東国三社めぐり~鹿島神宮1~ | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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鹿島神宮・大鳥居


 

御祭神:武甕槌大神

 

神武天皇元年創建

 

 

 

東国三社めぐり・鹿島神社にやってきました。9時をまわっていたので、息栖神社よりは人がいましたね。

 

 

というか、平日雨・6時の息栖神社は人が全くいなかったです。会ったのはねこちゃんだけでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

楼門

 

日本三大楼門の一つ

 

 

 

 

左右に弓を持つ随身像

 

 

 

 

その裏には・・・?

 

境内に生えていた杉の御神木の倒木で作られたオブジェで、右:雷と太陽、左:雷と月が描かれています。

 

雷は御祭神の武甕槌大神。別名・建御雷神とも書きますものね。そして、太陽は天照大神、月は月読尊を表しているそうです。

 

 

 

 

 

 

茅の輪

 

ここではくぐり忘れました💦

 

 

 

 

 

何やらわらで作った人形のようなものが並んでいますが・・・

 

 

 

 

 

大助人形(お鹿島さま)

 

集落の堺に建てることで、疫病が集落に侵入するのを防ぎ、退散させる

 

常陸太田市金砂地区では、鹿島の大神の東北平定の際にお助けした兵士の姿と伝わっている。

 

 

 

 

 

新型コロナウィルス退散のため、神社が祈念したそうですよ。この人形のインパクトが強くて、茅の輪くぐりを忘れてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

拝殿

 

 

武甕槌大神は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。

神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。

 

この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。

 

 鹿島神社HPより

 

 


 

 

 

 

本殿

 

拝殿も本殿も北向きに建っています。これは、東国支配の拠点として鹿島神宮が重要な位置を示しているといわれます。

 

 

その後、東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。

 

さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。


鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われますが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行されます。

 

 

また毎年元日に行う「四方拝」では、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)も拝されています。

 

 

 

 

 

 

 


本殿と御神木


高さ約40mのスギ

 

樹齢約1300年

 

 

 

 

 

 

本殿

 

 

武甕槌大神の佩刀は韴霊剣と伝わります。

 

 


古事記には

天孫降臨を果たしたニニギの曽孫イワレヒコは、幾多の困難に遭遇しながらも大和を目指します。

 

一行が熊野に上陸すると、悪神の毒気により兵士たちが次々と重い疫病にかかり倒れてしまいます。

その時、アマテラスオオミカミとタカキカミがタケミカヅチを遣わそうとしたところ、タケミカヅチは

 

 

 

「僕は降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし」

 

とまをしき。

 

この刀の名は佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。

 

この刀は石上神宮に坐す。

 

 

<訳>

「私が降りなくても、その国を平定した刀があるのだから、この刀を降ろしましょう」

この刀の名前は佐士布都神(サジフツ)といい、別名を甕布都神(ミカフツ)といい、別名を布都御魂(フツノミタマ)という。


この刀は石上神宮にある。

 

 

 

そしてタケミカヅチは熊野の高倉下の夢に立ち、天津神の皇子(イワレヒコ)に献上するよう伝えました。

この韴霊剣の霊力によって兵士たちは力を取り戻し、平定することができました。

その後、イワレヒコは大和の橿原宮で初代天皇・神武として即位しました。

 

鹿島宮社例伝記では、神武天皇は即位元年に鹿島神宮を勅祭したと伝えています。

 

 

 

韴霊剣は物部氏の遠祖により代々宮中でお祀りされていたのですが、崇神天皇の御世に大和の石上神宮石上にお遷されました。

 

 

 

 

一方、鹿島神宮の宝物に全長2.7メートルを超える長大な神剣「直刀」)がございます。

 

この直刀の製作年代はおよそ1300年前と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣として昭和30年に国宝に指定されております。

これは、神話の上ではこの韴霊剣が武甕槌大神の手に戻ることなく、神武天皇の手を経て石上神宮に祀られたことから、現在では「二代目の韴霊剣」と解釈され、現在も「神の剣」として鹿島神宮に大切に保存されております。

 

鹿島神宮HPより

 

 

 

 

 

 

 

大豊竹(だいほうだけ)

 

鹿嶋市宮中の鹿島神宮で3月9日に開かれる祭頭祭(さいとうさい)の五穀豊穣(ほうじょう)を願うシンボル

 

当番地区が約1年かけて丹精に育てたマダケを奉納し、祭り前日に立てる。

 

そして祭りの最後に行われる「春季祭」で粉々に砕く。粉々にしていくことで、たわわに増していく五穀豊穣を願う。


 

 

 

ということは、今(6/22)は粉々になっているはず・・・?今年は春季祭が行われなかったということでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

高房社

 

御祭神    建葉槌神


建葉槌神は、武甕槌大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した。


古くから、まず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

仮殿


元和4年(1618)、社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納。

 

まずこの仮殿に神様をお遷ししてから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営した。

江戸時代は楼門を入った真正面にあり、その後2回の移動で現在の場所へ。

 

 

 

 

高房社と仮殿の間にあります。なんでしょうか?

 

 

 

 

 

ここから奥参道になります。奥宮に向かって300m程、5月1日には流鏑馬神事が行われるそうです。

 

 


 

 

 

 

 

鹿島神宮は広大な森におおわれています。スギ・シイ・タブ・モミの巨樹など600種以上あり、生育南限と北限の植物が混ざっています。

 

雨のせいか水を吸い上げるような、鼓動のような、息遣いのようなものが感じられました。参道を外れると、飲み込まれていまいそうでした。

 

 

 

 

 

 

 

鹿島神宮では、鹿が神の使いとされています。

 

 

 

 

故爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問はしし時に、答へ白しけらく、

 

「恐し。仕へ奉らむ。然れども此の道には、僕が子、建御雷神を遣はすべし」

 

とまをして、乃ち貢進りき。

 

爾に天鳥船神を建御雷神に副へて遣はしたまひき。




アメノカクを派遣して、アメノオハバリに問いてみると、


「恐れ多いことです。お仕えしましょう。しかしこの道には、私の子、タケミカズチを遣るべきです」


と答えた。

 

そこでアメノトリフネをケミカズチに添えて、派遣した。

 

 

 

 

葦原中国平定の使者に推挙されたアメノオハバリのもとに、 アマテラスオオミカミの使いとして赴いた神がアメノカクです。

 

カクについて諸説があり、

 

~中略~

 

「迦久」は「天之迦久矢」と同じく「鹿児」の義で鹿神とする説。塞き上げられた場所を越えていく鹿の跳躍力からの連想、または鍛冶に使う鞴は鹿の皮をなめして作られることとの関連かと指摘される。

 

国学院古事記センターより

 

 

ということから、鹿が神の使いとされています。

 

 

また、奈良の春日大社を創建する際も、鹿島の神様が鹿の背中に乗ってやってきたといわれています。

 

 

 

 


 

 

さざれ石

 

 

 

 

 

熱田社

 

御祭神:素盞鳴尊・稲田姫命


明治以前は七夕社といっていた

 

 



この後は、奥宮へ向かいます。