いつも読んでくださりありがとうございます(^^)/♪
ひさしぶりに文字制限がかかるか?というくらいに長いページになってしましました。長いです!お時間のない方は、スルーでも構いません。
途中になっていたクインクックのコラムを最後まで読んでみました。
2017-18季からNBAルールになった2way契約(ツー・ウェイ契約=通常は傘下のGリーグチームに所属し、45日間だけNBAのチームでの練習と試合が出来る選手。日本の場合、”ツーウェー”というカタカナ表記もありますね)
クックは、そのツーウェー契約からNBAの正式契約2年を勝ち取りました。
2017-18季のステフィン・カリー不在を補った、煌めく小さなウォリアー、クイン・クック。夢のチャンピオンは、1つ手に入れた。
photo via Quinn Cook IG
この物語は、ウォリアーズがチャンピオンシップ2連覇へ向けてペリカンズとの厳しい戦いをしていた5月に出たものです。
***
『どこに行こうとも、クイン・クックの心の中に亡き父は居続ける』
”Wherever he goes, Warriors’ Quinn Cook keeps his late father in mind”
(現地2018/5/5) By Connor Letourneau
【
クイン・クックは14歳の時に父親を亡くした。
結腸手術中に昏睡状態に陥った父テッドは、その後、1か月経たないうちに死亡した。
涙を流しながら、父の横たわるベッドの側に立ったクックは、男の生きざまを示してくれた父に感謝し、母ジャネットと、姉ケルシーの面倒をみることを誓った。
ほどなくして彼は、バスケットボールを再開するため、ジムに戻った。
3時間以上、彼は黙ってジャンパーを撃ち続けた。
そして、親友のノーマン・ポープ(Norman Pope)も黙ってそのボールを処理した。
photo via QuinnCook IG
ポープは言った。
”あの後の彼は、ほとんどショットをミスしなかった。
凄く集中していた。”
これまでの3年間、プロとしての居場所を求めてアメリカ国内を転々としたクックは、バスケットボールだけが自分の乱れる心を落ち着かせる唯一のものだと気づいた。
NBAの夢をあきらずにいるクックの最大の恐怖は、ゴールネットにSwishすることで和らぐのだ。
(キャ:swish=リムやバックボードに当たらずリングの真ん中を抜けるシュートのこと。スパッと音がすることからきた言葉)
2015年デューク大出身、ドラフト外のクックは、サマーリーグで4度プレイした。
その後、NBAで10日契約に3度サインし、Gリーグ(以前はDリーグ)の多数のゲームを支配したが、NBAチームに4度、解雇された。
2017年10月中旬にウォリアーズと2Way契約を結ぶ4日前、クックはアトランタのプレシーズン最終日に解雇されていた。
これまで彼を形成した男テッドに導かれたクックは、ステフィン・カリーが様々な怪我により戦列を離れたレギュラーシーズン18ゲームの先発を担い、ニューオリンズとのWCFセミファイナルでも、ウォリアーズ将来を決める重要な一員だった。
”今日までずっと、僕はまだパパのことが頭から離れない。”
クックは言った。
”僕は知っているんだ。
どこかでパパは笑いながら僕を見下ろしている。”
クックに最初にバスケットボールを教えたのは、父テッドだった。
クリーブランドのグレンビル高校で6.4フィートのフォワードだったテッドは、その20年後、若いクックにボールハンドリング能力があることを確信した。
クックが自分でそれをマスターしたわけではなく、元から備わっていた能力だ。
クインはわずか3歳で、組織化されたチームでプレイし始めた。
9歳になる頃までには、現在のNBAプレイヤー、ジェラミ(24歳:現OKC)とジェリアン(25歳:現CHI)グラント兄弟と一緒のトラベル・クラブに所属した。
photo via NBA TV capture
テッドは、事実上の ”team dad(チーム・パパ)”だった;
彼は、クインの一番のファンであったが、息子のチームメイトに対しても同じように大声で応援した。
それ以前のクインは、8歳にもなっていないのに、メリーランド州ブーイ(Bowie, Md)のジムでミドルシューターに対するピックアップゲームをした。
テッドは、クインの相手に厳しい指示をあたえた:
”彼に対して、絶対に手加減をしないほしい。”
テッドはクインの得点数よりも、彼の振る舞い方を気にしていた。
テッドは、ワシントンDCのユニオン駅にレモネード・スタンドを所有し、4th & Goal というスポーツ・バー、後に、イベントスタッフ会社を経営した。
しかし、仕事は、息子の生活に関わることから遠ざけておけないほど経営は苦しかった。
8歳になってからのクインは、NFLゲームで父と共にチケット・テイカー(チケットの半片を切り取る仕事)として秋の日曜を過ごした。
第4クウォーターになってその仕事が終わると、クインは父とそのゲームの残りを観たのだった。
ハワード大学のOmega Psi Phi fraternity(USAの男子学生の社交クラブ)のメンバーだったテッド・クックは、マイケル・ジョーダン(ノースカロライナの Omega Psi Phi のメンバだった)や、Omega Psi Phiのイメージカラーのパープル&ゴールドのウエアのレイカーズが好きだった。
クインが小学校や中学校に通っていたのに、テッドは、平日の夜中にTVでレイカーズ戦を観させたほどだ。
”テッドは、凄くかっこよかったんだ。”
クインの幼少期からの親友の一人、ビクター・オラディポ(ペイサーズのガード)が言う。
”彼は周りにいる誰もに好かれるクール・ガイなんだ。
特にその地域に住む若いフーパー(バスケットボール選手を目指す子供)にはね。
手を貸してほしい人の側には、彼が居るんだ。”
クイン・クックのツイッターやインスタグラムの最後には必ず、”RiP DAD!”が書かれている。
彼のラップトップやiPhoneのバックグラウンドは、彼の父の写真だ。
そして、ワシントンDCのストレージユニットに父の古いNBAジャージを保管している。
テレビで父と息子が心を通わすシーンを見るたび、クックはまだ胸が詰まるという。
父の日までの数週間は、特に辛い。
友人と映画を観ている時でもクックは、スクリーンに映る父が息子を抱きしめる場面の後に、席を外すのだ。
気を静めるために出来ることは、彼が病院を見舞った最後に父と約束したことを考えるしかない。
その約束は、家族を養う男になること、
つまり、自分の母と姉の面倒をみることだ。
”僕のゴールは自分の夢を実現する(live out)ことだ、
NBAキャリアを長く続け、チャンピオンシップに勝ち、
彼女らを養うことだ。”
クックは言った。
”僕のママは二つの仕事、セキュリティとイベントスタッフを掛け持ちしている。
姉は、ウェイトレスだ。
僕が落ち込んだり、トレーニングしたくない時はいつでも、僕たちの状況や、自分がやり続けなければならないことを思い出すんだ。”
***
テッドは、結腸を掃除するために、クインの大事なゲームを観に行けないと彼に告げたとき、クインは、それほどそれが重要だとは思っていなかった。
クインは、メリーランド州ハイアッツビルのデマッサ・カトリック高(DeMatha Catholic High School)の1年生でチーム代表に選ばれ、ライバルのゴンザガ大付属高戦で初めての先発に直面していた。
彼のスタッグスがイーグルスに敗れた後、クインは、様子を知るために父に電話をかけた。
処置は上手く行って、翌日に退院することになっていると父はクインに話した。
しかし、更なるチェックで、医師がテッドの結腸に懸念するものがあることに気づき、緊急手術が必要になった。
テッド・クックは、その手術中に心臓発作を起こし、脳への酸素がカットされ、昏睡状態に陥った。
あとどれくらい長く生きられるのか確信がなかったクインの母ジャネットは、クインを学校から呼び寄せた。
クインは、テッドといつもそうしていたように、夜にはベッドサイドでNBAのゲームを観て過ごした。
”パパは持ちこたえると思っていたんだ。”
クインは言った。
”それを信じていた。
それを奇跡とは呼びたくないが、
神様には、物事を上手く行かせる手段があるんだ。”
2008年3月3日午前11時頃、
電話に10回もの着信があったことに気が付づいたとき、クインは、ポープとピックアップをプレイしてた。
ほどなくして、ジムのドアから跳び込んできた父の友人の一人が、クインに言った。
”病院へ行かなくては!”
テッド・クックは、心臓発作から2週間後に亡くなった。
48歳だった。
***
地元のAAU時代からクインの友人だったケビン・デュラントは、シアトル・スーパーソニックスと共にデトロイトでのロードトリップ中に、訃報を知った。
クインの父親のことを辛うじて知っていた程度だったが、父と二人の兄弟がいるデュラントは、哀悼を示すためにクック家に立ち寄った。
ノラン・スミスは、テッド・クックが亡くなった時にデューク大学の一年生で、元DCのアカデミーのスターだった。
若い年齢で父を失うと共に来るもの全てを理解していたスミスは、彼の苦しみをトレーニングへ向けることを勧めた。
8歳のときにスミスも、元NBAプレイヤーの父D・スミスを心臓発作で失くしていたからだ。
”何かがあったときに、自分の父親が本当にいないんだと実感する時が来る。”
スミスは言った。
”それを乗り越える人は皆、それぞれ違う方法でそれに対処する。
クインがそうなったときに、彼のために、僕がそこにいてやる必要がある
と僕は知っていたんだ。”
photo via Quinn Cook IG (左側がノラン・スミス)
父を失くして2か月後、クックはAAUトーナメント中に左膝の外側半月板を断裂し、その夏の間、戦列から離れることになった。
父、そしてバスケットボールの二つを突然奪われたクックは、命綱を失くしたように感じた。
大学の奨学金は、もはや重要ではないように思えた。
クックは、深夜まで外出するようになり、ふさわしくない人たちと付き合ったり、夜の学校でパーティをしたりしていた。
ある日の夕方、クックの母はスミスに電話をして、
”クインをもう少し強く抱き締めて欲しい
(pull Quinn in a little bit tighter)”
と頼んだ。
その地域の有望なアスリートの多くが罠にかかったギャングや街角に集まる悪い大人たちにクックが屈するのではないかと母は心配だったのだ。
9月の大半、クックはデューク大(ノースカロライナ州)でスミスの訓練を受けた。
ワシントンから離れることが、クックを再びこちらへ向かせたのだ。
デマッサ・カトリック高での最後の2シーズン、クックは、ゲーム前のウォームアップ中、父の生涯を記念したTシャツを着た。
photo via Quinn Cook IG
2010年の9月シニア・イヤー、
バージニア州マウス・オブ・ウィルソンにあるオークヒル・アカデミー(Oak Hill Academy)へ転校するために所持品を梱包するとき、クックはある写真を忘れずに持ってきた。
”僕とパパのドライブウェイの途中だった。”
とクックは言った。
”パパは笑っていて、僕はボトルの水を飲んでいるんだ。
僕はたぶん11歳くらいだったかな。
ブックバック(学生カバン)にこの写真をずっと入れているんだ。”
その写真は、デュークで4年、そしてプロになって放浪していた3年間も、彼とずっと一緒だった。
2015年キャバリーアズから解雇された後、クックは、次の16か月の多くをカントン・チャージ(CLE傘下のGリーグ)で過ごした。
このGリーグチームの拠点は、クックの父の故郷だ。
子供の頃ワシントンの郊外で育ったクックは、夏になると、カントンにいる父の家族を訪れたが、
父が亡くなってからは、クックは父と最も親しい彼らに徐々に会わなくなっていた。
しかし、カントン・チャージでの彼の2シーズンで、クックは、父方の親戚との関係が再び深くなった。
彼のホームゲームには毎回、少なくとも10人の馴染みの顔があったし、感謝祭やクリスマス、スーパーボール(NFLの優勝を決定するUSA最大のスポーツイベント)の時は、叔母や叔父の家で、彼の父の思い出にふける時間を過ごした。
”神様であるように僕は感じたんだ。”
クックは言った。
”僕がどこへ行っても、パパが僕の行く道を導いているのだと思う。”
昨夏(2017)、クックは、NBAでの長期の役割を追い続けるために、ヨーロッパのチームのはるかに有利なオファを断った。
彼の論理は単純だ:
スポーツの最高レベルに属するかどうかに疑念を持つ誰をも黙らせるには、
彼には延長の可能性だけが必要なのだ。
”クインは、精神的に強い人間だ。”
今はクックのチームメイトになったデュラントが言った。
”彼は、いろんな目にあってきた。
他人がどう思おうと、
自分やりたいことをやれるNBAにたどり着くために、
彼は、全く何にも動じなかったんだ。”
レギュラーシーズン終盤に、カリーが足首捻挫とMCL捻挫でゲームを離れたことで、クックはゴールデンステイトのポイントガードの先発に抜擢された。
レギュラーシーズン最後の15ゲームで、クックは試合平均16.9ポイント、4.6アシスト、4.1リバウンドだった。
それは、2017-18季レギュラーシーズン最終日に、2ウェイ契約から通常の2年契約にコンバートするには十分な数字だった。
(キャ:GSWとのNBA契約は、2018-19季1.5M、2019-20季1.9M/QO)
クックの家族は、もはやお金に思い悩む必要はない。
”パパに誓ったんだ。
僕はママと姉さんを養うと。”
クックは言った。
”それがまさしく僕がやるべきことなんだ”
】(情報元:Wherever he goes, Warriors’ Quinn Cook keeps his late father in mind)
苛酷な経験をした人がまったくくじけないわけがなかった。
大学の大事なゲームに怪我出られずにふてくされていて、コーチKに呼び出されて戦力外通告されそうになったクイン、実は、夜通し遊ぶとか、ぐれてたんだ...。
そういう弱い面もあったクインを知って、人間らしくて益々好きになりました。
photo via Quinn Cook IG
超ハングリー精神で2018-19季の契約を手に入れたクイン・クック。
激しい西の戦いが予想される中、ステフの頼れるバックアップ・ガードとして躍進してNBAでの長期契約に成功できるよう、頑張って欲しいですね!
さて、
ツーウェー契約つながりで言うと、今季日本でも多く報じられた渡辺雄太選手。
先日、テレ朝の報道番組でインタビューを受けてましたね!
身長206cm、ウィングスパン209cmという体格に日本人アナが仰天してました。
最近の若手NBA選手は手長族なので、有利、ではありませんが、
”日本人でも引けを取らない体格と運動能力”という点で、期待は大きくなります。
(ちなみにうちの次男ハリソン・バーンズは身長203cm、ウィングスパン211cm)
日本人には想像しがたい世界から這い上がっている選手達を押しのけ、上に上がるには凄く大変だと思うけど、彼も違う形で厳しい体験や努力を相当しているはず。
頑張って正式なNBA契約を獲得できる2018-19季になるといいですね!
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★今日のイデオム:
fret over :~を心配する、~に思い悩む
untethered :命綱を失くしたような
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