昨日は、ヴァージニア州のヴァージニア・ビーチに日帰りで行ってきました。フォーカスの調子が悪く一ガロン、30マイルで行ける所を20マイルぐらいのオアシスで行ったのでちょっとガソリン代が高くついてしまった。

家内の両親が何年か前までこの付近に住んでいたので勝手がわかる所、ヴァージニア・ビーチでも観光地のビーチよりちょっと離れた地元のビーチで、人も多くないはずだったのですが、

「人、人、人」

金髪ビキニのお姉さんがタバコを吸いながら波と戯れているのはいいけど、その煙を吸わされているオジサンや子供のことはまったく頭にないのでしょう。おまけにその吸殻をそのまま海に「ポイ!」

ほぼ毎日、人の吸殻を片付けている身としては、あまり気持ちの良いものではありません。あの吸殻の運命は、、、

リンゴのかじったあとでさえ、土に返るまでけっこう時間がかかるのに、たばこの吸殻ってどれだけ時間がかかるか誰も考えない。小さいし たいしたことない。ゴミの山を作るのが現代文明のシンボルというのはどう転んでもいいという気はしないのですが、大量消費の洗礼を受けてしまった以上、抜け出るのは至難の業です。小学校の教育で、原子力発電から生まれる放射能性廃棄物の社会見学があれば少しは変わるかもしれない。

今日は仕事でアパートメントにいってきましたが、住人たちの引越し週間でかなりのゴミがでてまして、半分ぐらいしか使ってない液体石鹸から石みたいに重いレポート用紙の山、プラスティックのゴミ箱、開けられていない缶詰、捨てられているカーペットを広げれば髪の毛や埃と共にコインがあちらこちら。大学で知識を学ぶのはもちろん大切でいい仕事に就く事がゴールでしょう。

神様の事を勉強しなさいとは言わないけど、彼らに道徳を学ぶ機会はないのかな。

17年前の作品、ときどきのんびりボーっとしながら観賞してますが、古代、クルマ神(亀の姿をしたクリシュナ神)が現れたときは、ガメラよりはやっぱり威厳があったことでしょう。それはともかくこのエンディングテーマ、「君」を「クリシュナ神」に変えると、、、、。どんな人のハートにもクリシュナ神は「パラマートマー」として僕らに慈愛を注いでいます。作詞の中野サンプラザさんもきっと「君」を感じたのかもしれません。


子供の頃は感じていた 目に見えないそのパワーを
みんな確かに信じていた 大きな意思の力がある
君を好きになって 今、思い出したことは
あの深い森の中で 僕たちは泣いていたね
涙 ちぎれた僕らの愛 空に宇宙に有り続ける
いつか再び出会えるなら 久遠の神話は蘇る

大人になって歩き出した 抜け殻の愛の世界を
憎しみや争いが起こり 野山に花も咲くことなく
君の胸に抱かれて 今、思い出したことは
あの重い雲の中で 僕たちは呼んでいたね
過去と未来のはざまにある 闇の宇宙に僕らがいる
めぐる命は風にまかれ 愛した記憶が遠ざかる
涙、ちぎれた僕らの愛 空に宇宙に有り続ける
涙、あふれて止まらないよ 胸に心に君がいるよ

涙、ちぎれた僕らの愛 空に宇宙に生き続ける
涙、再び出会えるとき 愛する勇気を取り戻す
久遠の神話のまま



ユーチューブでも聴けますね。

久しぶりにいいスピーチにあったので転載します。
元はここからです。
http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/
ユーチューブで見ることも出来ます。
問題は国家もしくは政府に「クリシュナ意識」がない限り、根本的に解決しないし、カリユガという定められたひどい時代に住んでいることを理解しようとする人が少なすぎる。

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。最近では6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福の対抗にあっては行けないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。

幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

ありがとうございました。
cars.comで見つけた2009年プリウス、5万マイルで約8000ドル!

「夫が死去して今はクルーズ船で働いていて車はラスベガスの運送会社が預かっていて車の送料も払う」

家内はかなり懐疑的で僕も半信半疑ながら何度かメールをやりとりして「娘が一人いる」とか「決済はヤフーファイナンスで心配ない」とか。

僕が「では、あなたの免許証のコピー、勤め先の電話番号、運送会社の住所と電話番号を教えてくれ」と送ったらその後、返信が来なくなりました。

日本でも振込み詐欺とかご老人をねらっている犯罪があるそうですが、果たしてこの場合、お相手さんはかなりお金に困ってるのか、単に遊びで仕組んでるのか、わからないけど、事情はどうであれ残念なことです。誰か引っかかった人もいるのかな?この一生で捕まらなくても、どちらにせよ、将来、来世か来々世かもしくはあの世で自分がしたように、誰からか報いが来るでしょう。

さてまた車探しが振出に戻りました。安いけど韓国車はちょっと、、、アメ車は興味ないし、ヨーロッパ車は修理代が高くつくし、、、ホンダが一番かな。シビック、中古でも値が下がらないんですねえ。
アメリカの夏休みは長くて日本とだいぶ勝手が違うのですが、それを体感するのに僕自身は何年もかかってしまう。この数年の間、ようやくわかってきまして、

まあ家で3人の息子たちがゴロゴロして、どこかへ行くにも僕か家内が「車」で連れて行かなくてはいけない状況に何度も出合って

「なんとかしなくては」

長男は一ヶ月のアメリカ横断キャンプに去年から参加。去年は東海岸のクリシュナ寺院とフェスティバル・インディアを回って友達も作ってかなり楽しんだ様子でした。周りはみんな献身者で食べ物も菜食だし一応毎日4周ハレークリシュナを唱える条件もあるし、僕も時間があれば参加したいのですが、そうもいきません。ハワイからもイギリスからも参加者が来ますが果たして今回はどんな少年が集まることか。今年は西海岸とメキシコの予定で先週、フロリダから出発、帰ってくる頃には完全に僕の背を抜いていることでしょう。

三男は今週だけですが「ダンスキャンプ」毎日9時から2時までインド舞踊の練習です。ある人はわざわざニューヨーク州からやってきて娘を参加させてました、、、。

次男、、、なんにもありません。どうしよう。来年は長男といっしょに横断キャンプに参加できる年ですが、問題は両親の収入がどうみても足りない。この調子では3人の息子たちが参加できるとは思えない。さてクリシュナに祈るか、ちょっと横道にそれてラクシュミー神に祈るべきか。
最近は読書三昧というか、外に出て草を刈ったり木を切ったりする元気がないだけですが、青空文庫のお世話になってます。

これは明治時代に宇治黄檗山の智海という人がチベットに行ってお経を求めたお話です。どこまで真実かわからないけどかなりの苦渋に満ちた感じでとても僕のような人間が志す道ではありませんが、彼の心意気は見習うべきでしょう。自分の生命をかけてお経を求める人が現代の日本に10人いたらたぶん未来は明るいでしょう。日本に残るお経のほとんどはすでに形骸化して人々に訴える力を持たず、仏教自体が歴史の重みだけで立っているような状態です。智海のような方の努力が報われない日本社会に本来の「仏の教え」というのはそれこそ「馬に念仏」かも知れません。

要となるお経、、、意味もわからず、、、サンスクリットからも遠ざかり、、、もちろん仏様からかなり離れているのに、誰も疑問を持たず、これからも、たぶん変わることはないのでしょう。誰もが変化を恐れてます。「みんなといっしょ」が心地いいですから。でもね、その道の行く先は、終わりのない輪廻の道程です。
青空文庫で初めて読んだ本は芥川竜之介の「河童」でした。今日、読んだのが「蜘蛛の糸」。個人的には長編で登場人物もたくさん、大河ドラマみたいにじっくり腰を据えて読むのが好きなのでマハーバラタとか徳川家康とか僕の好みにぴったりですが、それに比べるとこの物語はとても短いのですね、知りませんでした。電子本では本の量がつかみにくいけど、これは仕方ありません。

せっかくお釈迦様が差し出してくれた蜘蛛の糸でしたが、無慈悲の心が断ち切ってしまうわけです。この世界も大してかわりないようです。クリシュナの慈悲はどこからでもだれでもいつでも受け取れるのですが、世のムードはいつもその反対に向かってます。おまけにその本人が望まなければ、手を出さなければ 地面に落ちてしまいます。内からも外からも上からも下からも前からも後ろからも右からも左からも「マーヤー」さんの力はとても力強く働いています。現代の蜘蛛の糸、ハレークリシュナ・マハーマントラに信念を持つ人が今の日本に100人いたら、、、




今日は次男の誕生日、といっても特別パーティを開くこともなく友達のジャヤナンダ君が家に泊まるぐらいですが、お昼はお母さんといっしょに買い物にいってきました。11年前は確かまだ額縁を作っていた頃でその後お店が無くなるなんて考えもせずローンを組んで家を買ったのがその2年後。運命の女神様は微笑んでいるのか悲しんでいるのか怒っているのか全く検討がつかないけどなんとかまだこの世を泳いでます。ラサラージはとりあえず大きな病気も怪我もなく、一回落第はしたけどまあそんなに悪い人生を歩んでいるようには思えないけど、これから先もどうかクリシュナを忘れずに日々を過ごして欲しいなあと思います。
iPhoneは、年間6万円近くかかるのでとても手が出せません。iPod Touch 4th の新品も無理ということでアマゾンとeBayの中古を毎日にらめっこ、表面に大きな傷があるやつとか、こんなの誰が買うの?というものまでいろいろ売られて見るのは楽しいけど、買って失敗しないように程度の良さそうなやつをアマゾンで買いました。青空文庫をダウンロードすると、、、縦書きで日本の古典がトイレやベッドの中でも読める!「我輩は猫である」「古事記物語」などなど。日経ミニッツというのも面白い記事が毎日読めます。キンドル?買ってみましたが、僕にはちょっと重い、、、ので家内が使ってます。
久しぶりにラサラージとナーラダと3人で人生ゲームをしました。銀行担当のラサラージがお札を数え間違えたり、ナーラダが2回も失業したり、本人には切実感はもちろんあるわけもなく単なるゲームであるわけですが、47年この世を泳いでいる自分にとってはどうにもゲームとはいえ笑っていられない、、、。若い頃に友達とコタツの上で人生ゲームをした思い出が未だに記憶に残っているのはどういうわけか?一人は車いっぱいに子供を乗せて最後は貧乏農場へ。今もっているゲームには貧乏農場はなく、最後は単にお金の計算で終わってしまいますが、この世に住んでいるかぎり、お金という物差しは消えることはありません。車を買いたくても収入が少なければ10年落ちの車しか買えないだろうし、歯医者にも行けない。でも信仰にはその物差しは関係ない。誰も人の心までは見通しませんから、じっくり忍耐強くあせらずマイペースで育てていきましょう。と自分に言い聞かせてます。