀吉が正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したものです。次は展示されていた野々村仁清の国宝・色絵藤花文茶壺です。他に有名な尾形光琳の国宝・紅白梅図屏風を所蔵しています。次は本館に隣接している「茶の庭」の入口にある唐門です。次は光琳屋敷で、尾形光琳が過ごした京都の屋敷を、光琳自筆の図面などの史料に基づいて1985年に復元したものです。次の3枚は、光琳屋敷の前にある露地風の庭園です。次の2枚は石造国東塔と石造十三重宝塔です。次は片桐門で、神奈川・大磯の三井家城山荘内にあった門を移築したものです。次は本館メインロビーから見た熱海の眺望で熱海城が見えます。(2026年4/21撮影)