恐るべし、乙巳の変!2 | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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秋山の黄葉を茂み迷ひぬる

 

妹を求めむ山道知らずも

 

 柿本人麻呂

 

<訳>

 

秋の山の黄葉があまり茂っているので迷い入ってしまった愛しい女性を

 

探し求める山道が分からないことだ

 

 


奈良旅行3日目は、雨でした。私の奈良旅行の雨率は高めです(泣)計画を縮小して、歩いていける2つの神社へお参りしました。

 

本当は午前中にレンタサイクルで、入鹿神社・人麻呂神社・宗我坐宗我都比古神社・天高市神社・磐余神社とまわりたかったんですけどね。

 

 

 

 

 

柿本人丸神社

 

 

柿本人麻呂は三十六歌仙に数えられるほどの歌人です。

 

けれども、万葉集に載る歌以外、記紀等の史書には出てきません。万葉集の歌とそれに附随する題詞などから、天武~持統天皇の時代に出仕していたといわれます。

 

 

 

 

鳥居には柿本人丸神社と書かれていますね。

柿本人麻呂は、色々な漢字表記があります。「人生まる(ひとうまる)」で安産の神、「火止まる(ひとまる)」で防火の神など、全国各地で祀られています。

 

 

 

 

 

 

祭神 柿本人麻呂

葛城市柿本神社から分霊

 

 

 

神社のある地黄という地名は、生薬の地黄が盛んに作られていたことからついたそうです。

 

<<生薬につかう部位   

 

<<名札がついてる!

 

 

地黄は、別名:佐保姫(さほひめ・さおひめ)といわれる。

 

とありましたので、調べてみました。

 

 

 

 

狛犬

 

佐保姫

春をつかさどる神。佐保山は奈良の都の東方にあり、方角を四季に配すれば春にあたるところからいう。春の女神。

 

春に咲くからでしょうかね?他にも春に咲く花はいっぱいありますよね?もっと調べてみなければ。

 

延喜式巻第三十七 うしろから4行目中ほどに「生地黄」「サホヒメ」の記述あり。

 

「延喜式巻第三十七」と書いてあるのが多かったので、「延喜式巻第三十七 うしろから4行目中ほど」を調べてみました。

 

 

 

・・・ないです💧しかたないので、「延喜式巻第三十七」をはじめから読んでみました。

 

ありました。ありましたよ、「延喜式巻第三十七」の3ページ目の一番最後~4ページ目一番最初めにまたがって(-_-)

 

「生地黄」ルビには「サ?ヒメ」と書いてありました!(「?」の文字がよくわからないので、すみませんがご自分で確かめていただけますか?)

 

 

「ネット検索は鵜のみにしてはいけない」と、植物の諸先輩方から教わっててよかった。コピペ・コピペで間違った情報が広がっているんだそうです。

 

なので、植物はもちろん、古代史や考古学の記事を書く時には必ず(なるべく?)大元を読むようにしています。

 

 

あ、でも「地黄の別名がなぜ佐保姫か?」ということはわかりませんでした(笑) 延喜式が書かれたころには「佐保姫」とよばれていたということだけはわかりましたが。

 

 

 

 

本殿

 

重要文化財

 

解体修理で発見された棟木銘から康永4(1345)年の建立とされる。

 

 

 

 

入鹿神社

 

祭神

蘇我入鹿

素戔嗚尊


 

飛鳥板葺宮で中大兄皇子や中臣鎌足らに斬られたとき、入鹿の首が小綱町まで飛んできたことから、この地に祀られていると伝えられます。

 

 

 

飛鳥板葺宮で斬られた入鹿の首は、飛鳥寺の西の方にに飛んで行ったんじゃなかった? と思ったら、他にもいろいろな場所に首が飛んで行った伝説がありました。

 

 

〇橿原市曽我町の「オッタ屋」


蘇我入鹿の首は、現在の橿原市曽我町の東端「首落橋」の付近にある家のあたりに落ちた。それでその家を「オッタや」と地元では呼んでいる。かってはその家の横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという。

橿原市曽我町には、蘇我一族の居館があったと言われ、蘇我馬子が創建した宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が鎮座している。

 

 

 

〇桜井市の「談山神社」


中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿討伐をたくらむ密談をしたという故事により、別名・談山(かたらいやま)と呼ばれる桜井市多武峰の談山神社。


蘇我入鹿の首が落ちた場所は談山神社の上手とされる。二人を恨む蘇我入鹿の執念の深さを表すように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたという。

 

 

 

〇明日香村の「もうこの森」


石舞台古墳から東の「もうこの森」の気都和既(きわつき)神社付近まで中臣鎌足を追いかけ回したという伝承がある。


入鹿の首に追われて中臣鎌足がここまで逃げ込み、「もう追ってこぬだろう」言ったことに由来すると言われている。

 

 

 

〇三重県松阪市飯高町舟戸にある蘇我入鹿の首塚

 

入鹿の奥さんと娘がこの地に持ってきて祀ったのが、その五輪塔だという。
 

高見山に登るときに鎌を持っていくと必ずケガをするとか、又五輪塔に詣でると頭痛が治るとか言われている。


又、近くにある「能化庵」には、蘇我入鹿亡き後、妻と娘が尼になって霊を弔ったという寺院跡が残っている。


首塚があるのは三重県三重県松阪市舟戸だが、近くには草鹿野(そがの)と言う地名もあり、このあたりは当時何らか蘇我氏と関係のある地であったのかも知れない。

 

  <<入鹿神社HPより

 

 

まあ、伝説なんてそんなものよね~(笑)



 

 

 

 

小綱町の隣町には曽我町といった地名も残っています。曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っています。蘇我氏ゆかりの地です。

 

 

 

 



素盞鳴尊


明治時代に入鹿神社から約4kmの所に明治3年に橿原神宮が造営されることになった。

 

神武天皇を祀る橿原神宮の近くに、逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、

 

祭神をスサノオに、社名を「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、

 

地元住民はそれを拒んだ。


「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっていた時代も含めて

 

地元の人々から「蘇我入鹿公」と公を付けて崇敬を集めている。 
 

 

 

 

 

 

 

他にもこんな伝説があります。

〇蘇我入鹿は鶏鳴を合図に首をはねられたため、地元住民は鶏を飼わなかった。


〇小綱で生れたものは蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起る。


〇明日香村小原は中臣鎌足の母の出生地だということで小綱町と小原は縁組みしない。


恐るべし、乙巳の変!あ、これ11/6でも書きましたね(^^;

 

 

 

首を斬られた蘇我入鹿にちなみ、首から上の病にご利益があると言われています。

 

 

 

 

 

 

本殿

 

市の指定文化財

 

御神体

 

木像の素戔鳴命の立像

 

入鹿大臣の坐像

 

 

 

 

同じ境内には大日堂があります。

 

正蓮寺大日堂

 

国指定の重要文化財

 

建造形式 桁行三間、梁行三間、一重、寄棟造、本瓦葺

 

 

本尊の大日如来坐像 

 

国の重要文化財

 

鎌倉時代

 

 

 

 

 

裏には小さな山野草園があります。

 

 

ホテルのチェックアウトの時間に間に合うように、来た道を戻りました。

 

 

 

 

 

行きに気になっていた案内板。やっぱりお参りするでしょう(笑)

 

 

 

 

内膳大師

 

 

 

 

さっと手合わせ、ホテルへ。無事にチェックアウトを済ませ、橿原考古学研究所へ向かいます。

 

今、橿原考古学研究所付属博物館は改装中で長期お休みです。研究所の方のアトリウム展を観に来ました。

 

 

 

 

アトリウム展その1

「桜井茶臼山古墳出土木棺」展示

 


桜井茶臼山古墳は、

 

奈良盆地東南端の桜井市外山に所在する

 

古墳時代前期前半につくられた全長 200mの前方後円墳

 

 

 

 

 

石室から取り出した木棺は、埋蔵環境の中で弱った部分を強化するため合成樹脂を利用して保存処理を行いました。

保存処理には、ポリエチレングリコール(PEG) を用いて、約 2 年半をかけて浸透させて、1 ヶ月間の乾燥期間を経て展示・公開ができるようになりました。

 

 

注意注意10月31日で展示は終わりました。

 

 

 

 

 

アトリウム展その2

「飛鳥京跡苑池・小山田古墳を空から見てみよう」

 


史跡・名勝飛鳥京跡苑池および小山田古墳では、奈良県立橿原考古学研究所が継続して発掘調査を実施し、ともに大きな成果を挙げています。

 

今回、その成果を撮影したドローン映像(動画)を編集し、上空から見た発掘調査の様子を公開します。

 

 

やっぱり動画はいいですね。こっちは11月29日(金)までやってますよ。

 

 


 

 

 

この後、畝傍山を見ながら一駅歩いて橿原神宮前駅へ向かいます。