息栖神社が日川から今の地に遷座した際、
取り残された男女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けた。
そして、
とうとう自力で川を遡り、一の鳥居の下にヒタリと据え付いた。
東国三社~息栖神社~の続きになります。
遷座する前の息栖神社は、現在地より東南に8kmの日川(にっかわ)に鎮座していました。今の石塚運動公園 の辺りです。
石塚運動公園脇にある「石塚開発の碑」のそばに、案内板が立っていました。
約 1300 年前の大津波で社が流されてしまったので現在地へ遷座したそうですが、この大津波が記録に残っていないか調べてみました。
大同2年(807年)4月13日
藤原内麻呂によって現在地に遷座
と社伝にあるので、807年よりも前のおこった大津波のはず。調べてみたら、日本後紀にこんな記録が。
(延暦18年8月)丙子
常陸国言
鹿嶋 那加 久慈 多璃四郡 今月十一日
自農至晩津 海潮去来凡十五度
満則過常涯一町 洞則鍮 限廿絵町
海畔父老倉云 古来所未見聞也
<訳>
延暦18年(799)8月5日
常陸国が申し上げる。
鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡で、今月11日早朝から晩までに津波が15回おしよせた。
いつもよりも一町ほど内陸におしよせ、引く時には20余町ほどひいた。
海沿いに住む老人は「今まで見たことも聞いたこともない」と言っている。
元の息栖神社の祠は、この799年の大津波で流されてしまったのではないでしょうか。
石塚という地名は、大津波で被害を受けた息栖神社の灯籠など石の塚からつけられたようです。
東国三社を線で結ぶと二等辺三角形になりますが、鹿島・香取、そして日川を結ぶと正三角形になるそうですよ!
今のような測量技術がなかった時代、どうやって正三角形になるように東国三社を建てたのでしょうかね~?
はい、古墳です。私が神社だけを巡るわけがありません(笑)
権現塚古墳
高さ約20m・標高約5.6mの東西方向を主軸とする前方後円墳。
前方部より後円部が高いことから、古墳時代前期に築造されたものと考えられる。
現在神栖市内に現存する唯一の前方後円墳。
後円部には祠がありました。
狛犬
狛犬
祠
後円部から前方部
前方部から後円部
前方部から道路へ下りちゃいました。
前方部を北側から。くびれのあたりに廃車があって残念💦
前方部を東側から。こちらは崩れてます。ここから下りてしまったんですけどね。
南の方へまわってみました。
ビロードモウズイカ。漢字で書くと「天鵞絨毛蕊花」。烏賊ではありません(笑)
でもね、名前を思い出すたびに「イカ・いか・烏賊」と、巨大な烏賊が船を襲う場面が頭に浮かぶんですよね~。そんな映画を子供のころに見たような・・・
私のように「ビロード モウズ イカ」と区切ると、大スペクタクル映像が頭の中で展開されます。
区切る場所は「ビロード モウズイ カ」ですよ、お間違いなく(笑)
森になってますが、古墳の森ではなく、神社の森ですね。
あぜ道に草。
カズノコグサ?君はカズノコグサだよね?会いたかったんだよ~。今年はイネ科を覚えようと思ってね。図鑑眺めてたら、君に目が留まったんだよ。いや~、願えば叶うってほんとだね~。
と、蜜に接してみました(笑)
クサネム
花がみたいな~。
あの赤い物体はなに?ブツブツしてるよ!?
ググってみたら、ジャンボタニシというらしいです。
「ジャンボタニシに注意!」とか、「ジャンボタニシの被害から・・・」「ジャンボタニシの防除対策・・・」なんていうのが、ダーーーーっと出てきました。
ジャンボタニシはスクミリンゴガイのことで、「タニシ」ではないようです。姿がタニシに似ているってことですかね?
後円部にあった祠の鳥居がありました。神社の名前はわかりませんでした。
権現塚古墳のレプリカが神栖市歴史民俗資料館に展示されているそうなんですが、この日は月曜で休館だったのです。
たまたま夫の会社が創立記念日で休みということで、月曜に来てしまったのです。また冬にでも来ようかなあ。